2008年7月24日 (木)

巨象に立ち向かう

東京12チャンネル「ガイアの夜明け」で、「巨象に立ち向かえ」を見ました。
「町の電器屋さんの逆襲」が日本各地で始まったそうです。

ちょっと前「街の電気屋さん」という記事を書きました。  
商品の価格は量販店のようにはいかないけれど、アフターサービスや地域の人々との交流を通して大型店にはできない商売の仕方で頑張る街の電器屋さんの話です。

しかし、番組ではそこにとどまらず、小さい商店が価格の面でも量販店に負けないために団結をする様子が描かれていました。

電器店連合が、メーカーと直接価格交渉し、本部が商品を大量に仕入れることで低価格が実現し、各電器店は価格競争に悩まされることなく販売と修理に専念できるというのです。

ここからは、量販店に真似のできない「地域に密着しているからこそのフットワークの軽さときめ細かいサービス」がモノを言います。
倒産の危機に瀕していた電器屋さんが自信をつけ、サービスに一層の力が入ってきました。

連合の総元締めの社長さんが言います;
「お年寄りの家で蛍光灯が切れた時に、取り換えに行くのは量販店じゃなくて町の電器屋さんなんです」

番組では、高松市丸亀町の商店街復活のレポートもありました。

大型店に押され、閑散としていた商店街が思い切った改革で息を吹き返し、各地から視察が絶えない、と。

追い詰められて切羽詰った時、人間というのは、「知恵」を働かせるし、思わぬ底力が出るものなのだなあ、と思いました。

仲間を作る柔軟な心と団結は、巨象に立ち向かう力を育み得ることを、この番組は教えてくれました。

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2008年7月22日 (火)

おバカ賛歌

 ♪ チャ~ラ~ ヘッチャラ~ アタマからっぽのほうが~ 夢つめこめる~ ♪

これは、子供たちが小さい時、よく見ていた「ドラゴンボール」のテレビアニメの主題歌の一節です。

この漫画自体は大変おもしろく、私も好きだったのですが、この主題歌のこのフレーズに引っかかるものがありました。
頭悪いほうが、でっかい夢が見られるんだ、勉強なんかしなくたってへっちゃらなんだ、・・そんな表現に、「それは違うんじゃないの」と感じていました。
単なるアニメソングだから特にこの歌詞自体にどうこうと文句をつける気はないのですが、あの頃(実はもっと昔からだったかもしれないし、もしかしたらいつの世もだったかもしれない)、頭の良い人々や勉強熱心な人々や人生の成功者たちを指して、彼らがなにか心が狭いとか、狡猾であるかのような言い方をする風潮がありました。

普通に考えれば、努力をしない者より努力する者のほうが偉いし、勉強しない者より勉強する者のほうが偉いのにもかかわらず、勉強すれば「ガリ勉」とか「勉強ばかりして世間知らずだ」と蔑まれ、成功して金持ちになれば何かと陰口をたたかれる一方で、世を拗ねて勉強もせず周りに迷惑をかけ落ちぶれれば同情してもらえる、みたいなことに、この世はなっていないでしょうか。

私にも覚えがあります。
今と同じで、東大に通っているような秀才が事件を起こすことは昔から結構あって、そういう時、勉強の大嫌いな私は、「勉強ばかりしてるから頭がおかしくなったんだ。あんまり勉強するとこういうことになる」なんてことを言って父親に叱られたものです。
「お前アホか。そういう特殊な例をもってきて勉強を否定してどないすんねん。努力することのどこが悪い」と。

以前、評論家の山田五郎がラジオで、テレビドラマ「ごくせん」を例に挙げ、不良に比べて真面目な秀才の扱われ方の不当性を論じていました。

≪どう考えても、真面目に勉強してる高校生より、不良のほうが悪いでしょう。
 それなのに、あのドラマでは、不良は純粋であるがゆえに世間に誤解されていて、勉強ばかりする秀才はみんな性悪、みたいな描き方をしてますよね。
 スポーツなんかで頑張ってる人は賞賛されるのに、なぜ、『勉強を頑張ってる人』というのは、世間では悪く言われるんですか。
 官僚が悪いのは、自分たちをさんざんあざ笑ってきた世間のやつらに対する復讐なんじゃないかって思っちゃいますよ ≫

「鈴木先生」(武富健治)という素晴らしい漫画があるのですが、中学教師のこんな台詞があります。

≪世間でも現場でも___
 今は 落ちこぼれや問題児が いかに傷ついているか____
 そこに意識を割くことに傾いている・・・
 まだ足りない まだ足りないと____
 それはそれで事実だが・・・
 
 だけど 
 いまの学校教育は
 我々が普段思っている以上に____
 手のかからない子供の
 心の磨耗の上に
 支えられているんだ・・・≫

これはタレントの伊集院光氏が、ヤンキー先生こと義家弘介氏に対して発した疑問に重なります。

問題児は問題児で「そうなった事情」というものがあるのでしょうし、そういう事情を酌んで丁寧な指導というものが求められるのもわかりますが、一方で「二の次、三の次にされる『普通の子』『真面目な子』『頑張ってる子』」にかかってくる負担や疲弊が忘れられがちなのでしょう。

