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2006年2月28日 (火)

大学生になるということ 2

誰も彼もが大学に進学するようになって以来、「なぜ猫も杓子も大学に行くのか。大学で特に学問に励むわけでもないのに。高校しか出ていなくたって、頑張れば生きる道はいくらでもあるのだ。」という論が常にある。

私もそう思う。レジャーランドと化した日本の大学に一応籍を置き、「ほとんど授業に出ず、雀荘に入り浸っていたが卒業した」などという軽口が武勇伝として自慢げに語られるのもありきたりの光景である。
特に研究したいこともないのに大学に行く、この摩訶不思議な日本的現象について、我が家の息子の例を挙げて少し書いてみる。

ネット上にあまり詳しく私生活を書くのは趣味ではないし、知らないところで題材にされる本人に対しても申し訳ないことではあるが、世間の狭い主婦としては、取材活動をするわけでもないし、多種多様な文献を精査研究する学者でもないので、身近なことを例とするしか論理展開の手段がないのである。

末息子、現在高校3年生17歳は、大の勉強嫌いである。努力することも面倒くさがる。

しかし、いい子なのである。

「知ってる人に会ったらきちんと挨拶しなさい」と躾けてきたせいか、近所ではすこぶる評判が良い。
「**くんはきちんと挨拶するわねえ」と褒められることが多い。愛想が良いというのではないが無骨ながら挨拶だけはしているようだ。

友だちにも恵まれているし、家庭でも明るく優しく、母のことを「クソババア」などと罵倒したりすることはない。

もちろん、思春期の少年らしい不機嫌さというものは時として現れるが、そんなものは近頃のキレやすくわけのわからない少年に比べたらへでもない。

とにかく、これからも結構ハッピーな人生を送るだろうなあ、と予感させる「憎めないヤツ」なんである。

ただ一つ、勉強が苦手。

中学受験などは始めから考えていなかったし、高校を出たら、無理して大学など行かず、専門学校へ行くとか、何か手に職をつけるなどして生きる手立てを考えれば良いのだ、と私などは思っていた。

しかし、この日本はどうもそんな道を進むのがとてつもなく難しいしくみになっているらしい、ということに気づき始めた。

いや、たしかに、そんな道はあるし、その道を進んだって一向に構わないのだ。一生厳しいものを抱える覚悟があるなら。

私はこのことを、夫、長男、担任の先生に指摘された。

日本では、大学を出てさえいれば、そこそこの就職は期待できる。しかし、高卒の人間がどんなに苦汁を舐めているか、その世間の実情を知らないことを私は指摘された。
とにかく大学だけは出たほうがいい、と世間を知る男たちは口を揃えて言う。

しかも、近年、専門学校生などは、そんじょそこらの大学生よりよほど頑張るし、そこで何かを身につけるのは大学を卒業するよりはるかに難しくなっているとのこと。

たしかに、大学など出なくたって、何か技を磨き、誰にも負けない、と誇りを持てるものを身につけることができれば文句のつけようはないが、そのことがどれほど困難を伴うか。それほどの努力と忍耐ができる者であれば、始めから、なにをやっても成功する人なのだ、と。

「じゃあ、頑張ればいいじゃないか、死に物狂いで頑張ればきっと何かをつかむはずだ、自分が頑張るのがいやだから安易な大学でも入っておこうと言うのか」、と厳しい人々からお叱りを受けそうだが、そういうことは承知しつつも、これが、今の日本の大学入学事情というものではないだろうか。

私は、「負けん気」のある人もない人も、一生のうち何回かは、必死で頑張る時があるものだと思う。

でも、それはたぶん、人に言われてすることでなく、身のうちから自然に湧き上がるものだ。

何によって人はエンジンを始動させるのか。情熱に火がつくのか。

それは、「感動」、これに尽きると思う。

だから、私は子どもたちに本を読んでほしい。映画を見てほしい。テレビも見てほしい。いろいろな人とつき合っていろいろな経験をしてほしい、と思う。

辛いことだってあるさ。泣くことだってあるさ。

そういうたくさんの経験をして、ゆっくりでいいから大人になっておくれ。

手始めに大学とやらいうところに行ってみる、それでもいいじゃんか。 →(大学生になるということ

親は、そのために身を削って教育費を貯めてきたのだよ。

文句あっか。

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2006年2月23日 (木)

