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2006年3月27日 (月)

「老いと手仕事」

きのうの日経新聞の文化面、篠田節子さんの文章にものすご~く共感。

老いと手仕事」と題して。

【「育てて収穫するまでは、そう大変じゃないの、問題はその後よ」
昨年、初めて自分の畑で小豆を作った友人が言う。
「虫食いはあるし、黒くなったのはあるし、それを一つ一つ手で取りのけていくのよ。売ってる小豆って、どうしてあんなにきれいなのかしら」
「そりゃ、農薬、殺虫剤を山と浴びせかけて、そんな手間、省くんじゃないの」と私。
縁側の日向に新聞紙を広げ、豆をあけ、両手の指先を使って、虫食いやしわの寄った物をすいすいと端に寄せていく。きれいな豆がたまると、ざらざらとボールに移す。それを延々と繰り返す。
幼い頃に祖母が送ってくれた小豆は、炊く前にこんな作業をするのが当たり前で、それは子供の仕事だった。___中略___収穫物の処理に限らず、体力も技能も集中力も根性もいらないが、とにかく時間だけはかかる手仕事というのが、身辺には数多くある。】

全部載せられないのが残念ですが、つまり、筆者の子どもの頃は、そうした手仕事は子供や重労働のできなくなった年寄りの仕事であったが、「効率だけでなく、高い精度までも要求する現代社会が、金にならぬ手仕事を生産の現場から遠ざけてきた。」というのです。

そして、こう結びます。

【幸い、日常生活の中には、創造的ではないが、体力も集中力も必要なく、間違えたところでさほど痛くはない手仕事が山ほどある。それを再分配することはできないだろうか。
選り分けた豆の重さに小さな達成感を覚えながら、おそらく人は最晩年を生き、死ぬことができるのではないかと思う。】

私は、集中力のいらない単純作業が好きです。
なぜなら、それをしながらラジオを聴いたり、テレビを見たり、思索したり(笑)できるからです。

例えば、餃子を作る時、うちは5人家族で大量に食べるので、野菜のみじん切りにかかる時間もはんぱじゃありません。みじん切り器などの機械もありますが、あとで分解してきれいに洗わなければならないことなど考えると、一時間ほどもかけてまな板上でやってしまいます。
針仕事も、ミシンでできるところでも、居間で針箱開いてちくちく手縫いしたりもします。

そういうことをやりながら、ラジオが聞けたり、ブログに書く文章を思いついたり、家族と話ができたりするんです。

しかし、そんな悠長なことはやっていられない忙しい人も世の中にはたくさんいます。

また、そういう手仕事にはまったく興味がなく、そういうことは色々な手段でさっさと済ませ、スポーツや観劇や旅行や習い事に多くの時間をさく人もいます。

いろいろな人がいて当然です。

社会の荒波に揉まれながら働く女性たちが窓口になってくれなければ専業主婦も救われませんし、映画やファッションや旅行にお金を使う女性たちの消費行動は景気アップにずいぶんと貢献しています。

しかし、「一定の割合で」単純な手仕事を厭わない女性も必要だと思います。そういう人たちがいなくなっては困ります。

篠田さんは、「人が高齢になってほんとうに衰えた時の手仕事を用意する必要」について述べています。

私のように、まだ充分に健康なのに家で手仕事(そんなに家事に励んでいるわけではないので安心してください)に埋没するのは早いでしょうか。

でも、私はよく思い出すのですが、子供の学校で広報の役員をやっていた時、広報誌を作成する作業をしながらいろいろなお喋りをしてとても楽しかった。単なる世間話だけでなく、時事問題などにも話題は及び、建設的な意見も飛び交いました。

手作業をしながら女たちがしゃべる。そのおしゃべりの中から生まれる大きなもの、重要なものもあると思います。

おそらく農家などでは、手作業をしながらのコミュニケーションは今でも普通に行われているでしょう。

そしてたぶん、都会でも、「地域力アップ」の気運が高まる中、そういう場はすでにあちこちに生まれているものと思われます。

草むしりをしながら、編み物をしながら、雑巾を縫いながら、お喋りする溜まり場が、これからの高齢化社会に向けて、「地域の中に」増えていくだろうと私は思います。

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コメント

ごぶさたしてます。感想をひとこと。

>選り分けた豆の重さに小さな達成感を覚えながら、
>おそらく人は最晩年を生き、
>死ぬことができるのではないか
に賛成です。

ただ、それは手仕事を再配分するのではなく、
そういう生活を支えるためのお金の再配分が必要に思います。
そうでないと生活のやりくりで手いっぱいになってしまう人が
出てきてしまいます。
それを自己責任として切り捨てるのはどうかと思ってます。

たまに近所の年寄りから手作りの品をもらうことがあります。
プレゼントする相手を見つけて、うれしそうです。
豆の重さで小さな達成感を味わったあと、
それを煮て食べて喜んでくれる人がいれば、幸せいっぱいでしょう。

