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2006年3月31日 (金)

女性を守るということ

コウイチさんのブログでこんな疑問に出会いました。

 >はたして女性は男性に比べて思いやりに溢れているのでしょうか?<

勇気ある発言ではないでしょうか。これを言う男性を私はほとんど見たことがありません。

嬉しくなったので、私が書いた過去の記事を「読め!」とばかりに押し付けてしまいます。

「貧しさに負けるのは」
「お婆さん仮説」
「男の哀しさ女のたくましさ」  

他にもありそうですが、とりあえず、こんなところで。

男の気持ちを代弁する女性は非常に少ないので、私は顰蹙を買いながらも敢えてそれをやっているのです。

ところが、こんなに一生懸命同情しているのに、私の記事に同調する男は全く現れません。
女の味方をしてさえいれば無難とばかりに女にへつらう男が多すぎる。それとも、男は女に対する不満がまったくないのでしょうか。

もちろん、ただ「威張りくさる」だけの男はもってのほかですが、言うべきことはきちんと言わないといけません。

ま、そうは言っても、なんとなくわかる気もするのです。

奥さんの機嫌をそこねるとご飯を作ってもらえなくなる、みたいな、生活面で困るので、という理由も考えられますが、それなら、生活面で自立していれば、奥さんにはっきりものを言うことができるのか、と言えば、そんなこともないような気がします。

やっぱりなんだか知らないけど、「女はコワイ」のです。

いのっぴさんは、「所詮男だって弱いんだから、強くあろうと頑張るのはもうやめて、女の人にもっと強くなってもらいましょう」と、そんな結論にさえ達しています。

昔は、男の子は「弱い者いじめをしてはいけない。女だけは絶対に殴るな」などと言われて育ったものでしたが、男女同権の原理から言えば、女性は男性と全く同じ立場なので、女性だって悪いこと酷いことをすれば、殴られて当然とも考えられます。

しかし、言葉の暴力でどんなに傷つけられても女性を殴ることは許されません。もちろん体力の差は歴然としているのだから、その意味での弱者に暴力をふるうことは言語道断ですし、第一、相手が悪いからと手を出すのは、相手が男であれ女であれ許されることではありません。

しかし、女性が強くなった今、「女性を守ってあげる」とはいったいどういうことを意味するのか、と考えてしまいます。

暴漢から守るということなのか。それなら、腕に自信のない男性はどうしたらいいのか。

男と女は動物行動学的に考えればまったく別もので、オスとメスの関係は非常にわかりやすい構図になっているのに、人間社会ではまったくややこしいことになっています。

この世は優しい人のほうがずっと多いし、そんなに心配しなくてもなるようになっていくとは思いますが、女性の権利ばかり主張して思いやりのない女性に対してだけ、私は言いたいです。

「もう少し、男の人に優しくね」

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2006年3月30日 (木)

次の総理大臣

次の総理大臣のことなんですけど・・・。

安倍さんの人気ダントツだったのに、福田さんが追い上げてきたそうです。

私個人の考えとしては、福田さんが良い、と思います。

福田さんなら靖国参拝しないでしょうし、靖国問題に関して引っ込みがつかなくなってしまった中国と韓国の顔をたてることができます。

安倍さんはたしかに言葉は理路整然、何事に対しても毅然としていて頼もしく見えます。だからこそ、もっともっと経験を積んでほしい。今、首相になるのはもったいないような気がするのです。安倍さんがどれほどの器の人なのか、首相にふさわしい人なのかは、私にはわかりませんが、国民の人気だけで国のトップにしてもいいのか、と思います。

福田さんは親中派とはいっても、どうでしょうか、それは別にへつらうということではないんじゃないでしょうか。

誇り高そうだし、なにより、歳を重ねた人の風格があると思います。

福田さんは国立の追悼施設を作ることに熱心だそうです。
私にはそのことが日本にとって良いことなのかまずいことなのかいまだによくわかりませんが、たぶん、そういうものを作ったとしても、靖国神社は靖国神社でちゃーんと支持を受け続け、今までと変わらず参拝者の足が遠のくということはないんじゃないかと思うのですがどうでしょうか。私も今までどおり参拝したいと思います。(国立追悼施設ができれば、「一宗教法人」の付属施設遊就館などは問題にならなくなりますよね)

靖国神社に誰がいて、国立追悼施設に誰がいる、なんて、それこそそれぞれの心の問題なのだから、それぞれが思うところに参拝すればいいんじゃないですか。

ただ、このところ、中国はあまり歴史問題で日本をつっつくのはまずい、と思い始めているそうなので、国立追悼施設もそんなに急ぐことはないように思います。福田(首相になったとして)さんが靖国参拝をしなければ、中韓も騒がないわけですし。

靖国問題についてよくわからないので簡単に考えてしまいましたが、そんなものじゃないんでしょうかねえ。

とにかく、小泉さんが参拝をやめたら「中韓に屈した」ことになりますが、次の総理大臣が参拝しなくても、「屈した」という印象にはならないような気がします。

小泉さんのように「意地になること」イコール「毅然とした態度をとる」ということではないと私は思うので、参拝をしない総理大臣が中韓に対してどのように毅然とした態度をとってくれるのか、見てみたいと思います。

ただ、福田さんは「権力志向」がない人なので、「その気がない人」は周りもかつぎにくいだろう、と評論家が言ってました。

もちろん、福田さんに「日本を良い国にしたい」という熱意がないのであれば、首相になんかなってほしくはないですが、その思いがあるのであれば、私はぜひ応援したい。

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2006年3月29日 (水)

