2009年6月29日 (月)

ほかほかごはん

不景気を反映してか究極の節約ご飯「ねこまんま」が、大流行の由。
ご飯の上に色々なものを載せて食べるどんぶり物が安上がりでおいしそうだ。

卵、かつお節、ちりめんじゃこなどは昔からの定番だが、近頃の若い人はあらゆるものを試してバラエティを楽しんでいるようだ。

さきいかや柿ピーを散らした上にマヨネーズで味付けなんていうのも意外とおいしいという話だが、そういう「邪道」はさておいて、栄養バランスを考えた食材を載せるよう心がければ問題ないし、大量の米も消費することになるし、ねこまんまって今の日本にピッタリの食べ方じゃないかと思う。

たしかに、ご飯に焼き魚、青菜のおひたし、海苔、漬物、味噌汁など、質素でもきちんとそれぞれの器に盛り分けた食事の伝統を残すことはとても大事なことでおろそかにしてはならない。

でも時々ならば、朝食や昼食などにそういうどんぶり物もいいじゃないかと思う。

不景気でも、若い人は肉が好きでよく食べる。

ご飯より肉でお腹がいっぱいになるような食べ方をする人も多い。

しかし昔の日本人みたいにもっとお米をたくさん食べれば食糧自給率も上がる、という。

そのことも大事だが、お米をしっかりと食べてしっかりと働くためのエネルギー源として見直すことはもっと大きな意味があると思う。

ところで、米(炭水化物)は、消化に時間がかかるので、お米を主食とする日本人の腸は長く、それを納める胴体も長くなり、結果的に日本人は胴長短足なのである、という説が昔あった。
本当かどうか知らないが、今の若い人の体形が欧米人並みに格好良くなったのは、お米をあまり食べなくなったからなのだろうか。

しかし、と思うのである。
足が長いのは本当にカッコいいことなんだろうか。

昔、知人の女性が、「足の短い男の人が好きなの」と妙なことを言っていた。
彼女は華やかな業界で働く華やかな女性で、いつもパンツスーツを格好良く着こなしていた美人だった。

後に、彼女の恋人を垣間見たのだが、縄文人のような幅広の顔に、たしかに胴長短足、いかにも昔の日本人といった風貌の男性だった。

同性からも頼りにされる魅力的な男性ということだったから、彼女は彼の男気に惚れたのだろうと思う。

彼女の選択をカッコ良いと思った。

男は中身だ、などとありふれたことを言うつもりはないのだが(つもりか)、単に「足長」がなぜカッコ良いのか、不思議に思うことがある。

幕末期、紅毛碧眼の連中と何ら臆することなく堂々と対峙した小栗上野介や、誇り高い岩倉具視使節団のメンバーなど、きっと背が低く、足が短かったにちがいない。
そして、そのことを不恰好だなんて決めつける価値観はその頃の日本にはなかっただろう。
彼らの威風堂々たる態度は欧米人を唸らせた、と今に伝わる。

世界との交流が盛んになり、徐々に彼らの体躯の大きさとはったりが合わさった態度に圧倒されるようになったのだろうか。

それとも戦争に負けた時からのことだろうか。

足が短いことは恥ずかしいことになってしまった。

昭和30年代に石原裕次郎が出現して、背が高く足が長いことの価値の高さは決定的になった。

日本人が戦争に勝っていたら、足が長いことなんてそんなに価値はなかったかもしれない。

足が長くても頼りない男より、短くても堂々としてるほうが余程カッコ良いじゃないか。

男子高校生がズボンをずり下げてわざと足を短く見せたりするのは、日本男児の伝統的な体型に無意識の憧れがあるからじゃないだろうか、なんて思いたくなる。

・・・・しろうとの考えることはこの程度なのだが、何故足が長いのがカッコいいこととして定着してしまったのだろうか。

竹内久美子さんなら知ってるだろうか。

まあ、米を食べるとほんとうに胴長になるかどうかはさておいて、食糧自給率の問題として、エネルギー源の問題として、産業構造の問題として、そして政治を左右する問題として、米作は日本の国にとって重大な意味を持つ。

票田の呪縛が発生するずっと前から、日本の農家は米を大事に育て、日本人はそれをありがたくいただき、働くエネルギーとしてきた。

胴長短足でも腹の据わった日本人、我慢強い日本人、謙虚な日本人を育ててきたのは、もしかしたら米の文化そのものだったのかもしれないなあ、と思う。
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2009年6月22日 (月)

梅酒忌

母が亡くなり、唐突に介護が終わった。

翌日、子供たちがおばあちゃんの庭の梅の実を収穫した。

ウィスキーで梅酒を仕込んだ。

頃合いになったら、またみんなで集まろうか。

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2009年6月 5日 (金)

愛するものを奪われた 2

もし裁判員になったら、死刑という刑罰を被告に課すことができるかどうか、という問いに対して、「不安だ」「自分が人の死に関わることは避けたい」という意見が多くみられます。
これは当然のことで、いくら凶悪犯であっても誰もそんなことはしたくないのです。

しかし、もし自分の愛する者が惨殺されたり残酷に傷つけられたりしたら、おそらくほとんどの人が死刑、または被害者と同等の痛み苦しみを味わってくれと望むのではないでしょうか。

産経ニュース 5/9 
≪あと一年 あなたが裁く 迫る裁判員制度 ⑤ 判決の重み≫

【私たちに人を裁く資格があるだろうか。その重みを背負うだけの覚悟があるだろうか。最高裁判事を務めた斉藤朔郎氏(故人)は、かつて法律雑誌に寄稿した論文にこう記した。
「人が人を裁くことを是認できるのは、裁く人が裁かれる人よりも上にあるからではない。それは、裁く人が法と証拠という客観的なものに支配されているからこそ、他人を裁くことが許されるのである」】

