国家の構成員としての自覚
「変わってしまった子供たち」だとか「日本人の劣化」だとかが憂慮され、「あの誇り高かった日本人はいったいどこへ行ってしまったんだ」「昔の品格を取り戻そうではないか」などと叫ばれることが多くなってきた昨今です。
私もまあ、そう思わないことはないのですが、これって先進国共通の悩みじゃないんでしょうか。
ちょっと前まで、私も「小粒でも世界から一目置かれる立派な国になんとか再生できないだろうか」なんて思って掲示板などに意見を書いてきましたけれど、人間というものは欲望があるかぎりある程度の荒廃はあって当然のことです。
また、その欲望こそが文明を発達させてきたのもまた事実です。 限りない欲望は人間を堕落させるからといって、「欲望はここまで」とストップをかけることはできません。できたとしてもそれは既に人間とは言えず、ある程度のところで欲望がストップするようにセットされたロボットのようなものでしかないでしょう。
だから人間は法律や宗教で自制しようとします。偉いですね。
いのっぴさんにコメントを戴いたのを受けて、返信を書き連ねていくと、やはり、私が今までこのブログで書いてきたことの繰り返しになってしまうことに気づきます。 いのっぴさんの仰ることは非常によくわかります。
>彼らの幼児期になまはげはいなかったのか?オバケはいなかったのか?と思うと、いやいや、いたはずでしょうと思うんです。そしてそんな若者の家にはすごく怖いお父さんやお母さんがいる可能性だって、あながち低くないと思うんです。<
これなんですが、やはり、「きちんと育てられていない」若者たちであることには誰しも異存はないと思います。
でも、仰るように昔とは明らかに違う社会生活を営むようになった現代では、単純に「怖い人」が昔みたいに増えればそれで子どもたちは健全に育つというわけではありませんね。
つまり、今の時代に合わせた規律が必要となってきます。
しかし、問題視しなければならないのは、実は「非行少年」より、ニート現象に見られるような「無気力な若者たち」です。 少年非行なんか昔から珍しくなかったし、むしろ、少年による凶悪犯罪は昔のほうが多発していたそうです。→「間違った思い込み」
「子どもをどうしたらいいか」なんて悩みは、振り返ってみても、どの時代だってありました。おとなはいつだって子どものことで悩むものです。でも、ニートのような現象はおそらく初めてではないのでしょうか。
こういう現象が日本だけのことなのか、それとも先進国では同様に起こっていることなのか、私は知りませんが、日本のこととして考えるに、昔と明らかに違うのは、昔は「社会の決まり」というものがもっと明確で、大人も子どももその決まりの範囲内で自分の行動を決めていた、ということがあると思います。
あまりにも個人主義が進み「自由」を追い求めるようになった結果、たががはずれてきたんですね。 昔は、理屈によらない社会の空気の範囲内でできることをやっていたけれど、いま、自由は歯止めがきかなくなっているような気がします。
しかし、「国家の品格」でも書いたように、世界中で価値観が変わってきているのに、日本だけ「武士道で行こう!」なんて張り切ったところで空回りするだけです。 昔のような社会規範を取り戻すなんてことがいったいできるものか。 子供も大人も、楽しく、ラクなことにどっぷり浸かりすぎてしまったのに、今さらそれらをやめることなんてできるはずがないのです。
革命的なことをやらない限り、いくら「国家の品格を取り戻そう!」と一部の人々が大声で叫んだところで、大人たちは株に狂奔することをやめないだろうし、小学生は化粧して渋谷をうろつくことをやめるわけがないのです。
教育を根本からくつがえすくらいの覚悟がなければそんなことは無理無理。小泉さんほどの独裁者が出現して、有無を言わせず教育の建て直しを実行に移せなければ無理無理。
誘拐され殺される子どもは本当に可哀想だけれど、こういう事件は昔からあったのです。少年非行も猟奇殺人も昔からあったのです。 むしろ今の時代に起こっている憂慮すべき問題は、刹那的で享楽的で怠惰な若者の増加、ということではないのか、と私は思います。
しかし、もし、ほんとに、日本人が、昔のような子育てをしたいなら(昔に戻りたいなら)、色々な面で「覚悟」しなきゃいけないことがたくさんあります。 子どもに「大人の言うことを聞きなさい」という子育てをしたいなら、おとなの側だってぐうたらじゃいけないし、昔の人が我慢したようなことを、同じように我慢しなきゃいけなくもなります。→「ヨイトマケの唄」
そんな覚悟が今の日本人にあるんですか、ということですね。 だから、人間が時代によって変わるのは仕方がないことなんだと私は思います。今の状態は、仕方がない、とも言えます。 それでも、少数の人は、「色々なこと我慢するから、素朴な時代に戻りたい」とか、「このままじゃ子どもはだめになる。国がだめになる」とか危機感を募らせ、世間にむかって警鐘を鳴らします。 それは非常に大事なことで誰かが言わなければいけないことだと思います。