国歌を歌いたくない若い人たち

卒業式、今年も君が代を歌う歌わない、起立するしないで、あちこちでもめたのでしょうか。

「君が代を歌いたくない人の気持ちを尊重するべきだ。歌いたい人は歌えばよいのであって歌いたくない人に強制したり、指導を怠った教師に罰則を加えるたりするのはどうかと思う」

こんな意見がよく聞かれます。正論といえば正論ですね。

しかし、学校というところはそもそもそんなに個人の自由が許される場ではありません。何事も「したくない」という理由でしなくてもいいのであれば、学校は教育の場として成り立ちません。

「強制はいけない」「心の問題だ」・・・・、しかし、私など、そんな議論以前に、なぜそれほどまでに君が代を嫌うのかが、理解できないのです。

→「日の丸君が代、私は好きなんですけど 

→「国を愛するってどういうことか」 ←これはコメント欄まで読んでくださると非常にありがたいです。

たしかに、「強制はいけない」という主張は正しいのです。

中には、「君が代を歌うとあごがはずれる」とか「体中にブツブツができる」といった実害をこうむる方もいらっしゃいましょう。

そういったかたがたの口を無理やりこじあけて「歌えっ」などと強要するのは絶対にやめてください。そういう強制は絶対にいけません。

実際に、あの戦争で愛する親族をなくされ、心の傷がどうしても癒されず、理屈でなく、君が代を聞くことも歌うこともできない、というかたがたもたしかにいらっしゃると思います。
そういうかたがたの心情は酌んで差し上げなければならないと思いますし、歌いたくなければ歌わなければ良いと思います。

でも、戦争を経験していない若い世代にまで、国旗国歌のかつての罪を教え込み、これに敬意を表してはならぬと指導するのはおかしいのではないでしょうか。

朝日新聞の読者投書欄には、よく、若い世代の国旗国歌嫌悪の弁が載せられることがあります。
先日も高校生の投書がありました。
「生徒を苦しめる押し付け教育」「国の思想を生徒に押し付けてほしくない」「一体、卒業式で起立して国歌を斉唱しなければならないのはなぜか」

いったい誰が、国に対するこのような敵愾心を子供たちに植えつけたのでしょうか。

戦争の愚かさ、残酷さを未来にわたって伝えていくことが非常に重要なのは言うまでもないことですし、国家権力に対する冷静なまなざしを持つことを教えるのも当然のことですが、「国旗国歌を憎め」と、子供たちに教えることは筋違いと思えてなりません。

国旗国歌に対する怨念は、もう自分たちの世代で終わりにしませんか。

           

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2006年3月27日 (月)

「老いと手仕事」

きのうの日経新聞の文化面、篠田節子さんの文章にものすご~く共感。

老いと手仕事」と題して。

【「育てて収穫するまでは、そう大変じゃないの、問題はその後よ」
昨年、初めて自分の畑で小豆を作った友人が言う。
「虫食いはあるし、黒くなったのはあるし、それを一つ一つ手で取りのけていくのよ。売ってる小豆って、どうしてあんなにきれいなのかしら」
「そりゃ、農薬、殺虫剤を山と浴びせかけて、そんな手間、省くんじゃないの」と私。
縁側の日向に新聞紙を広げ、豆をあけ、両手の指先を使って、虫食いやしわの寄った物をすいすいと端に寄せていく。きれいな豆がたまると、ざらざらとボールに移す。それを延々と繰り返す。
幼い頃に祖母が送ってくれた小豆は、炊く前にこんな作業をするのが当たり前で、それは子供の仕事だった。___中略___収穫物の処理に限らず、体力も技能も集中力も根性もいらないが、とにかく時間だけはかかる手仕事というのが、身辺には数多くある。】

全部載せられないのが残念ですが、つまり、筆者の子どもの頃は、そうした手仕事は子供や重労働のできなくなった年寄りの仕事であったが、「効率だけでなく、高い精度までも要求する現代社会が、金にならぬ手仕事を生産の現場から遠ざけてきた。」というのです。

そして、こう結びます。

【幸い、日常生活の中には、創造的ではないが、体力も集中力も必要なく、間違えたところでさほど痛くはない手仕事が山ほどある。それを再分配することはできないだろうか。
選り分けた豆の重さに小さな達成感を覚えながら、おそらく人は最晩年を生き、死ぬことができるのではないかと思う。】

私は、集中力のいらない単純作業が好きです。
なぜなら、それをしながらラジオを聴いたり、テレビを見たり、思索したり(笑)できるからです。

例えば、餃子を作る時、うちは5人家族で大量に食べるので、野菜のみじん切りにかかる時間もはんぱじゃありません。みじん切り器などの機械もありますが、あとで分解してきれいに洗わなければならないことなど考えると、一時間ほどもかけてまな板上でやってしまいます。
針仕事も、ミシンでできるところでも、居間で針箱開いてちくちく手縫いしたりもします。

そういうことをやりながら、ラジオが聞けたり、ブログに書く文章を思いついたり、家族と話ができたりするんです。

しかし、そんな悠長なことはやっていられない忙しい人も世の中にはたくさんいます。

また、そういう手仕事にはまったく興味がなく、そういうことは色々な手段でさっさと済ませ、スポーツや観劇や旅行や習い事に多くの時間をさく人もいます。

いろいろな人がいて当然です。

社会の荒波に揉まれながら働く女性たちが窓口になってくれなければ専業主婦も救われませんし、映画やファッションや旅行にお金を使う女性たちの消費行動は景気アップにずいぶんと貢献しています。

