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2005年12月31日 (土)

ちょっと暇な大晦日

晩御飯は終わったし、年越しそばまでには時間あるし、亭主は紅白歌合戦にくぎづけだし。
PCでも覗くか・・・、と来てみたらコメントがあるじゃありませんか。嬉しいな。

紅白は、さっき見たコブクロの歌が良かったな。楽しみにしてるゴリエの"Pekori Night"まではまだ間があるから、しばらくブログ散歩しよっと。

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2005年12月30日 (金)

幸せなあたたかさ

寒い台所で夕飯の後片付けをした後、居間のこたつにもぐり込む・・・、ああ、あたたかい。冷たかった手足がぬくぬくと温まって行き心までじわじわと幸福感に包まれる。ありがたい。温かいってなんて幸せなことなんだ。マッチ売りの少女だな。

水仕事を終えたあと、あたたまる場所がなかったらどんなに不幸なことだろう。貧乏はいやだ。貧乏な時代を知っているから貧乏は我慢できる、なんて大見得きってみたところで、所詮言葉だけのこと。こごえるのはいやだ。その中で労働するのもいやだ。温かいこたつの中で温かいお茶が飲みたい。いつも温水の出る蛇口がほしい。

この電力エネルギーを生み出す資源確保のために、私たちの知らないところで誰かが他国と交渉し、奮闘努力してくれているのだろう。きれいごとでない外交の手練手管のかぎりを尽くし、国民が生き延びるために、豊かになるために、時に汚い仕事、危険な仕事を必死にこなしてくれている誰かがいるのだろう。

エネルギー慢性欠乏j状態の貧しい国では、人民はさぞ寒かろう、辛かろう。

国際競争で生き延びるとは、かくも熾烈な戦いだ。

何も知らない私たちは、国をあたかも敵対する相手であるかの如く、横暴だとか陰謀だとか馬鹿だとか意気地がないとかの言葉で文句の言い放題だ。

私たちはこの国によって守られている。私はこの国に生まれてきて本当に良かったと思っている。 国に文句を言うのは、この温かみの幸福感をじっくり味わってからにしよう。

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2005年12月24日 (土)

怖い人

年末になると、休みの日に主人は家の外回りをきれいにしてくれる。
午前中いっぱい使って、網戸をはずしてごしごし水洗い、ガラス窓はホースで水をかけて洗い流し、玄関の靴箱の下までデッキブラシで掃除する。

私は家のなかで通常の家事やその他もろもろの年末仕事などやっているのだが、主人がガラス窓の内側やサッシの隅のほうまで雑巾でキュッキュッと拭き始めるとにわかに胃のあたりが痛み始める。

なんだか「汚いなあ。普段掃除してんのかよ」なんて言われてるような気がして。

してません。そこまで手がまわらないの、・・・なーんて言うのは勝手な言い訳。

専業主婦なんだから、もっと家事に命をかけて普段から隅々まで磨き上げなきゃだめなのよね。

いつも思うのだ。年末が近づくと、「彼が掃除始める前に普段やってないところを済ませとかなきゃ」って。

でも、あれよあれよという間に年末は押し迫る。まったく学習しない私だ。

主人はきれい好きだけれど、私に「汚いぞ」と怒ったりすることはない。でも無言の圧力はある、ような気がする。

私の父も几帳面な人で、それを家族にも強要した。私たちはしょっちゅう叱られた。「だらしのないヤツは人間のクズだ」と。

厳しい父に叱られ続ける母はさぞかし苦しかっただろうと思う。

でも父の言うことはまことにもって正しく、私たちは怖い父のおかげでなんとか自分を律する心を作り上げてきたのではないかと思う。

「怖い人」がいなければ人間のたがははずれてしまう、と思う。→「哲学の時間

私たちは怖い人がいなくたって長い人生経験が自分を作り上げていくのだと思いがちだが、子ども時代に「有無を言わせぬ強制」を受けることは必要なことなのかもしれないし、ありがたいことだったのかもしれない。
昔は怖い人がまわりに沢山いた。怖い親、怖い先生、怖い警官、怖い近所のおじさん。子どもたちは叱られることを恐れていた。

私は主人の無言の圧力が怖い。でも、だからこそ、しっかりしなきゃ、と自分を鼓舞できる。(その時だけかもしれないが)