子供たちを立派な働き手に育て上げるということは国が豊かになるということですから。 子どもを教育するということは、豊かな国家を維持発展させる、という意味があります。 国が豊かになるということは国民の幸せにつながります。つまり、自分の子や孫の幸せのためであります。
で、何を言いたかったかというと、「せめて学校の先生はもっと怖くていいんじゃないか」ということです。親の育て方が悪いからといって、いまさら親を教育し直すなんてことはできないのです。将来、親になる人間を今から育てることを考えなきゃいけないんじゃないんですか。
そして、いきなり先生たちが怖くなっても反発を買うだけですから、公教育を国がきちんと責任をもって立て直すということが必要だと思います。 つまり、「お前たちが国を作るんだぞ。そのために先生やお父さんお母さんの言うことをよく聞いて一生懸命勉強するんだぞ」という明確なメッセージを子供たちに対して発することが必要なんじゃないか、ということです。国をそういう体制にしなくていいんですか、ということです。
今、教育基本法に「愛国心」を盛り込むべきだ、という意見が強く叫ばれますが、それはそういうことです。
しかし、こういうことを言うと、「子どもの人権」だの「子どもの個性」だの「国のためより自己実現」だの、まあ、そういう言わずもがなのことを言って反発する頑迷な大人たちもまた多いので、やっぱり、無理ですなあ。 もうなるようにしかならないでしょう。本気にならないんだったら。
私は別にいいんですけど。あと2.30年でこの世からいなくなるでしょうから。それにもう、子育て終わってるし。 そうです。子育て終わった人は自分には関係ないから、そういうことに関心を持たないんです。
・喜入克「高校が崩壊する」
・佐藤貴彦「大人の言うことをききなさい」
・藤原正彦「国家の品格」
この三冊を読めば、子供たちの現状はどうなのか、荒廃の元凶は何なのか、そしてたぶん、我々は何をすべきなのかがわかると思います。これを国家再生の三部作、と私は勝手に名づけておるのです。
朝日新聞の年頭の社説に「国家の品格」が取り上げられて、「弱者を思いやる武士道精神の復活」に賛意を示しています。 まあ、別にそれはいいんですけど、教育から国家の視点を失わせた思想を先導した責任を少しは感じてほしいものです。時代の流れというものがありますから、私は特に厳しく糾弾はいたしませんが、いつまでたっても目覚めないのはよろしくない。
さて、ここまで、一応「理想」を書いてはきましたが、ほんとうのところ、日本人が「品格ある国家」を作るために動き出す、なーんてことはまずないだろう、と私は思います。
「昔は良かった」なんて昭和30年代を懐かしむ団塊世代もいれば、戦前戦中の日本人の凛々しさを称えるご老人もおられることでしょう。 でもね、どう考えたって、今のほうが良いに決まってるのです。今の豊かさ便利さを手ばなすことなんかできっこない。 豊かで楽しいまま、「毅然として」「凛々しく」なんてできますか、あなた。
豊かさイコール享楽ですよ。言い換えれば、「枠」とか「歯止め」を用意しなければ、限りなく「享楽」に突っ走る、ということです。
闘うコラムニスト勝谷誠彦氏の面白い日記を紹介します。
【 2005/12/25 (日) 例の四文字熟語に「少子千万」応募すりゃよかった。
6時起床。あのそれぞれの部屋でどれほどの交尾が行われているのだろう。耶蘇祭前夜祭の夜に何かに憑かれたように交尾の儀式にいそしむ人々で満室の巨大なホテルを見上げて昨夜の私は考えた。
家も倫理も何の束縛もなくかくもすべての階層の日本人が自由に日々交わっている時代は原始をおいてはなかったであろう。しかも妊娠が結婚に先行する例が過半を越えようとするのでわかるように欲望の前では子供を作るというハードルは低くなっているものと見える。それなのに少子化は深刻らしい。http://www.sankei.co.jp/news/051222/sha063.htm。
フェミニストや権利に敏感な人々は餓鬼の殺人鬼が増えたのと同様に少子化もまた社会のせいにしたがる。 一方で小泉さんはこう言った。<少子化「所得格差が原因ではない」/小泉首相が強調>。http://www.asahi.com/politics/update/1224/006.html。
この見出しは不完全で小泉さんの発言はよく読むと「必ずしも」という前提が入っている。確かにそういう一面もあるだろうがそれだけではないとは私も考える。試しに保育所やなんぞをもっと充実させてみるがいい。誓って言うが人口は決して増えない。それによって手にした自由を今の日本人は必ず日々狂っているような人生の無駄な消費へと振り向けるだろう。