この文章がどういう文脈で書かれたのか、検索しても記事が出てこないのですが、とにかく何か思うところがあったのでしょう、私はメモしておきました。

この言葉は正しいのです。
人間に人間を裁く資格など、ましてや、法の専門家でない一般人にその資格などないのかもしれません。

愛しい者を惨殺された遺族や、彼らの怒りや悲しみに同情する「感情」を持っている人間だからこそ、何の感情も差し挟むことなく量刑を決めることなどできないだろうと思います。

しかし、「人を裁く」という行為にはどんなことが含まれるのかなと考えます。

3人の子供が亡くなった福岡市飲酒事故の高裁判決(懲役20年)を受けて、ある大学教授が「感情的な世論に動かされた異常な判決です。子供は可哀想だが、飲酒死亡事故の判決としては一審の7年が妥当です」とラジオで言っているのを聞きました。

私は「そうか。感情に流されちゃいけないんだ。これはとてつもない量刑なのか」と単純に理解してしまいました。

そして、「裁判員を加えた裁判では、裁判官との話し合いの中で、冷静に判断しなければいけないな」と思いました。

その後、某Y.ikeさんのブログ を読んで、いろいろ考えました。

裁判所という場所では「法と証拠という客観的なもの」だけを根拠に犯罪者が裁かれ、遺族の人間的感情の回復は他の場所でなされるべきだ、という考えもあるでしょうが、考えてみると、「復讐心」を満たすことができなければ、いくら精神科医が頑張っても遺族の精神的回復はまずないだろうと思います。

また、復讐心とは関係なく、著しく正義にもとる犯罪を目の当たりにする時、私たちは「絶対に許すことができない」「こんな悪い人間は死んだほうがいい」と思います。

某Y.ikeさんの記事「福岡市の追突事故 高裁が一審判決を破棄 その2」 にこうあります。

【近代刑法が想定する人間のモデルは、「合理的で理性的な人間」であった。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆくとの理想的なモデルである。】
【憲法を頂点とする現実の法治国家は、この近代の理想的人間像を大前提としている。】

「近代国家では、感情を交えず、冷静に判断できる人間による裁判こそが正しい、とされ、私情は文明的遅れのあらわれである、という考え方が基本にある」という意味だと私は理解しました。

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「なぜ人を殺してはいけないか」という妙な疑問が流行った時がありました。

それを見ていて、このような当たり前のことを何故そうまでして理由づけをしようとするのか私にはさっぱりわかりませんでした。
「人を殺してはいけない理由なんかいらないでしょう。自分が殺されるのが嫌と同じように、人だって殺されるのが嫌なんだ。そんなことに複雑な理由などいらない」そう思っていました。

しかし、死刑是非の論議に関連して、「人を殺すことがいけない」理由を求めたがる人々の気持ちがわかるようになりました。

「人を殺してはいけない理由」というより、人は何故「人を殺したくない」のか、「人が殺されるところを見たくない。想像したくない」のか、その理由は簡単です。

それはきっと「痛い」からです。

殺される本人は、もちろん痛く苦しいのですが、それを味わった後に、生を絶たれ、「痛み」もなくなります。

しかし、その遺族や周りの人は殺された本人のことを考えるととてつもなく「痛い」のです。それがずっと続きます。

たとえ身寄りのない人、悲しんでくれる友だちがない人が殺されても、周りの人は胸に痛みを感じます。

下等動物ほど、仲間が殺されても悲しまないでしょう。

彼らは平気で殺します。
「平気で」というより、それが自己保存のための手段の一つだからです。

ところが人間は、物理的な体の痛みのほかに、心の痛みという高度な機能を持ってしまいました。

この痛みが耐え難く苦しいので、人は人を殺してはならないことになったのではないでしょうか。

そして、この耐え難い痛みは復讐でしか癒されることはないのではないでしょうか。

評論家の呉智英さんは「仇討ちを復活させよ」と言います。

江戸時代の仇討ちは武士だけに認められた特権で、一般の人にその権利はなかったし、目下の者(子供など)の仇を討つことはできなかったそうなので、呉さんの感覚でとらえる復讐とは違うものだったでしょうが、その仇討願望はよくわかります。

「人を裁く」ということはどのような理念に基づいて行われるべきなのか私にはわかりません。おそらく誰にも「こうあるべき」などと断言することはできないでしょう。

ただ、昔も今も人の感情に変わりはなく、精神的回復の過程に「文明的未熟さ」もへったくれもない、ということだけはわかるのです。
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参考記事:     「愛するものを奪われた 1」   

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2009年6月 2日 (火)

死ぬかと思った

昨晩、寝る前に母のオムツを換えていた時、母が呼吸困難に陥った。
痰が喉に詰まったのだ。

夕方から喉がゴロゴロしていて、何度か吸引機で吸ったのだが沢山は取れず、でもそのうち安らかに寝入ったので、解決したと思った。

しかし、その後、咳をするたび痰がからんでいるのがわかる。
また吸引機を試してみたがとれない。そのうち血が混じるようになったので喉を傷つけたことを申し訳なく思い、中断した。

そして夜10時、おさまったと思っていた咳がまた出始めた。
痰がついに気管を塞いでしまったのか、息がつげなくなり、苦しみだした。
顔面蒼白となり、唇がみるみるうちに紫色になった。

大慌てでまた吸引機を作動させ、口の中にチューブを突っ込む。取れない。

無我夢中で作業をしていた時、妹が仕事から帰ってきた。

妹が母の体を横にし、私は吸引を続ける。

もういよいよだめだ、と思いながら、苦しんで嫌がるのでこれまでやっていなかった鼻からの吸引もやってみた。

鼻腔から奥の奥まで突っ込んだ。取れない。

口からまた試す。

死ぬよりましだ、と腹を決め、思いきってものすごく奥まで突っ込んだ。

大きな音とともに痰が吸引された。

途中で別の種類のチューブに変えてみたのも良かったのかもしれない。

母の顔に赤みが差し、唇がきれいな色に戻った。

助かった。

妹と二人で「お母さん、苦しかったね。ごめんね、ごめんね」と言いながら泣いた。

今まで、母が苦しがることは何度もあって、そのたびにあせっていたけれど、あれらは本当の危機ではなかった。

今回は本当に死ぬかもしれなかった。

寝たきりの状態で食べることもできず、意思表示もできない人がそれでもなお生きなければならないことの意味を、同様の介護をしている人なら、一度は考えたことがあるだろうと思う。