今は、3世代家族が少なくなりました。
こればかりは、どうしようもないですけどね。

投稿: quimito | 2006年3月27日 (月) 13時36分

>quimitoさん、
>ただ、それは手仕事を再配分するのではなく、
そういう生活を支えるためのお金の再配分が必要に思います。
そうでないと生活のやりくりで手いっぱいになってしまう人が
出てきてしまいます。
それを自己責任として切り捨てるのはどうかと思ってます<

quimitoさんがこう仰りたい気持ちはよく理解できます。行き過ぎた厳しい自己責任論には誰しも反対だと思います。

やっぱり、篠田さんの文、全文写したほうが良かったですね。そのほうが意図がわかりやすかったと思います。

これは経済の話というより、体が利かなくなった時、老人たちが本当は何をしたいのか、という極めてメンタルな問題として、篠田さんは書いています。

写しますね。

【数年前、キプロスの田舎に行ったとき、農家の裏口に座り込んで、豆を鞘からはずしている老人の姿を見た。不思議な既視感があった。
夫を亡くした女性が、その後、何年も、ときには死ぬまで着用している、という黒づくめの服は、色あせ、太い腰周りには穴があいていた。地中海の強烈な陽射しがブドウの木で遮られ、涼しい風の吹き抜ける戸口で、彼女は、手先を動かしていた。せっせと、という感じではない。心は別のところにあるようだった。脳梗塞の後遺症なのか、片手はほとんど用をなさない。
近所の人が訪れれば、お喋りを始めるだろう。しゃべりながら手は相変わらず動いているだろう。
座り疲れれば、豆をそのままにして、やれやれと腰をたたき、体を左右に揺すりながら、お茶をいれに台所に戻っていくだろう。
異国の島で目にした喪服姿の老人に、私はかつて私のまわりにいたばあちゃんたちの姿を重ねていた。

庭先の草をむしって鶏にやる。近所の年寄りとしゃべりながら渋柿の皮をむく。
気が付いてみると、老人たちのそんな姿は身辺から消えている。
家族の手につかまれば歩いてトイレまで行かれる年寄りが、清潔そうな和室のベッドの上で、ぼんやり窓の外を眺めている光景が、心温まる家庭内介護の図として、テレビで紹介されていた。
団地の集会所で高齢者の方々が、若い保健婦さんの指導で、ふりをつけながら童謡を歌っていた折、後ろの方で手拍子を打っていたおじいさんの「幼稚園じゃあるまいし」という吐き捨てるようなつぶやきを耳にした。
老人ホームの集会室に行ったときには、講師の指導のもとに、老人達が色とりどりの折り紙を折っていた。
安楽な最晩年に待ち受ける無為の行為の寒々しさに慄然としたのは私だけだろうか。____中略____
残酷なことには、ケアされ生きられる状態にあっても、人は必要とされる何かをしたがるし、できないと体と心のバランスを崩す。
出された食べ物をつつき回し、手でこね回す。ときにはすでに自分が出したものをこね回す。現役世代を震え上がらせるグロテスクな行為の向こうにあるのは、幼児のそれとは異なる、求めてやまぬ手仕事への渇望であるような気がする。
効率だけでなく、高い精度までも要求する・・・・】と続きます。

>たまに近所の年寄りから手作りの品をもらうことがあります。
プレゼントする相手を見つけて、うれしそうです。<

ほのぼのとしますね。
経済の循環にはほとんど関係なくても、「老人の手仕事」に対する思いやりを持つことが大事、と篠田さんの文を読んで改めて考えさせられました。

実家の母を介護中ですが、足が不自由なので、ほとんどベッドの上にいます。一緒に住んでいる妹が、ハサミを渡してセーターの毛玉を取ってもらっていました。こういう仕事は結構たくさんあります。

投稿: robita | 2006年3月28日 (火) 17時31分

またぼけたコメントでお手間を取らせてしまいましたね。
よくわかりました。

だいぶ前のドラマで記憶があやしいのですが、
(たぶん倉本聡脚本「機の音」1980)
毎日機織りをするおばあちゃん(北林谷栄)が、
身体を気づかう家族に仕事を取り上げられ、
一気に弱って亡くなってしまうというドラマがありました。

これが老人と手仕事を考えるときの根っこになっています。

投稿: quimito | 2006年3月29日 (水) 11時45分

おおいに共感させられます。リンドバーグ夫人の説とやや似ていますが、老後を見据えたところが篠田さんらしいと思います。近所の全盲のお婆ちゃんは、暇があれば雑巾を縫い続けています。それを有り難くいただいて、お婆ちゃんのおうちを交替でお掃除します。何となくそう決まっています。

>おそらく農家などでは、手作業をしながらのコミュニケーションは今でも普通に行われているでしょう。
その通りです。畑作業は家族近所総出でやります。子供の仕事、女の仕事、男の仕事、といくらでもあります。それで子供たちとも会話が多いのでしょうね。畑の隅にしつらえたドラム缶のかまどに火をおこし、とれたての野菜を入れてお雑煮を作り、一人暮らしのお年寄りまで呼んで、いっしょに食べます。便利さも捨てがたいけど、家族や隣近所と仲良く暮らすことには換えられません。手仕事万歳。

投稿: ねこっち | 2006年3月29日 (水) 13時37分

>quimitoさん、

>お手間を取らせてしまいましたね。<

とんでもない。やはり、人の意見は切り貼りではよくわかりませんよね。

>(たぶん倉本聡脚本「機の音」1980)<

こういうことは昔から懸念されていたのですね。

投稿: robita | 2006年3月30日 (木) 11時03分

>ねこっちさん、

>リンドバーグ夫人の説<

これは知らなかったので、検索してみたら、シンプルに生きることを提唱する「海からの贈り物」という本の著者ということでした。大西洋横断飛行のあのリンドバーグの奥さんなんですね。
ターシャ・テューダーのような生き方なんでしょうか。

若いうちはバリバリ働いて競争もしてくれなくては、人間としての生活そのものが成り立ちませんけど、老後の生き方としては憧れです。

ねこっちさんは田舎にお住まいなんですね。

家族近所総出のおつきあいは、煩わしいといえば煩わしいのですが、楽しいといえば楽しいんですよね。

大人の少しの努力で都会でもこういうことは可能になると思います。世の中楽しいことばかりじゃないですよね。楽しくするために少しは努力しなくちゃ。←これは出不精の私自身への叱咤激励です。

投稿: robita | 2006年3月30日 (木) 11時10分

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