世の中は清廉潔白になるだろうに

先週の朝日新聞の「私の視点」にこんなことが書いてありました。

要約: 【最近、建築学を学んだ学生が、就職先として建設会社を選ばなくなった。彼らに人気が高いのは、設計事務所、住宅メーカー、不動産開発・企画会社などである。
理由は、①建設会社のイメージが低下している。②工事現場が「3K職場」と見られている。③建築技術者の待遇改善が進んでいない。
企業、大学、学生、それぞれの姿勢を自ら省みて改善への努力をすべきではないか。】(明治大学教授・荒川利治)

高度成長期には花形として学生の憧れの的だったあんな有名な会社こんな大きな会社が、今は敬遠されているんですね。
優秀な学生を取り込むことができなくては大企業の土木建築技術の継承はどうなってしまうのでしょう。

ゼネコン関係者によると、「日本の優れた土木建築技術を維持継承していくためには、道路だのダムだの橋だのを作り続けることが大事なんだ。作ることで技術に更に磨きがかかる。しかし、公共事業も激減している今、ゼネコンの仕事場は海外に移っている。」

ふーん、そうなんですか。

しかし、国際競争で生き抜くのも大変そうだなあ。

公共事業で、政官業の癒着が起きやすくなったりする一方で、地方の経済が活性化されたり、技術が磨かれたり、の利点もあるということですね。

世の中のしくみとは本当に理不尽なものです。

その理不尽さが生み出す平和や豊かさの上に私たちは、生き、暮らし、時に正義感に燃えて政治を批判するのです。(私もよく正義感に燃えてムラムラとなるのです)

前にも書いたと思いますが、コラムニストの故山本夏彦の言葉をよく思い浮かべます。

「世の中は清廉潔白になるだろうに、しないのは、我々が皆、グルだからだ」

去年8月の記事「人間には慈悲の心がある」で引用した「大人の言うことを聞きなさい」の一節と同じ意味ですね。

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関係ないけど、自ブログ内で上の記事を探していて、「あっこれだった」という記事を偶然みつけました。
ちょっと前、ある人に記事の内容で誤解を受けたのでそうじゃないということを説明する時、引用しようとしたけれどみつからなかったものです。

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2006年2月21日 (火)

熱くなる

末息子の受験、今のところ練習校しか受かっていない状況で、浪人が決定しそうな気配です。

私は実はこうなることは予想していました。

なぜなら、息子が受験勉強をしているのをほとんど見たことがなかったからです。たまに部屋を覗くとPCの前に座ってなにやら遊んでいた様子。ゲームをやっていたのでしょう。でも私は何も言いませんでした(ちょっとは言ったけど)。 勉強をやっているかやっていないか、そんなことは本人が一番よくわかっているはずです。

それで、ひそかに、ある本を取り寄せておきました。浪人が決まったらプレゼントしようと思って。

吉野敬介「だからおまえは落ちるんだ、やれ!」という本です。

暴走族から代々木ゼミナールの人気講師になった人で、何年も前に話題になったのでご存知の方も多いでしょう。

これには、「とにかくがむしゃらに勉強した」という自分の経験と、「合格不合格は、やるかやらないかの違いなんだ」という主張が始めから終わりまで書いてあるだけなんです。

同じ主旨の繰り返しに終始してるだけなのですが、不思議と飽きないし、いちいちそうだそうだと頷けます。読後は爽快。

それで思い当たりました。

これは、心の筋トレなんだ、と。

今、簡単計算や音読などの繰り返しトレーニングが脳の活性化に有効だと言われます。
きっとあれらと同じように、単純で同じようなことの繰り返しを吹き込まれることによって、心も鍛えられていくのかもしれない、と思いました。

