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2006年5月31日 (水)

柔軟な心

「メイド・カフェに想う」にコウイチさんからご意見をいただきました。
以下、コウイチさんの言葉を引用しながら書きますが、コウイチさん個人に向けた記事ではありません。

私は「男たちが頼りないという今の状況は女が作ったものだと思っている」と書いたのですが、それについて、コウイチさんは、「メイドカフェに代表される『萌え』というものにハマる男たちについては、実のところ本当に女性が原因なのかな、と個人的に疑ってます」と言います。

たしかに、「女が強くなったから、男はかしずいてくれる従順な女を求めて、メイド・カフェのような場所に行くようになったのだ」というんじゃ、短絡的すぎますよね。

メイド・カフェの出現と、世の中の男が全体的に頼りなくなった、ということは、別問題として考えましょう。たしかに、「メイドカフェに萌えの男たち」と「頼りない男たち」は同じではありません。

だから、いったん、ここは「メイド・カフェ」のことは置いといて、それでも私は、「女というものを含有する社会の動きが、否応なくこういう状況を作り上げてしまった」のは事実だと思っているのです。

これは「女性が悪い」とか「女性の責任」だとか、そういう話ではなく、たぶん、人類のたどらざるを得ない道、つまり「必然」だと思うわけです。

人類が「知性」を備え、「自由」「平等」という概念を手に入れた時から、人類のたどる道は決定されたのです。

「フェミニズム」も「環境破壊」も「飢餓」も「戦争」も、おそらくは人類の必然でしょう。「知性」を持った人類が「自由」「平等」を叫べば、当然のごとく生き物としての生活に軋みは生じるでしょう。

・・・・・、とまあ、なんか、だいそれた話みたいですが、これは実に単純な話だと思います。

社会学的には、ひとつひとつの事象についての因果関係を検証することに意味があるのでしょうが、「人類の行く末」という枠でとらえると、大筋が見えてくるんじゃないですか。

そんなこと言ってたらみもふたもないじゃないか、と思われるのは当然です。

しかし、男と女の問題は学問じゃないんじゃ。全体を見渡すには年令が必要なんじゃ。亀の甲より年の功と言うじゃろ。

コウイチ氏 【解決するのに男にコミュニケーションスキルを磨かせるのか、robitaさんの書いた男心女心の記事にあったような「いい女」を増やすのか、両方やるのか。】

男が弱くなった状態を解決する方法は、だから、民主主義をやめること、じゃないでしょうかね。

「話にならん!」と思ったあなた。

「解決法」というのは、「誰かが考えて誰かがそれをやらせる」ということですね。

民主主義の世の中で、誰がそれをやらせるんですか。

ありがたい民主主義のおかげですべてのことはがんじがらめです。

しかし・・・・・、ありがたいことに、「誰かに」やらせられなくても、自らの心を自律心をもって動かすきっかけになる「人との交流」という方法があります。

現実世界のコミュニティだけでは限られたものになってしまう交流が、ネットの世界では無限に広がります。
ありがたい民主主義は、誰でも自由に考えを発表できる空間を作ってくれました。なんとありがたいことでしょう。

洪水のように溢れ来る情報や意見を賢く取捨選択し、受け入れる柔軟な心を持った者だけが、結局は得をするようになっているのかもしれません。

人を幸せにするのは、民主主義、というより、ひとりひとりの柔軟な心なのではありませんか。

今まで書いてきたことは、「頼りない男たち」へのアドバイスになっているかしら。

_____

コウイチブログの記事「資金調達」の中、【ニート最強宣言】を読んでみてください。
若い人には迷って悩んであわてふためいてほしいけど、こういう面白い文章が読めるのだったら、若人の達観もなかなか興味深い。

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2006年5月30日 (火)

メイド・カフェに想う

今、日本では、結婚するカップルの5組に1組が国際結婚なのだそうだ。
そしてその割合はどんどん増えつつある。

昨日の夕方のニューストピックスで、国際結婚した女性や国際結婚を望む女性を取材していた。

彼女たちは言う;
「外国の男性は優しい」
「日本の男性って頼りない。こっちが優しく聞いてあげないと自分の意思を表明しない」

(その他色々なことを言っていたようだが、夕飯の支度をしながらだったので聞き取れなかった)

ジャーナリストが分析していたが、「日本の女性は収入も増え、自立するだけのものを身につけたが、それに比べて男性の収入は増えない。自分より稼いでほしいと願う女性にとって日本の男性ではあきたらないのではないか」というようなことを言っていた。これは、アジアの新興お金持ち男性と結婚したがっている女性たちのことを指して言っているらしかった。

日本の男性は経済的にも精神的にも「頼りない」として、どんどん見捨てられていくのだろうか。

私としては、「貧乏な日本男性」より「金持ちの外国人」を選ぶ女性たちは、そうしたいのならそうすれば良いと思う。
ぜひとも考え方を変えて、「手鍋さげても日本男子と結婚せよ」などと言うつもりは毛頭ない。だってそういう人生観を持った女性はそういう生き方しかしたくないのだからしかたがない。

しかし、金がないくらいのことならそんなことは気にしない、という女性もいるかもしれないけれど、精神的に頼りない、というのはかなり問題だ。

そういう男性がどんどん増えているのなら、すごく問題だ。

私はこの問題について今まで沢山書いてきたが、なかなかはっきり書けない問題で、表現に苦労する。
コウイチさんの記事では、メイド・カフェを取り上げ、巧みな文章で「男らしさを求める女の都合」が表現されている。

私は、男が頼りないという今のこの状況は女が作ったものだと思っている。

正確に言えば、女というものを含有する社会の動きが、否応なくこういう状況を作り上げてしまったのだ。
必然だとも言える。
変えることもできないと思う。

・・・・・なんて、ちょっと悲観的になってしまったのだが、男を元気にするのもまた、女の大事な役目だ。
批判だけで終わってしまっては女がすたるではないか。

そうだ、ただいまから、このブログのメインテーマは「男と女」にしよう・・・・かな。

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2006年5月29日 (月)

朝日新聞

私は朝日新聞が好きだ。

朝日は反日だとか欺瞞だとか毛嫌いする人も多く、あちこちで可哀想なくらい叩かれるし、それもよくわかるのだが、それでも私は毎日朝日新聞を読んでいる。

たしかに、「うへ」と思うような社説や読者投稿などもよく目につくし、社としての思想的スタンスは、反日と言われても仕方がないのだろうが、保守派論客と言われる諸先生がたの論説も時おり掲載される。

私はそれらの文章を読み、これはまともだと自分で判断し、朝日の思想スタンスと比較しながら自分の考えをまとめてきたように思う。
右寄りと言われる新聞や雑誌をわざわざ買って読まなくても、両方の考えを知ることができた。

他の新聞を読まないので、他社がどういう紙面作りをしているのか知らない。
報道は偏ってはならないと思うが、ジャーナリズムの姿勢としては朝日のようにならざるを得ないのではないか。

朝日の反日思想は好かないが、とことんこきおろす気にもなれない。

しかしながら、こういう記事に出合うと、なんだか楽しくなって笑ってしまうのである。
ずいぶん前に読んだ記事だが →松尾光太郎de海馬之玄関ブログ

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2006年5月26日 (金)