小泉さんは言う。<「日本は明治時代からもともと子どもをたくさん産む社会で、ずっと生活水準が満たされていない段階でもたくさん育てていた」>。こう書くと左巻きがそれは富国強兵のための産めよ増やせよと奨励されたからだと言うだろうがそれだけではあるまい。「家が栄える」ということへの誇りが日本人のひとりひとりの心の中にあったからに相違ない。そしてその根底には「ちゃんとした家」が尊敬される世の中があったのだ。今「ちゃんとした家」はむしろ嫉妬を浴びぬように頭を低くし顔を伏せる。___中略___
もし金まわりがよくて人口が増えるのならあの狂乱のバブルの時に人口の曲線はわずかなりとも下降から転じたはずだ。しかしそういうことはなかったではないか。少子化を止めたければ小学校での道徳の時間を充実させ偉人の話をもっとちゃんと教えることだ。「家門の栄え」とは何かを知らしめることだ。もっとも私は皇統すらきちんと守れぬ日本国が静かに消えていくことに何の痛痒も感じない。】
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>「脳を操作」でコメントくださったharuさん、
自分が子どもに愛を与えているかどうか自信がない、という感覚はわかるようなわからないような・・・。私はとても単純に「この子たちが大事。この子たちに幸せになってほしい」、そんなのが愛かなと思っているのですが。 実はこれまで書いてきたような、「国家を豊かにするためにお国のために働く立派な人間になってほしい」などと思って子育てしてきたのではまったくありません。
でも、人に迷惑をかけないような人間、生き力のある人間にはなってほしいと願ってきました。その力がついているかどうかは全然わかりませんが、少なくとも人を困らすような人間に育っているとは思いませんので、一家庭の子育てとしては失敗の面も多くあるし、まあまあのところもある、といった程度です。
私は子供たちと格闘した経験があまりありません。争うことが嫌いな私は、いつもいつも話し合いで子供たちを納得させてきたように思います。しかし、それが良かったのかどうか今もわかりません。いや、たぶんそれは間違っていたのです。
親という強固な壁を力ずくで壊すことに成長があることを考えれば、うちの子供たちはもしかしたら闘魂に欠けるかもしれません。 でも、険悪な関係にならなかったのは、私がよく失敗して「てへへ」と頭をかいたり、お笑い番組に一緒になって爆笑する威厳のない母親だからじゃないかなあ、と思います。
haruさんのブログの「育てあう社会」を読むと、若いお母さんの苦悩がよく伝わってきます。これについても書きたいことがありますが、長くなるのでまたの機会に。
でも、結論を言うと、幼児の時期はあまりひどくないかぎり、他の人をおもんばかって子どもの行動を抑えないほうが良いと、私は思います。
他人の厳しい目は時に無視する図々しさも必要です。
>親のほうは120%愛しているように思っていても子供の自尊心を粉々にしながら育てているという事もなくはないのです。<
いろんな家族の愛の表し方があると思います。子どもを120%愛していると思うなら、それはその親の愛だと思います。「ほんとうの愛」だなんて、そんなに難しく考えることはいらないんじゃないかなあ。ほんとうの愛なんて誰にわかるんですか。
時には、母親も疲れて子どもより自分のことを優先してしまうことだってあるし、ヒステリックに叱り付けてしまうことだってあるんですよ。幼児期には無条件に可愛かったのに、大きくなればなるほど(中学生くらいまでは)憎らしい面もでてきますよね。みんなそうじゃないんですか。
そして、子どもが親の愛を感じることが、その時はできなくたって、自立してからとか、または親を失ってからたいていの人間はそれを知ることになるんだと思います。 それでいいんじゃないですか。人間はずうっとそうやって順繰りに親の愛に気づいてきたんだと思います。
その時になっても気がつかないような人間は、それこそ「豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」ぐらいの気持ちでいたらどうかなあ。
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コメント
とても密度の濃いご意見に感銘を受けております。
私が思う事は、この豊かに成長した国家に反比例してるかのように欠けているものは「想像力」だと思うんです。
親は子を幸せにしようと思い、やみくもに与え続けてしまう。
違法建築の問題だって、根っこにあるのはお金でしょ。人よりお金持ちになりたい、それは誰にでもある欲求です。だけどお金とか権力というものが人をどれだけ狂わせてしまうかなんて、マスコミでは論じられてないですもん。
幸せになろうという目的が、いつの間にかその手段に取り込まれてしまってますよね。
まぁ、頭の悪い国民の方が統制しやすいでしょうけどねぇ・・。
投稿: いのっぴ | 2006年1月 8日 (日) 01時41分
あけましておめでとうございます.今年も,よろしくお願いします.
