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2006年5月12日 (金)

背筋を伸ばす

真魚さんのコメント欄の言葉。

>自民党と公明党がやっていることは、教育基本法の文章の文言についてだけという気がします。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文章を入れただけです<

ええ、そうですね。ですから、私も「入れても入れなくてもどっちでも良い」と言っています。
そんなもの入れようが入れるまいがさっさと愛国教育を実行すればいいだけのことですから。
だから、「法律にそういうものを書かないと愛国教育はできないのか」と書きました。
ただ、その言葉を書き込むことで、方針は明示されますよね。

>戦後の教育から「愛国」を除いたのは左翼ではなくGHQです<

そうですね。GHQは日本を二度と軍国主義のもと、一丸とならせないために、憲法からも教育基本法からも、「愛国」「国防」の理念を排除しました。

でも、前にも書きましたが、私の小学校時代(昭和29年~35年)には学校では何の違和感もなく騒ぎもなく、日の丸を掲揚し、君が代を大きな声で歌っていました。
1960年頃から学校現場では日教組という左翼勢力が大きな力を持つようになり、それが左翼政治家左翼マスコミとともに「国家」のやることなすことに反対してきた、その中で、個人を国家の一員とする教育にも強く反対する風潮が生まれたのではなかったのですか。

世界中どの国でも、「個人の質を高める」と同時に「国家の一員を育てる」こととして教育を考えていると思いますがどうでしょうか。

ところが日本では、「個人」のほうに偏り過ぎてしまったのだと、これは、多くの人が指摘しますし、私もそう思います。

「それが精神の荒廃につながっているとは言えない」、と愛国心盛り込み反対派の人たちは言います。

こういう言い分には、桐蔭横浜大学学長 鵜川昇「『日本』がなくなる日」を紹介したいと思います。

例えば、ある文章を要約すると;

「教育の荒廃は、教育基本法にあるわけではない、と言うなら、教育の重大問題が起こり、教育の基本のところが問われていながら、それと無関係な『教育基本法』とはそも何なのか。そんなに教育に対して無力な、役にも立たないものであるなら、むしろ、その理由においてこそ、廃止ないしは改良しなければならない。」

「教育行政」は「愛国心」とは関係ない、と思いますか。教育に日本人の魂は必要ないと思いますか。

同じ敗戦国でありながら、ドイツが自虐を引きずらなかったのは、ドイツの魂を売ってはならないと説くオピニオン・リーダーの存在があり、国民もそれを胸に刻んだからだ、と何かで読んだことがあります。

ドイツは誇りを失わなかったけれど、日本人はその「誇り」を「邪悪なもの」として封じ込めてしまいました。

そもそもアメリカの走狗である日本人に「誇り」などとはちゃんちゃらおかしい、と言う人はいますか。私はそういう人には、「アメリカの政策に右往左往することなく、内心に誇りを秘め、じっと我慢、じっくり待つ、そういう姿勢でいるのが知恵というものだ」と言いたい。

私はどうして反対派があのように強硬に教育基本法に愛国心を「書くな書くな」と主張するのかわからないのですよ。

「愛国派」が、「書け書け」と強硬に主張するからですか。

あちらとしては、「反対派が『書くな書くな』とむやみに言うから、こっちも『書け書け』と叫ぶ羽目になる」って言うかもしれませんよ。

両者ともにいわゆるひとつの「意地」ってやつですか。

私としては、「ええい、じれったい。書こうが書くまいが、そんなもんどっちゃでもええがな。子らに国家意識を少しは持たせる教育を早よせんかい」って気分です。

単なる形式なんですからそんなに必死になって阻止しなくたっていいと思うんですよね。

でも、形式って案外大切なもんなんですよ。

卒業式や入学式には式次第がありますし、手紙には拝啓だの謹啓だの前略だの草々だのかしこだの書きますし、高校野球では主将は選手宣誓しますし、歌舞伎役者は口上述べますし、横綱は土俵入りします。そんなもの必要ないというかもしれないけど、「形式」を踏襲することで、人の背筋はビシッと伸びるんです。

いいじゃないですか。「国を愛する心」って書いたって。

だめ?

やっぱ書いちゃだめ?

       

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コメント

robitaさん、

いえいえ、

>>「個人を国家の一員とする教育にも強く反対する風潮が生まれた」

というのは左翼や日教組が作ったわけでもなく、終戦直後の日本の風潮なんです。もう国家に騙されたくない、国が愛国心とか国を守れとか言うなんて冗談じゃないというのが、あの時代の日本人のみんなの想いでした。戦争の焼け跡の中でで、あの時代の知識人は、これからの日本人は「個」を国家に埋没させてしまうのではなく、「個」を確立し、その「個」の主体性をもって「公」に参加することを説いていました。決して、国家なんてなくていい、これから個人主義でやっていこうなどとは言っていません。

