桜
「背筋を伸ばす」に、真魚さんからコメントをいただいたのでそれに答える形で書きます。
>決して、国家なんてなくていい、これから個人主義でやっていこうなどとは言っていません。<
ええ、そうですね。そういう議論が1946年9月23日教育刷新委員会で行われたと、先週の朝日新聞に載ってました。
審議の焦点は「個人」と「公」の関係だったそうです。
「個人の自由が基礎になくてはならない」
「個人は協同生活を離れてはありえない」
「公のために生きる人を作ることが肝要」
「個人の完成にあまり重きを置くと、自分のために生きることが主になりがち」
「公に仕える人間を作るには個人を一度確立できるような段階を経なければならない」
・・・とまあ、こんなふうに、昔の人もいろいろ悩んでいたわけです。
>昭和22年の教育基本法について言えば、これが出た時、左翼はこの教育基本法を批判しました。<
ええ、時代に応じて主張は変わります。
「お国のために命を捧げてくださった兵隊さんのご遺族への遺族年金支給を!」と最も熱心に叫んでいたのは社会党だったそうですし、「A級戦犯の方々が靖国神社に祀られていない事をお気の毒に思う、早く祀ってさしあげなければ!」と叫んでいたのも社会党議員だったそうですね(これはA級戦犯だったかどうか記憶が定かではないのでちょっと違うかも知れません)。彼らは今の右翼が言いそうな事を言ってたということになります。
>小林よしのりの話によれば、「現代の日本人の精神は荒廃している」「これは戦後、左翼によるものである」「戦前の日本人には愛国心があった公の意識があった、立派だった」という話の流れになりますが<
このような単純な論理展開の目くらましは真魚さんらしくないと思います。
>社会の変革なくして個人の幸福はありえないというのが、終戦から昭和30年の頃までの日本では広くあった考え方<
これは普遍的な考え方ですね。だからこそ、左翼政党は「社会の変革」つまり社会主義社会に変革することが個人の幸福につながるんだと主張したんですね。
これと、「公に奉仕する」「国家の一員としての自覚を持つ」ということとは話が違うのではないですか。
>教育の荒廃について、・・・・・ 「豊かになったから」だと思うんですよ。<
はい、そのことは私もyahoo掲示板をやってた頃から何度も言っていましたし、このブログでも書いてます。豊かさは享楽を生む、これは何も私が言わなくても誰もがそう思います。
で、「国益」とは豊かさの維持であり、さらなる豊かさの追求という意味であるなら、その「国益」のために、なんで「愛国心」をことさら国民に教え込まなければならないのだ、と誰もが思いますよね。
だって、豊かさが堕落を生むなら、そんな豊かさは不要じゃありませんか。
だけど、国民はさらなる豊かさを望みます。「いや、小さな幸せでいいのにそれすらない。」と言うのなら、やはり、社会主義国家を望むんですか。もうわけわからないですね。
だから、私は、何度も言ってるように、豊かなまま、堕落しないような教育が必要だ、と言ってるんです。
愛国心が法律に書いてあろうがなかろうが、自分を律することのできる人はそうしようとするでしょうが、今の世の中ではそれが非常にできにくくなってきています。
それは私が繰り返し言ってきたことで、「家庭のポリシーを貫くことができない社会状況になっている」ということです。
これは真魚さんのお書きになった【 学校というのは建前を教える所ですが、例えば学校で先生が嘘をついてはいけませんと子供に教えたとしても、子供は学校から一歩外へ出れば、もうそこは建前ではなく本音の世界です。学校の教室では、お金では計ることができない価値がこの世にはあると言っても、家に帰ってテレビをつけるとホリエモンが「カネで買えないものはありませんよ」という世の中になったんだということです 】ということと全く同じことです。
ではどうするのか。
丸山真男・・・こういった立派な先生方のお仰ることは確かに立派で理想的なんだと思います。私はその著作を読んだこともありませんので批判する資格はありませんが、家庭や学校という実際の現場で、いったい具体的にどうするのか、ということについては、立派な先生方はあまり仰らないのではないですか。
>こうしたスタイルそのものが、戦前の軍国教育と同じスタイルなんです。<