この繰り返しを胸に刻むことによって、エンジンが始動し、熱くなっていく。
「熱くなる」ということが大切なんだ、と、この本は教えてくれます。

この先生は、暴走族の頃から、熱くなりやすかった。
バイクにも、喧嘩にも、掟を守らせることにも、恋愛にも、すべてに熱くなりやすかったのです。

だから、自分を振った彼女が大学生と楽しそうに付き合ってるのを見て「大学生がそんなにいいのかよ。よーし、やってやろうじゃん」と奮起したのです。

つまり「負けん気」です。

これがこの人は人一倍強かった。これが原動力です。

ところで、世の中は負けん気の強い人ばかりで成り立ってはいません。

「譲り体質」の人も「脱力系」の人もいて、そういうごちゃ混ぜで世の中は成り立っています。

しかし、それでも、生き残るためにはどんな人も一生のうち何回かは必死に頑張る時があるものです。(のほほん系の私だって二回ありました。受験じゃないですけど)

この本の中には、「頑張れない子」の例がたくさん出てきます。
そういう子たちに「熱くなること」の気持ち良さを体験させるにはどうしたらいいのか。モチベーションを上げていく、その機能を発達させるにはどうしたらいいのか。

私はやはり学校教育に期待したい。(これについては別に書くつもりです)

こういう子たちが、一生に一度だけでも死に物狂いで頑張ることができたら、それだけでも人生は意味があるよね。

   
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2006年2月19日 (日)

ちょっとあんたなにさ

あ、ん? あれー、もしかしたら・・・・、あの人誤解してるんじゃないの? 私の言ったこと正反対の意味にとってるかもしれない。あー、それで心なしか機嫌悪いような雰囲気だったのかも・・・、なんて、人の言ったこと自分の言ったことを随分たってから何げなく反芻してみて、突如として思い当たることがある。

ブログに書いた意見などについても同じことが言える。

それならそうと言ってくれりゃあいいのに・・・、と思うが、人はそう図々しくはないものだ。

でも、私は自分が何か人に失礼なことをしてしまっても気づかないことが多いので、はっきり「ちょっとあんたなにさ。どういう意味よ」と言ってくれるほうが嬉しい。

言ってくれれば、言ったことの意味も順序だててちゃんと説明できるし、傷つけてしまったのなら、きちんと謝ることもできる。

なんかイヤミな言い方でくどくど批判されても、そういう人自身を好きにはなれないけれど、指摘されたそのことに対して説明する機会が与えられることには大いに感謝する。

だから、私は遠慮なくズケズケものを言ってくれるくらいの人のほうが不思議とウマが合うのだ。普通は「はっきりモノを言う図々しい人」は敬遠されることが多いけれど。

でも、ここが難しいところで、外見上へなへなとくずおれてしまいそうな気の弱そうな私(そうらしいです)にそういうことをしてくれる人は少ない。

あたし強靭なんだけどなあ、めったなことで傷つかないんだけどなあ、なんてことは親しい人々にしか言う機会がない。

かと言って、誤解してそうな人にそんな昔のこと今さら聞いてみたって、二重に傷つけたり事態が余計に混乱したりするだけだろう。

人って、明るく強そうに見えても心はものすごく繊細で壊れやすかったり、ひ弱そうに見えてもひどく図太くて鈍感で不屈だったりするのね。

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2006年2月17日 (金)

松井秀喜の嫁

大リーグの松井秀喜選手はお年頃。
いったいどんな女性を結婚相手に選ぶのか世間は喧しい。

私も松井秀喜選手がどんな女性と結婚するか非常に興味がある。

女優などが噂に上っているようだが、松井のような男と所帯を持つ女性はかなり大変だろうと思う。

このたぐい稀なる大物の足を引っ張ってはならない。能力を最大限に発揮できるよう、精神面健康面で陰で支えなければならない。当然、この優秀な遺伝子をつないで行かなければならない・・・などというプレッシャーもかかるだろう。

夫のサポートに子育て。それは自身が職業を持ちながらできるほどたやすくはないと思う。まさか松井に、「きょう保育園に迎えに行ってね」だの、「洗濯物ぐらいたたんでおいてよ」などと頼めるわけがないのだ。

夫の世話だけで人生を終わりたくない、自己実現したい、などという願望を持つ女性には無理だろう。あくまでも犠牲的精神に満ち溢れた女性でなければ世間が許さないだろう。

・・・しかし、よく考えてみると、何故、そのサポートを「妻」がしなければならないのだろう。

あれだけ稼ぐんだから、そういった「管理」を「外注」してもいいはずだ。

(この「外注」という言葉、桜井よしこさんが、施設での保育時間の延長などについて、「子育ての外注化がますます進んでいる」と表現しているのを参考)