もっと小さい頃から「勉強」「努力」の大切さを教え込む、そういう単純な「刷り込み」こそ必要なんじゃないかなあ、と思います。
「バカのほうがカッコ良いんだ」じゃなく。

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2008年7月19日 (土)

置いてけぼりにされないために

産経新聞のコラム「断」で、呉智英さんの評論を大変面白く読ませていただきました。 →「メディアを真に受ける悲劇」 

もう3年以上前に、人を易々と変節させてしまう恋の威力について書いたことがありますが(「恋におちて」)、 宮台先生はいったい変節したのか、単に大衆を置き去りにしたのか、それともこんな成り行きはただの偶然と開き直るのか、まあ、学者としてはいちいち責任は取らなくてもいいとは思いますが、ちょっと説明は聞いてみたいな、とは思います。

我々は誤ったメッセージに翻弄されぬよう、眉に唾をつけ、一歩引いて、醒めた目を持ち、余裕をもって事にあたらねばなりませんねえ。
もっともそれができないのが大衆というものであるらしいのですが。

センセイがた、「大衆」で遊ばないようにお願いしますよ。

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2008年7月18日 (金)

笑うと腹筋にも良いそうです

先日、紀伊国屋寄席に行ってきました。
落語をよく聴きにいくわけではありませんが、只の券が手に入ったので。

客席は中高年でほぼ満席。
噺家さんのほうも、しばらく見ないうちに年を取って、若手だった人が重鎮然としてトリを務めていたり。

落語家は年を取っても「キレ」がなくなるということはなく、「円熟」に味わいが出て価値が高まるもんなんですね・・・、なんて私にわかるわけないんですが、充分楽しませてもらいました。

いま、テレビではお笑いが大はやりです。
はやりというより、私の見るところ、日本人ほどお笑いに熱心な国民もいないんじゃないかと思うほど、今の日本のお笑いは多種多様で、進化し続けています。

先日の寄席で、三遊亭圓窓さんが「落語だって時代に合わせて変わるのは当然のことで、江戸時代の落語をそのまんま今やったって何のことだかわかんないと思いますよ」と言っていましたが、テレビで見るお笑いは目に見えてその変化を感じます。

何に笑うかというのは人によってずいぶんとちがいますね。

外国と日本のお笑いは違って当然と思いますが、同じ日本人でも、笑いのセンスは共通していません。

テレビのお笑い番組なんか一切見ない、という人にはなんのことだかわからないかもしれませんが;

私は「ジョイマン」が大好きなのですが、息子は「ハイキングウォーキング」のほうが絶対笑える、と言います。

「バカリズム」の芸を初めて見た時爆笑しましたが、価値を認めん、と切って捨てる人もいるでしょう。

「鳥居みゆき」には何の面白みも感じませんが、売れているところをみると、あれを楽しんでいる人も多いに違いありません。

お笑い番組「爆笑レッドカーペット」で、大いに笑わせてくれた芸人が「中笑い」になったり、ちっとも笑えなかったのに「満点大笑い」がついたりすると釈然としませんが、笑いのツボは人によって違うものだと実感します。

うちは食事の時でもテレビをつけて、バラエティ番組など見て楽しんでいます。

「欧米では、食事中にテレビを見るなどもってのほか。家族で会話を楽しみながらきちんと食事しなくては、立派な大人になれない」などと意気込んで一応はテレビをつけない努力をしたこともありましたが、すぐに敗北しました。
まあ、お笑い芸人のやりとりから何か学び取るのもいいか、なんて。

日本のバラエティ番組は概して面白いと思うのです。
「くだらない。出演者が内輪でふざけあって楽しんでるのを見て何が面白いのだ」というムキもありましょうが、そのふざけ合いの喧騒の中にも、引き締めを感じさせてくれる場面があって、感心してしまうことも多いです。

たしかに、何の芸も持たない人がバラエティ番組要員としてテレビに出て騒いでいるだけでは番組として成り立ちませんが、それらの凡庸な「芸能人」の言動を実に巧みに拾い上げて「笑い」に仕上げてしまう才能を持った人々がいます。

ウゾームゾーのタレント達の何ということのない言動への、今田耕司、中山秀征、上田晋也などの天才的ともいえる対応には舌を巻きます。その突っ込みが、芸のない芸能人の存在を際立たせているのがよくわかります。(中山秀征については、日曜お昼の「ウチくる!?」の仕切り振りに注目)

笑うのも笑わせるのも、ともに大きな快感を得ることができ、その悦びは人間にとって是非とも必要なものです。

不景気な時世だけでなく、どんな時も、お笑いのタネを蒔いて笑わせてくれ、まさに世の憂さをはらしてくれる芸人さんたち、研鑽を積み重ねていってくださいな。対価は支払いましょう。

       
        
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single40さんの「靖国問題(2)」 に爆笑し、快感に浸るかたがたも多いことと思います。あー面白かった。