「言葉は希望」

「深夜のnews」の真魚さんが、「愛国心」についての解答と言えるもの(私はそう思う)を出して記事に仕上げられた。

実に明快な文章を読んで、私はとても爽やかな気分である。

真魚さんは、私が「国家は国民自身なのだ」と書いたことに対して「相当なボリュームの反論が書けます」と仰るのだが、お願ェしますだ。書かないで。やめて。私は負ける。だって私は学者じゃないもん。主婦だもん。法学も政治学も何も知らないもん。
だから、次の言葉にホッとした。「robitaさんの言いたいことはこうじゃないか」
そして、私の言いたいことを簡潔にまとめてくださった。みなさんに読んでいただきたい。

実は今や多くの人はそのように思っているのではないか。
それが言葉の行き違いやなんやらで、うまく着地できずにいるだけなのじゃないだろうか。

知識と言葉の力でたいていのことは解決できる。そして人間はたいていの場合そうしてきた。

ちょうど朝日新聞が「言葉は希望」ってCM流してるね。

   ブチッとやっちゃってください、ここです、ここ人気ブログランキング

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2006年5月25日 (木)

男心女心

singleandover40氏のブログに行ってみたら、なんと結婚について言い訳とも達観とも希望とも判じかねるような文章が書き連ねられているではないか。

真意はわからぬ。しかし、う~む、やはり、これは、「あわよくば」「もしかしたら」「俺だって」のたぐいではないのか。

いや、しかし、やはり、「『女房子供に手を焼きながら』の人生なんて考えるだけでしんどいよなあ」、「もういいのいいの、仕事と趣味に生きるほうが楽しいも~ん」、なのかもしれない。

男ごころは複雑だ。女ごころも複雑だけど。

しかし、要するに、こういうことなのだ。

いいなあ、と思う女性がいる。しかし、性格上、なかなか声はかけにくい。
かといって、モーションかけてくるような女性もあまり好みでない。(わかるわかる)

世の中は、いい男といい女はなかなか接点を持ちにくい構造になっているのである。

      

      「よろしくお願いします」だけじゃだめみたいなので
      ここはひとつ、力をこめて
      ぐいっと思い切り押してください
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2006年5月22日 (月)

しつこいようだが愛国心

愛国心について今までずいぶん書いてきた。
「必需品としての愛国心」 
「続・必需品としての愛国心」 
「狭量な国粋主義は愛国の体をなさない」 

などである。

教育基本法改正すべきとする人と反対の立場の人はなかなか分かり合えないようだが、そもそも、「愛国心などという人の内心にかかわることを強制すべきでない」と主張する人たちの「国家というものに対する認識」が根本的に勘違いに基づいているものなので、話が噛み合わないのだと私は思う。

「国家は国民と相対するもの」ではなく、「国家は国民自身」なのだ。

教育基本法に「愛国心」を明記することに反対の人たちがしばしば口にするのだが、「私たちに愛国心を押し付ける前に、愛するに足る国家になってくれ」という言い方がある。

以前も書いたのだが、それならば、戦後60年かけて、この国は「国を愛さない政治家や官僚を育ててきた」、まさにそのことをこそ問題にすべきではないのか。

私は、日本の政治家や官僚がみな悪者だとか愚かだとは思っていない。真面目で一生懸命な人のほうが多いと思っている。

しかし、「愛するに足る国にしてくれ。そうでなければ愛せない。立派な為政者よ、出現してくれ。」と望むのであれば、なおのこと、国家として、国民全体にそういう教育が必要だとは思わないのか。

政治家も、官僚も、医者も、教師も、父親も母親も、みな、日本国民である以上、生れ落ちた時から、基本的にこの国の教育で育つのだ。

国家は国民自身なのだ。教育は国家100年の計といわれる所以である。

このことを理解しないかぎり、「国家の一員」という自覚を促すことの意味は永遠に理解できないだろう。

自己実現は大事。当たり前である。
個性教育も大事。当たり前である。
しかし、戦後60年の教育はそれに偏りすぎた、ただ、それだけのことなのだと思う。

右翼も左翼も極端に過ぎるのだ。だから右翼とか左翼と言われるのではあるが、極端同士は理解し合えない。

「社会がヘンになっている」原因が、戦後民主主義が個人重視に偏りすぎたため、なのかどうか、本当は誰にもわからない。
しかし、多くの人がそう思っているのだとしたら、少し「国家と個人の関係」を見つめ直す作業をしたって一向にかまわないではないか。

「そんなことしたってだめだ。原因はそうじゃない。ちがうちがう」と、言い続ける人々に私は問いたいのだ。
ちがう、と言い続けることが、何らかの解決になるのであろうか。
ちがう、と言い続けることが、何らかの前進をもたらすのであろうか。

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2006年5月19日 (金)

「炭焼物語」

「国家の品格」に書かれていること、それとあの勢いのある文章、私は大好きだ。
著者の藤原正彦の「わしの言うことは正しい。わしの言う通りにすれば必ず日本は良くなる」と言い切る潔い頑固親父ぶりも好ましい。

好ましくはあるが、やはり、理想的な提言は、「そのようにはいかない」のである。

「そのようにいかない」点はいくつかあるが、今日は「農業」のことについて書いてみる。

藤原先生は「農村を荒廃させてはならない」と仰るが、誰でも考えるように、今の日本で誰が農業をやりたがるだろうか、ということだ。

いくら年寄りが「最近の若者はだらしがない、昔はみんな喜んで体を使う仕事をやったもんだ」などと言おうが、きつくて汚れる仕事は誰もやりたくないのである。

食糧自給率を上げることは国の最重要課題であるのに、充分な対策も打ち出せないまま、外国の農産物がどんどん入ってくる。

誰が日本の農業や林業を継承していくのか。
いま、そういう生産業についてはどのような対策が考えられているのだろうか。
ニートに農業をやってもらおう、なんて話も出ているようだが、もともと何に対しても意欲の薄いニートにそんなことを要求するのも無理がある。

しかし、もし自分の息子が「俺、農業やるよ」なんて言い出したとしたら、たいていの親は喜ぶんじゃないだろうか。うちの息子達がもしそんなこと言ったら私はすごく嬉しい。だって、自分からあえて地味できつい仕事を選ぼうなんて、それはその人間が「気骨がある」ということの証拠だもの。それは男の子を育てる母親にとって最も嬉しいことだ。
男の子は、出世しようがしまいが、金を儲けようが儲けまいが、「気骨」さえ育ってくれれば母親は満足するものだ。

だけど、農業やってる男に嫁は来ないだろうなあ、とも思う。
私だって農家の嫁になって泥にまみれ腰の曲がったお婆さんになりたくないから農家の嫁なんかになりたくなかった。

みんな自分は農業やりたくないくせに、「日本の農業を荒廃させてはならない」などと言う。

どうしたらいいのか。

ずっと前、「農役」 という記事を書いたが、子どもの頃に土から物を生産する経験をさせるのは(しかも本格的に)、何かのきっかけになるのではないかと思うのだがどうだろうか。