すみません。こんなところで国家なんか論じてる場合じゃないのよね。
専業主婦は家を快適空間にするという大切な仕事があるんだから。

主人、今日ゴルフ。だから書いてます。

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2005年12月20日 (火)

「国家の品格」

藤原正彦著「国家の品格」(新潮新書)を読みました。
遅読の私でも、三日で読めました。早い人なら一日で読めるでしょう。

読んでいた本が他にあったのですが、この「国家の品格」が本屋さんに積んであるのを、なにげなく手に取り買ってしまい読み始めてしまいました。

書いてあることはいちいちうなずけ、爽快そのものです。

でも、私としては、「でもねえ、そういう精神を取り戻すために具体的にどうするの」という突っ込みが浮かんできて、最後まで読んでも、「だからこうするしかないのだ」という提案がなかったので、「やっぱりね」というのが、感想と言えば感想です。

だって、これは民主主義否定の本だからです。

私はよく「国家の統制」「国家の強制」ということを書きますが、それは人々には絶対に拒否されます。
でも、効率よく国家を運営するには民主主義はやっかいなものです。
賢い王様が統治してくれればそれが一番良いのでしょう。

もちろん、「民主主義の否定」も「国家の統制」も、「ある種の」「ある程度の」という但し書きは当然つきますが。

しかし、考えてみれば、「そういう精神を取り戻すために国家が強制力を持つ」なんてことはできないのが当たり前のことであって、そもそも、国民が国家をつくるわけだから、自らを律するために国民自身がそのことに気づくことがなければ、品格ある国家を作ることなんて始めから無理なのです。

つまり、結論を言えば、国民全員がこの本を読めばいいのです。そして世論形成すればいいのです。国家の品格を取り戻したければ。

でも、もう世界を見てしまった、世界経済にどっぷり浸かってしまった私たちには、「過去の美しさ」は到達できない「憧れ」でしかないだろうなあ、とは思います。でも憧れを持つことは良いことですから。

この本に関して書きたいことは山ほどありますが、読んだ人がいたら、感想を聞きたいです。

先月出版で、もう6刷になってるので多くの人に読まれていることでしょう。

どなたか読んだかたはいらっしゃいませんか?
____

因みに、中断した本は、「二人で紡いだ物語」。「サロンのススメ」でちょっと触れた物理学者米沢富美子さんの自伝です。

さ、続きを読もう。たぶん今年中には終わらないと思うけど。

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2005年12月15日 (木)

おっさん

オヤジ臭いのは女性に嫌われますよ、お父さんたちもお洒落しましょう!とかなんとか、ファッション界も煽るし、男性誌も「ちょいワルオヤジのススメ」だなんて書き立てて、おじさんたちも、そうか、もっと着るものや会話や仕草を洗練させないとこれからは生きていけないのか、とそわそわし始める。

消費の拡大は景気浮揚につながるし、オヤジがお洒落に関心を持って新しい洋服を買い、お洒落な場で遊んでお金を使うのは結構なことだと思う。

しかし、景気の問題はさておいて、「好み」で言えば、私はいわゆる「ダンディな男」とか「年取っても色気のある男」などが苦手だ。

前髪が技巧的なロマンスグレイにシャツの第二ボタンまで開けて色気を演出する某ジャーナリストや、「マサにガスだね」の万年青年。「俺たちの旅」からもう30年もたつのに、公けの場でもまだ自分のこと「オレ」と呼んで青春真っ只中の某俳優・・・・等々。

なんかダメだ、ああいうの。

大地康夫、小倉寛久、村田雄浩、斉藤暁、ちょっと若いけど、岸谷五朗、徳井優、みたいないわゆる「おっさん」が好ましい。他にもいろいろいそうだな、おっさん俳優。

泉谷しげるや志村けんはアクが強いのであまり好みではないが、それでも汗や埃をきれいに洗い落としたのっぺりした男より味がある。

男の哀愁は、そういうむさくるしさの中に漂うものではないか。

50になっても60になっても若作りしたり色気を発散している男を見ると「早く枯れてくれないか」と思ってしまう。
ああでもないこうでもないと鏡の前で身づくろいする男の姿を想像すると、ちょっとげんなり。そういう姿も「男の哀愁」なのかもしれないが。