その答えは永遠にわからないかもしれないけれど、あんな苦しい死に方だけはさせたくない、という思いはある。

でも、安らかな死を迎えられる人なんてどのくらいいるのだろうか。

どんなに苦しんでも、息を引き取る直前は安らかになるのでそれが安らかな死というものなのだろうか。

苦しまず、いつのまにか眠るように死ぬのが理想だけれど、そういうのはめったにないことなのかもしれない。

死に方は難しい。

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昔、母が語ってくれたことがある。

私がまだよちよち歩きの頃、おもちゃで遊んでいた。
堅く大きなものだったのでまさか飲み込むとは思わず、一人遊びをさせていた。

大勢の子育てや家事に忙しかった昔の主婦はどこでもそうだったと思うが、つきっきりで子供の相手をすることなどできなかった。

私が苦しむ声を聞きつけて、母が飛んでくると、噛んでいたおもちゃがちぎれ、破片を喉に詰まらせ、顔面蒼白、唇が紫になって呼吸困難になっていた。

口の中をのぞいて、逆さにしたり背中をたたいたぐらいでは出てこないと判断した母は、人差し指を喉に突っ込み鈎状に曲げてグイッと異物を引っ掛け、取り出したそうだ。喉を傷つけ血だらけになったが死なずにすんだ。

危機の時は、「死ぬよりましだ」という判断が降りてくるものらしい。

私たちも、看護婦さんのような強さに少し近づいたように思う。

介護にはそういう意味もあるのではないか。

昨夜の悪戦苦闘は永遠のように長く感じられたが、無事に過ぎてしまうと特に大きな出来事でもなかったと思える。

今日の母はいつもどおりだし、私も日常のことをしながら昨夜の顛末をブログに書き込んでいる。

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2009年5月30日 (土)

悪い菌と戦って勝つ

テレビのバラエティ番組だったか健康番組だったか忘れたが、主婦タレント何人かが自宅で使っているまな板を持ち寄って雑菌汚染度検査をやっていた。

ほとんどの人が洗剤で洗って熱湯をかけて仕上げる、という中で、香坂みゆき(清水圭の妻)が、洗剤で洗うだけ、と言っていた。

どのまな板も見た目はすごく綺麗で清潔そのものだったが、調べてみると、香坂みゆきのまな板が一番雑菌が多かった。

「えー、そうなんですかあ」と彼女は笑いながら、「でも、うち、これで長年やってるけど、病気にもならないし」と言う。

まな板は雑菌の温床だそうだ。
傷ができやすい木製よりプラスティック製のほうが好ましく、きれいに洗ったまな板でも、一晩で雑菌が増殖するので、洗剤で洗うだけでなく、仕上げに熱湯をかけておくのが良いとされる。

でも、実は香坂みゆきのやり方でも悪くないんじゃないだろうかと私は思った。

私も、まな板は雑菌の温床ということを昔から聞いていて、熱湯をかけるよう心がけていた時期もあった。

でも、考えてみると、昔は雑菌の繁殖しやすい木のまな板をどこの家庭も使っていたし、まあ、時々天日に干したり、強毒性の細菌に汚染されている可能性のある魚介類や肉類と野菜などの調理は、まな板の裏表で区別するくらいのことはしていたけれど、今のように、神経質に菌を排除する気遣いはされていなかったように思う。

菌に対して少し鈍感になるくらいが抵抗力がついていいのかもしれないなあ、と思う。

うちの家族も病気しないし。

私が怖いのは、雑菌類より、分解しにくい化学合成物質である。

昔、有吉佐和子の「複合汚染」がベストセラーとなった頃、東京湾のヘドロまみれの魚や農薬づけの野菜など、高度成長期の汚染の情報が恐怖の大王のように我々日本人に襲いかかり、その刷り込みから、いまだに解放されないからなのか。

農薬類だって水で何度も洗うことによってかなり落ちるそうだ。人の台所仕事を見ていて「うわーん、もっとキレイに洗ってよぉ」と思うことも少なくないので、見ないことにしている。
この点についてだけは寛容な姑になれそうもない。

しかし、そうはいっても、あからさまに雑菌を軽視するようなこともしない。

昔読んだ三浦綾子の小説「果て遠き丘」にこんなシーンが出てくる。

≪妻が台所で夕食の支度をしている。妻が台所の床にこぼした水を雑巾で拭く。その手を洗いもせずまな板の上のホウレン草を切ったのをたまたま目にした夫は、その日ホウレン草のおひたしに手をつけなかった。≫

この夫は、前妻の過度の潔癖症に嫌気がさして、のんびりとした大雑把な女と再婚したのだが、大雑把も過度になると困りものだ。

誰しも雑巾をさわった手でそのまま料理したりしないと思うが、あれは三浦綾子の実体験なんだろうか。そういう不潔なことをする人もいるのかもしれない。

そういう料理を食べなければならない夫や子供を気の毒だと思うが、考えてみると、まな板にはびこった雑菌と雑巾をさわった手についた雑菌はどちらが数が多いだろうか。

結局「見ないようにする」のが一番良いかもしれない。

ちょっとだけ汚い環境で免疫力をつけましょうか。

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2009年5月27日 (水)