しかし、「一定の割合で」単純な手仕事を厭わない女性も必要だと思います。そういう人たちがいなくなっては困ります。

篠田さんは、「人が高齢になってほんとうに衰えた時の手仕事を用意する必要」について述べています。

私のように、まだ充分に健康なのに家で手仕事(そんなに家事に励んでいるわけではないので安心してください)に埋没するのは早いでしょうか。

でも、私はよく思い出すのですが、子供の学校で広報の役員をやっていた時、広報誌を作成する作業をしながらいろいろなお喋りをしてとても楽しかった。単なる世間話だけでなく、時事問題などにも話題は及び、建設的な意見も飛び交いました。

手作業をしながら女たちがしゃべる。そのおしゃべりの中から生まれる大きなもの、重要なものもあると思います。

おそらく農家などでは、手作業をしながらのコミュニケーションは今でも普通に行われているでしょう。

そしてたぶん、都会でも、「地域力アップ」の気運が高まる中、そういう場はすでにあちこちに生まれているものと思われます。

草むしりをしながら、編み物をしながら、雑巾を縫いながら、お喋りする溜まり場が、これからの高齢化社会に向けて、「地域の中に」増えていくだろうと私は思います。

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2006年3月24日 (金)

神さま

いのっぴさんの「宗教というもの①」を読みました。

私は何の宗教も信じていませんが、神(大きなもの)の存在は感じることができます。いのっぴさんの記事の蟻の話と同じことをよく思ったものです。

その偉大な存在がキリスト教でいうところの「神」である必然性も、その他のどんな宗教の「神」である必然性もない、というのが私の考えですが、「信じること」「祈ること」という人間の行為において、それぞれの宗教は必要なものです。

いのっぴさんは言います、クリスチャンの方々が「神様がこんなことをしてくださった」などという言葉を聞くたびに、「それ、ホントにそう思ってるわけ??」などというイジワルな感想を持ってしまうのです。】

キリスト教は「ご利益宗教」ではない、と言いながら、何故お祈りの時には「・・・してくださって感謝です」と言うのか、私もいつもヘンだなと思っていました。

ひき逃げ事故をめぐる人間模様を描いた「21グラム」という映画の評を読んだことがありますが、こう書いてあります:

【ジャックは前科者だが、神に出会い、現在は更生している。クジで当たったトラックも「神の贈り物」と喜ぶほど信心していた。ところが皮肉なことに、そのトラックが3人の命を奪う。「神はなぜ私にトラックを与えたのか」と彼は再び絶望感で自分を失う。そんな彼に妻が言う。「神に関係なく人生は続くのよ」】

評者は述べます。弱い人間たちを、神は数え切れず救ってきた。しかし一方で、神は同じ数だけの弱い人間を奈落へとたたき落としてきた。神と付き合えるのは、結局強い人間だけなのではないだろうか。】

新聞のコラムだったと思いますが、アッラーの神を信じるアラブの老人のこんな言葉を見たことがあります;

【神に祈ろうが祈るまいが、何も変わらないかもしれない。しかし、もし、神がいないというなら、自分はこれから何を信じて生きていけばよいのか】

こんな言葉に「宗教」というものの真髄を見ることができますね。

生まれた時から、ひたすらイスラムの神を、生きるよすがとして信じてきた人にとって、その信じることこそが生きるということなんでしょう。ほとんどの日本人には理解することは難しいです。

でも、キリスト教の生み出した数々の素晴らしい文化を思うと、私は「キリスト教、よくぞ生まれ、そして、生きながらえてくれました」と感謝の気持ちでいっぱいになります。

好みなのでキリスト教芸術をありがたく思いますが、その他の宗教とて同様です。

神の一撃なくしてビッグバンは起こり得なかったとか、いや、宇宙は完全に自立し、外的刺激なくして生まれ得る、神はいらないのだ、とか、どっちが最新の研究結果なのか私は知りませんが、自分たちを蟻だと考えると、やはり見えざる「大いなるもの」の存在を私は信じたくなります。

20年ほども前でしたか、同年輩の主婦同士で宗教の話をしていた時に、宇宙の不思議について思うことをちょっと話したら、「あなた真面目ね~。そんな話、若い頃はよくしたけど~、ほんとに久しぶりだわァ、こんな話。あっはっはっはっは~。」と面白がられてしまい、私は赤面して自分の幼さを恥じ入りました。
58歳になった今でも私は相変わらず宇宙は不思議だと思い続けており、悟りきった大人に追いつくことができません。

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2006年3月23日 (木)

女が男をつくる

先日の娘と私の会話。

次男の、人に対してわりあい礼儀正しいことを私がほめると、

娘「でも、私のまわりでも、みんなちゃんと挨拶する子ばかりだよ」

私「そう? でも女の子はそうでも、男の子はそんなことないんじゃない?」

娘「ううん、みんなちゃんとしてるよ。だって、挨拶もちゃんとできないような男の子、女の子のほうでバカにするし。 あのね、男の子のティーンズ雑誌なんかでね、【女にもてるには】みたいな記事があって、【知性や教養】だとか【きちんと挨拶する】だとか、自分を磨かなきゃモテない項目が並んでるらしいの。モテたい一心で男の子は頑張るんだって。」

私「へえー、そうなんだ」

娘「結局、女が賢くならないと男も良くならないんだよ。」

ほー、よくわかってるじゃないの。
彼女は大学やアルバイトの仲間と、そういう話をしているらしい。良い友人たちじゃないか。っていうか、こんなところを見ると、近頃の若者は、私なんかが若い頃よりずっと大人になってるなあ、とつくづく思う。少なくとも「論理的には」賢明さを増している。

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2006年3月19日 (日)