そりゃあ、私生活では泉谷しげるだって志村けんだってイタリアンブランドで決めてるのかどうかそれはわからないが、あくまでもイメージだ。

「中年のおっさん」、おおいに結構じゃないの。 

消費拡大の分野は他にもいろいろあるし。

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2005年12月14日 (水)

脳を操作

ととさんの記事へのコメント、長くなったのでこちらに書きます。

ととさんも、私のところにTBくださったBigBanさんと同じ誤解をなさってたんですね。
私はBigBanさんのブログで説明させていただいたのですが、ご理解いただけたかどうか。そんなに難しいことかなあ、私の書き方が悪いのかなあ、と思って「愛は力__絶望から這い上がる」の記事の最初の方に少し書き加えたりしました。

もちろん「愛」は一番大切なもので、人間は、愛を成就するためにこの世に出現させられたと私は思っています。
でも、健全な社会を形成する時に、それを手段にするな、と私は思います。

万人に愛は期待できません。

家族の愛さえあれば幸せになれるというならば、それを受けられなかった子どもはどうなるでしょう。

愛のない親に対して「愛せよ」なんて命令できないし、命令したってかなうものでもありません。

「愛は力」で言ったことは、むしろ、悲しさ辛さを引き受けなければならなかった被害者の側、また、戦争で愛する家族を失った人たちに適用される言葉だと考えてください、と言えばおわかりいただけるでしょうか。

どんなに辛い目にあっても、涙を拭いてもう一度立ち上がろう、と奮い立つ強靭な心は愛によって育まれるのではないか、と私は言っています。
だって私、世の中に悪い人がいるかぎり、悲しいこと辛いことは起きるもの、と思っていますから。

つまり、悲しみを「乗り越える力」は、愛が育ててくれるんじゃないか、と思うわけです。

別に、「だから愛にあふれた家族を作るべきなんだ」と力説しているわけでもなんでもなく、単に「愛は人の心を救う」という素朴な事実を淡々と述べただけのつもりなんですけどね。

この世には、殺人も起きるし、戦争も起きます。人間ですから。
そういうことが起きないユートピアなんてないんです。
そういう悲しいことは起きるものとして人間社会をとらえるしかないんです。

だから、人間はそれに耐え、乗り越えようとします。

また、異常行動を起こさせる脳内物質についても、
ととさんのコメント;
>こんなことは,ずいぶん前から言われていたことだと思っていたので<

もちろん、脳に何らかの原因がある、という研究はずいぶん前からされているでしょう。
しかし、そういう人たちに外科的処置をするべきだ、などということはおおっぴらには言えないのではないですか。それはロボトミー的な手術を意味すると思います。(外科的処置と刺激療法ではちょっと意味が違うかもしれませんが)

また、私の言う「国家体制の根本的建て直し」などという言葉にアレルギー反応を起こす人たちもまだまだたくさんいます。
「人権」だの「自由」だの「平等」だのを盾に変貌してしまった子どもたちを、国家体制の根本的立て直しなくして育て直すことはできるのでしょうか。
愛や思いやりや人間の自主性でそんなものをどうにかできるんでしょうか。もちろんみんながみんな愛や思いやりを持っていれば可能でしょうが、所詮人間ですから。

「諸刃の剣」と、私は書きましたが、人間はわがままなものです。国家が管理しようとすれば「権力の横暴」だと言うし、人権や自由が若者のたるみを招いていると思えば、もっと管理や監視が必要だ、と言う。
個人情報を保護しろとも言うし、保護するから犯罪者が野放しなんだと言う。
管理社会はだめだ、いや管理しなければ不安だ・・・。

もうすべてこんな具合で、あれもいやだこれもいやだ、と人間は言うんです。

やはり、信じられるのは身近の愛する人々でしょうか。

それにしてもASIMOは可愛い。

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2005年12月12日 (月)

軍事力の使い方

護憲改憲の論議でいつも気になるのは、護憲派の「戦争のできる国にしていいのか」という言い方です。

戦争は誰だっていやなのです。人を殺したくないし、殺されたくもありません。

護憲派はあたかも改憲論者が「戦争をやりたがっている」かのごとくの論調で、「平和でなくっちゃ」と言い続けます。

「平和でなくっちゃ」は当たり前のことなのだけれど、護憲派の思い込みは堅固で、どうしても「戦争のできる国」「戦争をしたがる人々」という言い方を改めようとはしません。

