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2005年11月21日 (月)

「希望」ってどうやって作るの?

悲しい言い方ですが、平和や豊かさというのは、「荒廃」を生み育てる土壌なんですね。人心の荒廃は、緊張感のない平和や豊かさの中から徐々に大きくなっていきます。

平和と豊かさの代償をまのあたりにし、「平和とは何か」「豊かさとは何か」と誰もがとまどっています。

若者たちは「平穏無事」の退屈さを身にしみて感じているのではないでしょうか。

一所懸命勉強して、大学に入って、良い仕事に就いてそれでそのあとどうなるの、と、我々が若い頃には思いもしなかった閉塞感や不安感が若者全体(主に高校生)に蔓延しているようです。
甘えている、と結論づけるのは簡単ですが、では、なぜ彼らは退屈なのか、なぜ甘えているのか。

この、最も大切な部分を何とかしなければ若者のけだるさも甘えも、そしてたぶん少子化も、何も良くならないと私は思います。

オリンピックやサッカーワールドカップで一時的熱狂は起こるものの、終わってしまえばもとの退屈な生活に戻るしかありません。

退屈だから、刺激を求めて悪いことをするのだろうと思います。昔の少年非行とは動機が違い、豊かさゆえの非行のほうが明らかにやっかいです。「戦争中は母殺しなど起きなかった」と塩野七生さんも言います。

平和とか豊かさとは、目標がなくなるということ、つまり、希望がなくなるということであるならば、平和で豊かな状態のまま、刺激や希望を持てる方法を考えるしかないではないですか。

その健全なかたちというのは、やはり国を挙げて教育に真剣に取り組むことでしか得られないと私は思うんですけどね。

子どもたちに「貧しさ」「飢餓」を味あわせることが必要だとわかっていても、今の日本で自分の家族だけで子どもに貧しさを経験させることはできません。豊かな社会で家庭のポリシーを貫くことの難しさは、ほとんどの親が痛感していることと思います。

教育は未来への投資で、国家がもっとも力を入れなければいけないことであるにもかかわらず、目前の急務でないため、熱心にこれを語る政治家は見当たりません。しかたがないこととあきらめるしかないのでしょうか。
憲法9条を死守せよ!と、熱心に運動するより、子どもをたくましく育てる教育をせよ!という運動に力を入れるほうがよほど現実的だと私は思うのですがどうでしょうか。

それにしても、「平和」とは、「老成」のことなんでしょうかねえ。
人間の歴史の中で、平和で豊かで、しかも若々しい活力に満ち溢れた時代というものはあったんでしょうか。

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コメント

>>一所懸命勉強して、大学に入って、良い仕事に就いてそれでそのあとどうなるの、<<

まさにこれですね。「三丁目の夕日」の昭和33年と比べると、今の日本人は生活に心から幸福を感じることが少なくなっているのではないでしょうか。自己責任とか、「社会は甘くない」とかの言葉で今の状態を正当化し、競争原理だけがすべての価値観であるかのような世の中で、若者は自閉し、中高年は疲れ果てています。特に50代の中高年の自殺者が増えています。希望がないと感じているのは若者だけではなく、50年以上生きてきた人たちもまたそう感じています。

「国を挙げて教育に真剣に取り組む」ということですが、国が教育に今以上に関与すると、ますます自体は悪くなると思います。公教育については、現状を見ると未来はないです。公教育での管理化がかなり進んでいます。そもそも教師自身が管理され、自発性も個性も不要なものとされています。

投稿: 真魚 | 2005年11月21日 (月) 23時29分

(続き)

子供や若者の教育を考えるのならば、まず文部科学省なるものを廃止することが必要でしょうね。民間にできることは国がやる必要はないのならば、文部科学省とか都道府県の教育委員会もなくすべきです。

投稿: 真魚 | 2005年11月22日 (火) 01時06分

>真魚さん、
国が教育を管理するとロクなことにならない、という言い分はわかります。

私の言いたいのは、「困難」を子どもに経験させることこそ重要であるのに、各家庭でそれをするのはほとんど不可能な状況だ、ということです。

これは実は「教育」の分野で考えることではないのかもしれません。

>民間にできることは国がやる必要はないのならば、文部科学省とか都道府県の教育委員会もなくすべきです。<

教育を国がこれ以上管理してはいけないのであれば、民営化とか地方に任せるということになりますね。

すると、「国家」としての強靭さはどうなるのかな、と、ちょっと考えます。つまり日本国民としての統一性ですね。
強くなくてもいい、とか、民営化や地方委譲にしても国体が揺らぐことはない、というのなら問題ないと思いますが。

投稿: robita | 2005年11月22日 (火) 12時30分

やってみる価値はあるでしょう、たぶん。

真魚さんの今日のエントリー「なぜ、このようなことになったのか」を読み、考えたこと、それと、こちらにくださったご意見への返事をあわせて文章にしてみます、というか、もうずいぶん前に書いておいたものなんですが、手直しして近々載せます。

投稿: robita | 2005年11月22日 (火) 12時31分

robitaさん、

「国家」としての強靭さや日本国民としての統一性というのは、結果として現れるものであって、それを目的とするものではないと思います。社会を構成している大多数の人々が希望と幸福を感じることがまず根底にあって、その希望と幸福感の中に「安心できる国家であって欲しい」や「ある程度の統一のある国であって欲しい」ということが含まれるのだと思います。それらはあくまでも「含まれる」ものであって、それだけがあればいいというわけではありません。