芽が出るのは嬉しい。収穫も嬉しい。

過日、夕食に食べたゴーヤの種、いつもと違って茶色く熟していたので6・7粒プランターに蒔いてみた。
昨日芽が三つ出ていてとても嬉しかった。お向かいのお宅に夏になるとゴーヤの涼しげなすだれが庭先にできていて羨ましかったのだが、うちも緑のカーテン、いつかできるだろうか。

長男が小学生の時、庭に埋めた柿の種から育った柿の木。春先に新芽をたくさん出す。その新芽の天ぷらは一年に一度の楽しみである。
新芽自体は味のあるものではないが、カリッと揚げるとたまらなくおいしい。なにより、含まれるビタミンCの量は凄いらしい。

個人的な園芸のレベルでは楽しい。しかし、農業はつらい。

でも、集合住宅に住む子供たちに、芋ほり遠足や校庭花壇の世話などよりもっと本格的で継続的な農業生産の経験を与えることはできないだろうか。

農業は辛い。でも辛いこともまた教えなければいけないのが教育だ。

______

去年、新聞の漫画評で知ったのだが「炭焼物語」という漫画がある。
昭和30年代の頃の炭焼きを生業とする青年の日常を描いたものだ。
職業選択の発想も自由もなく、ただ父親の仕事を自分のものとして引継いで行く職人の日々の暮らしの描写の中に、自然と一体化する人間の原点みたいなものが伝わってきてちょっと羨ましい。
ドラマチックな展開などは何もないが、とても好きな漫画だ。

高級品としての備長炭は近頃は空気清浄剤、石鹸、シャンプー、ご飯に入れて炊く、など、燃料以外の需要が多くなっている。

以前「木炭日和」という、村田喜代子のエッセイを読んだことがあるのだが、備長炭の空気清浄効果が文面から体に感じられるほど伝わってきて、「ぜひとも備長炭を買わねば」という気持ちに駆られたことを思い出す。

都会の人間が憧れるあのマイナスイオンを放出する備長炭は、今もどこかの山林で、寒い思いや熱い思いをしながら誰かが焼き続けているのだろうか。

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2006年5月17日 (水)

団塊は数、だけじゃない

昨日の新聞の見開き2面にわたって、「団塊は資源です」という宝島社の大きな広告。
すごく大きくてびっくりした。

団塊世代は壁を蹴散らし、痛快でしぶといエネルギーで、何かをしでかしてくれる、なんて書いてある。

たしかに数だけはすごい。

この大人数はその成長の節目々で社会に大きな影響を与えてきた。

受験や就職や結婚においても、いつも競争競争で、可哀想な世代だとも言われてきた。

しかし、平和が続き、経済発展途上の活気に満ちた日本で、その若き日々のほとんどを生きることができたのは、他のどの世代より幸せであったかもしれない。

その団塊世代の大量退職が目前に迫る。

退職後の生き方をそれぞれ模索していることだろうし、マスコミも団塊世代のこれからの役割や生きがいなどという特集をよく組む。

よく提案されるのが、空洞化した地域の連携のために尽力したらどうか、というものだ。

たしかに、子供の安全がおびやかされる地域の防犯や商店街の活性化など、地域コミュニティの復活は最重要課題だ。

しかし、と東京大学教授、松原隆一郎氏は言う;
「団塊世代が一般に持つ価値観は、商店街の立て直しやまちづくりには最も向かないものである。彼らこそ、大量生産・大量消費を享受して育ち、会社人間として消費社会やバブルを演出した世代なのだから。 
社会主義から米国流の経済思想へ___はやりの外来思想に寄りかかる権威性と流行好きも気になる。地域づくりは、異なる者同士が相互理解を築く営みであり、権威者の参入は悲劇でしかない。時間のかかる作業だから、流行性とも対極にある。
各地で今、30代の若手がまちづくりに成果をあげている。団塊組が後からそこに参入するなら、自らの価値観を反省する必要が要るだろう。社会で身につけてきた知恵や経験を捨てる覚悟。それができれば、他世代とつながる糸口は見えてくる。」

なかなか手厳しいがうなずける。
団塊世代人への個人的恨みでもあるのかとの感もあるが、この提言は、いつの時代も存在するいわゆる「ひとりよがりの老人」に向けられたものとして、心に刻む必要があるだろう。

自身が団塊世代である日本総合研究所所長、寺島実郎氏も同世代の価値観について指摘する;
「我々の価値観に蓄積されたものは『経済主義』と『私生活主義』であった」
「極端な抑圧や統制のない戦後という時代を生き、日本人として初めて『自分の人生を自分で決めうる世代』となったのが団塊であり、それが『私生活主義(ミーイズム)』への傾斜という価値観を身につけさせたといえる」
「団塊の世代が私生活主義に埋没したまま後代にのしかかる笠の雪となるのか、あるいは社会の一隅を支える力になるのか、日本の高齢化社会の姿はこの世代の覚悟にかかっているとさえいえる」

しかし、なんといっても今の日本の豊かさは、この世代の働き手のエネルギーによるところが大きいのだ。
負の部分だけに目を向けるのでなく、この大人数による消費は経済の活性化につながることを考えれば、定年後、楽しめる人は大いに私生活を楽しんだらいいと思う。

話は変わるが、日本の少子化の大きな原因の一つは、結婚しない男女が増えていることだと私はたびたび書いてきた。
「お見合い」  
「望む相手がみつからない」  など。

そんな時、haruさんのブログでこんな記事を読んで、すごくいいな、と思った。 →「出会いの場」

属する社会で適当な相手にめぐり会わない、合コンも結婚相談所も気が引ける、かといって縁談を持ってきてくれるおばさんも激減した昨今、男女の出会いというのは我々年配者が最も気を配らなければいけない問題の一つであると思う。

定年後、田舎暮らしに憧れる団塊世代も多いと聞く。どうせ田舎に行くなら、haruさんが紹介してくれたような場所づくりなどに挑戦してみたらどうだろう。

ペンションのような宿泊施設であれ、単なる観光拠点としてのたまり場のような場所であれ、若い人が集まり、出会いがあり、そこから、次世代がカップルとして巣立っていく、そしてそれははさらなる次世代へとつながっていく・・・、そのお手伝いができるなんて、なにものにも替えがたい喜びであり、こんなやりがいのある仕事があるだろうか、と思う。

・・・・と、ちょっと舞い上がってしまったが、退職後の生き方の一つとして一考に価するアイデアではないだろうか。

団塊世代は動くたびに社会に多大な影響を与えてきた。
その数の力はこれからの世の中にこそ、これまでで最も必要とされているのかもしれない。

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______

昨日の記事、寺島実郎氏の意見の後、一文が抜けておりました。
追記しておきます。

もう一度押していただければとても嬉しゅうございます→人気ブログランキング
おかげさまで、1ページ目に載りました。ありがとうございました。

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2006年5月16日 (火)

「背筋を伸ばす」に、真魚さんからコメントをいただいたのでそれに答える形で書きます。

>決して、国家なんてなくていい、これから個人主義でやっていこうなどとは言っていません。<

ええ、そうですね。そういう議論が1946年9月23日教育刷新委員会で行われたと、先週の朝日新聞に載ってました。
審議の焦点は「個人」と「公」の関係だったそうです。

