美しい生き方
「生きる」ということは、演技者になる、ということでもあります。
自分がこうしたいからこうする、という純然たる「我」のほかに、それが傍から見て美しいか好ましいかどうかも行動のモチベーションとなります。
この「美しいかどうか」が、つまり、人の美学というものであり、その意識が強い人ほど、自分の「我」「欲望」より「美しさ」を大事にします。
こういう人にとっては、自分の欲を抑えることが難しいことではないのです・・・・というより、美学を貫くことこそ、その人の欲望なので、ことさら我慢をしている、ということにならないのだと思います。
昔、松田聖子というタレントが、結婚していながら、数々の男性と交際し、しかも子どもも持ち、仕事も充実させる、という多岐にわたる活躍ぶりが、女と生まれたからにはあのように生きたいなどと、若い女性を中心に羨ましがられたものです。
本人は何でも手に入れ、欲望のおもむくままに行動してそれは楽しくてしかたがないでしょうけど、はためには「みっともない生き方」とも見えます。
しかし、まわりにどう思われようとかまわない、自由でいたい、やりたいことをやりたい、などと本当に思う人はそんなにいるわけではなく、ほとんどの人間が、規制、管理の範囲内で自分のできることをしたい、と思っていることでしょう。
人生とは、「周りに美しいと評価される生き方」と「自分の満足度の大きい生き方」のどちらを選択するのか、ということなのでしょうか。
どちらにしても、それは、「自分の欲望」が選び取ることです。
「自己実現に比べれば、自己犠牲のなんとたやすいことか!」と、エリック・ホッファーという哲学者が言ったそうです。うーん、至言。
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コメント
>人生とは、「周りに美しいと評価される生き方」と「自分の満足度の大きい生き方」のどちらを選択するのか、ということなのでしょうか。<
どちらを選択するにしても、選択した以上、本人の心の中とその選択に伴うリアクションは、ドロドロしていたり深刻だったりタフだったりするものなのではないでしょうか。もちろん、そういう意味では「自己犠牲」と言う選択も、本人が“選択”ときちんと認識している限りは、ハードなことであるのには変わりがない、と。
私が昨日blogで主張したかったのはそこである、様な気もして来ました(^^)> 大きな観点では人生を日本独特の禅“的”思想で捉えつつ(全ては“運命”みたいな)、個々人の日々の行動と言う観点からは、プロテスタント的な“自分で立つ”選択の厳しさで生きていけるのが理想…かなあ。昨今の日本社会には後者が欠け過ぎな気がします。
松田聖子さん…オトコの趣味がえらく悪いなあ、ホントはオトコなんて必要としてないんとちがう?とは思うけれども、「みっともない」とも「美しい」とも思わない私です。ただ、最近では、ああして自分を晒して生きてくれる人、貴重だよなあと思うようになりました。実際、彼女のお嬢さん、なかなか素敵ですものね。
投稿: kaku | 2004年10月27日 (水) 12時30分
>どちらを選択するにしても、選択した以上、本人の心の中とその選択に伴うリアクションは、ドロドロしていたり深刻だったりタフだったりするものなのではないでしょうか。もちろん、そういう意味では「自己犠牲」と言う選択も、本人が“選択”ときちんと認識している限りは、ハードなことであるのには変わりがない、と。<
神々しい皇后陛下も筆舌に尽くしがたいドロドロを経験されたからこそ、あのような美しいお姿に到達されたのでしょうね。
>ああして自分を晒して生きてくれる人、貴重だよなあと思うようになりました。実際、彼女のお嬢さん、なかなか素敵ですものね。<
これですがね、不思議なのは。
母親が不倫に明け暮れていれば子どもはまともに育つわけがない、と普通は思いますわな。
ところで、
朝日新聞朝刊に「ののちゃん」という漫画が連載されているのですが、きのうのはこう。
テキトーでいい加減な小学校教諭の藤原センセイが友人の養護教諭を前に「今度の授業こういうのにしようと思うんだけど」と、「美しい日本語、正しい日本語」と黒板に書き、
「うさんくさいですね。