家政婦なり栄養士なりにある程度任せて、奥さまはセレブな生活を楽しめるはずだ。

・・・とは思うが、やはり、世間の見かたは厳しくなるだろう。

もう、時代は変わっているのに、相変わらず世間の目は厳しい。
家族のケアの外注化傾向が進むことに警鐘が鳴らされる。

しかし、この「家族のケアの外注化」によって、家族は崩壊するのだろうか。崩壊することで社会も荒廃するのだろうか。

いつの世も立て直しに一生懸命な人間たちの真面目さを思えば、崩壊なんて簡単に起こるはずがないとは思う。人間は、しぶとく健気だ。

要するに、外注にしようがしまいが、家族の心構えの問題なのである。

そして、「これが最良の方法なのだ」などと自分のポリシーを人に押し付けないよう、気をしっかり持っていなければならない。人は無意識にこれをやってしまいがちだ。

(松井の嫁から話がズレてしまいました)

しかし、松井の嫁に関しては、きっと世間は総小姑化するでしょうね。大変だァ。

     

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2006年2月13日 (月)

あの山の向こうに

昨日、ラジオでこんな話を聞いた。(TBS「伊集院光:日曜日の秘密基地」)
冬山で遭難する人は、山小屋まであと一歩というところで力尽きて死んでしまうケースが多い。
山小屋が目に入って「助かった」と思った瞬間、脳は「目的を達した」と認識し、生きるためにせいいっぱい頑張ってきた遭難者はその時点で目標を失い、そのために脳の機能が低下して、体も動かなくなる。

この話から、ゲストのルー大柴がこんな例を持ってくる。
【清原は巨人に行ってから、活躍が今ひとつで、これといった成果をあげられなかったよね。清原という人は小さい頃から巨人に入団するのが夢で、そのために頑張ってきた。だから、長年の夢がかなったとたんに目標を失い、活力も低下した。そこへ行くとイチローは目標を達成するとすぐに次の目標を設定してそれに向かって走り出す。】

なるほどねえ。なんか聞いたことのあるような当たり前のような話だが、それでも改めて、なるほどなあ、と感心する。

・・・・しかし、しんどそう。永遠に走り続けなきゃならないの。

ちょっと似たようなことかな、と思うのだが、サンディさんのブログにこんな記事がある。

「手の届かないはるかなもの」を破壊したのは「メディア」だと言う。

たしかにそうだ。

でもサンディさんは言う、「変質しただけで破壊されたのではない」

そう、変質するのはしかたがない。すべてのものが変質し続けているのだろうから。

でも、「はるかなもの」に対する人間の憧れの気持ちは変質することはないと思う。

「はるかなもの」はいつでも遠くにあり、どんどん遠ざかって行くのが良いのかもしれない。

全てが手の届くもの、明らかなものになってしまったら、私たちはそれこそ目標を失い、滅びてしまうだろう。

常に新たな目標を設定してたゆまぬ努力を続ける、なんてすごいことは私なんかにはできないけれど、憧れや好奇心ぐらいなら努力しなくても持ち続けられる、と今の時点では思っている。

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2006年2月10日 (金)

「卒業」

尾崎豊という歌手が死んだ時に、私は初めてその名前を知った。
大人社会に抵抗する若者の代弁者ということで、絶大な支持を得ていたらしい。

しばらくして、その代表作「卒業」という歌を聞いた。

なんと巧みな歌かと感心した。

若者のモヤモヤイライラをこれほど的確に歌で表現した人はいないのではないか。

私自身はこのようなやりきれないモヤモヤイライラというのを思い出せるほどにはっきりと経験してはいないが、たぶんいつの時代も若者の鬱屈した思いとはこのようなものであるだろう、ということは想像がつく。

たとえばここ。

行儀よく真面目なんて クソッくらえと思った
 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
 逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった

シンプルな表現で、少年犯罪を詩情豊かに包みこむ手法は見事だ。

どれほど多くの非行少年がこれによって、自己の子供じみた悪さを正当化したことだろう。

バイクを盗まれた経験のある若者は、尾崎豊を好きになれないそうだが、尾崎はバイクを盗んだことも歌で表現していたのだろうか。他の歌を知らないのでわからない。

ただ、私はこの「卒業」という歌を聴いていて、彼は本当に、「若者のモヤモヤイライラ」に共感する歌としてこれを作ったのだろうか、と疑問を持つ。

彼はもしかしたら、「自由になりたい」と主張する世間知らずの若者の幼さをちょっとつっついてみたかったんじゃなかろうか。

彼は高校生の頃から音楽の世界でプロ活動をしていたそうだ。学校や家庭だけでなく、世間との折衝の中で、さまざまな経験を重ねていたことだろう。人間社会に生きる限り、中学生や高校生の夢見る「自由」などというものはどこまで行こうがいつまで生きようがそんなものありはしない、ということもわかっていただろう。

だから、彼はこの歌の最後に

これからは何が俺を縛りつけるだろう
 あと何度自分自身卒業すれば
 ほんとうの自分にたどりつけるだろう

こんな言葉を持ってきている。
彼はあの若さで、人間の持つ「自由」の意味がわかっていたのだ。

たぶんこの歌は「お前ら、なるべく早く気づけよ」というメッセージじゃなかったのか、と思う。

私は尾崎豊についてほとんど知らない。「尾崎豊」論みたいなものがあるのかどうか知らない。私が思うような見方もすでにされているのかもしれない。

でも、いまだに尾崎を教祖と崇める若者がいるなら、都合の良いところだけに共感するのでなく、別の読み取り方にも気がついてほしいと思う。

なぜ、今、こんな古い歌を取り上げたかというと、先日、車を運転しながら、昔のニューミュージック全集を入れたカセットテープを久しぶりにかけていて、この歌が流れてきたからだ。

昔の歌にも良いものが多い。

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2006年2月 6日 (月)

ココログに来た

ブログを始めたのは2004年の7月ですから、もう書き続けて1年と7ヶ月になります。

日常をつづる個人的な「日記」というより、世に起こるできごとについて主婦なりに思うことを書いてきました。

たいした文章でなくても、読み苦しさのないようある程度体裁を整えて画面に載せるとなると、その時間は現実生活に食い込み、ブログも結構忙しいもんだなあ、ということも実感しました。

「これだけ書いたらもうやめよう」と思ったことも何度かありましたが、書きたいこと、若い人たちに伝えたいことは次から次へと湧き上がり、そのうち、「死ぬまでやったれ」と開き直るようになりました。

この「不特定多数の人に対して自分の意見を発信し、また見ず知らずの人の意見を受信し、そこに議論や合意が発生する」などという状況を経験できる、というのは、私の人生の中でもまさに画期的なことではないか、と今さらながら感動を覚えます。

うんと若い人たちにとっては、もの心ついた時にはすでにそういう状況にあって不思議でもなんでもないことが、人生の大半をアナログ的に過ごしてきた私のような年令の主婦にとっては、大変革であるわけです。・・・とは言っても、日常生活や人生の流れが何か変わった、ということは何もなく、相変わらず家事に明け暮れるだけの毎日ではあるのですが、書く楽しさ、誰かが反応してくれる嬉しさ、これは一人で本を読んだり、ノートにただ書き連ねているだけの楽しみとはやはり大きく違います。

第一、普通の人にとって、時事問題なんかについて突っ込んだ話ができるのは家族ぐらいしかないのに、ネット上では、老若男女取り混ぜ、色々な職業、立場の人と話すことができます。

子育て中のお母さん、大学生、サラリーマン、OL、大学教授、ご隠居、正体不明の文筆家、等々、いろんな人がおられますよねえ。実に面白い。

ブログでやってる程度の交流では、世論なんてものは到底測れはしないけれど、同意見の人に出会うと嬉しいし、異見を持つ人に対してはその根拠を探りたくなる。

まあ、そんなこんなで、今年も、日常生活に差し障りのない程度にゆっくり書いていこうかと思っております。

ライブドアブログを使っておりましたが、あんなふうでちょっと不安になり、こちらに続きを書くことにしました。

どうぞよろしくお願いいたします。

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過去の記事はこちらです。

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