「個人の自由が基礎になくてはならない」
「個人は協同生活を離れてはありえない」
「公のために生きる人を作ることが肝要」
「個人の完成にあまり重きを置くと、自分のために生きることが主になりがち」
「公に仕える人間を作るには個人を一度確立できるような段階を経なければならない」
    
・・・とまあ、こんなふうに、昔の人もいろいろ悩んでいたわけです。

>昭和22年の教育基本法について言えば、これが出た時、左翼はこの教育基本法を批判しました。<

ええ、時代に応じて主張は変わります。
「お国のために命を捧げてくださった兵隊さんのご遺族への遺族年金支給を!」と最も熱心に叫んでいたのは社会党だったそうですし、「A級戦犯の方々が靖国神社に祀られていない事をお気の毒に思う、早く祀ってさしあげなければ!」と叫んでいたのも社会党議員だったそうですね(これはA級戦犯だったかどうか記憶が定かではないのでちょっと違うかも知れません)。彼らは今の右翼が言いそうな事を言ってたということになります。

>小林よしのりの話によれば、「現代の日本人の精神は荒廃している」「これは戦後、左翼によるものである」「戦前の日本人には愛国心があった公の意識があった、立派だった」という話の流れになりますが<

このような単純な論理展開の目くらましは真魚さんらしくないと思います。

>社会の変革なくして個人の幸福はありえないというのが、終戦から昭和30年の頃までの日本では広くあった考え方<

これは普遍的な考え方ですね。だからこそ、左翼政党は「社会の変革」つまり社会主義社会に変革することが個人の幸福につながるんだと主張したんですね。
これと、「公に奉仕する」「国家の一員としての自覚を持つ」ということとは話が違うのではないですか。

>教育の荒廃について、・・・・・ 「豊かになったから」だと思うんですよ。<

はい、そのことは私もyahoo掲示板をやってた頃から何度も言っていましたし、このブログでも書いてます。豊かさは享楽を生む、これは何も私が言わなくても誰もがそう思います。

で、「国益」とは豊かさの維持であり、さらなる豊かさの追求という意味であるなら、その「国益」のために、なんで「愛国心」をことさら国民に教え込まなければならないのだ、と誰もが思いますよね。

だって、豊かさが堕落を生むなら、そんな豊かさは不要じゃありませんか。

だけど、国民はさらなる豊かさを望みます。「いや、小さな幸せでいいのにそれすらない。」と言うのなら、やはり、社会主義国家を望むんですか。もうわけわからないですね。

だから、私は、何度も言ってるように、豊かなまま、堕落しないような教育が必要だ、と言ってるんです。
愛国心が法律に書いてあろうがなかろうが、自分を律することのできる人はそうしようとするでしょうが、今の世の中ではそれが非常にできにくくなってきています。

それは私が繰り返し言ってきたことで、「家庭のポリシーを貫くことができない社会状況になっている」ということです。

これは真魚さんのお書きになった【 学校というのは建前を教える所ですが、例えば学校で先生が嘘をついてはいけませんと子供に教えたとしても、子供は学校から一歩外へ出れば、もうそこは建前ではなく本音の世界です。学校の教室では、お金では計ることができない価値がこの世にはあると言っても、家に帰ってテレビをつけるとホリエモンが「カネで買えないものはありませんよ」という世の中になったんだということです 】ということと全く同じことです。

ではどうするのか。

丸山真男・・・こういった立派な先生方のお仰ることは確かに立派で理想的なんだと思います。私はその著作を読んだこともありませんので批判する資格はありませんが、家庭や学校という実際の現場で、いったい具体的にどうするのか、ということについては、立派な先生方はあまり仰らないのではないですか。

>こうしたスタイルそのものが、戦前の軍国教育と同じスタイルなんです。<
>教師にとっても子供たちにとっても学校が管理と抑圧の場でしかならなくなっているということ<

       ↑
真魚さんの仰るこういうことは偉い先生の仰ることと同じで具体性がないんです。

私は戦前戦中をよく覚えている人間を親に持っていますから、そのころの世の中の様子について話を聞いていますが、決してファシズムに席巻された息苦しいものではなかったとの印象を持っています。もちろんすごく生活は苦しかったでしょうが。
学校では天皇陛下を拝んでいたけれど、実際は茶化したりもしていたし誰も天皇を神様だなんて思ってなかった、と聞いています。(そんなことを密告されて一般家庭の人間がとっ捕まるなんてことはなかったようです)私はこれを聞いて日本人って健全だな、と思ったのです。
子供たちは、「ぜいたくは敵だ」というスローガンが書かれた看板に「素」を書き加えて「ぜいたくは素敵だ」と書き換えるいたずらなども面白がってやっていた、なんていう話も聞いています。

一言で言えば、「天皇という神を中心に国民が盲目的に一丸となっていた」というより、「国民は今よりもっと良い暮らしを得るためのアジア進出」という極めて現実的な納得のしかたをしていたんじゃないかと思うのです。

で、何を言いたかったかというと、学校でどんな教育をされようが、一歩社会に出れば、そこには違う価値観があり、子供たちはその価値観に否応なくさらされる、というのは昔も今も変わりはないということです。

ただ、昔と今で大きく違うのは、やはり、その「社会」が「豊か」で「享楽的」ということですね。

これがいけないというのであれば、もう一度貧乏になるしかないわけです。

でも、貧乏になるのがいやだったら、豊かなまま、身を律するにはどうしたらいいかを具体的に考えなきゃいけない、ということです。

「愛国心」というたった一言の文言を書き加えれば、子供たちは劇的に立派になるかといえば、誰もそんなことは思わないわけです。

誰だって、ではどうしたらこの豊かさがもたらした堕落がなおるか、に対しての答えを持ってなくて途方に暮れているわけですね。

しかしながら、例えば「農役」(これは以前書きました)、「偉人伝を読ませる」、「国語、道徳、歴史教育に力を入れる」、「嫌国教師をやめさせる」(これはkakuさんのアイデア)、こういった具体的なことをまずさっさと始めてみないと、理念みたいなことをいつまでもごちゃごちゃ言ってたって、子供たちはどんどん育っていっちゃうんです。

私ね、なにもこんなに愛国心だの教育だの一生懸命言わなくたってぜんぜん自分の生活や幸福に関係ないんですよ。(間接的には当然ありますが)
私はいったい、自分の生活に関係のないことを、なぜこんなに一生懸命訴えてるんだろう、私はいったい何のためにこんなことやってるんだろう、と考えると、それはやっぱり、愛国心に他ならない、と思うわけで、みなさんだって、国を憂えてあれこれ意見を言うのはやっぱり愛国心を持っているからだと思います。

憂国は愛国から生ずるものです。
やむにやまれぬ大和魂ってやつですかね。

こういう議論を、これから子育てをするであろう若い人たちに見てもらえれば、そのことにこそ意味があると私は思います。

____

だからブログランキングでもっと上位に押し上げて、
できれば、25位以内に入れば、
多くの人に見てもらえて、
私はもうブログをこんなに毎日一生懸命書くのをやめて、
もっとやらねばならぬことをやらねば。
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2006年5月15日 (月)

格差・・・?

