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2006年6月30日 (金)

横田めぐみ__怒りと正義

金英男氏の会見について、ワイドショーなどでは、「あれは北朝鮮に言わされている。あの国では自分の意見は言えない」という論調が主流だ。

もちろん、北朝鮮政府の方針に従って語っている、というのは間違いないのだが、彼の表情や語り口を見ていて、ああ言わざるを得ない苦しさを全く感じることができなかった、というより、非常に堂々とした態度から察するに彼は普段からこういう話を聴衆の前でするのに慣れている人ではないかと思った人も少なくないと思う。本心を偽っているのでなく、あれは彼自身の意見でもあるのだろうと思う。

そこら辺に横田めぐみさんが入院を余儀なくされるほどに病を深刻化させた原因があるのではないだろうか。

金英男氏は高校生の時に拉致され、北朝鮮で教育を受け、きっと優秀だったのだろう、成果を上げれば評価され、地位も与えられ、そうやって何年も暮らせばそれが自分の人生そのものになって行く。

しかし、めぐみさんは「理不尽に拉致された口惜しさ」を忘れなかった。
同じ拉致された者同士、痛みや口惜しさを分かち合えるはずの夫は、いつしかそれを忘れたか割り切ったか、北朝鮮体制の中で生きることを選んだ。その「選ぶ」こと自体は生きる術として仕方のないことかもしれないが、魂まで売り渡してしまったことにめぐみさんは耐えられなかったのではないか。唯一頼れるはずの夫が北朝鮮の人間になってしまったことに絶望したのではないか。

理不尽なことをどうしても許すことができない、その中でのうのうと生きることなどとても耐えられない、この強い正義感は両親である横田夫妻から受け継いだものであろう。

これは山口母子殺人事件の本村洋さんに通じるものがある。

「個人の問題ではない」、「国がからんでいる」、いいでしょう。

国が正義を通さないでいったいどうするんだ。

犯罪者におもねってどうするんだ。

膠着状態、結構。あの犯罪政権が自壊するまで辛抱強く待てばいいんです。

本村さんも頑張った。横田さん他被害者家族のかたがたも頑張ってほしい。

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2006年6月26日 (月)

庶民感情

朝日新聞土曜版に福井総裁の件について、「庶民感覚批判」にブレーキをかける文章が載っていた。

最後にこう結ぶ;

私の知る福井俊彦氏は、利殖に全く興味ない人である。宴席は好まず、ゴルフもコンサートも奥さんと一緒で、子供がいないためか、若い人との交わりを好む。意欲ある若者への応援を厭(いと)わない。

 見かけはソフトで如才ないが、なかなかの熱血漢だ。なにより金融政策への情熱と能力は抜きんでている。英エコノミスト誌が「世界一の中央銀行総裁」と評したほどだ。

 美徳まで吹き飛ばすとしたら、失うものは大きすぎる。

もちろん、こういう意見に対して、人柄と疑惑は相殺されるものではないという反論はあるだろう。当然だ。

福井総裁の人となりを知っているわけではないし、インサイダー取引というものについての知識もないので、私にはこの件についてあれこれ言う資格はないが、福井総裁は、色々な局面で、ある意味「ずる賢さ」が足りなかったのかもしれない、となんとなく思う。

この「なんとなく」の空気は、「辞任要求の大合唱」と同じくらいのパワーで静かながら世の中に漂っているような気もする。

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2006年6月23日 (金)

ブラフマンってそういうことだったのか

single40さんのコメントへの返事です。

【池田晶子さんの本は、私も読んだのですが、私にはこちらのほうが「わかりませんでした】

池田さんは、週刊誌にエッセイを連載していて、手を変え品を変え、「自分」の存在ほどの謎はない、と書き続けているのですが、その文章はたしかにわかりにくく、「あんたの言うことはさっぱりわからん」という投書などもあるそうです。
もし、彼女の言うことが、「それは誰でも感じる当たり前のことだよ」というたぐいのことなら、「わからない」という反応はないでしょうが、現に「わからない」という人がいるということは、当たり前のことではなく、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない、ということだと思います。