ちなみに小林よしのりなど、いわゆる今の保守の人々の言っている戦後理解には間違いがあります。彼らは、敗戦後の日本は、「戦後民主主義」のもとで左翼の影響により、個人主義や利己主義が蔓延し、日本人のモラルが崩壊してしまったといいますが、そんなことはありません。小林よしのりの話によれば、「現代の日本人の精神は荒廃している」「これは戦後、左翼によるものである」「戦前の日本人には愛国心があった公の意識があった、立派だった」という話の流れになりますが、戦後の代表的な知識人、例えば丸山眞男や大塚久雄が論じていた人間像はそうしたものではありません。

昭和22年の教育基本法について言えば、これが出た時、左翼はこの教育基本法を批判しました。「個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とは、あまりにも個人主義ではないか、貧乏や戦争の危機が、人格の完成や個人の価値だけでできるのかと彼らは主張しました。ようするに、当時の日本人にとって目前の課題は「いかに食っていくか」ということだったんです。日教組も、この法律にさほど言及していません。教育基本法をどうするかよりも、生活費を得るために働かなくてはならず、学校へ通えない児童をどうするかとか、教員たちの地位の安定などが目下の最大課題でした。社会の変革なくして個人の幸福はありえないというのが、終戦から昭和30年の頃までの日本では広くあった考え方でした。それだけ、あの時代の日本人は貧しかったということです。

先日のコメントに書いたように、昭和22年の教育基本法だって、立派な法律だと思うのですよ。そうでありながらも、なぜかくもこんな教育になったのか。敗戦の焼跡とスラムの中で、右の人も左の人もそうでない人も、日本人はみんな、国家主義だった大日本帝国が終わり、新しい新生日本国の国民としての高い理念と希望があったと思います。しかし、その理念がいつ間にか消えてしまった。なぜ消えてしまったのか。

昭和30年代頃からなにが変わるのかというと、ひとつには、戦争実体験者、戦争中には大人だった人々が年齢的に社会の第一線からいなくなったということです。つまり、民衆を苦しめ、戦争にかり出し、膨大な被害者を出しながら、なんら責任をとろうとしない国家に対する言いようがない思いみたいなものとしての戦争体験が段々となくなってきました。もうひとつは、高度成長、大量生産・大量消費の時代になったということです。

教育の荒廃について、僕はその原因は二つあると思います。一つめは話が長くなるから省きます。もうひとつは上に書いたように「豊かになったから」だと思うんですよ。日教組や左翼マスコミが原因なのではなく、世の中が経済的に豊かになってきたからなんだと思います。

60年安保闘争では、ある日ストをやっていた労組員の中で、安保を破棄すればアメリカからの援助がなくなり、日本は経済的に困るんじゃないかという意見があった時、「それなら、みんな耐乏生活でも歯を食いしばってがんばるべきだ」という声があったといいます。貧乏になったっていいから、安保に反対するということです。70年代安保では、こんな声は聞けませんでした。もうこの時代になると、貧乏したいなんて誰も思わなくなってきたんです。

学校というのは建前を教える所ですが、例えば学校で先生が嘘をついてはいけませんと子供に教えたとしても、子供は学校から一歩外へ出れば、もうそこは建前ではなく本音の世界です。学校の教室では、お金では計ることができない価値がこの世にはあると言っても、家に帰ってテレビをつけるとホリエモンが「カネで買えないものはありませんよ」という世の中になったんだということです。こうした世の中で、教師はどうやって生徒に人の道を説けばいいのだろうかと思います。子供は学校の先生のいうことよりも、ホリエモンの言うことに真実を感じるでしょう。そうなると、もう学校での教師が言うことは建前ですらなくなり、形骸した精神の牢獄みたいなものです。子供にとって、学校はとりあえず親や社会が行けというから行っているだけの場所でしかありえなくなっています。子供の世界の中で、学校や教師の占める位置など微々たるものでしょう。それよりも、商品のこと、ゲームのこと、複雑な人間関係、マスメディアの情報の中に子供たちはいます。

国家がまず方針を出し、その方針に基づいて文部科学省が日本全国の都道府県の教育委員会に通達を出し、その通達に基づき教育委員会は各学校の校長に指示をし、そして校長は教職員を管理監督するというスタイルそのものでは、今の児童や生徒たちには、もはや適応していないということは、これまでの教育の結果が示していることです。こうしたスタイルそのものが、戦前の軍国教育と同じスタイルなんです。

愛国教育するか、しないか、ではなく、教育そのものをどのようにやっていくのか。おおざっぱに言えば、昭和30年代以後の経済中心の世の中で教育そのものが根本的に無力化し、風前の灯火になっているということ。そうした現状を国は法律で力ずくで「そうはさせじ」としているので、教師にとっても子供たちにとっても学校が管理と抑圧の場でしかならなくなっているということ。国旗掲揚や国歌斉唱が、現場では愛国心どころか、校長の教職員に対する管理手段のひとつになっているという現状など。ここから考え直さなくてはなりません。

投稿: 真魚 | 2006年5月16日 (火) 01時42分

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