土曜日の夕刊に「台湾船、掟破りの乱獲」として、台湾がマーシャル諸島周辺の太平洋やインド洋でマグロを獲りあさっている、という記事があった。
日本はこれに対し、「我々はマグロ資源を守るために漁獲を制限する努力をしているのに台湾の態度はなんだ」と怒る。
台湾の漁業者はそれは理解しつつも、自分たちだけが悪者扱いされることに割り切れない思いを語る。
「おれたちが捕ったマグロは日本の消費者が食べる。安くてうまいマグロが食えて幸せだという意識が、日本人にありますか?」
我々は豊かさを手に入れ、多くの日本人はおいしいものを頻繁に食べられるようになった。
手巻き寿司なんていう、昔だったら贅沢なメニューが、普通の家庭でもよく食卓に上がるようになったと思う。
しかし、そうなると当然のことながら有難みは薄れてくる。
昔は貴重だった食べ物が割合手軽に食べられるようになると、子供たちは食に関心がなくなる。
これはとても危険なことだ。
一事が万事、豊かさの代償だ。
貧乏になるのはイヤだし、政治が悪い、制度が悪い、と人は叫ぶ。
だから、「金を儲けて何が悪い」と言って憚らないホリエモンや村上世彰のほうが正直でわかりやすく幾分なりとも好ましく思えるのは仕方がない。
ところで、single40さんのところで、資本主義の限界についての記事を読んだ。(「限界」でなく「無限」だそうだが)
どんな制度も完璧なものはなく矛盾を生じるものだと思うが、資本主義と社会主義とではその矛盾が、後者のほうがずっと大きいことを人々は理解してきたのだが、ここにきて、無限に豊かになることの危うさが見えてきた。
これは結局、家族制度や女性問題に言及しなければその全体像は見えてこないと私は思うのだがどうだろうか。
限りある地球上の資源を守らなければいけない、とか、贅沢に慣れた子供たちに「めったにないマグロの日の歓び」を味あわせてやらなければいけない、とか、人は思う。
日本人はマグロを食べたいのだろう。マグロはおいしい。
でも、【 限りある地球上の資源を守らなければいけない、とか、贅沢に慣れた子供たちに「めったにないマグロの日の歓び」を味あわせてやらなければいけない 】と思うのだったら、当然、ありあわせのものや安いものをおいしく食べる工夫が必要になってくる。
つまり、人間は台所での長時間労働が必要になってくる、ということだ。
以前、我が家の台所の使い勝手が悪いので、リフォームを依頼したことがある。
やって来た「キッチンコーディネーター」と名刺に印刷された女性は残念ながら専業主婦がどのように工夫をしながら台所を使っているかよくわかっていなかった。
彼女は「働く女性」であるから、「働く女性が使いやすい台所設計」には詳しいと思う。そして、働く女性は増えているのだから、台所設計はそれでいいのだと思う。
しかし安い材料やありあわせのもので工夫しておいしいものを作るには時間やそれなりのスペースが必要になってくるのではないか。
私は専業主婦のくせにそういうことが完璧にできているわけではないから偉そうなことは言えないが、理屈ではそのように思うし、台所仕事をやっていて実感する。
つまり、男も女も子供ももっと台所で働かねば、地球資源を守ったり贅沢を戒めたりすることができない。
しかしだ、みんな忙しいのだ。男も女も外で働き、子供は塾や習いごとで、家でじっくり工夫して料理をすることができない。
疲れて帰って来て、さらに手をかけた料理を並べる努力をしている人もいるにはいると思う。でも、そういうのって痛々しく気の毒な気がしてならない。なんか馬車馬のようにフル回転で働きづめ、というふうに見えてしまう。人生ってなんなんだろう、って思わないかしら。
昔は、お爺さんやお婆さんがやってくれていたことが、今はすべてお父さんお母さんの肩にかかっている。
結局人間は「核家族という自由」を選択することによって、不自由になってしまっている、この構図はともかく認めなくちゃいけない。
それを理解しないかぎり、「女の足を引っ張るのは女」なんて不毛な言い方をいつまでもし続けなければいけなくなる。
誰でもわかっているとは思うのだが、これを取ればあれを捨てなくちゃいけないし、あれもこれも手に入れることなどできないのだ。
高齢化社会でのお年寄りに何を期待するのか、それは、お年寄りも若い人も共に考えていくべきことだと思う。
「老人は 死んでください 国のため」という川柳に、ショックを受けて寝込んでしまうお年寄りもいらっしゃることだとは思うが、一方で、「早いとこおっちんじまえ」なんて言われて「おうよ、おめェなんかに言われなくたっていつだって死んでやらァ。けどな、おめェ、死ぬってェのはなかなかうめェ具合にいかねェもんなんだよぉ。おめェも年とりゃあわからァ」なーんて憎まれ口をきくお年寄りもおいでだろう。
「こんな川柳いちいち気にしてたら、これからの高齢化社会生き抜いていけるかってんだ」というたくましいお年寄りもおられるだろう。
私自身は死生観により「自分の死」は特別のものとも考えていないので、早く死ぬことにやぶさかでない。
「死ぬ時節には死ぬがよく候」ってなもんだ、てやんでい。
日本人が今抱えているさまざまな問題すべてに言えると思うのだが、個人の責任ではなく、制度だ社会だという話になるたび私は思う。その制度や社会を変えるのも、これはやはり個人の意識や決断に帰結するのだということは知っておいたほうがいいと思う。でも、やっぱり鶏と卵だね。ふふ
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きょうのタイトルは「台所から北京が見える」という昔読んだ本のマネをしました。
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