この「認識する自分という謎」という感覚を説明するために、池田さんの週刊誌のエッセイ、切り取ったのがありますので、抜粋します。

【先日、NHKのスペシャル番組「世界一の望遠鏡『すばる』で見る宇宙」を見た。___中略___ナレーションが、感動を込めて語るには、「この光は、140億年もの間、宇宙空間を旅して、今私たちのところに届いたのです。私たちは、140億年の光を、今見ているのです」___中略___続けてナレーションは言う。「さらに新しい望遠鏡ができれば、150億年前の宇宙の始まりを、私たちは見ることができるでしょう」___中略___この宇宙は、150億年前のビッグバンによって始まったというのが、現在の宇宙論の定説となっている。そして、地球の始まりは、40億年前ということになっている。つまり、40億年前にも150億年前にも、われわれは存在していなかったわけである。しかし、それなら、われわれが存在していなかった時の始まりを、なぜわれわれは見ることができるのだろうか。われわれが存在していないはずの存在の始まりを「見る」ということは、どういうことなのだろうか。
これは、物理学上は、例の「観測者問題」と呼ばれる難問になるのだが、じつは明白に哲学上の問題なのである。なぜなら、試みに、右の疑問を強意にすると、
「誰が」存在の始まりを見ているのか。「われわれ」もしくは「私」とは誰なのか。
と、こうなるからである。
で、誰なのか。
物質を観測する観測主体を、同じく「物質」と措定するところに矛盾が生じるのである。観測主体あるいは「私」を、物質としての肉体、もしくは視覚器官を含む「脳」と同一と考えるから、現在ただ今ここに物(ブツ)として存在しているこの脳が、なぜ、その脳の存在していない宇宙の始まりを見ることができるのかという、笑いたくなる矛盾が生じる。じっさい私はこういう時、よく笑う。たまらない諧謔を「脳髄に」覚えるのである。
「宇宙の始まりを誰が見てるのか」なんて無体な問いは、たてるほうが馬鹿なのである。ナニ、見てると言えば、「私が」見ている。誰が何と言おうと、神が馬鹿と笑おうと、絶対に、「私が」見ているのである。いや正確には、「見ている」のではない、「立ち合って」いる。私は宇宙すなわち存在の始まりに、現在ただ今のここ、この刻々において、まぎれもなく立ち合っているのである。
ところで、「存在の始まり」とは、これまた何事であろうか。まるで、存在に始まる前が、あったかのようである。しかし、「存在の始まる前」とは、それ自体、思考の万才である。存在には前後はなく、存在は存在するのみである。したがって、ここにおいて、「存在の始まりを見る」という考え自体が、まったくのナンセンスであったということが露呈する。私が馬鹿なのではない。___後略_】 1999・3・14 サンデー毎日

この文章は、わかりやすいと思うのですが、でも、池田さんとて、最後にやっぱり、「ナンセンス」なんて言葉を持ってきて匙を投げているようにも見えます。(違うかもしれないけど)

で、たぶん、ここから先が私の感覚は池田さんとは違うのですが、「自分が存在しなければ世界は存在しない」ということを、一年ほど前だったか、「これだこれだ」と思わせてくれるものに出合いました。
ビッグコミックに今も連載中の「宗像教授異考録」という漫画です。

インドの賢者みたいな人が出てきて「全ての人が己自身だと考えよ」という言葉が出てくるんですが、これがピッタリはまるんです。

たぶん、いわゆる「輪廻思想」というものとも違うと思うのですが、長くなるので、今日はこの辺にしておきます。
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2006年6月21日 (水)

論理の力

山口県光市母子殺人事件がもたらしたものがどれだけ大きいものであったのか、7年間の裁判の過程を見て、誰もがそう思わずにはいられないだろう。

コメンテーターとしてテレビに出ている大沢弁護士が熱っぽく語っていた。「(被害者遺族の)本村さんはまさに、神のもたらした犯罪被害者とも言える。このように論理的に遺族の気持ちを語れる人は非常に珍しい。たとえ、司法関係者とて、いざ自分がその立場になると、どうしていいかわからなくなり、論理的な思考ができなくなる。彼は非常によく勉強している。生半可な弁護士では太刀打ちできないだろう。彼の行動が、犯罪被害者保護法制定、刑事訴訟法、少年法の改正につながったといっても過言ではない。」と。

私は事件が起こってから、ずっとこの青年の目の覚めるような論理構築力、説得力に驚嘆し続け、この人こそ検事になるべき人ではないかと思っていたので、大沢弁護士の「生半可な弁護士では太刀打ちできない」という言葉にはいたく共感した。