日本地図

今朝のフジテレビ「報道2001」で、竹村健一氏が、台湾まで続く南西諸島を示して、「日本の領土はこんだけあるゆうことをみなさんもっと知らなあかんよ」と言っていました。

よく言ってくれました。

以前のエントリー、よろしかったらご覧ください。→「日本ってほんとに長いんだ

日本地図帳の工夫が必要だと思いませんか人気blogランキング

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2006年3月18日 (土)

消えてしまった妖精

「謎めいた美女」だとか、「不思議美少女」などというのが、フィクションの世界にかぎらず、現実世界でも時おり見受けられます。

私はそういう存在を「かなりの手練パフォーマー」というか「人生これ演技と覚悟する女たち」と認識してきましたが、昔はそういう謎めいた美女に夢中になる純情な男たちが多かったようです。

たとえば、渡辺淳一の「阿寒に果つ」のモデルになった天才美少女画家の事情などはその典型ではないでしょうか。

先週の朝日新聞の土曜版に「阿寒に果つ」の記事が載っていました。

朝日の記事より:
【白一色の世界に出現した1点の鮮やかな赤。1950年ごろの札幌に、まさしくそんな女子高生がいた。
 少女の名は加清純子。
 15歳で北海道展に入選。中央の女流画家展にも出品し、「天才少女画家」の名をほしいままにした。地元紙は「画壇のホープ」と書きたてた。才気ほとばしる早熟の「赤」。
 髪は茶色に染め、高校にもあまり行かず、深夜まで喫茶店や居酒屋に入り浸った。気鋭の画家やダンディーな新聞記者ら、複数の男性と浮名を流した。大人びた不良の「赤」。
 肌は北国の少女の中でも抜きんでて白く、結核を患っているとのうわさだった。当時の同級生は「妖精みたいでした」と語る。厳冬の校庭で雪像を制作した際、完成間近いロダンの「接吻」像に血を吐いた。つややかな雪像を汚す、鮮血の「赤」。
 猫のように捕らえどころがなくて、小悪魔的。付き合った男たちは焦燥を募らせた。52年1月の深夜、男たちの家の前に、一輪のカーネーションを残して失跡した。雪道にひっそりと置かれた、謎めいた花の「赤」。
 雪解けの4月、純子は阿寒湖を見下ろす釧北峠で凍死体となって発見された。息をのむほどきれいな死に顔。睡眠薬の空き箱が近くに落ちており、警察は自殺と断定した。白銀の原野に横たわったコートの痛ましい「赤」。
 遺書はなく、純子がなぜ命を絶ったのかは、わからない。彼女の衝撃的な死は、付き合った男たちにやりきれない思いを刻み込んだ。
 そんな男の一人に、札幌南高校の同級生がいた。真面目な優等生だった彼は純子に誘惑されてとりこになる。学校の図書館で夜ごとあいびきを重ね、酒とたばこと接吻の味を覚えた。
 劇的な初恋は、彼の人生を変えた。若き日にまかれた種は20年後、物語に結実する。____以下省略】

うーん、なんと小説的。
とても現実のこととは思えません。

渡辺淳一は「常識を覆す芸術なるものと、女性の不可解さを教えられた」と述懐します。

こんな少女の存在が「神秘的」ととらえられたのは、メディアの未熟さゆえ、すべてのことがあからさまにならなかった時代だからだったのでしょう。

「謎めいた」とか「神秘的」とかいったって、そんなものは、人間である以上、つまり現実を抱えている以上、仕組まれたまやかしにすぎません。

昔の男は、「妖精のような」少女のとりこになったかもしれませんが、物事を多面的にとらえる能力に長けた現代の若者たちなら、さしずめ、「神秘的いうたかて便秘ぐらいするやろ。やっぱりきばるんやろな。」「せや、腹減ったらたこ焼きぐらい食うで。青海苔がへばりついた歯ァ見せて笑ろてみ、謎めいたて言われたってなァ」、とか何とか言ってお笑いのネタにしてしまうことでしょう。

その昔、森や水辺に生息し人間と共存していた妖精やもののけが、現実の波に押し流されて消えていったように、謎めいた美女は現代では謎めいたままでは生きていけなくなっています。今ではわずかなその生き残りが変質し「不思議ちゃんキャラ」としてバラエティ番組などで、いじられながらも健気に頑張る姿が垣間見られる程度になっています。

「純子の絵は、当初は写実的な作風だったが、ある時期からシュールレアリスムに変容した」そうです。

彼女の姉が語ります、「騒がれたわりには自信がなくて、シュールに走ったのではないかと思います。自殺の理由は、絵で行き詰っていた上、付き合っていた男性と何かあったからではないでしょうか」、 ・・・・・・とても現実的な姿があらわになります。

姉によると、純子は女学校時代にも好きな先生の気を引くために自殺未遂をしたことがありました。また、雪像に喀血したのは絵の具を使った細工で、実際は病気ではなかったということです。

高校で同級生だった女性は、「純子さんは、どんな時でも自分の存在の効果を考えながら生きている感じがしました」と話します。

関係した男たちの家の前に赤い花を置いて、彼女はひっそりと旅立つ、雪の阿寒へ・・・・。

自らの「死」までも美しく演出しようとする、究極の自己愛。

「女性の不可解さ」に神秘を感じた渡辺センセイも、今では、「結局、純子が愛していたのは彼女自身だったのだと思う」と結論づけます。

謎めいた美少女は現実の波に押し流され、消滅してしまいました。

しかし、世の男性諸君に告ぐーっ。
女性に対する夢や憧れをあきらめてはなりません。それは決して幻想なんかではないのです。

謎めいた美少女は世間ずれした若者たちに茶化されいじくられ、もうこの世には生息できなくなったかもしれませんが、君たちが物心ついたころから胸に抱き続けている「憧れの女性」はいなくなることはありません。