私は、「一国が武装し、必要とあらば出兵も辞さない、という体制を整える」、というのは、次のようなことだと考えます。

尖閣諸島での中国の振る舞いはもう誰もが知っていると思いますが、日本がいくら話し合って解決しようと持ちかけてもあちらは聞く耳持たず、日本の資源までもどんどん吸い上げる勢いです。 周辺海域では中国軍艦が数隻うろうろして日本の行動を監視し、海自のp3c哨戒機に、威嚇のつもりなのでしょうが、砲身を向けたこともあったそうです。

こういう場合、日本はどうしたらいいのでしょうか。 何も手を出せずおとなしく中国のやるがままに任せるしかないのでしょうか。

海上自衛隊を出動させたらどうでしょう。

中国軍と一触即発の危機に直面するかもしれません。

こわいですか?

日中がそんな状況になった時、世界はどうするでしょうか。 しろうと考えですが、おそらく、第三国が、まあまあ、と間に入ってくるんじゃないでしょうか。東アジアで戦争が勃発したら世界経済にも大きな影響を与えるでしょうから。

または、水面下で、日本がアメリカのような大国に仲介を打診するかもしれません。 そして、第三国立会いのもと、日本と中国の本格的な話し合いが行われ、双方が少しずつ譲り合い妥協し合って何らかの着地点を見ることになるのではないでしょうか。

軍事力というものは、そういう風に利用されるものではないかと思います。 なぜなら、お互いに、こぶしを突き出すほどに怒りを表さなければ、真剣な話し合いなど行われないからです。 本気だぞ、という態度を見せなければ、向こうも真剣になってはくれないのではないでしょうか。

それに、第三者が入ることや、紛争が国際的に注目されることは、公平性を増すことにもつながると思います。

やられっぱなし、取られっぱなしというのでは、あまりにも日本が可哀想です。

二国間の争いで、一方があまりにも理不尽であれば、国際世論は理のあるほうに味方してくれるのではないでしょうか。

こういうのを、「外交の手練手管」というのではないんですか。

また、例えば、マラッカ海峡なんですが; 国内で消費する石油の75%を中東に依存している日本。その石油を運ぶタンカーが必ず通るマラッカ海峡には海賊が頻繁に出没するそうですね。これに対応すべくアジア地域の警察機構としての集団的自衛体制を確立する必要にも迫られているといいます。

集団的自衛権というとアメリカとの関係だけで論じられることが多いですが、私たち自身のまわりにも協力して防御しなければならない相手はたくさんいます。

日本が一番よく利用しているこのマラッカ海峡の安全保障を「怖いから」とか「戦いたくないから」とか「集団的自衛権が行使できないから」とか言って知らん顔してていいのでしょうか。

どうしても危険なことはしたくない、戦うのはいやだ、キツイ仕事危険な仕事は他の国にやってほしい、というなら、もう勝手になさいませ。 人気blogランキングへ

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2005年12月 7日 (水)

「脳と犯罪」

小さな女の子を狙った残酷な犯罪について、誰もが「何故こんな酷いことができるのか」「理解できない」「悪魔の仕業」と口々に言い、憎しみをあらわにする。

なぜ、彼らはこんなにひどいことを平気でするのか。 残虐な人間だから。 ではなぜ、彼らは残虐性を持っているのか。

かくして我々は、彼らの脳のどこかしらが壊れているのではないか、と推測する。異常な脳を持っているのではないか、と思う。 となれば、そういう脳を生まれつき持たされてしまった、あるいは生育環境によってそうなってしまった人はとても不幸で気の毒というより他はない。 私だってあなただって、脳がそんなふうになっていたら猟奇殺人を犯していたかもしれないのだ。 しかし、このように考えることには問題もある。精神障害を持つ人は「脳のどこか」が異常なので犯罪を犯すかもしれない、という偏見を導きかねないからだ。

そんなことを思っていたら、何と、きのう発売の週刊誌「AERA」に「脳と犯罪」と題する記事があった。

「脳」で有名な養老孟司氏、生物学者の池田清彦氏、作家の吉岡忍氏による鼎談である。

印象的なところを書き出してみると:

【一般的傾向として、「犯罪者の脳は皮質が萎縮し、脳室が大きくなる」とか「扁桃体に異常が見られる」ということがあるらしいが、全部にあてはまるわけではない。】(池田氏)