ニューススタジオで事件当時のビデオを見ながら本村さんは「このころの僕、鬼のような顔してますね」と苦笑しながらも、「あのような激しい言葉を発したことで、たくさんのお叱りをいただきましたが、あれが犯罪被害者の正直な気持ちなんだ、ということを知っていただくためにも、言わなければならないことだったと思っています」と語った。うん、同感だ。批判の数々はさぞ辛かったろう。痛みに耐えてよく頑張った。

この事件とその後の裁判の経過は、法律を変えたというだけでなく、さながら一人の人間の成長のドラマのようでもある。

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2006年6月19日 (月)

台所から世界が見える

土曜日の夕刊に「台湾船、掟破りの乱獲」として、台湾がマーシャル諸島周辺の太平洋やインド洋でマグロを獲りあさっている、という記事があった。

日本はこれに対し、「我々はマグロ資源を守るために漁獲を制限する努力をしているのに台湾の態度はなんだ」と怒る。

台湾の漁業者はそれは理解しつつも、自分たちだけが悪者扱いされることに割り切れない思いを語る。
「おれたちが捕ったマグロは日本の消費者が食べる。安くてうまいマグロが食えて幸せだという意識が、日本人にありますか?」

我々は豊かさを手に入れ、多くの日本人はおいしいものを頻繁に食べられるようになった。

手巻き寿司なんていう、昔は贅沢なメニューが、普通の家庭でもよく食卓に上がるようになったと思う。

しかし、そうなると当然のことながら有難みは薄れてくる。

昔は貴重だった食べ物が割合手軽に食べられるようになると、子供たちは食に関心がなくなる。

これはとても危険なことだ。

一事が万事、豊かさの代償だ。

貧乏になるのはイヤだし、政治が悪い、制度が悪い、と人は叫ぶ。

だから、「金を儲けて何が悪い」と言って憚らないホリエモンや村上世彰のほうが正直でわかりやすく幾分なりとも好ましく思えるのは仕方がない。

ところで、single40さんのところで、資本主義の限界についての記事を読んだ。(「限界」でなく「無限」だそうだが)

どんな制度も完璧なものはなく矛盾を生じるものだと思うが、資本主義と社会主義とではその矛盾が、後者のほうがずっと大きいことを人々は理解してきたのだが、ここにきて、無限に豊かになることの危うさが見えてきた。

これは結局、家族制度や女性問題に言及しなければその全体像は見えてこないと私は思うのだがどうだろうか。

限りある地球上の資源を守らなければいけない、とか、贅沢に慣れた子供たちに「めったにないマグロの日の歓び」を味あわせてやらなければいけない、とか、人は思う。

日本人はマグロを食べたいのだろう。マグロが好きだから。

でも、 限りある地球上の資源を守らなければいけない、とか、贅沢に慣れた子供たちに「めったにないマグロの日の歓び」を味あわせてやらなければいけない と思うのだったら、当然、ありあわせのものや安いものをおいしく食べる工夫が必要になってくる。

つまり、人間は台所での長時間労働が必要になってくる、ということだ。

以前、我が家の台所の使い勝手が悪いので、リフォームを依頼したことがある。
やって来た「キッチンコーディネーター」と名刺に印刷された女性は残念ながら専業主婦がどのように工夫をしながら台所を使っているかよくわかっていなかった。
彼女は「働く女性」であるから、「働く女性が使いやすい台所設計」には詳しいと思う。そして、働く女性は増えているのだから、台所設計はそれでいいのだと思う。

しかし安い材料やありあわせのもので工夫しておいしいものを作るには時間やそれなりのスペースが必要になってくるのではないか。
私は専業主婦のくせにそういうことが完璧にできているわけではないから偉そうなことは言えないが、理屈ではそのように思うし、台所仕事をやっていて実感する。

つまり、男も女も子供ももっと台所で働かねば、地球資源を守ったり贅沢を戒めたりすることができない。

しかしだ、みんな忙しいのだ。男も女も外で働き、子供は塾や習いごとで、家でじっくり工夫して料理をすることができない。

疲れて帰って来て、さらに手をかけた料理を並べる努力をしている人もいるにはいると思う。でも、そういうのって痛々しく気の毒な気がしてならない。なんか馬車馬のようにフル回転で働きづめ、というふうに見えてしまう。人生ってなんなんだろう、って思わないかしら。