反骨と協力

大塩高志さんとのやりとりで浮かび上がってくるのは、政権についての認識の違いです。

≪私は権力は一時(いっとき)も油断ならないと認識を≫ 

この言葉に、永遠の反骨精神が表れていますね。反体制、反権力こそ、あるべき国民の精神だ、という。

私は「権力」ってなに?とよく思います。
「いっときも油断ならない」ってなに?  ←反骨精神旺盛な人には、「甘い」とか「バカ」とか言われるのは承知ですが。

閣僚の動き、官僚がやってること、警察が隠してること、そういったことをジャーナリストたちが監視し、掘り出し、国民に知らせる。

その作業のおかげで、私たち国民は、見えないところでどんなことが行われているのか知ることができます。

露呈した不正や怠慢はマスコミで散々騒ぎ立てられ、国民に責められ、政権を危うくし、時には政権をひっくり返します。

民主主義の国では、世界中でこういうことが起こります。
そういう点においては、いわば、日本は普通の国であるわけです。

しかしながら、日本の統治機構としての権力そのものを疑うのは、どういう意味があるのか私にはよくわからないのです。

自民党のやり方、民主党のやり方、社民党のやり方、国民新党のやり方、など、政党によって政治のやり方が違って、今のところ、自民党がまだましだから、ということで国民は自民党(+公明党)に任せています。

自民党は政治をやるためにじゃなくて、甘い汁を吸うために政権についているのでしょうか?

国が生き延びるため、国民が食べていくため、・・・その一点で働いているんじゃないでしょうか。
これは自民党だけじゃなく、どの政党が政権についても同じだと思います。
誰も日本を崩壊させてやろう、国民から搾取して自分たちだけ楽をしよう、なんて思ってないのですから。

私は何も権力が命令したことには何でもおとなしく従うべきだと言ってるのではありません。

監視も批判も必要なのは言うまでもありません。

でも、何でもかんでも「権力の横暴」「権力の陰謀」として、国民がこぞって反対を唱えるべきだという考えはどうかなと思います。

裁判員制度は「国の陰謀だ」と判断する人もいるし、司法参加は国民の権利だ、と判断する人もいます。

反骨精神が旺盛なのは結構なことですし、そういう人の存在がなければ国はおかしなことになるとも思います。

世界を見渡せば、権力が横暴なのに、反体制を唱えることができない国もあります。

自由の国アメリカでさえ、世界情勢を左右するほどの大きな陰謀が働くこともあるようです。

そんな中、日本は、まあまあのバランスをとっているんじゃないでしょうか。

この世界に「理想的な国」なんてありませんよね。

よく、北欧の国々、特にフィンランドが理想的だともてはやされます。

「福祉が充実していて将来不安がないので、一般家庭は貯金する必要がない」とか、「国民が全員政治に関心を持っているので政治家は不正ができない。国民は政治家を信頼している」とか言われます。

ほんとうにこんな国があるのか、とびっくりするほどです。

失礼な言い方ですが、そういう事情を聞くと、なんだか国全体が老人ホームのようだなという印象を持ちます。あるいは箱庭か。

実際に住んだことがないから勝手な論評はできませんが、負の側面があってこそ色々な面での成長もある、と考えると、大丈夫かなと思います。

ともかく、人間というのはいろいろな思惑があって、誰でも欲がありますし、癒着も起こりますし、しがらみからも逃れ切れません。

記者クラブと政権との馴れ合いも、視聴率を取るための視聴者好みの報道もどちらもあるでしょう。

でも、そんな中、世界のどの国が日本より良いんでしょうか。

日本はかなり良いほうだ、と私は思うのですが、反骨精神旺盛な人は、こんな態度にカッカくるんでしょうね。すみません。

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2009年5月26日 (火)

信頼を得るには

10日ほど前に、私の記事がある人気ブログに紹介されて、今まで経験したことがないほどの膨大な量のアクセスがあり、沢山の方々が共感して応援クリックしてくださった結果、当ブログが人気ブログランキングの1ページ目に載りました。

しかし1週間が過ぎると、その投票分は消え、元の基礎得票分に戻りつつあります。いっとき、良い気分にさせていただきました。ありがとうございました。

ブログを始めたのが2004年7月2日だから、もう5年近くになります。
個人的な日々の軽い記録でなく、社会問題について主に書いているので、結構時間をとられ、もうやめようかと思ったことも何度もありました。

社会問題に対する提案や、次の世代へ是非言い残しておきたいことなど、この日本という国の良さを引き継いでいくために少しは貢献できるのではないかと、なるべく多くの人に読んでいただきたく、人気ブログランキングにも参加して、一生懸命書いてきました。

多くの人の支持を得る記事を書くのはなかなか難しいものですが、なるべく頑張って更新するつもりです。

ネットによって広がる共感は社会をより良く変え得る、そう思うから、多くの人がブログや掲示板を使って意見を述べることに熱心なのでしょう。

述べた意見は批判にさらされることもあります。

そのことによって、学習したり、考えを修正したり、あるいは信念ゆえ合意に至らなくても、他の考え方を尊重する、という態度を磨いて行くことが重要だと思います。

自分の考えと違うからといって、軽蔑の態度をあらわにすることは大人として最も慎まなければいけないことだと思います。

特にネット上ではそれを守らなければなりません。

現実の世界では、「なんでわからないんだ。ばか」などと言っても、まったく悪意が感じられないどころか、その言い方に親しみさえ覚えるようなシチュエーションは往々にしてあります。

バラエティ風政治討論番組などでもよく見られる光景です。

しかしながら、顔が見えない、知らない相手との対話においてはよくよく気をつけなければなりません。

軽い受け答えの中に、自分にも慎重さの欠けるところがないかどうか、自戒をしつつ文章を作成していきたいと思います。
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2009年5月25日 (月)