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2008年7月 7日 (月)

ひとりひとりの意識改革

昨夜、途中からですが、NHK教育テレビ「医療再生・地域力を結集せよ」というのを見ました。
マスコミで何度か紹介されているようなので、ご存知の方も多いと思いますが、兵庫県丹波市で「県立柏原病院の小児科を守る会」が地域医療を守っています。
この「守る会」が発足した経緯が、一人ひとりの意識がいかに大切かということを教えてくれます。

喘息発作で柏原病院に入院した子供のお母さんが、その病院でたった一人の小児科医師(和久祥三医長)が睡眠もとらず夜中じゅう外来患者を診ているのを知ったこと、また、その医師があまりの激務に病院を去ることを決めたと地元新聞に掲載されたことがきっかけになってお母さん仲間が奮起したのが発端だそうです。

詳しい経緯については、検索すればいくらでも出てきますが、昨日の番組を要約しますと;

病院の医師を忙しくさせている大きな原因の一つに「コンビニ受診」というのがあります。
たいした病気でもないのに、コンビニを利用するような感覚で病院に行く人が多いです。
初めての子供の場合など、高熱が出て苦しそうだったりすると、不安になって夜遅くでも何とか医師の診断を仰ぎたいと思うのは当然ですが、多くの場合、高熱でも生死に関わる重大な病気は稀であって、あわてて病院に行かなくても朝になれば落ち着いていることのほうが多いものです。

そうは言っても、もしかしたらもっと重篤になるんじゃないか、という不安はぬぐいきれないでしょうから、お母さんたちが考えたことは、医師の指導のもと、「チェックシート」を作成したことでした。
これにより、子供の症状に応じて、対処の仕方を判断し、やみくもに病院に駆けつけなくてもすむようにしました。

「守る会」を結成し、本格的に活動が始まり、開業医と病院との連携も充実してくると、コンビニ受診は目に見えて減っていったそうです。
和久医師も病院にとどまることになり、「地域医療を守るのはひとりひとりの心がけ」というスローガンで医師を守ろうとする地域の人々の心意気は医師たちを呼び寄せ、現在小児科医は5人にまで増えたそうです。

「守る会」によって守られた医師が地域の人々の命を守る。良い循環が働いていますね。
医師不足は、単に医師の数を増やせばいい、という問題ではないことがよくわかります。

この地域の人たちが、医師不足の原因を患者自身が作ってしまっていることに気づいたのが最も重視されるべきポイントだと思います。

「お金さえ払えばいいんでしょ」「それが医者の務めでしょ」「それが行政の仕事でしょ」、こういった姿勢では何も変わらないことに気づかなくてはなりません。

「下から上へ」にコメントを下さった一知半解男さんの「日本人に足りないのは『公の心』と『判断力』」は素晴らしい記事だと思います。

「マクロの視点を持つことが大事」と仰っていますが、マクロの視点を持つことは「自分たち一人ひとりの行動」を自分でコントロールすることにつながります。

丹波市で「守る会」のような活動が可能になったのは、人々を結集できる地域社会の良さがまだ残っていたからじゃないかと私は思うのですが、都市部ではこのような運動はなかなか大変でしょう。

だからこそ、普段から地域のコミュニケーションをはかり、いざという時に地域力を結集できるようにしておくことが肝要だと思います。

           

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2008年7月 4日 (金)

下から上へ

国内にうずまく様々な問題に関して、「政治が悪い」「国の責任だ」「国がなんとかしろ」と批判してさえいれば何か変わると思うのはもうやめる時なのかもしれません。

考えてみれば「国」を造っているのは国民一人々なのですから、その一人々がなんとかしなければなんともならないわけです。

つまり、人の「意識改革」が一番大事だということなんです。これに異を唱える人はいないと思います。民主主義なんだからそうなんです。

で、世の中は、自発的に意識を改革する人ばかりではありません。

じゃあ誰が大多数の「意識を改革しない人」を導くのでしょうか。

国の指導者が「国民のみなさん、意識を改革してください」なんて言おうものなら大変です。「自分たちの責任を棚に上げて国民に責任を押し付けるのか!」という反発しか起こりません。

橋下大阪府知事が「僕が最終的にめざしているのは地方分権です」と言ったのに対し、伊藤忠商事会長で「地方分権改革推進委員会」委員長の丹羽宇一郎氏が、「地方でそんなこといくら言ってても始まらない。国の構造をまず変えていかないとだめなんですよ。橋下さんの改革の志は立派だし支持するが、そこのところが彼のわかってないところなんですよ」と批判していました。

私は両方の言うことはそれぞれに正しいと思います。
丹羽さんは経営者としての辣腕ぶりや清廉な人柄が高く評価されている立派な人で私にとっても憧れの人物の一人です。
でも、丹羽さんがたぶんわかっていらっしゃらないのは、橋下さんの「人の意識改革をやる。それを大阪という地方から始める」という意気込みなのだと思います。