昔は、お爺さんやお婆さんがやってくれていたことが、今はすべてお父さんお母さんの肩にかかっている。

結局人間は「核家族という自由」を選択することによって、不自由になってしまっている、この構図はともかく認めなくちゃいけない。

それを理解しないかぎり、「女の足を引っ張るのは女」なんて不毛な言い方をいつまでもし続けなければいけなくなる。

誰でもわかっているとは思うのだが、これを取ればあれを捨てなくちゃいけないし、あれもこれも手に入れることなどできないのだ。

高齢化社会でのお年寄りに何を期待するのか、それは、お年寄りも若い人も共に考えていくべきことだと思う。

「老人は 死んでください 国のため」という川柳に、ショックを受けて寝込んでしまうお年寄りもいらっしゃることだとは思うが、一方で、「早いとこおっちんじまえ」なんて言われて「おうよ、おめェなんかに言われなくたっていつだって死んでやらァ。けどな、おめェ、死ぬってェのはなかなかうめェ具合にいかねェもんなんだよぉ。おめェも年とりゃあわからァ」なーんて憎まれ口をきくお年寄りもおいでだろう。

「こんな川柳いちいち気にしてたら、これからの高齢化社会生き抜いていけるかってんだ」というたくましいお年寄りもおられるだろう。

私自身は死生観により「自分の死」は特別のものとも考えていないので、早く死ぬことにやぶさかでない。

「死ぬ時節には死ぬがよく候」ってなもんだ、てやんでい。

日本人が今抱えているさまざまな問題すべてに言えると思うのだが、個人の責任ではなく、制度だ社会だという話になるたび私は思う。その制度や社会を変えるのも、これはやはり個人の意識や決断に帰結するのだということは知っておいたほうがいいと思う。でも、やっぱり鶏と卵だね。ふふ

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きょうのタイトルは「台所から北京が見える」という昔読んだ本のマネをしました。
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2006年6月16日 (金)

生きる

私は子どもの頃から「自分というもの」が存在することに尋常でない不思議を感じていた。
それは、自分が世界の中心であり、すなわち自分がいなければ世界は存在しないに等しい、という考えに発展していった。
こういう話を人にしたこともあったが、わかってもらえなかった。うまく説明する言語力も持っていなかったから。

日常生活とは別にそういう不思議感覚はずっと持ち続けていたが、50歳という年令に達してから、ある週刊誌のエッセイで私の感覚を的確に表現した文章に出会った。

哲学者池田晶子の「自分が認識するゆえに存在がある」「『自分である』というこれ以上ない不思議に驚かないで何を驚くというのか」というような文章だったと思う。

「自分が認識する」という行為がなければ全ての存在はないのであり、「自分が存在しなければこの世は存在しない」。 しかし、「世界は存在する」、よって「『自分』はいつでもどこでも存在する」と、このように私は思っているし、たぶん池田氏の言わんとすることはそういうことだろうと思う。

私は哲学を勉強したこともないからわからないが、もしかしたら、こういうことは哲学の学問上常識なのかもしれない。

いずれにしてもそういうわけで私は死を恐れない、というか、何ほどのものとも思っていない。(痛いのがイヤなだけだ)

だから、前エントリーで書いたように、「次世代に迷惑をかけないようなるべく早く死のうと思っている」というのはほんとうはウソではない。正確に言うと半分ほんとうだ。

でもそれは自分側の理屈に過ぎず、残されたものにとっては痛手だ。
みんなもう大人なのでたいしたことはしてやっていないが、家族は日常生活に不自由を感じるだろう。
何より、娘が初めての子を母親の援助なしに出産し育てるのかと思うと想像するだけで切なくて涙があふれてくる。

死はまさに本人ではなく残された者の悲しみだ。
だから親はあまり若くして死んではいけない。子供は親より先に逝ってはいけない。

でも、大丈夫、それが起こったとしても、辛いこと悲しいことは人を成長させる。 そうなっている。

温かい家族の絆は必ず人の心を強靭にしているはずだ。
愛された記憶があればこそ何があっても必ず立ち直れる。

親は、どんな風であろうとその死に方を子供に見てもらいさえすればいいのだ。

親なんて人生なんてその程度のものだと私は思っているのですがいかがなもんでしょう。
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2006年6月14日 (水)