民主主義で決まった

大塩さんというかたから、『「おまかせ」と「文句と」』 に、ご意見をいただきましたので、返信させていただきます。

>しかし主観として「いつの間に」という感覚を、私などは持っていました。<

同じく私もそういう感覚を持っていました。常に政治の成り行きを監視している一部の熱心な人々ならともかく、おそらく大半の国民がそうだったでしょう。
でもそれは「おまかせ民主主義」の伝統が日本に根付いているからで、そこに不満があって変えなきゃいけないと思うなら、常に熱心に監視することが求められますね。

>もし失敗すれば今までどおりの制度に戻すはずで、裁判官や検察官の地位は安泰<

ああ、そういうことですか。わかりました。

>裁判員の「モノ」化は相対的に検察官や裁判官の地位を上げることと、私自身は分析<

そのように大塩さんは分析されて、だから、裁判員参加は行政裁判と軽微な刑事裁判に限るべきだ、と仰るんですね。

それでは、行政裁判や軽微な刑事裁判ではそういうことは起こらないのでしょうか。
大塩さんの論理によると、当然そういう事案でも起こってくることになります。
ということは、大塩さんは、裁判員制度自体に反対だということだと解釈していいですか?

>「ちょっと怖いような」事態を私は甘受すべきと思うところ。困った事態を経て初めて住民の自治意識が、
高まることと。<

仰る通り。
「困った事態」を経て意識は高まりますね。
失敗がなければ人間は賢くなりません。
例えば古い例ですが、嘗ての美濃部都政。
「庶民の目線」を大事にした福祉政策は都民の人気を集め、社会主義者の美濃部さんは三選もされました。
しかし、無責任な支出は都の財政を破綻させ、都はそのツケにその後長い間苦しめられることになります。
ああいうことを経験して、人は学習するんですね。

だから、やってみながら、裁判員が学習したこと(守秘義務との兼ね合いが難しいのですが、裁判員制度の改善のための議論は秘密保持とは別の次元でできるんじゃないかと思います)や、裁判官との対話に基づいて時々見直しをしていくというのは良い方向じゃないかな、と思います。

たしかに、裁判員としての仕事に強い抵抗感を持つ人もいるでしょうし、向いていない人もいるでしょう。
ですが、難しそうだけどやってみよう、と思う人もいるでしょう。

やってみるのか、とにかくやりたくないのか、人それぞれですが、とにもかくにも決まってしまいました。民主主義で。

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2009年5月20日 (水)

「おまかせ」と「文句」と

裁判員制度が明日から始まります。
実際に裁判員参加の裁判が最初に開かれるのは7月に入ってかららしいですが、このところ、色々なメディアでよく裁判員の問題が取り上げられます。

裁判員制度に賛成の人も反対の人も、「これでいいのか」「この点はどうなるのか」「こんなことになったらどうするんだ」と、口々に疑問を呈します。

量刑まで決めなければならないことに、専門家でない一般の我々が重圧を感じるのは当然のことだと思いますが、これは「国民が学ぶ機会だ」ととらえたらどうでしょうか。

我々国民は昔から(まだインターネットが発達していなかった頃から)、納得できない判決に批判の声を挙げてきたし、「裁判官は世間知らずだからこんなおかしな判決を下すんだ。一般社会の常識とかけ離れている」という意見も多く聞かれました。
そういう意見は声だけが大きくて実際は多くはないのかもしれませんが。

でも、ネット議論の盛んな今、重大事件の判決についての論評があちこちでなされます。
「素人なのに、非常に知的で冷静な考え方だ」と思うような意見がたくさんあります。

国民はいろいろですから、知的でなく冷静でない人もいるでしょう。
でもそれだからと言って、知的に冷静に熱心に裁判結果の論評をする人たちの意見を取り入れないのももったいない話です。
ぜひ、こういった知的で冷静で真っ当な意見を言う人たちを裁判員として活用してほしいものです。

司法制度改革の中で、なぜ裁判員制度導入が検討されるようになったのかは知りませんが、それはやはり「専門家だけに任せず、司法は広く国民に開かれるべきだ。司法参加は国民の権利だ」という世論を受けてのことだったと思います。

制度案が国会に提出され、審議を経て、国民の代表である国会議員の賛成多数で決まったことであるなら、決まったあとで「そんなこと聞いてない」「私は嫌だ」というのは国民としての自覚がちょっと足りないのではないでしょうか。

国民が皆、国会の動きに注目しているわけではないし、「知らない間に決まったこと」もたくさんあると思います。

でも、「いったい誰がそんなこと決めたんだ。私は嫌だ」という反応でなく、「そうか、知らない間にこんなことが決まっていたのか。これはうっかりしていた。しかし国会で決まったことなら、従うしかあるまい。今度の選挙では、自分も国政に参加するつもりで、どんな考えを持っている候補者なのか、しっかり見極めよう」と、このように考えるのが筋というものではないでしょうか。

もちろん、裁判参加はとても大変なことだと思います。私もできることなら、そんなことに関わりたくはありません。

でも、嫌な仕事だから誰かにやってもらいたい、というのは、「自分たちは血を流したくないから、世界の無法者との戦いはどこか他の国にやってもらいたい。金なら出すからさ」、みたいな態度と似ているように思います。

たぶん、制度は不充分で、やっていくうちに問題点もたくさん出てくると思います。
それを改正しながらなんとかやっていくのが民主主義の手続きというものではありませんか。

問題点が噴出した時、「ほら見ろ。言ったとおりだ」などと他人事のような口をきくのでなく、自分たちの国のことなのですから、どうしたらより良くなるかをみんなで考えていったらいいと思います。

政治のこと何もわからなくても、一回でも選挙に行ってみると、投票結果が気になり、その後の政治に興味が湧いてくるということもあるものです。

裁判も、参加してみれば色々なことを考えるようになるでしょう。しりごみするだけでなく、学びの機会、強さを身につける機会として、前向きに考えてみたらどうでしょう。

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2009年5月11日 (月)