必要なことは「全体」が「個」を管理するのではなく、ひとりひとりの「個」が、「個」なりに、「公」や「全体」を考えることができる、イメージすることができる、想像することができるということだと思います。しかし、初めに国家ありきの教育では、いつまでたっても「全体」が「個」を管理しているだけです。

投稿: 真魚 | 2005年11月23日 (水) 02時43分

>真魚さん、

>初めに国家ありきの教育では、いつまでたっても「全体」が「個」を管理しているだけです<

私はどこの国にも「国家目標」みたいなのがあって、「こういう国にしよう」という希望を持っているのだと思っていました。

自分たちの外の世界がどうなっているのかわからなかった時代は、たしかに仰るように、「社会を構成している大多数の人々が希望と幸福を感じることがまず根底にあって、・・・・」と、国家というのはそんな風に成り立っていったのかもしれませんが、地球の事情があからさまな今の時代には、自分たちの国をどういう風にするのか、国際社会でどういう位置づけにするのかを考えるのが自然なんじゃないでしょうか。

だからこそ、50年も前に自主憲法を作ろうと張り切って保守合同ということをやって、国のかたち、方向をはっきりさせようとしたんじゃないんですか。

(続く)

投稿: robita | 2005年11月24日 (木) 10時26分

自主独立しようと希望に燃えて立ち上がったは良いけれど、その後50年も惰眠をむさぼり、というか、国内を豊かにすることのみに一所懸命であったために、本当の独立国家となることができなかったんじゃないんですか。

国民がただ幸せに仲良く暮らすのが一番だからとりあえずそうするのだ、というなら、いつまでも、こうやってアメリカ追従を続け、日本型社会主義を維持していけばいいだけのことではありませんか?

「自国のことのみに専念するのでなく」と憲法で謳うなら、そして国際社会での発言力を増して世界に物申して行く、と決意するならば、自分たちの国の形をきちんと決めることは必然だと思うのですが。

(でもね、真魚さんの仰ることと私の言ってることは「鶏と卵どっちが先」論かも。)

投稿: robita | 2005年11月24日 (木) 10時28分

robitaさん、

>>「こういう国にしよう」という希望を持っている

のは人々であって、国家ではありません。戦後の日本はそうではありません(というタテマエになっています)。戦後の日本は、国家が「こういう国にしよう」「こういう国にすべきである」と考え、国家がそれを人々に教え、国家がそれに反対するものを罰するという国でありません。問題なのは、実際の戦後日本もそうはならなかった、お上主導だったということです。

しかしながら、国のまとまり、国の気風、国の態度などといったものは、その国に住む人々が自発的に表すものであって、国家が強制的に作り出すものではありません。そんなものはまだらっこしいとは思いますが、こればっかりは、国家が上から押さえつけてできるものではありません。

投稿: 真魚 | 2005年11月28日 (月) 00時53分

(続き)

今の日本がそうしたものが欠けているように見えるのは、まさに国家が上からの押さえつけで人々に「「こういう国にしよう」という希望を持ちなさい」と強制しているからです。

太平洋戦争中、アメリカは民主主義で個人主義で愛国心もなくて、みんなだらけているから弱いと言っていました。しかし、事実はご承知の通りです。アメリカは決して弱い国でありませんでした。

投稿: 真魚 | 2005年11月28日 (月) 00時54分

>真魚さん、

「国家は教育なり」なんていうと、いつの時代じゃ、なんて言われるかな。
真魚さんの仰ることもわかるんですけど、自発的な動きが起こらないのであれば、「我ら国民」が選出した「国家運営スタッフ」が牽引するのはすなわち「我らの意思」でもある、という前提のもと、国家を信用するしかないわけですよね。

国家は人で成り立っており、その「人」がどうにかならなければ、どうにもならないわけで、その「人」をどのように作っていくかが、国家がどうなるのかということにつながっているわけで・・・、はァ〜、疲れる。

投稿: robita | 2005年11月28日 (月) 10時52分

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» 妄想の果て(*'-'*) [あ・・・(///ω///)]
いつものように学校帰り、 >真魚さん、 「国家は教育なり」なんていうと、いつの時代じゃ、なんて言われるかな。 真魚さんの仰ることもわかるんですけど、自発的な動きが起こらないのであれば、「我ら国民」が選出した「国家運営スタッフ」が牽引するのはすなわち「我らの意思」でもある、という前提のもと、国家を信用するしかないわけですよね。 国家は人で成り立っており、その「人」がどうにかならなければ、どうにもならないわけで、その「人」をどのように作っていくかが、国家がどうなるのかということにつながっているわけで・・・、はァ〜、疲れる。 [続きを読む]

受信: 2005年11月21日 (月) 10時21分

» 生きた“教育”の追求・・ [徒然日記]
こんにちは??! 今の日本21世紀に突入し、少子化に入り、今の若い方がお年よりを支えていかなくてはならない時代。物質の豊かさとは裏腹に心の病に、意識するとしないとにかかわらず苦しんでいる、そんな風に若者を大人は見ているかも知れない。 一般的には、今の子... >真魚さん、 「国家は教育なり」なんていうと、いつの時代じゃ、なんて言われるかな。 真魚さんの仰ることもわかるんですけど、自発的な動きが起こらないのであれば、「我ら国民」が選出した「国家運営スタッフ」が牽引するのはすなわち「我らの意思」でもある、という前提のもと、国家を信用するしかないわけですよね。 国家は人で成り立っており、その「人」がどうにかならなければ、どうにもならないわけで、その「人」をどのように作っていくかが、国家がどうなるのかということにつながっているわけで・・・、はァ〜、疲れる。 [続きを読む]

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