>教師にとっても子供たちにとっても学校が管理と抑圧の場でしかならなくなっているということ<
↑
真魚さんの仰るこういうことは偉い先生の仰ることと同じで具体性がないんです。
私は戦前戦中をよく覚えている人間を親に持っていますから、そのころの世の中の様子について話を聞いていますが、決してファシズムに席巻された息苦しいものではなかったとの印象を持っています。もちろんすごく生活は苦しかったでしょうが。
学校では天皇陛下を拝んでいたけれど、実際は茶化したりもしていたし誰も天皇を神様だなんて思ってなかった、と聞いています。(そんなことを密告されて一般家庭の人間がとっ捕まるなんてことはなかったようです)私はこれを聞いて日本人って健全だな、と思ったのです。
子供たちは、「ぜいたくは敵だ」というスローガンが書かれた看板に「素」を書き加えて「ぜいたくは素敵だ」と書き換えるいたずらなども面白がってやっていた、なんていう話も聞いています。
一言で言えば、「天皇という神を中心に国民が盲目的に一丸となっていた」というより、「国民は今よりもっと良い暮らしを得るためのアジア進出」という極めて現実的な納得のしかたをしていたんじゃないかと思うのです。
で、何を言いたかったかというと、学校でどんな教育をされようが、一歩社会に出れば、そこには違う価値観があり、子供たちはその価値観に否応なくさらされる、というのは昔も今も変わりはないということです。
ただ、昔と今で大きく違うのは、やはり、その「社会」が「豊か」で「享楽的」ということですね。
これがいけないというのであれば、もう一度貧乏になるしかないわけです。
でも、貧乏になるのがいやだったら、豊かなまま、身を律するにはどうしたらいいかを具体的に考えなきゃいけない、ということです。
「愛国心」というたった一言の文言を書き加えれば、子供たちは劇的に立派になるかといえば、誰もそんなことは思わないわけです。
誰だって、ではどうしたらこの豊かさがもたらした堕落がなおるか、に対しての答えを持ってなくて途方に暮れているわけですね。
しかしながら、例えば「農役」(これは以前書きました)、「偉人伝を読ませる」、「国語、道徳、歴史教育に力を入れる」、「嫌国教師をやめさせる」(これはkakuさんのアイデア)、こういった具体的なことをまずさっさと始めてみないと、理念みたいなことをいつまでもごちゃごちゃ言ってたって、子供たちはどんどん育っていっちゃうんです。
私ね、なにもこんなに愛国心だの教育だの一生懸命言わなくたってぜんぜん自分の生活や幸福に関係ないんですよ。(間接的には当然ありますが)
私はいったい、自分の生活に関係のないことを、なぜこんなに一生懸命訴えてるんだろう、私はいったい何のためにこんなことやってるんだろう、と考えると、それはやっぱり、愛国心に他ならない、と思うわけで、みなさんだって、国を憂えてあれこれ意見を言うのはやっぱり愛国心を持っているからだと思います。
憂国は愛国から生ずるものです。
やむにやまれぬ大和魂ってやつですかね。
こういう議論を、これから子育てをするであろう若い人たちに見てもらえれば、そのことにこそ意味があると私は思います。
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コメント
robitaさん、コメントを書いたのですが、あまりにも長くなってしまったので僕のブログの方に置きました。TBしようとしたのですが、TBの機能をオフにしているのでしょうか。
投稿: 真魚 | 2006年5月26日 (金) 03時32分
>真魚さん、
>TBの機能をオフにしているのでしょうか。<
変なTBが多いので、TB受け付けない、という設定にしたつもりなのですが、その後もTBはたまにあるので、果たして正しい処理の仕方だったのかどうか定かではありません。
あとで戻しておこうかと思います。
真魚さんの記事拝読しました。
きょうの記事に書きます。
投稿: robita | 2006年5月26日 (金) 14時05分
robitaさん、
TBは受け付けない方がよさそうですね。
投稿: 真魚 | 2006年5月28日 (日) 01時28分
>真魚さん、
何も変えてないんですけどね。またやられました。
投稿: robita | 2006年5月29日 (月) 10時56分