パァーッといきましょう

定額給付金の申請書が届いた。
5人家族なので全部で6万円。元々は我々の納めた税金ではあるが、結構な金額が戻ってくるとなるとやはり嬉しい。

このお金をどう使うか。
家族一人ひとりに12000円づつ配るか、預金に入れたままなんとなく生活費に消えてしまうようなことにするのか、もう少し上乗せして家族全員でパアーッと景気よく消費してしまうか、将来のために使わずがっちり保管しておくか。

国民みんなが景気よく使えばきっと経済効果はあるだろうと思うが、年金や介護など将来不安があるため、景気よく使うことに抵抗を感じ、貯金として確保する人も多いだろうと思う。

でも、使わなければ2兆円も国庫から出したことが無駄になる。くやしい。

みんなで思い切って色々なことに消費すれば景気が上向くきっかけとなるかもしれない。
「国内発の不況のさなかにあって不良債権の処理も済んでいなかった時の『地域振興券』はほとんど効果はなかったが、今回はかなり期待できるものだ」、と何かで読んだ。
私も最初は、給付金政策に反対で、そんなお金があるなら雇用対策に使えばいいと思っていた。
しかし、景気さえ良くなればなんとかなりそうな状況下では、給付金有効利用は意味がある。

そうであるならば、国民もなるべく使うことを心がけたほうがいい。景気が良くなれば、雇用状況も改善する。給料も上がる。国庫も増える。将来不安も解消する。

将来に不安があるからといって貯めこんでしまっては、結果的に自分の首をしめることになりかねない。

国の政策に協力する必要があると思う。国のためは個人のためである。

先日、産経新聞「次代への名言」でトヨタ創業者豊田佐吉の言葉を紹介していた。

≪世の中の多くの人の為に、又お国の為にと言う考えで一生懸命に働いてゆけば、
  食う物も着る物も自然と随(つ)いて来るものじゃ≫
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090501/acd0905010324000-n1.htm

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以前「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」について書いたのと似たようなことだと思う。 

国のためにしたことは、自分にかえってくる。

発明の才も起業の予定もない平凡な一般国民である私にもできる「お国のため」として、定額給付金は有効利用させていただく。

自民党政権のバラマキ作戦に協力するのは癪にさわるのだが、日本のため(つまり個人の幸せのため)を考えると、パアーッと景気よく使うしかあるまい。

麻生の悦ぶ顔を見たくないとか、自民党がしくじる姿を見たいとかの個人的感情にとらわれている場合ではない。

独裁国家でもなく、民主主義が機能し、法によって治められている国であれば、誰がリーダーに選ばれようと国民は協力すべきではないだろうか。誰も日本を滅亡させようなんて思ってないのだから。たとえ福島瑞穂でも。

福島さんが首相になれないのは国民の好き嫌いのせいじゃないと思うけどね。

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2009年5月 9日 (土)

男性消滅

私が夕方よく聴くTBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」では、毎日テーマを決めてそれについての意見をリスナーから募集するコーナーがある。

昨日のは「あなたはどんな時、異性になりたいと思いますか」というものだった。

「女性にはレディスデイという料金割引サービスがあって羨ましい」
「トイレの長い行列を待たなければならない時、男性だったらいいなと思う」
「女性は命という大切なものをお腹に宿すことができて羨ましい」
「女性専用車両は空いていて羨ましい」
「ゴキブリが大嫌いなのだが、男なのでキャーッと叫びにくい」

等々、まあ、異性に対するこれらの無邪気な羨望はお互い好きなように言い合っていればいいと思うが、コメンテーターの宮台真司首都大学教授は、男女問題の核心へのアプローチを示す解説をした。

宮台氏によると:
男の子は第二次性徴期に、ヒゲが生え始め、声変わり、ノドボトケの突出、夢精などを経験するが、そのことに「自分はこれで少年期は終わり、あのむさくるしいおじさんたちの仲間入りをするのか、というマイナスイメージを持つ」というのだ。
そしてまだまだ受動的でいたいのに、男としての能動性を期待されることに不安を感じる、という。

このようなことは、今の時代だからでなく、昔からずっと男の子が通過しなくてはならない関門だったにちがいない。

男性は、「男であらねば」という社会の約束事を忠実に守り、受動性(少年的女性的)願望を抑制することによってその関門を乗り越え、成長していったのだと思う。

しかし、近年、男女の性役割が曖昧になるにつれ「自由に生きることが人間の幸せ」であり、「漢でなくても一向に構わない」となり、・・・・いやいや、こういう風潮が強くなったのかどうかは定かではないが、とにかくユニセックス化は進んできたと仮定してみよう。

宮台氏が言うには:
「ボクも女性を羨ましいと思った時期はありました。だって、化粧をしたり、髪を染めたり、アクセサリーをつけたり、ヴァラエティに富んだ服装で気分を変えることができるんですよね。男なんて背広と普段着の二種類しかないんですよ。
 でも、今の時代、そういうことを普通にやるようになった男性を、女性は『私たちの仲間になってくれた』と歓迎するんです。
 同じ人間として向き合えるようになったんですね」

そして宮台氏は、「へえーそうなんですか」と呆れる荒川強啓キャスターに対し、「強啓さんは化石なんですよ」と言う。

私としては、「それで子供できますかね」という疑問を強啓さんに発してほしかったが、それをすることなく番組は終わってしまった。

私は男女問題をずいぶん書いてきたが、事の本質は「男女が対立すること」ではなく、性差を論じることの目的とは、人類存続のメカニズムが崩れつつあるか否かを考えることにあるのだ。

だから、女性が男性を「私たちの仲間になってくれた」と歓迎するような世の中になっても (まさに「女になりたがる男たち」の世界)、一定の子孫を残すべく欲情のメカニズムが働くのであればそれは一向に構わないのである。

どうだろうか、「やっぱり『女になった男』は男として魅力がない」のだろうか。 それとも、「『女になった男』だって、ちゃんと欲情するから大丈夫」なのだろうか。

若い人たちに聞いてみたいものだ。

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2009年5月 1日 (金)