吉永小百合が、宮沢りえが、滝川クリステルが存在するかぎり、希望は輝き続けるのです。

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2006年3月16日 (木)

愛するものを奪われた

今から7年前の1999年4月、山口県光市で母子殺人事件があった。
当時18歳の少年によるその犯行のあまりの残虐さに、多くの人々がこの事件を今もはっきり覚えていることとと思う。

山口地裁では無期懲役、広島高裁ではそれを支持して上告棄却、そして、検察、被害者遺族は最高裁にまで死刑を求め続けた。

ニュースでご存知のかたも多いと思うが、被告の弁護人は、おととい開かれる予定だった最高裁の裁判をすっぽかした。

このことについての怒りはあちこちで語られていることと思うので、ここでは触れないが、愛するものを奪われた怒りについて少し書いてみようと思う。

事件当時、被害者母子の父であり夫である本村洋さんは「犯人が死刑にならないのだったら、僕がこの手で復讐するだけです。」と泣いた。

2002年に山口地裁で無期懲役の判決が下りた後に、本村さんはテレ朝の「ニュースステーション」に出て、判決の理不尽さを強く訴えていた。その論理的且つ気迫に満ちた弁舌に感動したことを私はよく覚えている。

少年事件を裁く時、必ず出てくるのが「反省の兆しが見られる」と「不幸な生い立ちを鑑み」というやつだ。

この「反省」については、この事件の場合、犯人が知人に送った手紙(被害者や遺族を侮辱するとんでもないものだ)が公開され、この男に反省の気持ちなど微塵もない、ということを世間は知った。

これから先も、この人間がいったい改心するというのだろうか。私にはそうは思えない。改心するような心を持っていれば始めからあんなひどいことはしないのではないか。

そして、もうひとつ、「生育環境」への同情だ。

人はいろいろな環境で育つ。幸や不幸の生い立ちは人それぞれだ。

不幸な境遇で育ったからといって、皆が皆、犯罪者になるわけではない。むしろそうでない人のほうがずっと多い。

たしかに不幸な生い立ちと犯罪の間には因果関係があるだろう。

しかし、それでも罪を犯す人と犯さない人がいるのが明らかなのだから、こういったあまりに残虐な犯行の場合、「生育環境」を裁判の場で理由にするのはあまり意味のないことのように思える。

犯罪少年の心を慮り、その生育環境と犯罪の因果関係について精査するのは、裁判所以外の場でやるべきなのではないか。

脳と犯罪」で書いたように、「やったことの重大性」だけに着目して、淡々と裁くべきではないかと思うのだがどうだろう。むろん、審理の過程で生い立ちについて述べられるのは当然のことではあるが、判決においては、「やったことの責任を取らせる」これに徹底したほうが良いように思う。

ところで、遺族は極刑を望む。私は被害者遺族になったことがないのでわからないが、私なら、死刑なんて生ぬるい、と思うかも知れない。

死刑囚は死んでしまえばそれで楽になるのだ。納得がいかない。

獄につながれ、なぜ自分がここにいるのか、死ぬよりもっと辛い思いをしながら一生考え続けてほしい、と私なら思うんじゃないだろうか。

終身刑という罰を用意してくれませんか。

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2006年3月13日 (月)

私、甘いですか?

前エントリーのコメントで、haruさんは仰います。

>親の努力など無に等しいのかもしれません<

私ね、悪い誘惑から子どもを引き離そうと努力するより、親子で会話ができる関係にすることが大事だと思うんです。

こんなに自由で豊かで誘惑の多い今の世の中だから、それらのものから遠ざけようとすることのほうがずっと難しい。

「お母さん大好き」、こんなふうに思う子どもは「お母さんを悲しませるようなことはすまい」とどこかで思うはずです。

「ねえ、ちょっと真面目に聞いて」と子どもに持ちかけて、子どもが耳を貸すような関係を作るのって、禁止事項を課すよりは簡単じゃないかと思うんです。

子どもが「あれがほしい、これがほしい」とねだる時、思いとどまらせるのは簡単なことではないけれど、それ以前に母子が愛し合っていると、比較的やりやすいと思います。

母子の愛だとか絆だとか信頼関係だとかいう言葉を持ち出すと、きれいごとだ、それこそが難しいのだ、と言われてしまいますが、これだけは説明のしようがありません。

母親の本能がなせるわざだ、としか言いようがありません。

現代では、あまりべったりの親子関係は批判の的です。突き放すぐらいの関係がさっぱりして良い、などと歓迎されます。

でも、私はこう思います。

お母さんは思いっきり子どもを可愛がればいい。それは一緒に過ごす時間の多い少ないではなく、濃密さの問題です。

それは子どもがべったりを嫌がる年令まで続いていいと思います。

あとは、思いっきり突き放せばいいじゃないですか。
中学生になってもべったりは気持ち悪いし。

haruさんもご自分のブログで仰ってますよね。

幼児期はできるだけ気持ちを受け止めてやるのが良いって。→ http://blogs.dion.ne.jp/harupoem/archives/2921289.html#more

それはほしがるものを何でも与えるということではもちろんなく、可愛がる、気持ちを汲んで受け入れてやる、ということだと思います。

私は実際、子どもが可愛かったのでものすごく可愛がった。
甘やかし、と見られたこともありましたが、今、彼らはわがままでもないし、思いやりもあるし、ごく普通の人間です。