ちょっと大袈裟な例ですが、ずっと前、中国の経済改革がある貧しい農村の死をも覚悟した決断から始まった、というNHKのドキュメンタリーを見たことがあります。

≪ 1978(昭和53)年暮、安徽省鳳陽県小崗村、人民公社の農民18人が集まった。
「このまま農業をやっていても生活できない。生産請負制(生産隊の農地を各世帯に分け、生産も分配も世帯に責任を負わせる方式で、農民の労働意欲を高め、増産しようというもの)を始めよう」「見つかれば、社会主義に反することだと、罰せられる。秘密を守ろう」「もし誰かが逮捕されたら、差し入れに行く。死ぬようなことになったら、子供は18才までは村の皆が責任もって育てる」との血判状を作って、農民は生産請負制を始めた。
 同じ頃、安徽省鳳陽県前倪(ぜんげい)村、馬湖人民公社前倪生産隊で同じ動きがあった。どちらも秘密を守っていたがいつまでも守れるものではなかった。
前倪村に共産党中央からの調査団が来た。人民公社書記は1週間の事情聴取を受けた。
この調査の責任者、安徽省第一書記万里は党中央に報告し、生産請負制を押し進めるよう進言した。
後に万里は農業担当副首相に就任。
これをきっかけに人民公社は解体し始め、83年末には全国の94.5%にのぼる農村で土地公有制に基づく生産請負制が実施されている。 ≫

http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/global.htmlより抜粋させていただきました)

≪ 18人の農民が、命を失う危険を冒して土地の請負契約書に押印した時、理論的な根拠は何もなかった。
農民たちがただあまりにも長期間に飢餓を強いられ、もはや前途がないと覚悟したため、投獄されることも死ぬことも恐れず、改革に踏み切ったのである。≫

http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/010910kaikaku.htmより抜粋させていただきました)

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思想や理論でメシは食えない、という農民の切実な思いが改革の端緒を拓いた、ということでしょうか。

今の日本でこれほどの覚悟を必要とするのでしょうか。
小学生の3割、中学生の6割、高校生に至っては9割以上が携帯電話を所持している。
食べきれずに日々捨てられる大量の食べ物。

どれだけ貧乏になれば、あの中国の貧しい農民ほどの壮絶な覚悟ができるのでしょうか。

ところで、私は地域のシニアクラブに所属しています。昔で言う老人会ですわね。
住民同士の親睦の意味もありますが、地域貢献できることはないかと模索中です。
発足したばかりですし、私も長く家を空けられないのでまだこれといって何もできませんが、3.4人で地域を一巡りするパトロールだけは定期的にやっています。
後期高齢者のかたがたとお喋りをしながら一時間ほども歩くと地域の歴史や現在の問題点などの情報が得られますし、良い運動にもなります。
パトロールをやったからといって防犯の役に立っているとは思いませんが、地域の人を知ることは地域力をつけるための第一歩だと思います。

地域で政治活動をするという意味ではもちろんありませんが、住民同士、もっと知り合い、情報を交換し、そこから地域の成すべきことが見えてくるのではないかと期待しています。

国はこういう施策を行うべき、とか、こういう方針を打ち出すべき、とか、それは色々あるでしょうし、やるべきことを国は国でやってほしいと思います。
同時に我々国民も自分の足元を見直し、国民の側からできることはないかと考えたらどうでしょうか。

国から「ああせいこうせい」と言われるのがイヤなら、自分たちで考え、動くしかないです。
人の意識を変えるのは、自分たち自身であって、国ではないと、このブログでも沢山のご意見をいただきました。
不満を秋葉原のようなことで爆発させたり、それをまた「気持ちはわかる」などという恐ろしい言葉に託して政府批判をしたりする前に、貧しい中国農民の決死の覚悟の表し方を学んだらいいと思うのです。

地域活動への参加というのは、単身者、特に若い世代にはなかなか難しいことですが、子供や老親やご近所を通して、教育、介護、環境などを現実問題として目の当たりにしている人たちがこれらについての考えを地域社会で交換し合うことが大事と思います。

それを担うのは主婦や高齢者だと思いますし、そう考えればこれらの人々の仕事はたくさんあるんじゃないでしょうか。

地域社会の再構築によって個人々の意識が変わり始めるかもしれない、そういう方向でものを考えてもいいじゃないかと思います。

中国安徽省の農民の決意の話と関連させるには小さすぎる話ではありますが。

        
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2008年7月 3日 (木)

街の電気屋さん

色々な製品が目の当たりに見られ、値段も安いことから、以前はよく量販店で家電を買っていました。

でも、近頃は近くの商店街の電気屋さんで買います。

安売りはないけど、親切なのです。
こういうものがほしい、と相談すると、カタログをあれこれ出してきて一緒に考えてくれ、どこのメーカーでも取り寄せてくれます。
ちょっとした修理を気軽に頼むこともできます。
近所の高齢の奥様も「蛍光灯の付け替えがうまくできないので○○電気さんに頼んじゃうの」なんて仰います。

