勉強しましょう
日本の子どもは本当に勉強をしなくなってしまいました。と桜井よしこさんは嘆きます。
今から25年も前、偏差値教育や過度の受験競争への批判を背景に、小中学校の学習内容が削減され始め、それは、2002年に遠山文部科学大臣が「学びのすすめ」を提唱するまで続きました。
しかし、週休二日制の導入とあいまって、今なおゆとり教育の弊害は残ったままです。
小学校中学校でしっかりとした学習の習慣がついていない子どもたちが高校に上がり、そこは以前と同じままの高校教育と大学受験が待ち受けているわけで、当然「詰め込み」になってしまいます。
高校生の憂鬱ややる気がうせるのもこういうところに元凶があるのであり、無責任に彼らに「やる気を出せ」などと叱咤激励する大人こそ間違っていたのだと思い知らされます。
「偏差値教育や過度の受験競争への批判」は、いったい誰によってなされたのでしょうか。
「子どもに学力を競わせるのはかわいそう」「子どもは思いっきり遊ばせてやりたい」「みんな平等に仲良く」、こういったあの時代の支配的意見にほとんどのおとなが疑うことなく流されてしまったのでしょう。
私自身も「子どもは親に思いっきり愛され、思いっきり遊べばそれできっと正しく育つ」などと信じていました。
しかし、日本も世界の力関係の中で生き延びて行かなければ個々の幸せもあり得ない、そのためには子どもにしっかりと学ばせ、他のどこの国でもない日本人なんだという自覚を持たせなければいけない、と早く気づかなければいけなかったのです。
日本語による討論で、中国の学生に負けてしまうような学生を有する大学が「私学の雄」だと誇っている場合ではないのです。
子ども全体の学力の底上げも大事ですが、優れた子どもをさらに引き上げるエリート教育も必要だと思います。
「世界に一つだけの花」という歌はいまでも有難がられているようですし、私も好きな歌なんですが、歌は歌として、子どもがそういうところにだけすがることのないよう、勉学の義務を教えていかなければならないと思います。
自分の家庭だけでがんばるのは辛いけど、公教育でみんなが勉強させられるようになれば大丈夫、乗り切れますって。
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コメント
robitaさん、こんにちは。
私は公立で受けた教育期間と言うのはそう長い方では無いのですが、多くの場合「低い方に合わせる」のが徹底していたような気がします。昨今の「ゆとり教育」はこれの極致だと思いますが、それならそれで、「高い方に合わせる」公的教育機関も作らなければ不公平ジャン、と思ってました。
でも、その「エリート教育」が「詰め込み&暗記教育」であるならばやはり日本と言う国の世界的地位は下がってゆくと思います。なぜかと言うと簡単で、中国の科挙式「詰め込み&暗記教育」は実は案外使い道がない人材を生み出すものだからです。
よく昨今のエリート中国人は優秀だ、と言われますが、私から見るとちょっと前の日本の旧帝大卒を70過ぎでも自慢して集まってる人達と大差ありません。色んな事を知っているんですが、殆ど机上の空論で実学的ではないんです。つまり、知識はあるが知性がない。
以前にもお話したことがあると思いますが、どうやったら、ビートたけしや島田しんすけさんみたいな「賢い人」を作り出せるんでしょうね…そういう方々の親御さんを教師として雇うのが早いんじゃないかしら?
投稿: kaku | 2004年10月 6日 (水) 10時52分
はじめましてrobitaさん。
私の子供たちはいわゆるゆとり教育の弊害の
真っ只中にいます。
勉強する以前の、環境や心がまえからして
公教育は崩壊しています。たとえば制服を
だらしなく着崩す学生たちが顕著な例です。
学生はある意味人生の修行者です。校則で
着る物や立ち居振舞いを制限されたりするのは
修行者として当然の事です。
修行者である以上、一般社会人との格差が
あって当然ですし、いわんや人権を彼らに
語らせる事は不必要です。
それを茶髪のどこが悪いとか、制服にも個性が
必要云々・・・極めつけは、日の丸を掲揚しない
権利、あるいは君が代を歌わない権利等・・・
これでは国家が弱体化して当然だという気が
致します。
投稿: yuki | 2004年10月 7日 (木) 09時40分
kakuさん、yukiさん、コメントありがとうございます。
午後書きますね。
投稿: robita | 2004年10月 7日 (木) 10時20分
kakuさん、
中国ではどういうエリート教育が行われているか知りませんが、語学力や論理構築力では日本人学生は負けているようですし、そういうものこそ世界の国々と伍して行くために必要なものなんじゃないかなあ、と単純に思ってしまいます。
しかし、(タイミングが良いことに)昨日の朝日新聞夕刊に神戸大学教授の五百旗頭(いおきべ)真さんの文章が載ってました。
要旨は、