町で見かける母子にも色々います。

このお母さんは子どもが好きなんだなあ、可愛がってるんだなあ、という人もいれば、なにもそんなに邪険にしなくても、と子どもが気の毒になる場面にも出くわします。→「子どもの人権」 

今の世の中、親の自己犠牲のもとに子育てを優先する、というのはなかなか難しいけれど、子どもの成育環境と人間形成には因果関係はあるはずです。これは今も昔も変わりません。

子育てにマニュアルなどなく、親の勘や本能に拠らなくてどうして子を慈しみ育てることができようか、というのは誰が何と言おうと真実です。

でも、今は、忙しすぎる親たちのために、まわりが体制を整えなくてはいけない時代なんです。

親の足りない分は、祖父母や地域社会や学校が補完するべきだと思います。

いや、むしろ、昔は普通にそれがなされていたのかもしれません。
.

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2006年3月10日 (金)

子ども時代 2

ゲームが大好きでそれを長時間やるからといって、普段の様子が目に見えておかしいというわけではない。夢遊病者のようにうつろな目で歩いているわけでもなく、とてつもなく変な子供があちこちに誕生しているかと言えばそんなことは全然ないわけで、そのことだけを観察すれば、たしかに、「ゲームで子供がおかしくなる」などということはない。

しかし、子供時代に仮想空間で遊んだがために、その分、現実世界でのぶつかり合いの経験が「割合的に」少ない、という事実は厳然としてあるわけだ。

それに、私には科学的に説明できないが、子供はなるべく太陽を浴びたほうがいいのではないか。

太陽が輝き、風がそよぎ、木々がキラキラしながら揺れているそんな時、部屋にこもってゲームに夢中というのは、たしかに不健康な感じがする。

子供時代の過ごし方の影響は、おそらくある程度の年、高校あたりからあらわれてくるのではないかと私は思う。

子供時代における子供ならではの体験の蓄積の少なさは、大人になってからの精神生活に影響するのではないか。あれも知らないこれも知らない、あれに感動することもないこれを不思議と思うこともないまま大人になるということはやはり良くないのではないか。

子供がみんなそうだというわけではない。しかし、一定程度の「仮想空間で暮らすことが好きだった子ども」が存在すれば、それは負の社会現象としてあらわれる。

たとえば、うちの次男で言えば、前にも書いたが陽気で憎めない性格が彼に幸せをもたらすだろう、ということは予測できるのである。

でもそれは、人間としての中身の充実の度合い、といったこととはあまり関係がない。

ねこっちさんは言う、
>せめて親が手を尽くして様々な場所に連れて行っては色々な人を見せたり、体験させてみたり<

記事に書いたボーイスカウトの親たちも、きっとそんな気持ちで子供たちにいろいろな経験をさせようと努力していたのだと思う。

そういう大人の努力が子供に通じないのだ。

しかしそれでも、と楽観的な私は思い直す。

ボーっとしたまま大人になる子供がいる反面、多くの子供は健全にちがいない。ゲーム三昧で子供時代を過ごしたからといって、みんながみんな空っぽになるわけじゃない。

私はいつも思うのだが人間は強かで健気だ。

ゲームに毒されている子供が多いからといって、人類は滅亡なんかしないのだ。

必ずうまい具合に調整され、立ち直る。

ゲーム業界で働き、それで妻子を養ってる人もいるわけで、腹は立つけど、考えてみれば人間社会は腹立たしい製品だらけなわけだし、これからも、優れたゲーム機やゲームソフトの開発に精を出していただきたい。「ゲームに殺意を抱いた」と書いたのはギャグのつもりじゃ。

うちの息子だって、中身はちょっと足らんかもしれないが、この先どうなるか心配だというわけではない。

コウイチさんは、子供時代ゲームに嵌っておられたそうだが、かなり中身が詰まっているとお見受けする。ブログが面白い。

うん、心配いらないさ。
お母さんは子供においしくて栄養のあるものを食べさせていれば、大丈夫、子供はヘンになりませんて。

おいしくて栄養のあるものが食べさせられない事情を抱えている場合は、慈愛のまなざしで子供と接していれば大丈夫。

子供に慈愛の気持ちが持てない人は、・・・・・難しい問題だ。

しかし、悩めば必ず道は拓ける、と心得るしかない。

いっそのこと、友だち感覚で一緒にゲームしたり漫画読んだりして、感想を述べ合い感動を分かち合ったらどうだろうか。

昨夜、珍しく次男が夕食後居間にとどまり、こたつに入って一緒に「たけしのアンビリーバボー」を見た。

20年前の大島三原山噴火に際しての住民脱出劇だ。

息子、「(こういうことができたのは)普段から、地域住民が家族みたいにつながってるからなんだね」なーんて言うんだ。

母はこんな些細なことでも喜ぶ。

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2006年3月 7日 (火)

子ども時代

【「子供を本好きにするにはどうしたらいいか」などと悩む親がいるが、答えは簡単。親が本好きになればいいのである。】
とよく人は言う。親が楽しそうに本を読んでいる姿を見れば、子供は必ず興味を示すはずだ、というのである。

しかし、現代において、ことはそう簡単ではない。

私たち夫婦はよく活字を読む。
私はあまり小説のたぐいは読まないが、その他の本、新聞、雑誌は暇さえあれば読むし、主人も居間でよく本を読んでいる。

我が家には3人子どもがいる。
長男は親の影響かどうかわからないが、幼い頃から知らぬ間に本棚にある本を引っ張り出しては読んでいたようだ。今も本を読むのがおそろしく早い。