さて,haruさんへのお返事なんですけど,ひとつだけ・・・.
>でも、結論を言うと、幼児の時期はあまりひどくないかぎり、他の人をおもんばかって子どもの行動を抑えないほうが良いと、私は思います。他人の厳しい目は時に無視する図々しさも必要です。
↑これは誠に正しい.正論だし私も同じ考えです.
haruさんやそのエントリーにコメントしていらっしゃる方々,もちろん私も,そんなことはわかっているんです.わかっているけど,瞬時に図々しくなれない自分がいるし,またそうできない空気というものを感じ取ってしまうのです.それで悩むのです.それが『育てあう社会』の心の部分だと思います.
自分のブログでも書いたのだけれど,母親には薄く覆っている世間の『空気』が負担になることがあるのです.
投稿: とと | 2006年1月 8日 (日) 10時21分
robitaさん、本年もどうぞよろしくお願いします。春の再会が楽しみ!!!
>そして、子どもが親の愛を感じることが、その時はできなくたって、自立してからとか、または親を失ってからたいていの人間はそれを知ることになるんだと思います。
私もそう思います、てか、私自身がそうだったから…愛は感じて欲しいがそれが目的では無いですね。robitaさんの子育て論、もっと聞きたい、それが今年のリクエスト!
投稿: kaku | 2006年1月 8日 (日) 14時41分
>いのっぴさん、
幸せはお金で買えるというのが一応は事実だから困るんですね。
>ととさん、
返信を記事にしました。
>kakuさん、
子育て論というか、私の失敗から気づいたことを少しずつお話できたらな、と思います。子育て終わった人はもっともっとそういうことを発信したほうがいいですね。
投稿: robita | 2006年1月 9日 (月) 11時48分
robitaさん、明けましておめでとうございます。
ちょっとバタバタしていてあまりまとめられなかったのですが、思いついたことを記事にしてみました。
書きたいことや聞きたいこともまだあるのですが、また時間ができたら落ち着いて書き直すかもしれません。
「親の愛」に関しては私自身のなかでもよく整理されていない部分です。
私の場合、これまで両親を尊敬してきたし、感謝も最大限してきたつもりです。
でも、子供を産み育てているうちに、疑問が出てきてしまった。
両親は自分達のやり方がベストだと信じて私を育ててくれていたし、私もそう思っていたけれど、今は決定的に方法を間違っている部分があったと思うのです。
愛しているからこそ、正しいと思って行う間違いほど性質の悪いものはないのではないかと思うのです。
長くなるので今日はこの辺で。
投稿: haru | 2006年1月11日 (水) 10時39分
共感いたしました。今後とも宜しくお願いいたします。
投稿: KABU | 2006年1月11日 (水) 14時24分
>haruさん、
haruさんやぐーたんさんやととさんが書いてくださったご意見に絡んだ文章を近く載せます。
投稿: robita | 2006年1月12日 (木) 12時11分
>KABUさん、はじめまして。
KABUさんのブログに行ってみました。「フライング」とありましたが、あの「ドラマ諸々」のフライングさんではないですよね?
こちらこそよろしくお願いいたします。
投稿: robita | 2006年1月12日 (木) 12時17分