沈黙と忍耐

週刊文春「ゴールデンウィーク特大号」で≪皇太子と雅子さま 病いと修羅を越えて≫という記事を読んだ。

皇太子ご夫妻に対する批判の嵐が吹き荒れる中、本当の事情はおそらくこのようなことであったろう、と私が想像していたようなことが書かれている。

不妊治療の難しさ、皇室特有の医療事情、人間として最低限守られるべきプライバシーゆえ周囲に(たとえ両親である天皇皇后両陛下に対しても)理解してもらうことの難しさ、マスコミの上っ面の報道やバッシング・・・・、皇太子ご夫妻はどれほど辛い年月を耐えて来られただろう。

「ご忠言」と称して、皇太子殿下に執拗に苦言を呈し続けた鈍感な言論人もいたが、そういった人々の想像力のなさは刃物のようにご夫妻を攻撃してきた。

以前、このような文を書いた。 →  「はじける笑顔」  

表面的に見えることだけで、なぜ人は簡単に「わがままだ」などと決め付けるのだろうか。

皇太子妃というとてつもなく重い立場にある人にかかるプレッシャーがどれほどのものか想像もできないのだろうか。

なぜ、よくある一般の人々の「詐病」と同次元で考えてしまうのだろうか。

「雅子妃 わがまま」で検索すると、勝手言い放題の軽薄な文章がわんさか出てくる。

ざっと読んでみると、大半が「遊びのお出かけはできるのに、公務には出られない。明らかにサボりだ」という短絡的なもの。

公務に出ず、遊びにだけホイホイ出かければ批判されるに決まっている。そんな簡単なことを、普通の大人が判断できないとでも思っているのだろうか。

私は「雅子さまはそのようなわがままを言う人にはなんとなく見えない」と思うからこういうことを書くのではない。

重大な責務である男子出産がかなわない時、その苦しみは本人でなければわからないことではないか。
苦悩の中にあって耐えている時、「まだかまだか」とせっつかれ、マスコミの好奇の目に晒され、外に出られなくなり、そのことで批判され、努力してやっと回復しそうになるとまた回復の仕方がおかしいと批判される。悪循環の泥沼である。
この泥沼が容易に想像できるから、私は、面白半分に批判をするのはやめなさい、と言うのだ。

皇太子ご夫妻の心情をあまり深くは理解されていないように見える天皇皇后両陛下や弟宮ご夫妻との関係についても私はとても残念に思う。

天皇皇后両陛下にしてみれば、自分たちも大変な苦労を乗り越え、国民統合の象徴たる皇室の責務を果たしてきた、という思いがおありなのだろう。

でも、お子様を3人も授かった幸運は大いなる力を美智子様にもたらしたのも事実であると思う。

皇太子ご夫妻にはそれがかなわなかったことと、回復をさまたげる悪循環の構図とをもっとよく理解して差し上げてほしかったなと思う。

それにしても驚嘆すべきは皇太子殿下の強靭な精神力である。

殿下は、雅子さまという「個人」を守ろうと決心された。
「将来の皇后である。公務が優先ではないか。皇太子妃という立場を自覚して何が何でも公務復帰するべきだ」という世の声がとてつもなく大きかったにもかかわらず、雅子さまという「個人」を守り通された。

それは「将来の天皇」という立場を蔑ろにして妻という「個」を優先されたからではないだろう。

是非結婚していただきたいという熱烈なプロポーズに応えてくれたかけがえのない妻への愛情は無論のこと、天皇制存続の重大性を考えられたからこそ、将来の皇后をなんとしても守らねば、と思われたにちがいない。

ご自分たちの心身の健康や良き夫婦関係があってこそ国民からの支持や信頼が成り立つ、と考えられたからにちがいない。

だからこそ、どんなに批判されようとも、雅子様を守ることに専念されてきたのだろう。

よくよく忍耐の強いかただと言うほかはない。

この皇室問題に関しては、「個より公」という考え方を曲解して、物事の本質を見失った人々が大局に立った判断をしていないように思う。

なかなか自分の意見が言えない立場である天皇家のかたがたに対しては国民は安易な批判をするのでなく、物言えない人の事情や心情を推察する知力や寛容さを持つべきだ。

文春の記事には、【最近は、「子どもがなかなかできなかったこと、苦しみにも何らかの意味はあったのではないか、と考えるようになった」とご夫妻で語り合われるほどであるという。】 と書かれている。
このようなご心境になられたことに、ひとまず安堵の気持ちを持った。

記事は、【 ご成婚から16年。お世継ぎに苦悩された8年と、雅子妃が病にたおれて6年。時に困難な道を、皇太子は沈黙とともに歩んでこられた。批判することはたやすくそうした声はとかく大きくとりあげられる。だが皇太子の沈黙こそがメッセージであり、そこに共感する声なき国民もまた多い。】
と結ぶ。

我々日本人の思慮と情愛が長らく天皇制を守ってきたのではなかろうか、と私は思う。

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2009年4月27日 (月)

わくわく

日曜日の朝7時、フジテレビ「ボクらの時代」というトーク番組を見ている。
昨日は、俳優江口洋介、大沢たかお、映画監督の紀里谷和明の3氏だった。

紀里谷和明氏が言ったことが興味深かった。
「今は、映画を作ることが楽しく、そのことで頭がいっぱいで、物欲がなくなった。
 以前はスーツを誂えにロンドンまで出かけたものだが、今は服飾などにまったく関心がない」

梅田望夫「ウェブ進化論」にも、地球上に完璧なネットワークシステムを構築することで人類の幸せを夢見る、モノに執着しない若者たちが描かれる。

身を飾ったり、大きい家に住んだり、おいしいものを食べたり、そんなミクロな贅沢とは比べ物にならないくらい身も心も躍るようなとてつもなく楽しいことが見つかったのだから、ということなのだろうか。