【衝動的殺人者の前頭葉には機能低下が見られるが、連続殺人者の場合は、その機能低下が見られない」ことから、脳が犯罪に何らかの関与をしていることは間違いない。】(養老氏) 【宮崎勤は医学的には、脳に障害があった可能性が高いと思う。】(養老氏)

【当たり前だが、脳がない人間は行動しない。逆に言えば、行動とは脳そのもののこと。だから、行動異常があるというのは、脳が普通じゃないってことになる。だけど、やっかいなのは、そこに意識とか理性とか意思とかが絡んできて、脳と行動との関係が見えなくなっている。】(養老氏)

【意識も理性も文化や時代に左右されるから。何が普通で、何が異常かの指標自体が一定じゃない。ますますやっかいだ。】(吉岡氏)

【脳の仕組みについての解明はまだまだで、どういう環境とどんな遺伝子が組み合わされば脳の基本的構造はこうなる、と言えるほどわかってはいない。】(池田氏)

こういう話はどこまで書いていいのかわからない。しかし、この座談で言われている程度のことなら書いてもいいのだろう。「これはデリケートな問題でできれば触れたくないテーマだ。」と養老氏は言い、「白か黒かと単純に理解したがる風潮が強い中で、こういう研究をクローズアップすると、精神障害者に対する差別を助長しかねない危険性もある。難しい問題だ。」と池田氏も同調する。

こういう問題を安易に議論の俎上に乗せることは避けたほうが良いとは思うが、「こんな鬼畜のようなヤツは憎んでも憎みきれない」という当たり前の感情とは別に、「脳」が犯罪にどう関わっているのかを解明していく努力も必要なことではあると思う。

いずれにしても、脳の中がどうなっているのかもわからないのに、これが正しい、あれが正しいと主張すること自体、ヘンなのかもしれない。そう、あるときさんの言われるように。また、以前私も記事に書いたように。→「正しいって何」 何が正しいかわからない。だからこそ人間は「法」というものでしばりをかけ、秩序を保とうとするのだろう。

池田氏の意見には納得する。【ぼくの考えでは、精神状態がどうであろうと、「結果責任」だけを問えばいいんだよ。人を殺したら極刑とか、やったことに対してきちんと罰すればいい。】

私も、感情論だけで言わせていただければ、偶然見つけたジャーナリスト勝谷誠彦氏の過激なコメントにちょっと引きながらも、溜飲を下げてしまうのである。

【それにしても仰天すべきは左巻きがまだここに至って「社会のせい」にしていることだ。朝日新聞は次のような落合恵子週刊金曜日編集委員様(笑)のコメントを載せていた。 <「勝ち組」「負け組」と拝金主義がはびこる荒廃した社会の息苦しさが、弱い子どもへの暴力や攻撃を誘発している。野放しの児童ポルノも犯罪の一因だろう>。 あのな。「野放し」にしてきたのはあんたら人権屋が、変態やキ**イを、だろうが。どんなに生活が苦しくても人生が困難でも幼い子供に手をかけることなど考えもしないのが良民常民である。そういう人々までもが「社会のせい」で変態になりうると言う「***的文化人」の傲慢と非礼。他ならぬあんたらがこういう日本にしたんだよ。】

こわいので、あとで削除するかもしれない。

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2005年12月 6日 (火)

楽しいクリスマス

繁華街に出かけることはあまりない。
渋谷とか新宿とか銀座など、もう何年行ってないのか思い出すこともできない。街はクリスマス気分で盛り上がっているのだろうか。

11月初めに娘と横浜そごうに行ったのが、賑やかな場所に行った最後ではなかったか。

その時すでにクリスマスの飾りつけがしてあって、なんとまあ早いことと思ったものだ。→(「日本人のクリスマス」)

子どもたちが小さい頃はクリスマスツリーの飾りつけをし、玄関にも手作りリースなど飾り、プレゼントを用意して、クリスマスミュージックなど流しながらご馳走を並べてパーティーをしたものだが、ここ2・3年はただ飲み食いだけの忘年会になってしまった。

孫の時代が来たら、また、クリスマスツリーやプレゼントは復活するだろう。
あ、その前に子供たちに適当な伴侶を、どうか神さま仏さま、よろしくお願いいたします。

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