娘もまあまあ読む。

問題は末っ子である。
この子が幼稚園の頃にテレビゲーム機を買ったせいか、家の中でやることと言えば、ゲーム、それしかない。(以下、バーチャルゲームを「ゲーム」と略す)

時間制限したり、時にはゲーム機を隠したりもしたが、ゲームから離れるということはなかった。

ボーイスカウトに入れて野外活動にも毎週出かけたが、そういうことより、ゲームのほうがずっと楽しいようだった。

スカウト活動の中、トレッキングをしながら、友だちとなにやら楽しそうに喋っている息子を見て、やはり野外活動も楽しそうだなあ、親は大変だけどボーイスカウトに入れて良かったなあ、などと思いきや、近寄って会話をよく聞いてみると、盛り上がっていた話の内容はゲームの攻略法についてであった。

他の子たちも野外活動をそれほど楽しんでいるようには見えず、いかにもめんどくさそうで、「早く家に帰ってゲームの続きをやりたい」といった風情であった。

私は子供たちのそういう様子を見て、心底ゲームが憎いと思った。ゲームに殺意さえ抱いた。

バーチャルゲームというのは、子供たちにとって、たぶんどんな遊びよりも楽しいのであろう。でなければ、あんなにのめりこむはずがない。

もちろん、それほどゲームに執着しない子もいるだろう。

しかし、多くの子供たちがゲームの魅力にとりつかれ、長時間拘束されている。

ゲームを悪者にすることについて、ゲームを弁護したがる大人もいる。
しかし、そういう人はあまり実態を知らないのではないか。

確かに、うちの子は普通だ。犯罪も犯さないし、社会的な常識もあるし、家族や友人とも仲良くやっている。
ゲームが好きだからといって、脳みそが溶けているとも思えない。

しかし、野外活動より、本より、映画より、ゲームが好き、というのは問題ではないのか。

若い時代に本を読まなくていいのか。もっと色々なコミュニティに接して生身の人間と付き合わなくていいのか。

そういう経験を通して、人は心を動かされ、目を開かされ、情熱を喚起され、目標を抱くようになるのではないのか。

今の高校生は無気力で、刹那的で、目標を持っていない、と言われる。

こういうこととゲームとの関係をもっと調査したほうがいいと私は思う。

豊か過ぎて上昇志向がないから、目標も持てないのだ、と私は書いたことがある。

それもたしかにあると思う。

でも、実際の社会経験ができにくい平和で豊かな時代であるからこそ、若者にとって、小説や新聞や映画や演劇を通して大人の世界を垣間見るという作業が必要なのではないか。

私たちは、今の若者の無気力を「社会の閉塞感」だの「将来への不安」だのと難しい議論に持って行きがちだが、案外、この「バーチャルゲーム」が一番の原因かも、なんて思ったりもするのである。

ゲームそのものを悪いとは言わない。なかなかよくできた娯楽だとは思う。

言いたいのは、子供時代、青春時代に、経験したほうが良い、または、ぜひとも経験しなければならないさまざまなことをやらずに、バーチャルな世界で遊んでしまうことの恐ろしさをもっと認識したほうがいいのではないかということだ。

二度と帰らない貴重な貴重な若い時期を浪費してしまってもいいのか、ということだ。

息子はおそらく、大学に入れば忙しくなり新たな友人もでき、ゲームをしなくなるかもしれない。

しかし、失った時間は二度と帰ってはこない。
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2006年3月 6日 (月)

若者へ

「この頃の若いモンは」というのはいつの時代も年配者によって発せられる言葉らしいが、「若いモンも捨てたモンじゃない」という言葉もまた、同じだけ語られる。

寄せては返す波のように、乱や安定、批判や同情、幸や不幸は交互に現れる。

「そんなにあわてなくたって何も心配いらない」と言いたくなるのは、楽天的な性格のせいか、それとも年を取ったせいなのか。

先日、新聞の「朝日求人」欄に「基礎仕事力が翼となる」と題して、作家林真理子の談話が出ていた。

抜粋:【4・5月になると、大学を出たばかりのような髪の毛がまだツンツンしている男の子が、着慣れないスーツを着てホームで電話していたりする。使い慣れない敬語なんかを懸命に使って、お得意さんらしき相手に「その件はすいません」なんて謝りながらホームで頭を下げていたりするんです(笑い)。そういう姿を見ると私は涙が出てきそうになる。いままでは大学でコンパとバイトだけの生活だったのだろうに、就職することを選んでがんばっている。「つらいだろうけど、こういうことが君を鍛えていくんだよ。がんばれ、がんばれ」って声をかけたくなりますね。】

まったく同じことを、私もよく思う。こうやって書きながらもこみあげてくる。

今は辛いだろうが、必ず良い日が来るから、耐えて頑張ってね、と若い人たちに言いたい。

たぶん、「ニート」と呼ばれ、困り者あつかいされている人たちも、それぞれに悩みを抱えながら困難と闘っているんだろうと思う。

政治も、教育も、「悪くしてやろう」なんて思っている人は一人もいないのだ。試行錯誤しながら、これでどうだ、これでもだめか、なら、これはどうだ、とみんなで考えているのだと思う。世の中は優しい人のほうがずっと多い。

必ず春は来るから頑張って。

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2006年3月 3日 (金)