去年のことですが、スズメバチとアシナガバチの巣に困っていたところ、「友だちで蜂の巣とるの上手な人がいるから頼んであげましょう」と言って農家のおじさんを連れてきてくれました。

家の中に入っててくださいというので見ることはできず、どうやって取ったのかわかりませんがあっという間に二つのハチの巣を撤去してくれました。

保健所に連絡すると、補助金は出ますが、一個につき何千円か払わなければなりません。大助かりです。

商店街が寂しい、と言いながら、安いのでつい大型安売り店に行ってしまう、というのは、こういうご時勢だから仕方がないかな、とは思いますが、個人商店とのお付き合いのメリットも大きいですよ、と言いたくて。

         

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2008年6月30日 (月)

俺は弱者だ

産経新聞の曽野綾子さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」の6/27付「弱点を武器にする弱者たち」に、こうあります;

≪ 高齢者が高齢だということを資格のように考えて要求する姿勢もあさましい。≫

≪ ___ある生活保護受給者は、働かずにいつも酒を飲んでいる。市役所の職員の一人は、生活保護を受けている人ほど窓口で威張ると私に打ち明けた。ホームレスだけが、市民が住むことを許されない景色のいい河川敷に無料でテントを張れる。「僕にはできない」「私は金がないんだ」「おれは病気なんだ」という言葉は弱者のものではなく、最高に強いものとなった。それが社会的資格であり、武器になりえることを戦後教育は教えた。≫

私も、「私には向かない」「私にはそんな能力はない」と謙遜のような開き直りのような言い訳を自分自身に向けてつぶやきがちですが、このような喝によって時々目覚めます。

もっとも私は権利意識は極めて弱く、自分自身のことに関しては、なるようになるとしか思っていませんが。

この曽野さんのような意見に激しく反発する人々もいますね。例えばある掲示板でこんなの見ました;

≪ 産経新聞の『小さな親切大きなお世話』に寄せた6月27日の曽野綾子の記事は、作家の記事とは思えないほどタイトルから外れた内容である。
最近の事件や社会現象を取り上げて、そもそも日本には真の弱者はいないんだ、なにを贅沢なこと言っているんだといわんばかりの内容である。
そもそも貧困とは何かの考察もなく、『貧しい国々の人は金がなければ飢え死にするか、薬が買えずに死ぬ』という見識、『生活保護を受けている人ほど威張る』等という引用にはあきれて物が言えない。
大国の政治的経済的エゴが抗争を生み、殺されているのであり、生保の窓口で正当な権利を主張すれば威張っていると言われる現実を知らない。
一方的に強者の視点でしか物事を見れないあきれた作家である。少なくてもあなたは物書きなのだから追い詰められた弱者の立場を忘れてはいけない。≫

こういうのを「弱者に優しい視点」というのでしょうか。
たしかに「優しいことは良いこと」なのですが、その優しさを適切に発揮したいものであります。
「大国の政治的経済的エゴ」と、個人の覚悟の問題を一緒くたに論じてはいけないでしょう。

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ところで、この曽野さんのコラムでは、世代間の争いが取り上げられていて;

≪ ______最近では弱者こそ強いのだと思わざるを得ない例が多くなった。孫が祖父母を殺す事件が最近目立つが、それは若くても精神力の弱い孫が、肉体的にには弱くても自立している祖父母を殺すのである。≫

これはkakuさんのご指摘による少子高齢化社会がもたらす害悪を示唆しているような気がします。

        

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2008年6月25日 (水)

こうなったら数で勝負するかぁ

前記事にkakuさんからコメントをいただき、長くなってしまったので、記事にします。

>「少子高齢化社会」と言うとあまりに漠としているのですが、言い換えれば社会の保守化、あるいは、この社会が、
「戦後復興を担った人々のための社会」にあまりにがんじがらめにされている、と言うことです。<

私は前に後期高齢者問題に関して、「高齢者の権利意識を少し引っ込めたらどうだ」というようなキツイ意見を書いたことがありますし、kakuさんのこのご意見には共感する部分もあります。
高齢者の医療や介護はどうでも良いというわけではありませんが、それとは別に「未来は若い人のものだ」と思っています。

高齢者の介護や医療に膨大なお金が使われて、その分、若者の利益が軽視されるようなことになれば、社会に活気がなくなります。

「老人は死ねというのか」と気勢をあげる高齢者のかたがたは、このことをいったいどうお考えなのでしょうか。
それはもちろん、これ以上負担が増えると本当に死んでしまう困窮を極めているかたがたもいらっしゃることでしょうが、そういうかたがたへの制度整備はしっかりしつつ、もっと何か知恵を出すことはできないのでしょうか。

聞くところによると、日本人の個人金融資産は1200兆円もあってその大半は高齢者によって占められているというじゃありませんか。
一部の金持ちだ、というけど、本当にそうなのでしょうか。

なんだか、貯めこんだ高齢者が、自分たちをもっと支えろと、青息吐息の若い世代を叱咤しているように見えてきます。

舛添厚労大臣がよく「天からお金が降ってくるわけじゃないんです」と言っていますが、お金がないのなら、無駄遣いをなくすのは言うまでもなく、あるところから出してもらうとか、消費税を上げるとかなんとか対策を考えなきゃいけないわけです。