ついに人類はこの域に到達したと見るべきなのか。
そしてそれは果たして人類にとって幸福なのか不幸なのかさえわからない。

物欲がなくなるのが良いことか悪いことかはともかく、若者が没頭するほど好きなことを持つのは良いことだ。

同日、テレビ朝日「サンデープロジェクト」に経済評論家の勝間和代さんが出演。
仕事も子育ても趣味も効率的にこなすまったく無駄のない自身の生き方を紹介した。

みんなが「ほうーッ」と感心する中、最後にサブキャスターの女性アナウンサーが質問。
「そのように頑張って、勝間さんの行き着く先のゴールとはいったいどのようなことですか」

勝間さんの答えは明快だ。
「私の母国語は日本語です。ですから日本に住み続けたい。その日本を住みやすくするためにはどうしたらいいかを考えたいのです。未来を考えることは楽しい」

将来に希望が持てない若者たちが増えている一方で、「未来を考えることは楽しい」と、物欲にとらわれずワクワク感を抱く若い世代がいる。

ワクワクできるのは、もともと充たされているからということもあるだろう。

しかし、そういう元気な若者が、元気でない若者を引っ張り挙げるような元気な社会を作ろうとワクワクしながら仕事をしている。

紀里谷さんも勝間さんも41歳、シリコンバレーで中心となって働く若者たちもきっと同じ世代ではないか。

若い世代の、未来を見つめるそういう姿を見せられると、年配者もワクワクしてくる。

未来を考えることは楽しい。

それは豊かな時代の老人の特権でもある。

若者たちが何をしようとしているのか、それを見ながらワクワク感を味わうだけで、病気になりにくいような気がしてくる。

若い世代の躍動は老人にとっても元気の素なのだ。

老人にとって、次世代への場の明け渡しと投資は、自分の物欲を充たすことと同じくらい大事だ。
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2009年4月24日 (金)

識別

今日の産経新聞「正論」社会学者・加藤秀俊の ≪「後期高齢者」でもけっこうだ≫ 面白いですよ。

加藤氏は、老人も若者も、男も女も、区分けをするのは差別ではなく要するに「識別」と言っておられます。同感です。

こんなことにいちいち腹を立てて騒ぐ人は頭の中がやっぱりご老人なのでしょう。
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2009年4月23日 (木)

麗しき銀髪

私は髪を染めたことがない。1・2年前まで、白髪がほとんどなかったからだ。
しかしこのところ急に増えてきた。
やはり60過ぎると、髪は白くなるもんだ。

だけど私は黒く染めようとは思わない。

年相応に銀髪、白髪でいこうと思っている。

髪が黒いと一見若くみえるかもしれないけど、髪が白くたって明るい色の服を着て背筋伸ばしてしゃんとしていれば決して年寄りくさくない。

金美齢さんや草笛光子さんなんかとても素敵だ。

ちかごろ、世の中の人が美と若さ追求に熱心になるあまり、年の取り方の方向がヘンじゃないかとよく思う。

テレビなんかでよく見るのだが、「50歳過ぎてこの若さ!」なんてフリで、20代30代の若い娘のような髪型や服装をした中高年女性を賞賛することにマスコミは熱心だ。

人間は寿命が延びちゃったので、高齢になってからの時間をもてあまし、こういう変則に興味を持つ人が多くなり、その現象に世の中が麻痺してきたのかなと思う。

渡辺淳一先生はまた新しい本を出したようで、その宣伝なのか、この頃よくテレビでみかける。

相変わらず「いくつになっても欲情はなくしちゃいけない。死ぬまで恋愛し続けるべきだ」と頑として譲らない。

元気でいるための秘訣であるならばそれも高齢化社会の問題点を解決するためのひとつの手段であるかもしれない。

70、80のおじいさんおばあさんが色気を出すと、昔はエロじじいとか、うば桜とか言われたものだが、今、世の中は進歩し、高齢者の恋愛に歯止めはかからない。

でも、私は今でも「エロじじい」と思うほうである。進歩的じゃないから。

長生きはめでたいことだけれど、いつまでも外見的な若さやエロ事にこだわってその貴重な時間を費やすよりも、もっと若者から見て好感の持てる過ごし方をしたほうが世の中は良くなるような気がするのだけれどどうだろうか。

それともなにか。
時代の移り変わりというものはそういうもので、「品格」だの「伝統」だのにこだわっていては経済もまわらず、景気も良くならず、結局国民は幸せにはならんじゃないか、ということなのか。

ここで唐突に、麻生政権についてだが;

麻生氏は保守主義の立場だと言われるが、保守というのは戦後の自民党政治を守る、ということなんだろうか。
官僚支配の中央集権政治を守る、ということなんだろうか。

それは、地方分権には反対、ということなんだろうか。

世の中には、地方分権賛成と言いながら、麻生政権を支持する人もいる。

公務員制度改革の必要性を感じながら、麻生政権を支持する人もいるみたいだ。

目の前の不況をとりあえず何とかしてくれればどんな政権でも良い、ということなのだろうか。無責任だな。

「無駄遣いばかりの腐った国の構造は変えなくてはならない」という正義と、「それより金だ」という現実的な欲求が同居する。

結局、国民はみんな、なにがなんだかわからない状態なのかもしれない。私もなにがなんだかわからないけど。

品格を保ちつつお金を稼ぐことは不可能ではないだろうから、日本人はもう少し器用になることが必要かな、と思う。

物が売れ、国のお金が増え、株価が上がり、給料が増え、景気が良くなり、楽しくなって恋愛し、子供が生まれ、国に活気があふれるためには、品格ばかりにこだわってもいられない。

若作りに励む老人についても、ファッション業界が儲かるならおおいに歓迎すべきだと、考えることにしよう。

一定数の銀髪美人は是非いてほしいけど。

(4/24 ちょっと修正)        

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