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2005年4月27日 (水)

新天地はもうないのか

松島菜々子の「生茶」のCMで流れている「大いなる西部」のテーマ曲、ドラマチックな旋律に雄大なアメリカの大地が目に浮かんでくるようです。みぞおちのあたりがうずくというか、胸がキューンとなるというか、そうだ、あの頃の若者の心には間違いなく「希望」ってあったんだよねー、なんて、懐かしさでいっぱいになります。

私が中学生の頃、高度成長期に入り東京オリンピックに向けて日本が着々と豊かさを築いていったあの頃。
映画やテレビの中に見る豊かなアメリカの輝かしさに憧れ、その豊かさを築いた精神の礎となる開拓の歴史を描いた西部劇は全盛で、大人も子供も夢中になったものです。
新天地を求めて西へ西へと進む幌馬車隊、
「悪者」のインディアンをやっつける頼もしい騎兵隊や酒場で暴れだす無法者を取り締まる保安官、
牛の群れを率いて長い旅を続けるカウボーイたち、
森林を切り開いて丸太小屋を建て畑を耕す開拓民、
一攫千金を当てこんで金鉱に群がる山師、
そんな中で布教に励む牧師や子どもを集めて学校を作る牧師の妻、
駅馬車で町々を巡り、もめごとを裁く巡回判事、
なんだかもう人生のすべてが網羅されていて、今思えば子どもたちにとって人間社会を学ぶ結構な教材でもあったような気がします。

「新天地」の響きは気分を高揚させ、希望や憧憬の念を育ててくれました。 ところで、某ブログではいじくられまくりの渡辺淳一先生ですが、執筆中の小説は読むにたえない代物としても、週刊誌のエッセイなどではなかなか興味深いこと仰います。
『アルジェリアには行けず』と題して、 

【アルジェリアはフランス人の息抜きの場所、逃れていく場所であった。映画「望郷」や「外人部隊」にみられるように祖国フランスで食いつめたり犯罪を犯した者たちの逃避地であり、再生の場所でもあった。フランス人にとっては、アルジェリアに行けば何とかなる、という最後の希望の土地でもあった。同様にかつての日本では、農家の二男三男や一旗組などが大きな夢を抱いて満州へ渡った。だから植民地があればいいなどと言う気はないが、】

と、若者たちの逃避し再生する場所がないことを嘆いておられます。
端折って写したので誤解される向きもあろうかと思いますが、言わんとするところはわかりますよね。
内地で挫折しても、大陸に行けばなんとかなるさ、海の向こうでひとはた上げてやる、そんな開拓心、冒険心を今の若者の心の中に育ててやるにはどうしたらいいのでしょう。
今の時代の若者にとっての新天地はどこにあるのでしょうか。
今、若者が何かを求めて海外へ出て行く、といえば、バックパック貧乏旅行か、NGOや青年協力隊のような真面目な活動だろうと思うのですが、海の向こうでひとはたあげてやる、という気持ちとは、もっとギラギラとした「野望」ともいうべきものだったでしょう。
この若者の特権である「ギラギラ感」が失われたのは、果たして良いことなんでしょうか、悪いことなんでしょうか。 ホリエモンさん、教えてください。

 

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引越しの際の名残です。ご放念ください。
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私が中学生の頃、高度成長期に入り東京オリンピックに向けて日本が着々と豊かさを築いていったあの頃。
映画やテレビの中に見る豊かなアメリカの輝かしさに憧れ、
その豊かさを築いた精神の礎となる開拓の歴史を描いた西部劇は全盛で、大人も子供も夢中になったものです。

 

新天地を求めて西へ西へと進む幌馬車隊、
「悪者」のインディアンをやっつける頼もしい騎兵隊や酒場で暴れだす無法者を取り締まる保安官、
牛の群れを率いて長い旅を続けるカウボーイたち、
森林を切り開いて丸太小屋を建て畑を耕す開拓民、
一攫千金を当てこんで金鉱に群がる山師、
そんな中で布教に励む牧師や子どもを集めて学校を作る牧師の妻、
駅馬車で町々を巡り、もめごとを裁く巡回判事、
なんだかもう人生のすべてが網羅されていて、今思えば子どもたちにとって人間社会を学ぶ結構な教材でもあったような気がします。
「新天地」の響きは気分を高揚させ、希望や憧憬の念を育ててくれました。

 

ところで、某ブログではいじくられまくりの渡辺淳一先生ですが、執筆中の小説は読むにたえない代物としても、週刊誌のエッセイなどではなかなか興味深いこと仰います。
『アルジェリアには行けず』と題して、
 【アルジェリアはフランス人の息抜きの場所、逃れていく場所であった。映画「望郷」や「外人部隊」にみられるように祖国フランスで食いつめたり犯罪を犯した者たちの逃避地であり、再生の場所でもあった。フランス人にとっては、アルジェリアに行けば何とかなる、という最後の希望の土地でもあった。同様にかつての日本では、農家の二男三男や一旗組などが大きな夢を抱いて満州へ渡った。だから植民地があればいいなどと言う気はないが、】 と、若者たちの逃避し再生する場所がないことを嘆いておられます。
端折って写したので誤解される向きもあろうかと思いますが、言わんとするところはおわかりになりますよね。

 

内地で挫折しても、大陸に行けばなんとかなるさ、海の向こうでひとはた上げてやる、そんな開拓心、冒険心を今の若者の心の中に育ててやるにはどうしたらいいのでしょう。

 

今の時代の若者にとっての新天地はどこにあるのでしょうか。

 

今、若者が何かを求めて海外へ出て行く、といえば、バックパック貧乏旅行か、NGOや青年協力隊のような真面目な活動だろうと思うのですが、海の向こうでひとはたあげてやる、という気持ちとは、もっとギラギラとした「野望」ともいうべきものだったでしょう。

 

この若者の特権である「ギラギラ感」が失われたのは、果たして良いことなんでしょうか、悪いことなんでしょうか。

 

ホリエモンさん、教えてください。

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