昨日の日曜日は「母の日」であった。

夕方、買い物に行ったら、スーパーの入り口で、お花の特設売り場ができていて、花束や籠入りのアレンジメントなど大小とりまぜ並べられ、若い女性たちが群がっていた。
良い光景だなあと思って眺めていた。
みんなお母さん好きなんだね。

ちかごろの若者はおかしい、なんて言うけれど、思いやりのあるまともな若者だって少なくない。

私は、健全な日本人の姿を目にするたびに思う;
「政治が格差社会を作った、なんて言われるけど、格差というのは、何も経済的なことばかりじゃない。」
「日本人のいろいろな面で格差が現れているとしたら、それは現政府が作ったというより、我々国民自身に何かが欠落しているせいだ。」

ニートやフリーターが増えているのを、「頑張っているのに報われない社会のしくみのせい」と人々は声高に政府をなじる。
たしかに、政策の不備はあろう。そのために浮かび上がれない人々もいよう。改善に向けて努力をしなくてはいけないのは、いつの時代も同じだ。

しかし、この「格差」というのは、「経済的なこと」以前に、「人間の質」という根本的なところで、それが作られていっているような気がしてならない。

例えば、「知」という分野では;
「知りたい」「教養を身につけたい」と望む人がすごく増えている一方で、本も読まない、芸術にも、学校の授業や講義にも興味がない、という人もすごく増えている。

体を鍛える、ということに関しても;
国際的に日本人スポーツ選手の活躍がめざましかったり、体を鍛えることに熱心な人たちが増えている一方で、体を動かしたくないぐーたら人間もすごく増えている。

先日、フジテレビの夕方のニュースでこんなトピックがあった;

ゴールデンウィークの真っ只中、多摩川の河川敷で、家族や若者グループがあちこちでバーべキューなど楽しんでいるのをスタッフが取材していた。
酒に酔って裸で駆け回る、後片付けをしない、バーベキューの鉄板を川で洗う、そういった不心得者がいる一方で、ゴミを拾い集め、きちんと後片付けをしている若者グループもいて、取材班は彼らにインタビューを試みた。

スタッフが「ちゃんと片づけして、偉いですね」と声をかけると、彼らは笑いながら快活に答える。

「当たり前じゃないですかあ。あんなギャル男と一緒にしないでくださいよー」

公徳心においても「格差」は開いている。

うーむ、あらゆる面での日本人の格差が開いている原因はいったいなんであろうか。

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ランキング、良い感じでアップしています。
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2006年5月13日 (土)

「愛」 「国」 「心」

今朝の読売テレビ「ウェークアップ」での教育基本法改正(第2条)についての話;

与党案: 「我が国と郷土を愛するとともに、・・・」

民主党案: 「日本を愛する心を涵養し、・・・」

司会の辛坊キャスターが、「与党案は、『国』と『愛』が入ってて、『心』が入ってないんですね。で、民主党案のほうは、『愛』と『心』は入ってるけど、『国』がないんですね。」と、笑いをかみころしていました。

どうも、「愛」、「国」、「心」、この三つが揃うと何かいけないものが発生するようです。

笑っちゃうよね。

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昨日の記事はご支持いただけたようで、
おかげさまでランキング、一気に上がりました。
あと一息で、(たぶんあと3,4人のかたが押してくだされば)
1ページ目に載ると思うのです。
そうなれば、より多くのかたがたに読んでいただけると思います。
排他的な右や左の考え方でなく、
主婦の素朴な思いを
多くのかたがたに知っていただきたいと願っています。
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2006年5月12日 (金)

背筋を伸ばす

真魚さんのコメント欄の言葉。

>自民党と公明党がやっていることは、教育基本法の文章の文言についてだけという気がします。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文章を入れただけです<

ええ、そうですね。ですから、私も「入れても入れなくてもどっちでも良い」と言っています。
そんなもの入れようが入れるまいがさっさと愛国教育を実行すればいいだけのことですから。
だから、「法律にそういうものを書かないと愛国教育はできないのか」と書きました。
ただ、その言葉を書き込むことで、方針は明示されますよね。

>戦後の教育から「愛国」を除いたのは左翼ではなくGHQです<

そうですね。GHQは日本を二度と軍国主義のもと、一丸とならせないために、憲法からも教育基本法からも、「愛国」「国防」の理念を排除しました。

でも、前にも書きましたが、私の小学校時代(昭和29年~35年)には学校では何の違和感もなく騒ぎもなく、日の丸を掲揚し、君が代を大きな声で歌っていました。
1960年頃から学校現場では日教組という左翼勢力が大きな力を持つようになり、それが左翼政治家左翼マスコミとともに「国家」のやることなすことに反対してきた、その中で、個人を国家の一員とする教育にも強く反対する風潮が生まれたのではなかったのですか。

世界中どの国でも、「個人の質を高める」と同時に「国家の一員を育てる」こととして教育を考えていると思いますがどうでしょうか。

ところが日本では、「個人」のほうに偏り過ぎてしまったのだと、これは、多くの人が指摘しますし、私もそう思います。

「それが精神の荒廃につながっているとは言えない」、と愛国心盛り込み反対派の人たちは言います。

こういう言い分には、桐蔭横浜大学学長 鵜川昇「『日本』がなくなる日」を紹介したいと思います。

例えば、ある文章を要約すると;

「教育の荒廃は、教育基本法にあるわけではない、と言うなら、教育の重大問題が起こり、教育の基本のところが問われていながら、それと無関係な『教育基本法』とはそも何なのか。そんなに教育に対して無力な、役にも立たないものであるなら、むしろ、その理由においてこそ、廃止ないしは改良しなければならない。」

「教育行政」は「愛国心」とは関係ない、と思いますか。教育に日本人の魂は必要ないと思いますか。

同じ敗戦国でありながら、ドイツが自虐を引きずらなかったのは、ドイツの魂を売ってはならないと説くオピニオン・リーダーの存在があり、国民もそれを胸に刻んだからだ、と何かで読んだことがあります。

ドイツは誇りを失わなかったけれど、日本人はその「誇り」を「邪悪なもの」として封じ込めてしまいました。

そもそもアメリカの走狗である日本人に「誇り」などとはちゃんちゃらおかしい、と言う人はいますか。私はそういう人には、「アメリカの政策に右往左往することなく、内心に誇りを秘め、じっと我慢、じっくり待つ、そういう姿勢でいるのが知恵というものだ」と言いたい。

私はどうして反対派があのように強硬に教育基本法に愛国心を「書くな書くな」と主張するのかわからないのですよ。

「愛国派」が、「書け書け」と強硬に主張するからですか。

あちらとしては、「反対派が『書くな書くな』とむやみに言うから、こっちも『書け書け』と叫ぶ羽目になる」って言うかもしれませんよ。

両者ともにいわゆるひとつの「意地」ってやつですか。

私としては、「ええい、じれったい。書こうが書くまいが、そんなもんどっちゃでもええがな。子らに国家意識を少しは持たせる教育を早よせんかい」って気分です。

単なる形式なんですからそんなに必死になって阻止しなくたっていいと思うんですよね。

でも、形式って案外大切なもんなんですよ。

卒業式や入学式には式次第がありますし、手紙には拝啓だの謹啓だの前略だの草々だのかしこだの書きますし、高校野球では主将は選手宣誓しますし、歌舞伎役者は口上述べますし、横綱は土俵入りします。そんなもの必要ないというかもしれないけど、「形式」を踏襲することで、人の背筋はビシッと伸びるんです。

いいじゃないですか。「国を愛する心」って書いたって。

だめ?