「我々の負担が増えるのは嫌だ」とただ言ってるだけでは何の解決にもならないわけで、このところを、高齢者自身によく考えていただきたいなあと思います。

________________

>少子高齢化社会とは、当然ながら社会体制だけのことではありません。人々の心理に強い影響を及ぼします。例えば教育。<

>その「非経験者」と「卒業者=その記憶があまりに遠くなった人々」が主流たる社会では、「動物的」な存在は遠きにありては微笑ましいが、
すぐ傍にあるならば忌々しい存在と変わります。当然です。己さえ律せば自己完結出来る生活に慣れてしまえば、out of handな存在はその生活の脅威です。
そんな「脅威」を公共の場にのさばらせる者の責と律を求めたくもなるでしょう。<

周りの目を気にするあまり子育てが萎縮してしまうということはいつの世にもあることで、若い母親はみんな多かれ少なかれ経験していると思います。
「子どもはみんなで育てるもの」に書いた通りです。 

ただ、仰るように、『「非経験者」と「卒業者=その記憶があまりに遠くなった人々」が主流たる社会』という未曾有の事態を迎えている今、その圧力たるや、きっと私の想像を絶するものなのかもしれません。

子どもらしい嬌声や走り回る光景を好ましいと思う人と、それをうるさいと感じる人がいる。
私は前者なのですが、度を越している場合には、眉をひそめる人もいて不思議はないだろうなとは思います。

静かにするべき場所(例えば劇場とか図書館とか)で騒がれると迷惑でしょうが、電車内で騒いだからといって怒らなくてもいいじゃないかと私は思いますけど。 人の感じ方はそれぞれですが、もう少し寛容になってほしいものです。ただ、このことはあまり年齢に関係ないかなと思います。若くてもキッと睨む人もいますし、年寄りでも気にしない人もいます。

「子どもが忌避される時代」(本田和子)という本をご存知でしょうか。

私はこの本を読んでいませんが、題名を見ただけで、どのようなことが書かれてあるのか、だいたい想像できます。いえ、私の想像とは違っていても、今、たしかに「子どもが忌避される時代」「子どもは自分の生活にとって邪魔な時代」、そういうことなのだと思います。

それは、母子を取り巻く環境がそうだ、というばかりでなく、母親自身がそのような負い目を持ちつつ、日々懊悩する時代なのかもしれないと思います。

_________________________

私は、「彼の事情2」のコメント欄 で、≪「彼の気持ちはわかる」ということは、自分もそれをしたかもしれない、ということで、そういう人が少なからずいるというのであれば、これはもう派遣工だとか不景気だとか小泉改革の間違いとかの問題なんかではなくて何か別の深刻な問題が起こっていると考えるのが妥当だと思います。≫ と書きました。
そしてkakuさんが仰るようにそれが何であるかをみんなで考えることは必要だと思います。
思いますが、それが何であるか、実はみんなもうわかっていることではないのかなとは思います。つまり「歪んだ豊かさ」でしょう。
少子高齢化とか、女性の目覚めとか、父権の失墜、父性の欠如とか、機械文明の発達だとか、経済グローバリズムだとか、自由の謳歌だとか、先進国が到達し獲得したものが今度は自分自身の首を絞めているということでしょうね。

だけど、もう昔に戻ることはできないし、第一、昔だって、もっと不幸なことはたくさんあったわけで、今の世の中のほうがずうっとましだ、とも言えます。

ですから私は、例えば秋葉原の事件や宮崎勤の事件など、特殊な例を持ってきて、ほら、だから今の世の中は間違ってる、などと決め付けるのはどうかなと思うわけです。
たいていの親は悩みながら迷いながら子育てし、それでも困難を乗り越えてきているのです。昔も今も。

出産/育児/教育は本来「動物的」である、とkakuさんは喝破なさいました。

同感です。

どんなに社会が荒んでも、生きにくくても、「基本の」動物としての母性を守るかぎり、子どもは大丈夫だと私は思います。

女優の工藤夕貴さんの言葉に感激したので紹介します。→ http://www.zakzak.co.jp/people/20080624.html

「いまは、『お母さん』であるよりもまず『女性』として素敵じゃなかったらダメという風潮。お母さんという生き方を推奨していないんですよ」

私のような年配者が言うと、「あーまたか」と思われますが、彼女のような若く元気な女性が言うと、とても新鮮な感じもしますし、衝撃的でありさえします。

「いいお母さんがいないといい子が育たず、いい国にならない」、こういう言葉まで出てくるとはなんとも頼もしいじゃありませんか。

「母」が全ての土台です・・・・・、なんていうとまた、「ううっ、すごいプレッシャーがぁ・・・」と、負担に感じるかもしれませんが、「いいお母さん」というのは何も完全無欠な子育てをするお母さんということではないですよ。

