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2006年3月16日 (木)

愛するものを奪われた

今から7年前の1999年4月、山口県光市で母子殺人事件があった。
当時18歳の少年によるその犯行のあまりの残虐さに、多くの人々がこの事件を今もはっきり覚えていることとと思う。

山口地裁では無期懲役、広島高裁ではそれを支持して上告棄却、そして、検察、被害者遺族は最高裁にまで死刑を求め続けた。

ニュースでご存知のかたも多いと思うが、被告の弁護人は、おととい開かれる予定だった最高裁の裁判をすっぽかした。

このことについての怒りはあちこちで語られていることと思うので、ここでは触れないが、愛するものを奪われた怒りについて少し書いてみようと思う。

事件当時、被害者母子の父であり夫である本村洋さんは「犯人が死刑にならないのだったら、僕がこの手で復讐するだけです。」と泣いた。

2002年に山口地裁で無期懲役の判決が下りた後に、本村さんはテレ朝の「ニュースステーション」に出て、判決の理不尽さを強く訴えていた。その論理的且つ気迫に満ちた弁舌に感動したことを私はよく覚えている。

少年事件を裁く時、必ず出てくるのが「反省の兆しが見られる」と「不幸な生い立ちを鑑み」というやつだ。

この「反省」については、この事件の場合、犯人が知人に送った手紙(被害者や遺族を侮辱するとんでもないものだ)が公開され、この男に反省の気持ちなど微塵もない、ということを世間は知った。

これから先も、この人間がいったい改心するというのだろうか。私にはそうは思えない。改心するような心を持っていれば始めからあんなひどいことはしないのではないか。

そして、もうひとつ、「生育環境」への同情だ。

人はいろいろな環境で育つ。幸や不幸の生い立ちは人それぞれだ。

不幸な境遇で育ったからといって、皆が皆、犯罪者になるわけではない。むしろそうでない人のほうがずっと多い。

たしかに不幸な生い立ちと犯罪の間には因果関係があるだろう。

しかし、それでも罪を犯す人と犯さない人がいるのが明らかなのだから、こういったあまりに残虐な犯行の場合、「生育環境」を裁判の場で理由にするのはあまり意味のないことのように思える。

犯罪少年の心を慮り、その生育環境と犯罪の因果関係について精査するのは、裁判所以外の場でやるべきなのではないか。

脳と犯罪」で書いたように、「やったことの重大性」だけに着目して、淡々と裁くべきではないかと思うのだがどうだろう。むろん、審理の過程で生い立ちについて述べられるのは当然のことではあるが、判決においては、「やったことの責任を取らせる」これに徹底したほうが良いように思う。

ところで、遺族は極刑を望む。私は被害者遺族になったことがないのでわからないが、私なら、死刑なんて生ぬるい、と思うかも知れない。

死刑囚は死んでしまえばそれで楽になるのだ。納得がいかない。

獄につながれ、なぜ自分がここにいるのか、死ぬよりもっと辛い思いをしながら一生考え続けてほしい、と私なら思うんじゃないだろうか。

終身刑という罰を用意してくれませんか。

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コメント

仰るとおりだと思います。不幸な境遇だったということと、
殺人を犯したということとは、天と地ほども離れた理屈です。犯罪が起きたとたんにこういう事を言い出す「人権屋」っていますよね。加害者は、被害者の人権など一顧だにしなかったから殺したのです。それなのに、何故加害者の人権などを赤の他人が論ずるのでしょう?
そういうことを言い出すと収拾がつかないから法律があるのですが、それにしても「終身刑制」を認めて欲しいですね。池田小の事件の犯人は「殺してくれ」と言っていたそうですが、死にたがっている者を殺しても、死刑の意味は無いでしょうね。

投稿: ねこっち | 2006年3月18日 (土) 22時46分

>ねこっちさん、

同感です。

日本では今のところ遺族にとって最も重い刑罰が「死刑」なので、遺族は仕方なくそれを求めるしかないんでしょうね。

終身刑があれば、それを望む人のほうが多いと思います。

投稿: robita | 2006年3月20日 (月) 09時58分

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