やっぱ書いちゃだめ?

       

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2006年5月10日 (水)

「踏むがいい」

遠藤周作の「沈黙」をご存知ですか。
私はあの名作を読んでいなかったけれど、有名な結末「キリストの『踏むがいい』という声が聞こえた」という箇所だけは知識として知っていて、アメリカに対しては世界はその判断を採用する必要があるのではないか、といつも思っていました。

この連休、ふと思い立って読んでみました。(面白く読みやすく、あっという間に読了しました)
それは期待していた以上に、大きく強く私の思いを後押ししてくれました。

遠藤にとっては、この作品はキリスト者の信仰の迷いを表現することがメインだったのかもしれません。
しかし、私には、もっともっと大きなもの、個人の信仰を超えた大きなものの啓示と思えてなりません。

私は前エントリーに対して「アメリカのような悪い国に従うのか」という反論を受けたら、この「沈黙」を引用して説明しようと思っていました。

背教した。でも決して悪魔に魂を売り渡したんじゃない。もっともっと大きな愛のためにそれをするんだ。

地上にあるさまざまな宗教など超越した大いなる成果のため、私たちが決意しなければならないことがあると私は思います。

個人のちっぽけな「信仰」を捨てることで、拷問を受けている哀れな農民たちが解放された。この「沈黙」の内容は私の思いと合致します。

アメリカは善意だけの国ではない、たしかにそうでしょう。
自国の国益のためにやっている、たしかにそうでしょう。

しかし、そのアメリカと仲良くしてどうでしたか。
私たち、幸せだったじゃありませんか。
この幸せまで否定しますか。
この幸せを紛争地域に伝えたいと思いませんか。

たしかに未来永劫アメリカが強いとは言えません。

だから、とりあえずの平和でいいんです。

でも、そのとりあえずの平和の中から、人は民主主義や技術の発達の素晴らしさを知り、生活の向上の幸せとそれを維持するための知恵を絞るようになるんじゃないですか。共存するにはどうしたらいいか、真剣に考える余裕も生まれてくるんじゃないですか。

私はミッションスクールで教育を受けました。キリスト教を自身の信仰として受け入れることはありませんでしたが、チャプレンの説教の中、今も強く心に残る言葉があります。

その先生はこう言いました;
「世の中にはいろいろな宗教があります。
 人はそれぞれ違う宗教を信じます。
 でも、どんな宗教も、その根底にあるものは同じです。
 それは愛です」

この言葉はキリスト教にさまざまな疑問を感じていた私の心に染み入りました。

普遍的な愛の成就のために、踏絵、踏んでもいいじゃないですか。

情緒的過ぎる言い方になってしまいましたが、ウヨクでもサヨクでもない普通のおばちゃんが世界の民族紛争宗教戦争を見ていて、素朴に感じることです(そしてそれはたぶん真理)。
真理というものは常に単純なものだと思います。

もし、神様が存在するなら、仰ると思います、「踏むがいい」と。

          
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2006年5月 8日 (月)

幸せのつかみかた

何をかくそう、私は平和主義者だ。争いは避けるし、争っているさまを見るのも嫌だ。

平和な世で、陽だまりの中、音楽を聴きながらゆっくり読書や編み物をしたり、さわやかな風のそよぐ水辺や木立の中、家族や友人とピクニックを楽しんだり、今はまだいないけど孫たちと遊んでやったり読み書き算術を教えてやったり、ぜいたくはしなくてもそんなささやかな幸せに浸りながら余生を過ごしたいと思う。

しかし、ほとんどの人がそういう幸せを望んでいるだろうに、分け合えばこういうことは可能になるだろうに、世界はそうなろうとしない。

右翼や左翼やタカ派やハト派、自由競争や平等主義、人は、世の中はこうあるべき、とそれぞれ主張はするのだが、私は実のところ、人間がいったい何を望んでいるのかわからない。いや、「人間が」というより、「平和、反戦、よって反米、を叫ぶ人たちが」と言ったほうがいいだろう。

私は以前から、アメリカの言うことをきけば世界は平和になるんじゃないか、と言ってきた。→「アメリカってそんなに悪い?」など。

アメリカは誰が何と言おうが世界で一番強い。世界の警察を買ってでて、押し付けであろうと何であろうと、民主主義というものを世界中に広めようとしている。

そのアメリカの強引な振る舞いを快く思わない人たちはアメリカの批判をする。でも、果たしてアメリカの批判をすることが平和につながることなのか、私は疑問に思う。

世界中がアメリカの味方をし、アメリカの言う「世界の秩序を乱す悪い国」包囲網を作れば、世界は手っ取り早く平和になると思うのだがどうだろうか。

何と言ってもアメリカは強い。その強いアメリカに抵抗し続ければ当然戦闘は長引く。平和は遠のく。
日本はアメリカと同盟関係を結び、軍隊を持たずとも安心して経済発展に力を注ぐことができた。そして日本は豊かになった。

アメリカと仲良くしておくとこんなに平和で豊かになれるんだ、と中東の不安定な国々に教えてあげたい。あなたたちが本当はアメリカ文化が大好きなんだということも聞いている。意地を張らないで民主主義を受け入れたらどうなの。
とりあえずの平和でもいいじゃないの。とりあえず戦闘が収まるだけでもいいじゃないの。血が流れるのを止められるんだよ。

私は、だから、反米を叫ぶ人たちが、ほんとうに平和を願っているのだろうか、ほんとうに戦闘地域の子供たちを哀れんでいるのだろうかと、むしろ訝しく思う。
反戦デモに参加しながら、それが終われば友人とお茶を楽しみ、趣味を楽しみ、旅行を楽しみ、そういう安寧な日常生活を送っている平和主義者たち。こういうささやかな平和的日常を一日も早くあの悲惨な境遇の人たちに味わってもらいたいと私は思う。

お願いだから、アメリカの言うことをきいて、と思う。
反戦反米を叫ぶ人たちは、ほんとうに戦争が嫌なのではなくて、ただ、大きくて強いものに逆らいたいだけなんじゃないかとさえ思ってしまうのだ。

しかしながら、誰もが思うだろう。
「独立国としての誇り」はどうなるのだ、と。アメリカの言いなりになっている自国に「愛国」の心など芽生えるだろうか、と。

その点については悩んで当然だと思う。
しかし、ここはひとつ、日本ならではの「曖昧さ」を含んだしたたかな生き方を日本人全体の共通認識として持つことはできないだろうか。

あいまい、器用、ドライ、ちゃっかり、何とでも言いなはれ。生き延びるっちゅうことは、そういうこっちゃ、というしたたかさをもって世渡り上手になることも必要ではないか。

人間というのはひとくくりにできない複雑な存在だ。
「筋を通す」だけでも生きられないし、「プライド」を捨てることも恥ずかしい。

世界中を見渡しても、筋を通すだけで生き延びている国があるか。また、誇りを捨てて卑屈一辺倒の国があるか。

みんな国としての誇りを持ちつつ、苦悩しながら、生き延びよう、より豊かになろうと、方針を変えたり保持してきたものを捨てたり新しいものを取り入れたりしてきたのではないか。

