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2006年5月22日 (月)

しつこいようだが愛国心

愛国心について今までずいぶん書いてきた。
「必需品としての愛国心」 
「続・必需品としての愛国心」 
「狭量な国粋主義は愛国の体をなさない」 

などである。

教育基本法改正すべきとする人と反対の立場の人はなかなか分かり合えないようだが、そもそも、「愛国心などという人の内心にかかわることを強制すべきでない」と主張する人たちの「国家というものに対する認識」が根本的に勘違いに基づいているものなので、話が噛み合わないのだと私は思う。

「国家は国民と相対するもの」ではなく、「国家は国民自身」なのだ。

教育基本法に「愛国心」を明記することに反対の人たちがしばしば口にするのだが、「私たちに愛国心を押し付ける前に、愛するに足る国家になってくれ」という言い方がある。

以前も書いたのだが、それならば、戦後60年かけて、この国は「国を愛さない政治家や官僚を育ててきた」、まさにそのことをこそ問題にすべきではないのか。

私は、日本の政治家や官僚がみな悪者だとか愚かだとは思っていない。真面目で一生懸命な人のほうが多いと思っている。

しかし、「愛するに足る国にしてくれ。そうでなければ愛せない。立派な為政者よ、出現してくれ。」と望むのであれば、なおのこと、国家として、国民全体にそういう教育が必要だとは思わないのか。

政治家も、官僚も、医者も、教師も、父親も母親も、みな、日本国民である以上、生れ落ちた時から、基本的にこの国の教育で育つのだ。

国家は国民自身なのだ。教育は国家100年の計といわれる所以である。

このことを理解しないかぎり、「国家の一員」という自覚を促すことの意味は永遠に理解できないだろう。

自己実現は大事。当たり前である。
個性教育も大事。当たり前である。
しかし、戦後60年の教育はそれに偏りすぎた、ただ、それだけのことなのだと思う。

右翼も左翼も極端に過ぎるのだ。だから右翼とか左翼と言われるのではあるが、極端同士は理解し合えない。

「社会がヘンになっている」原因が、戦後民主主義が個人重視に偏りすぎたため、なのかどうか、本当は誰にもわからない。
しかし、多くの人がそう思っているのだとしたら、少し「国家と個人の関係」を見つめ直す作業をしたって一向にかまわないではないか。

「そんなことしたってだめだ。原因はそうじゃない。ちがうちがう」と、言い続ける人々に私は問いたいのだ。
ちがう、と言い続けることが、何らかの解決になるのであろうか。
ちがう、と言い続けることが、何らかの前進をもたらすのであろうか。

 

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コメント

この文章を拝見して、誠にそのとおりだと感じました。
そもそも社会の共同体とは、その構成員が「自分が貰う以上のものを与える」気持ちが無ければ成立しません。
結婚でも、相手に対して「この人はここまでだったから、私がこれ以上すると損だ」というような「自分が受けた利益と相手にする貢献」を秤にかけては、破綻してしまいます。会社もみんなが働いた分だけ給料を貰ったら、投資できませんからつぶれてしまいます。
「愛せる国になってくれ」というなら「じゃあ、あなたはそのために何をしましたか?」という質問もあり得るわけです。これじゃあ、議論が噛み合うわけがありません。
そういう「損得勘定」を離れた気持ちを、世間では「愛」というはずなのだ、と思います。

投稿: その通りです | 2006年5月22日 (月) 18時55分

>その通りですさん、
はじめまして。
先日の新聞に「国家と国民の関係」についての政治家たちのさまざまな思いが載せられていました(当ブログ5/8の「幸せのつかみかた」という記事の後半にも青字で写してあります)。

国家は国民そのものである、ということなんですね。
大事なことは、世襲でも独裁でもない日本の政権に対して敵対心を持つことでなく、自分たちの作ったものに対して常にメンテナンスを行っていくという姿勢なのだと思います。

投稿: robita | 2006年5月23日 (火) 09時48分

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