たまにヒス起こして感情的になっても、翌日には機嫌直してご飯作ってくれるお母さん、お料理下手でも、子どもと一緒にマクドナルド楽しく食べてくれるお母さん、進路について一緒に悩んでくれるお母さん、お父さんの悪口言わないお母さん、そういうのって、そんなに難しいことじゃないと思うんですけどねえ。

政治よりなにより、実はこのことが最も重要だと私は思ってるんです。

_____________________

>さあ、私達はどうすれば良いのでしょうか。…うむ、出産適齢期の皆さん、あともう人!頑張って主流派目指そうではありませんか!ぐらいしか…<

若いみなさん、「動物的に」数で勝負するのも一計かもしれませんよ。
ずっと前、こんなこと書いたの思い出しました。

「私は子どもの数が多いだけでその社会は健全なんじゃないかなあ、となんとなく思います。」   →「子どもの数」  

     
       

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2008年6月22日 (日)

愛情のかけらもない

私は前々回、親をあまり責めるのはいかがなものか、と書きました。 → http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_5e21.html

でも、産経新聞の花田紀凱氏のコラム「週刊誌ウォッチング」を読んで、加藤容疑者の母親の責任は重大だと思いました。

このコラムは週刊誌の読み比べをやっているのですが、その中で花田氏は「容疑者の弟に取材した週刊現代の記事は大スクープだ」として、記事の一部を紹介しています。

事件当夜に、勤務先の会社を辞めた実弟の告白;

≪ 食事の途中で母が突然アレに激昂し(弟は兄を「アレ」と呼んでいます、廊下に新聞紙を敷き始め、その上にご飯や味噌汁などその日の食事を全部ばらまいて、「そこで食べなさい!」と言い放ったんです。アレは泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べていました。≫

これは一部なので、他にどんなことが書かれているのかはわかりませんが、これだけでも、我が子に対する態度とはとても思えません。
愛情のかけらもない。
日常的にこんな扱いを受けていたとしたら、子供の心が壊れないわけがありません。

この親はいったい人の心を持っているのかとさえ思ってしまいます。
こんな親のもとに生まれた子供こそ不幸です。
この親もきっと自分の親から愛情を受けなかったのだろうと思いますが、まさに、愛の欠如の連鎖です。

親を選べないこうした子供を、地域や学校で温かく包むことが必要だと痛感する次第です。

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2008年6月17日 (火)

犯罪少年の親

これも昔から思っていることですが;

例えば少年犯罪には大きく分けて二つのタイプがあると思います。

一つは、「真面目で大人しかった少年が残虐なことをする」。これは必ず単独犯です。
もう一つは、いわゆる「札付き」で、「あいつならやりかねない」と思われるような「ワル」の犯罪。複数でやることも多いです。

悪質な少年犯罪について語る時、「親の育て方」が批判されますが、これらの親の育て方には大きな違いがあると思います。

前者は、前記事で書いたように、親は一生懸命に子育てをしています。こんなに本人のために尽くしているのに何故と、訳がわからないに違いありません。

後者の場合は、きっと「放任」であると思います。
子供を一人前に育てようという意思などさらさらないことでしょう。
こういう親は、子供の犯罪に対しても親としての反省の気持ちがないことが多いように見受けられます。

両者とも、子供に対する慈しみの心が欠けているのは共通しているとは思いますが、私は、後者の責任を厳しく問いたい気持ちはあっても、前者をあまり責める気持ちにはならないのです。
自分たちの息子がまさかこのようなモンスターに変身するとは予想だにしなかったであろうことを思うと、何か哀れにさえ思えてきます。

      
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2008年6月16日 (月)

彼の事情3---両親---

秋葉原の無差別殺傷事件についてもう一つ言いたいことがあります。

彼がこういうこと事件を起こしたのは両親の育て方のせいだと言う人もいます。
でも、私はそうは思わないのです。

昔からの持論を書かせていただくと;

この両親が厳しかっただとか息子に愛情を持っていなかっただとか言われているようですが、そんな親は珍しくありません。

良い学校に入れたいから、幸せな人生を歩ませたいからと、多くの親が子供の尻を叩いて勉強をさせます。

厳しくしたからといって、自分の子供がこんなだいそれた罪を犯すなんて誰が予想できるでしょうか。はたから見てると子供が可哀想になるくらい厳しい親なんていくらでもいます。

子供に愛情を持てない親だってたくさんいます。

子を愛さない親はいない、なんて嘘だということは誰でもわかっています。

確かに、親に子供を慈しむ気持ちがあれば何があっても子供は大丈夫、と私は信じていますし、この犯人だって、愛情で包まれていればこんな人間にはならなかったと思います。

でも、子供を愛さないのがいけない、と言われても、「愛」はマニュアルではありません。愛を感じなければそれは仕方がないと言うしかありません。

この両親だって、自分たちの親から充分な愛を受けなかったのかもしれません。

マスコミに晒され、謝罪をする父親、あまりのことに立っていられずへたり込んでしまった母親の様子に、胸が苦しくなるほどでした。

どうか両親をこれ以上責めないでほしいと思うのです。

        