ここのところを理解すれば、日本人、世界の中で、もっとうまく生きていけるような気がする。

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次に、問題となっている「愛国心教育」について書いてみます。

ととさんのコメントから; 

>官主導の愛国教育にためらいがある<

これは、お上の主導する教育は嫌だ、という意味だと思いますが、では、誰が主導すればいいでしょうか。
それとも、誰も主導しなくても、国民は自発的に国家意識を持つようになるんでしょうか。
国家運営というものが国民の国家意識なしにうまくいくのかどうか、私にはわかりません。
でも、国というのは利害を共有する共同体ということですよね。
だから、最低限、「我々は共通の利害関係で結ばれている」という意識を持たせることは必要なんじゃないでしょうか。
バラバラでは、対外的に損をする、ただそれだけのことなんじゃないでしょうか。何も高級な信条ではないと曽野綾子さんが言うのはそういう意味だと理解します。

で、そういう国際外交の面では、ちゃんと国の偉い人がしっかりやってくれさえすればいい、というのが、愛国心教育反対の人たちの言い分だと思うのですが、最低限、国民のほうだって、国家の意識を持っていてくれないと、外交の足を引っ張りかねないですよね。

教育基本法に愛国心なんか書き込まなくたって良いじゃないか、国土を守らなければ我々は損をするんだ、という教育さえすれば良いじゃないか、と言われるかもしれませんが、そこが人間の人間たる所以で、無味乾燥な論理だけの領土認識教育だけで、子供たちの心が動くか、ということです。

人は何によって心を動かされるのか。そこには必ず情緒が必要となります。人間の行動の原動力は感動です。

この美しい国土を守り育て、日本という国の歴史を作ってきたさまざまな先人たちの心をも継承していく決意がなければ、なんで愛国心など芽生えましょうか。

私が「国を愛せ」と押し付けるだけの教育に違和感を感じる、と言うのは、日本人としての情緒の発露なくして「愛」が生まれるかということです。

ところで、5月4日の朝日新聞「変わる憲法論議」に、政治家が改憲や愛国心に関して苦慮している様子が載っていました。

【これまでの議論では、いずれも「国民と国家が向かい合って対立している」イメージがあった。だが、「国民と国家が同じ方向を向いて、議論し協力し合う」という考え方もあっていい。】

【国民が公権力を縛るという考え方が、日本中に個人主義や利己主義を広めた。そうしたいら立ちは、自民党内に根強い。】

【国民に国家への参画、献身を求めていくという基本線は崩さないまま、「復古調」を脱色し、より説得力のある理屈付けはできないか。】

【米国のケネディ元大統領の言葉を引き、谷垣氏は語る。「“国家が君のために何をするかを問うな。君が国家のために何をするかを問え”。これこそ民主主義の神髄だ。」】

記事の最後の、民主党の枝野幸男氏の言葉は、国民と国家の関係の論議の堂々巡りをよく表していて笑っちゃいました。

【国民が公権力に命令するにあたり、「おれたちもちゃんとやるから、お前たちもちゃんとやれ」という憲法の書き方はあると、枝野氏は言う。例えば、我々国民は良好な環境を次世代に残す努力をする、国もそのように公権力を行使せよ、といった具合だ。】

おれたちもちゃんとやるから、って、「おれたち」は最初から自立し自発的にちゃんとやるんですか。
やっぱり、誰かがちゃんとやらせるしかないんじゃないですか。

ととさんの「左翼」についての疑問ですが、小林よしのりは、「左翼」と「うす甘いサヨク」という表現で区別しているようです。そしてたぶん、これはおおかたの人がそのように程度の差で区別しているのではないかと思います。

「左翼」はたしかに怖いですね。
同じく、過激な右翼も怖いです。
ととさんがご覧になったような過激なブログはほんとにいったい何やってんだろうと私も思います。

相手をやっつけるだけが目的のああいったブログは相手にしなくてもいいのではないかと思います。
そういうブログがランキングの上位にあるのも癪ですけど。

ただ、私が、「あんたたち本当に平和が好きなの?」と言いたくなるのは、以前掲示板をやっていた時に、サヨクの人たちから執拗で陰湿な書き込みをされたり、その他いろいろなサイトでそういうサヨクの人たちの攻撃性や陰湿さを見てきたからです。このブログの最初のほうにもあります。「平和主義者のくせになんだよー」と言いたくなります。私の文章の中に時々そういう人たちへのうらみ節があらわれますが、ととさんには関係ないので気にしないでください。

>過去において”左翼”が国の領土政策に影響を与えるほど,国民から信頼され力を持っていたことも知りませんでした. robitaさんの記事を読むと,今の領土の問題は”左翼”のせいだと思えるので,そうだったの?と驚いています.<

60年安保の頃からでしょうかね。社会党共産党は大きな力を持っていましたし(なんといっても共産主義国ソ連はアメリカと並ぶ大国でしたからね)、その頃いわゆる左翼言論人はもてはやされ、社会に多大な影響を与えていたと思いますよ。

生まれた時からそういう社会の空気の中で育てば、それが当たり前になりますよね。共産主義は人間に合わないとわかった後もそういった雰囲気をなんとな~く身にまとった人たちや、反戦さえ叫んでいれば平和がやってくると思い込んでいる人たちを、小林よしのりは「うす甘いサヨク」と呼んでいるのじゃないかと思います。

思いつくままにあれこれ書いていたらとても長くなってしまいました。

真魚さんのコメントに、ちゃんと返事していないけれど、上の文章では答えになってないでしょうか。
「たくさんのごちゃごちゃしたもの」の共存に憧れる真魚さんの気持ちはよくわかります。
どこの国もごちゃごちゃしたもので成り立っていると思うし、地域々でそれぞれ特色があるでしょう。

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2006年5月 1日 (月)

「狭量な国粋主義は愛国の体を成さない」

「必需品としての愛国心」に、ととさんが書いてくださったコメントを読みながら、「うーん」と、そこかしこで立ち止まってしまいます。愛国心に対する基本認識のあまりの違い(違いというより、これはまったく土台が異なるのではないかという思い)に、何を言っても徒労に終わるのではないかと一種あきらめのような気分に陥ります。これは、ととさんの側からしても同じことなのだろうと推測します。

この議論のフィールドの違いは、年配者と若者の世代間のギャップによるものではなく、年令に関係のない「認識の違い」と私は思います。

徒労に終わるのではないか、などと、最初から疲労感を覚えてしまっては、良い国を作ることなんてできませんから、私なりに奮起して、少しずつ書いていくことにします。愛国教育に懐疑的なととさんとtomoさんに答える形で書いていくと思いますが、お二人に対する直接的な返答でない部分も出てくるかと思います。「そんなことは言っていない」と思われる文章には、単に私が普段から思っていること、とご理解いただけると有難いです。

ととさんのコメントは正しく、一つ一つに同感です。

中国についてですが,あの国の人たちの愛国心は

いやですね。排他的で。

誤解があるようですが、私は中国のような愛国教育を是としているのではありません。

私は「狭量な国粋主義は愛国の体を成さない」と思っていますが、ほとんどの人は同じように思うんじゃないでしょうか。中国のような愛国教育は、かえって国益を損なうと思うのですが、あのような形で教育せざるを得ない共産党独裁政権の哀しさを感じますね。彼らは是が非でも政権を維持しなければならない。必死なのでしょう。