神さまや仏さまじゃあるまいし、
いったいどうやって『美しい』や『正しい』をたしかめるのでしょう。」
「わたしたちは言語をあやつっているのではなく、
言語の世界の住人にすぎません。
だから死語や新語をだれも止められないのです。」
「コトバによって得られたおたがいの信頼が美しかったり正しかったりするんですね。」
4コマ漫画なので、展開は逆で、最後に「・・・・って月曜の授業なんだ。ちょっとウザイかなぁ」なんてちょっと自信なげな藤原センセイのつぶやきで結ぶんですが、なんかすごい名言のような気がします。これって誰かエライ人の言葉なんでしょうか。それとも作者のいしいひさいち氏の言葉なんでしょうか。
投稿: robita | 2004年11月 1日 (月) 11時32分
私の脳はどうやらとても単純な構造をしていたらしく、
小さい頃に読んだいわゆる「道徳的」な本にいたく影響されました。
苦労が連続するなかでも「〜でなくて良かった」と「良かった探し」をする少女パレアナ。自分の救命具をゆずり、自らは人の心の平安のために祈り続けた沈むタイタニック号に乗っていた牧師。「義理・恩」を絶対に忘れなかった武士。
そのようなものを読むたびに、「自分はできるだろうか?」とばかばかしいほど真剣に考えてしまう小学生でした。
そうして「ある種のプライドを持つ」ことが
「美しく生きること」と思うようになりました。
たとえば、テロの問題にしても
「やられたからやりかえす」のと
「やられてもやりかえさない」のとどちらが誇り高い生き方か?というような単純な思考です。
>人生とは、「周りに美しいと評価される生き方」と「自分の満足度の大きい生き方」のどちらを選択するのか、ということなのでしょうか。<
「周りに美しいと評価される」のはやはり単なる結果だと思います。その人が「これが良し」と選択しつづけてきたことの積み重ねがたまたま「美しいと評価」されたのだと思います。
美智子后の美しさも「周りに美しいと評価される」ことを望んだわけではなく、彼女が「こうするのがよい」と選択し続けたことが結果としてその美しさにつながっていったのだと思います。
ただ、私は自分の現実としては、およそ私の思う
「自分に対するプライド」を長年にわたって一人孤軍奮闘していくのは非常にむずかしくなることもある・・と学んだというのが現実でもあります。
投稿: naomi | 2004年11月 2日 (火) 21時43分
>私の脳はどうやらとても単純な構造をしていたらしく、
小さい頃に読んだいわゆる「道徳的」な本にいたく影響されました。<
8月のブログ“「志」を育てる”に、私も似たようなことを書きました。
道徳を教える読み物などは、近頃の小学校ではあまり使わないようですね。それどころか、道徳の時間自体削られて当たり前という状況だそうです。
私はテレビドラマなどで、単純な「感動もの」に心動かされてしまうのですが、「私が感動したってしようがないんだよ。どうして子どもはこういうの見ないんだっ」と涙をぬぐいながら気を取り直します。
幸い長女とはそういう気持ちを共有できるのですが、男どもはダメですねー。
かくして、女性はますます正義感が強くなり、誇り高くなっていくのですよ。
>ただ、私は自分の現実としては、およそ私の思う
「自分に対するプライド」を長年にわたって一人孤軍奮闘していくのは非常にむずかしくなることもある・・と学んだというのが現実でもあります。<
naomiさんは本当に賢く誇り高い人だけれど、すごく柔軟で「話せる人」でもあるということは私は実際に知っているのでよくわかります。
私だって言うは易しで、穴だらけの誇りです。
でも、それは日常の細かいことにいちいち誇りを持って対処できない、ということで、大筋の人間の生き方として誇りを持っていたいということですよね。
投稿: robita | 2004年11月 4日 (木) 13時57分
> 「生きる」ということは、演技者になる、ということでもあります。<
この言葉 甚く気にいっていました。賛成票を入れるにしても 具体的に話すには 長くなりそうで そのままでした。
robitaさんの演技者と違うかもしれませんが。
投稿: kutinasi1 | 2004年11月 7日 (日) 11時43分