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2008年6月14日 (土)

彼の事情2

物事が自分の思い通りにならないと人はイライラする。
不景気な世の中では人は暗くなり、不満を腹にためる。

イラつき、ムカついて、
悪口を言ったり、些細なことで喧嘩をしたり、
少しでも得をしようとずるいことをしたりする。

そんなことは誰でも知っているし、
あらためて言うまでもない。

しかし、秋葉原で起きたような大量殺人を、
「派遣労働者の不満の象徴的現象」ととらえるのは間違っている。

これは明らかな異常行動であり、政治の不手際とは別の問題である。
 
派遣労働者に聞いてみると良い、
「自分たちの苦しみを代弁してくれたと思いますか」と。
「よくやってくれたと思いますか」と。

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2008年6月12日 (木)

彼の事情

秋葉原で殺傷された人たちが可哀想でならない。
痛かっただろう。苦しかっただろう。
遺族のかたがたの苦しみは、これからもずっと続く。
重傷を負われたかたがたの容態はどうだろうか。

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以前、太田光の政治討論番組で少年犯罪厳罰化を取り上げた時のこと。

何人かの卑劣な少年たちが
一人の少年をよってたかって殴り殺した事件について、
被害者の母親が番組内で厳罰化を訴えた。

厳罰化反対派の民主党議員が
「(犯人の)少年たちの側にも事情があって・・」と言った時、
「事情って何ですか」と、その母親が議員の顔をまっすぐに見据えた。

議員は、たじろぎ、しどろもどろになり、きちんとした説明ができなかった。

「犯人の少年たちは生育環境が悪く」とか
「政治がうまく機能していないから教育現場が混乱して」
とか言いたかったのだろうが、

息子をなぶり殺しにされた親にとっては、
犯人の事情など知ったことではない。

犯罪者の事情は酌量の余地のあるものとないものがある。

だいたい、
「不安定な社会」や「悪い生育環境」なんか、いつだってあった。

もっと言えば、
誰もが満足するユートピアなどできたためしはないのだから、
不満を抱える多くの人間はいつでも存在する。

犯罪のきっかけなんてどこにでもころがっているし、
犯罪者にとっては何だってきっかけになり得る。

できるだけ人々が幸せに近づくよう、
世の中のみんなで考えなくてはいけない。
弱い人は助けてあげなくてはいけない。
社会にはそういう責任がある。

だけど、そのことと、犯罪者個人の行動は別の問題だ。

それでも、社会が彼をこんなにした、それが最も大きな原因だと
あくまでも言い張るのなら、
法律もいらないし、犯罪の検証ももうやめたらいいのである。

共産党の志位和夫委員長が、
「こういう犯罪の責任を社会に転嫁してはならないと思います。
派遣社員の件は、それとは別に考えるべきことです」
とラジオで言っていた。

真っ当な意見であると思った。

     

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2008年6月 9日 (月)

「もやしもん」

「もやしもん」(石川雅之)という漫画が面白いです。

農業大学新入生が、わけのわからないうちに謎の老教授の実質的ゼミ生として囲い込まれ、実習つきの学問を修得していくというお話です。
地球上のあらゆる場所に存在する菌たちが繁栄を目的として、他の菌族と戦い、醸し、勢力を拡大する、そんな分野を漫画にしてしまう作者の独特の感性とユーモアのセンス、そしてなにげない「教訓」が好ましい。
なにかというと「かもすぞ」とつぶやくようにざわめく菌たちに、昔から化学合成物質より菌のほうを許容する傾向がある私は親近感を覚えます。

single40さんは、セイタカアワダチソウとススキの戦いを話題になさいました。我がニッポン古来種のしぶとさが頼もしいですね。

みんな生き残るためにけなげに戦っているんですね。

翻って、人類は物理的な身の痛みに加えて、心の痛みという高度な感覚を持ってしまったがために、戦ってはいけない種族になってしまいました。

この生き残りのための戦いというのは、異種間でも同種間でも行われますが、高度に進化した生き物ほど、同種間で争うようになるのでしょうか。

いわゆる雑菌といわれるものと例えば乳酸菌などは異種だし、セイタカアワダチソウとススキも異種なので戦って当然という気はしますが、猿とか犬ぐらいになると同種間で縄張り争いを起こします。

言うまでもなく、人類も同種で争います。

夫婦でさえ同じ家の中で縄張り争いをするようです。

でも、セイタカアワダチソウ同士では争わないんでしょうね。

というか、異種間の戦いと同種間の戦いは意味が違うのかもしれません。

こういう分野でも私は知識がないのでどなたかに教えていただきたいです。

それはさておき、

「もやしもん」とか「蔵人」などの醸し系漫画を読んでいると、正しく醸した日本酒はどうやら相当おいしいらしいことが伝わってきます。
日本酒の味など皆目わからない私でも、じっくり飲み比べてみたくなります。

「日本人なら日本酒を飲め」と言うべきでしょうか。

ついでに言っちゃおうか、「日本人なら米を食え!」

          

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