「ちかごろの若い者は、と心配することはない。優秀な者は非常に優秀である。自分が若い頃にはとても書けなかったような素晴らしい論文を書いてくる知力に満ちあふれた学生は珍しくない。一方で学校崩壊現象や若年者異常犯罪の増加などの社会問題もあるが、そんな状況はアメリカでは前からあった現象で、先進国では当たり前のことである。良いのも悪いのもいるという多様性に満ちた先進社会に、日本も今や移行している。優秀な者は存在するので、これからやらなければいけないことはこれらの優秀な若者を伸ばす高等教育である。その意味で今年から政府が長期覇権の留学制度を新設したことは注目される。世界の先端的な大学院に入って、トップリーダーなるであろう若者たちとともに勉学を競い・・・・」
まあ、神戸大学の学生諸君は優秀だから心配はないんでしょうが、先進国の特徴である「良いのも悪いのもいる」という状態をほっておいていいとは私は思わないので、やはり、子ども全体の学力の底上げは必要だと思います。
それこそ、アメリカ的な「良いのも悪いのもいる」両極端がくっきり分かれた社会など真似する必要はなく、日本ならではの穏やかな進んだ社会を目指すのがいいんではないかなあ、と思います。
ただ、やっぱり、kakuさんが中国の学生の教育の施され方に疑問を持つのは、あのような一党独裁では柔軟性のある考え方ができないじゃないか、というところだと思います。
「日本ってなんて良い国なんだろう」と、つくづく思いますね。
>ビートたけしや島田しんすけさんみたいな「賢い人」<
彼らは確かに賢いし好ましい人物ではあるけれど、どうなんでしょう。「ぜひいてほしい」「この人たちがいることで世の中一味ちがう」といった、料理で言えば「調味料」のような人材だと思うんですよね。
やっぱり、土台は「良い食材」と、それら全体をプロデュースする優れた料理人が必要なんじゃないでしょうか。つまり、「底上げされた大衆」と「エリート層」ですよね。
ちなみに、紳助さんの親は知らないけど、たけしのお母さんはとにかく「勉強しろ勉強しろ」と子どもたちの尻をたたき続けたすさまじい教育ママだったそうです。たけしくんの兄弟はみなさん勉強がおできになり、知的な職業についておられますよね。
もひとつちなみに、今お笑い業界は知的芸人が結構活躍してますよ。単に「物知り」というんじゃなく、世の中を俯瞰してるような人たちですね。今ちょっと思いつくのは伊集院光、小堺一機、浅草キッド・・・、もっといそうだけど。
というか、昔からお笑い界というのは賢い人が多かったのかもしれません。
でもやはり、大衆と知識階級の接点としての役割を一番担ってるのは何と言ってもたけしでしょうね。
yukiさん、
私いま「むかし“都立高校”があった」(奥武則著)という本を読んでいるのですが、「学校群制度」以前の都立高校はそれぞれ伝統があって個性的だったそうですね。
私は高校生たちが茶髪にしたりズボンずり下げたりすることはさておき、この「学校の文化」が失われ、どの学校ものっぺりとした同じような様相を呈してきている、ということがつまらないなあ、と思います。
「学校群制度」は学校間格差をなくしたけれど学校から面白い個性をも消してしまったのだそうです。
江川達也の漫画「日露戦争物語」が好きなんですが、あの頃、南方熊楠とか正岡子規とか本当の意味での知性を持った面白い人材が沢山いたんですね。
教師たちが驚くほど寛容で自由な発想で学生の向学心を伸ばしてやっていたようです。どうしてこんなことができたのか。たぶんそれは「選ばれた者」「優秀な者」への特別扱いだったのかもしれません。
投稿: robita | 2004年10月 7日 (木) 15時32分
私が中国に留学していた90年代前半の北京大学などを目指す中国人エリートは、大学受験の為に中学校の頃から猛勉強をしていました。特に歴史の部分はすさまじくて、百科事典『イミダス』3冊分くらいは優に暗誦出来るほどだとか。
当時の大学受験は日本のセンター試験の様なものでした。ただし、受験生は自分の意志で専攻学科を決めることは出来ませんでした。つまり、本当は「国際経営学」をやりたかったのになぜか「宇宙工学学科」に配属されたり、と言う現象がそこここに見られました。その代わり、全寮制でありながら全額費用はタダ、でした。
中国人と言うのは非常に実学的・合理的な精神を持っていて、「国際経営学」の授業はすべて英語であり、「日本学科」の授業はすべて日本語で行われてました。日本的な「日本語力の低下」と言った情緒論は、それとこれとは別問題、と言った割り切りがありました。彼らの世界における強さはこの合理的精神にある様な気がします。
とは言うものの、人間は元来選択の自由を欲し、それが満たされない限り飢餓感が残るもので、私が多くの中国人エリート達に感じる、物事全般に対する「空虚感」と言うのは、こんなところから来ているのではないかと感じます。
どんなアホでも天才でも自分の意志で世界を見てこられる、そして、子供の瞳がキラキラしている(ギラギラではない)社会、抽象的ではありますが、それが私にとっての「いい社会」の基準かなあ。
投稿: kaku | 2004年10月13日 (水) 10時03分