「教育」というのは、言うまでもなく、「個人としての質を高める」ということと「国民としての意識を持たせる」という二つの柱があるわけです。
中国のような国粋主義は否定して当然だけれども、「国家国民としての教育」という国家存続のための最低限の教育までも否定はできないのではないですか。

日本のような国で愛国が国粋主義に移行するとは私にはどうしても思えません。私は日本人のその点での健全さを信じていますから。

>マスコミの流すことですから,この意見が100人中90人なのか,100人中1人なのかわかんないですよね.メディアは,センセーショナルなことや,珍しいことを好みますので.この場面でのみ若者の意識を理解してしまったら,判断を誤るかもしれません.<

そうですね。でも、日本人が領土に無関心なのは、何も私が言わなくても、多くの人が指摘するところです。日本人に蔓延する無関心を象徴的にとらえた場面と理解してください。
この「若者」のところを「おばさん」や「おじさん」に置き換えてもいいのです。

私もついこの間まで領土に無関心だったし、日本がこんなに広い海域を所有しているなんて知りませんでした。学校でそういうことを教わった記憶もありません。

>そう考えると,領土のことを大切にしていなかったのは,若い世代なのではなく,国を動かしてきた人たちだとも言えます.(そういえば,拉致問題に知らぬふりを決め込んで,北朝鮮にコメを送っていた自民党議員もいましたしね.)<

まったく仰るとおりです。

>それが全部"左翼"のせいだったのかどうかは知りませんが,一応,政権を持っていたのはほとんどの期間自民党ですので,自民党の中に"左翼"がいたのかもしれません.<

自民党内の左翼、というのでなく、「北朝鮮利権」というものが存在し、甘い汁を吸っていた政治家が自民党の中にも左翼政党の中にも存在したということです。まったくひどい話です。言いたくない言葉だけれど、まさに「売国奴」ではないでしょうか。

でも、考えてみるに、こういう利権がらみの政治家でなかったとしても、北朝鮮にはっきりものを言ったり、不審船を追いかけ、捕まえて尋問したりできなかっただろうなあ、と思いますよ。日本はそういう毅然とした態度がとれない国家体制になっているからです。

>愛国教育という,個人の心に触れるような法律を作るとき,多少臆病になっても「よく考えよう.100年後もこの法律が残ることを考えて,いろんなことを想像してみよう」という日本人は,私はすごく健康だと思います.
愛国教育にためらいを感じると発言できる日本のことを,私は大好きです.<

「個人の心に触れる」ことと、「国を大事に思い、その発展を願う」こととはまったく別の問題だ、といくら言っても無理なんでしょうね。
そこがどうしても連動してしまうのは仕方のないことなのかな。これについてはどう言ったらいいのか、おいおい考えていくことにします。これを読んでる人が何か良い言葉をかけてくださるといいのですが。

>ちなみに私の愛国心は,勤労と納税で実行しております.<

国民の義務ですね。
ととさんの仰る愛国心は、この場合、「良き国民としての公共心」という意味だと思います。

>それに比べて一部のお役人の官製談合やら,天下りやら,無意味な施設の建設やら,私からみると愛国心のかけらもありません.<

まったく仰るとおり。どうしてこんな役人がいるのか、どうしてその強固なしがらみを壊すことができない政治家しか生まれないのか、それが問題ですね。

>だからrobitaさんのお嫌いな"左翼"の人も,「国を愛する」気持ちから自分の意見を言っているだけなのではないでしょうか?<

私だけがお嫌いなのではなく、近年の左翼勢力の凋落は日本人が目覚め始めたことの表れだと私は思っているのですが。

愛国心教育が特に必要でないというなら、それでも私はいいんじゃないか、と思っています。

公の意識や道徳を教えるだけで独立国としての誇りを持つ国民ができるのかどうか、私にはわかりません。

しかし今の子供たち、若者たちが変だというなら、どうしてそうなったのかを本気で分析してみなければなりません。

私は「昔から大人は子供の行状には悩まされてきた。イジメもあったし、不登校もあったし、少年犯罪だってあった」と思っていますが、こういうことだけはなかったのではないか:

学力低下
学級崩壊
家庭内暴力
親殺し
若者の無気力

たしかに、こういったことも、昔からあったでしょう。
しかし、多い。びっくりするほど多い。

こういうことが、個人主義に重きを置くあまりの「この国を大事に思わない心」からきているのか、そうでないのか、それは私にはわかりません。

愛国心教育などしなくたって、日本の精神の荒廃はなんとかできる、というのだったら、別にそんなものわざわざ教え込まなくたっていいですよね。
でも、それが必要だ、という人たちは、通りいっぺんの道徳教育だけではもうどうにもならないのではないか、という懸念があるから、「日本人としての誇り」を取り戻そう、国の精神を荒廃させてはならない、と思うんじゃないですか。

大人がきちんと模範を示さないからだ、という人がいますが、そもそもその大人にしてからが愛国心教育を受けていないのです。いまさらどうやって大人を「しっかりせよ」と再教育などできるでしょうか。今から子供たちを国家が責任をもって教育するしかないじゃありませんか。

領土のことにしても、竹島や尖閣なんか失ったって、別に国益にそう影響があるわけじゃない、というなら、韓国にでも中国にでもお譲りしたっていいと私は思うんです。

でも、国の大きな損失になるんだとしたら、そう簡単に手放してもいいとは思えません。

近隣諸国との摩擦を避け、「負けるが勝ち」の精神で行こうじゃないか、領土を取られて、資源も取られて、少しぐらい貧しくなってもいいじゃないか、みんな仲良くしようよ、というのなら、私はむしろ大賛成です。トラブルはほんとうに面倒くさい。そんなものから遠ざかっていたい。

でも、「貧しいのはいやだ」と国民は言ってるんです。

蛇口をひねればお湯が出る生活をしたい、時にはステーキも食べたい、海外旅行もしたい、子供を大学にやりたいと、しきりに言ってるんです。

豊かな生活を失いたくないのなら、自国の広さとその歴史を知り、それを守ろうとする気概ぐらいあって当然のことだと思うのですが、どうでしょうか。

国民が心を一つにしてこの国を良い国にしようと決意するのが、どうしていけないことなのか私にはわかりません。(この「心をひとつにして」というのも比喩的な表現なので怖がらないでくださいね)

いろいろな人が、「諸外国では愛国心教育は普通に行われているが、日本人はあまりにも国家意識が薄い」と言います。
私は、外国の教育事情を知りませんが、日本がその点で外国とどのくらい違うのかどなたか教えていただけると嬉しいです。

国に考えを押し付けてほしくない、というなら、自分たちで考え、それを公表していくしかありません。
ブログはそういう意味でも非常に有効な手段だと思います。

まだまだ言い足りないことはたくさんあるし、これからもたくさん出てくるとは思います。

私の記事に反論する文章を作ることもおそらく大変だろうし、時間がかかると思います。

ゆっくりやっていきましょう。

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