やっかい者になりたくない

昭和22年から24年にかけて生まれた団塊世代は他の世代に比べ飛びぬけて数が多く、この大きな塊が後代の背にずっしりとのしかかる。
このことが少子化を食い止めなければならない最大の理由であるのは言うまでもない。

私は団塊世代真っ只中昭和23年生まれである。
次世代に迷惑をかけないようなるべく早く死のうと思っている(ウソです)。

singleandover40さんのところで、少子化についての記事を読んだ。

少子化は豊かさの必然なのだから、無理やり子供を増やそうなどと思わず、少子を前提に社会システムを変えるべきなのだ、という主旨だ。
私も、日本人が貧乏になる気がないのならそれしか道はないと思う。

団塊世代の年金支給を減らしたり退職金課税強化については、実は私はそれをしてもいいのではないかと思っているが、怖くてなかなか言えない。

収入がなくなることで老後の暮らしはどの程度苦しくなるのだろう。でも、子供たちにかけるお金は不要になるし、贅沢をする気は毛頭ないので、蓄えも合わせれば何とか暮らしていけるような気がする。

当の団塊世代からの反論はあろう。
しかし国の存亡を考えるなら、そうそう強弁はできないはずなのだ。

団塊世代にもいろいろな事情や境遇の人たちがいて、一律、年金を減らすとか税金強化するというわけにもいかないのだろうし、堺屋太一氏のように、団塊世代に同情的な人もいる。

でも、私は他の世代から白い目で見られてまで金を確保しようとは思わない。

こんなことを言うと、「いい子ぶって」とか「親から受け継いだものでもあるんだろう」とか言われそうだが、そうだよ、いい子ぶってるよ、親の土地の片隅に家建てさせてもらってるよ。

でも、主人が企業戦士として苦労しながら真面目に働いてきたのを30年間見てきた。
家族としても慎ましく暮らしてきたつもりだ。

子供3人生んで充分楽しい思いをさせてもらったので、さあ、これから楽しもう、という思いはあまりない。

大きな声で「団塊世代狙い撃ちせよ!」というつもりはないが、そういう事態になっても反対はしない。

こんなことを言ってしまった以上、プラットフォームの端っこには立たないようにしよう。

もし、団塊世代狙い撃ちは理不尽だ、当然の権利として受け取れるものは受け取ろうと言うなら、地域社会への貢献などするべきだし、余裕のある人は何か社会の活性化につながるような消費をするべきだと思う。

国際的には、損をしてもいいから他国と仲良くしたいと考える人でも、自分の生活となると喧嘩をしてでも自分だけは損をしたくない、と思うものだ。
そんなことを責めるつもりは毛頭ない。
誰だって損をしたくない。普通の人は仙人でも神様でもないのだから。

しかし日本人同士の争いは見たくない。しんどい。

       ・・・・・それにつけても金の欲しさよ

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2006年6月12日 (月)

結婚しよ!

前エントリーにコウイチさんとととさんからコメントをいただいた。
返事を書いていたら長くなってしまったので、今日の記事にする。

まず、ととさんの記事を読む。

私はコウイチさんの言わんとすることがよくわかるのだが、思っていることをこのように字にして表わすと、結果的にワーキングマザーに居心地の悪い思いをさせてしまうというのはよくわかる。
しかし、「こうだからこうなる」という非常に単純な因果関係を述べているだけのことで、「変えるべき」とか「元に戻すべき」などということでは全くないと思う。
それは、私も男女問題について以前からそういうスタンスでずっと書いてきているのでわかるのだ。
なぜなら、いま人間が直面していることは、進歩の必然であり、たどるより他ない道だからだ。おそらくコウイチさんも同様に思っておられるだろうと推察する。あれらの表現は「逆説的」ととらえたほうがいいだろう。

もし、「昔のように、女は家庭に戻って家事育児に専念すべきだ」などと思う人がいたとしたら、その人は何もわかっていないのだと思う。

我々には、現実に合わせて(いろいろな考え、生き方に合わせて)制度を整えていくしか道はないのである。

しかし少なくとも、女性が外で働くようになったので、核家族化の元、家事育児の担い手や地域社会の担い手が非常に少なくなった、この因果関係だけは認めなくちゃいけない。
良いも悪いもこれはたしかなことだ。