笑いの偏差値

先日の新聞の生活面に載っていた米国人タレント、パックン(パトリック・ハーラン)の文章に共感した。

【日本人は真面目だね。行動は丁寧だけど、遊びがちょっと少ないかもしれない。でも、大豆商品の食べ過ぎのせいか、僕も最近日本人の感覚に近づいているらしい。今は逆にアメリカに帰るとそのストライクゾーンの広さにとてもびっくりする。
先日驚いたのは米国内線の機内アナウンス。離陸前に副機長のアナウンスが普通に始まったが、途中で変な方向へ。「ポン! シートベルトは緩まないようしっかり締めておいてください。下っ腹のお肉に食い込むくらいでちょうどいいのです」と。
乗客がちょっとざわめきだした。アナウンスは続く。「荷物は前の座席の下、または頭上の棚にしまってください。なお、上に入れるものは20キロまたは4歳までとなっています」。この時点で、彼の冗談に気づいた乗客が上機嫌で笑う声が聞こえる。
さらに続く。「まもなく離陸します。携帯電話を持っている方は必ず電源をお切りください。機長のペースメーカーが心配です」。ここで、この飛行機はライブ会場と化した。
飛び立った後も「機長がシートベルトサインを消しました。どうぞご自由になさって下さい。本日は空席もあるので、近くの窓側の席が空いていたら、どうぞ移動して下さい。ライバル会社から満席に見られるよう、ご協力お願いします」。
そして、「ご存知の通り、弊社は今、倒産中ですので、こうした戦略をとっています。もう一つ、赤字対策として、誰かクレジットカードを貸していただけますか?」と、フリートークに発展していった。着陸したら、僕も弟子入りを申し込もうかと思うぐらい面白かった。
でも笑いながら、「仕事でそんなにふざけちゃだめだろ」と心の中の日本人がつぶやきだした。やはり『出る杭は打たれる』精神になっているのだ。外国人で芸人である僕が12年でこうなっているのだったら、日本で育ったみんなはその何千倍もまじめだろう。
もちろんそのお陰でサービスも丁寧だし、頼り甲斐もあり安心できるわけ。でもちょっともったいないかもしれない。仕事でも遊びでも、人生は楽しいものであるはず。周りをそこまで気にせず、もっと気楽に、自由に、自分ならではの生き方で生きられるともっと充実するのでは? 心の中のアメリカ人はそうつぶやく。】

定まった形があるものに対して、私は昔から「こんな紋切り型じゃつまらない。こんなもの誰も関心持たないじゃない。関心持たれないんじゃ何のためにこんなことするのだろう。」と思うことが多かった。

たとえば、形式的な文書、真面目な場での挨拶のスピーチなど、決まりきった言い回しにしておけばそれは無難だろうが、なんかそれじゃつまらない、と思っていた。

それで、たとえば、お礼状、挨拶状などにちょっとしたユーモア表現を失礼のない程度に盛り込んだりすることもあったが、受け取った側がクスっとしているのか、それとも「ヒジョーシキ」と冷たく笑っているのかそれはわからない。

「**さんの奥さんは頭がおかしい」といった噂がたつと夫の出世に差し支えるので、そういうことはあまりしないほうがいいかもしれない。

ところで、先日の末息子の卒業式に出席して、このP.ハーラン氏の文を思い出した。

近ごろの高校の卒業式は、厳粛というより、「打ち上げ」的な楽しさを大事にするところが多いのだろうか。
名前を呼ばれて「はい」以外の答え方をしたり、壇上の担任にクラス全員で「**せんせ~い、」と大声を上げたり。

そういえば、もう8年も前になる長男の高校の卒業式も生徒たちによる「サプライズ」があった。

しかし、長男と末っ子の卒業式には大きな違いがあった。

末っ子のほうは、始めから終わりまでざわざわとして、てんでんバラバラにふざけているという印象だったが、長男のほうは、粛々とした雰囲気の中、突如として面白いことが起きる、という感じだった。それが3回ぐらいあっただろうか。その時だけ会場が「おー」と沸く。最後は「仰げば尊し」でしんみりと厳粛に。感動的な良い卒業式であった。

長男の学校は偏差値高めの中高一貫男子校。

末っ子の高校は偏差値だけで言えば中の中程度。

やっぱり頭の良いヤツというのはユーモア表現力にも優れている、と思い知ったのであった。

頭の悪いヤツと思われたくなかったら、もっとめりはりのきいたふざけ方を演出すりゃあいいんだ。

どんなに勉強ができなくても、どんなにやる気のない人間でも、式の最中に静かにすることぐらいできるはずだ。

思い浮かべるのは、テレビで見るお笑い芸人。彼らの頭の良さには脱帽だ。

彼らのお笑いのルールは実に厳しい。
ちょっとでも噛んだりスベったりすると、それがどんなに面白いコメントであろうと、言い直すことは絶対に許されない。
とにかく「間」が大事なのだ。その「間」こそが、笑いを誘う最も重要な要素だからだ。

高校生にプロのお笑いと同じものを目指せとは言わない。

しかし、少なくとも、満座を笑わせようという動機があるんなら、少しは「間」や「めりはり」を考えたらどうか。

それとも、ただふざけてなんとなく自分が気持ちよくなりたいだけ?

それじゃまるで幼稚園児でしょ。

そういうの「やっぱり勉強のできないヤツはお笑いの程度も超低い」って、おばさん言っちゃうよ。

そう言われてくやしかったら、もう少しマシな笑いをとってみなさい。

お笑い偏差値をもう少し上げてみなさい。

真面目な場で笑いをとる時の鉄則は、決して「基本の型」をくずしちゃいけないということだと思う。

・・・しかし、式のあと、先生や保護者たちと歓談している生徒たちの様子を見ていると、「なかなか良い子たちじゃん」と思ったのでありました。

平和で豊かな日本に育った陽気で幸せな子供たち。
厳しいこと言ってごめんね。

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