「だから女は家に帰るべきだ」と言ってるのではなく、これまでも何度も言ってきたように「そういう事実があって、その事態は男女のメンタリティさえ変えつつある。そのように変わった男を、女を、受け入れるしか道はないでしょう。その覚悟ありやなしや」と、言っているだけなのだ。

このことが理解されないかぎり、奮闘中の子育てママはいつまでたっても、「そういう考え方がワーキングマザーの肩身を狭くしているし、少子化も改善されない」と繰り返し同じことを言い続けなければいけなくなる。

【良い国というのはどういうことかというと、
戦争が起こる。男が徴兵される。
その時に「なんで男だけが徴兵されるんだ。女だって戦わなきゃ不公平だろ」という声があがらない国のことです。】

コウイチさんのこの言葉は私にはよくわかる。
「良い国」というのは誤解を招きやすいと思うが、これは、今まだ地球上に「男は弱い女を守るもの」という価値観が残っていることを指すと思う。
その価値観はあまりに長い間人類の共通のものだったので、「良い」とか「正しい」とかいう言葉で表現されがちだということだ。
しかし、人類は変わりつつある。
「男が女を守る」という構図は女性みずからが崩しつつある。
そしてすでに男には女を守る余裕がなくなりつつある。

コウイチさんの「変質者」という言い方は、健全な大人のかたがたには大変ショックな表現だと思う。 しかしこれも、動物界の法則から逸脱した変異の現象ととらえればなんの不思議もないのである。
そもそも、人類自体が他の動物とかけ離れた進化の道をたどっていることは変質以外の何ものでもないのではないか。

言ってることがよくわからん、とか、そんなおおげさな話か、とか思う人は、たぶん女性問題について突き詰めて考えたことのない人だと思う。

子孫存続という自然法則が、人間の特殊性ゆえ大きなひずみを生じている、という因果関係はたいていの人にはわかる理屈だ。

で、ここからは少子化問題の具体的な話に移るが;

例えば、共働きが増えて、地域社会が空洞化し、子供が犯罪に巻き込まれやすくなった、などと言われるけれども、それは何もワーキングマザーのせいじゃないのだ。
そんな事態になっているのなら、専業主婦とか退職者とか、そういう人たちが地域の安全を担えばいいだけのことであり、女性が仕事と子育てを両立できない社会だから子供を産みにくいのなら、産みやすいように制度を整えればいいだけのことなのだ。

子育てが困難な世の中であるというのも事実であると思うが、そういうことは本当に困っている人の要望に答えて国にしっかりやってもらうとして、私はやはり、結婚しない男女が増えていることに注目したい。

朝日新聞(5/28)に掲載された調査結果によると、30代前半の未婚者の割合を1950年と2000年で比較すると;
 
    男性 8%→43%
    女性 6%→27%

となっている。6年後の今はもっと増えていることだろう。
しかし、結婚を望まない人が増えているのかというとそうではなく、大半の人が結婚したいと思っているとのこと。
結婚に至らない理由として、「適当な人にめぐり会わない」「昔はあったお見合いや職場結婚が減った」などと、これまでこのブログで書いてきたことが、アンケート結果として出ている。

上記の43%や27%は大きい。これらの男女が結婚して1人でも子供を生むだけですごいことになるのではないか。
いや、子供生まなくたっていいじゃない。カップルが誕生するだけで、世の中明るくなると思うよ。

だから、私は30代40代独身男女の本音を知りたくて、ブログ上で該当する人がいないか、あちこち見ているのだけど、そういう人どこにいるんですか。特に女性があまりみつからない。おーい、負け犬ちゃん、どこにいるのー。

今日はサッカーの日本戦で、日本中が気もそぞろ、ブロガーたちも独身男女問題どころじゃないとは思うが、ものすごく大事なことだと思うので、おばさんは朝も早よからがんばった。

さー、洗濯しよ。

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2006年6月 9日 (金)

個、 家、 国、 女

コウイチブログの「家制度」を取り上げさせていただく。

なんだか今の世の中はどうにもこうにも収拾のつかない混乱状態であるらしいことを前提に、ブログ上でも多くの人が意見を述べる。

家族をどうにかするのか、その前に個人の意識だ、いや、それにはまず憲法だ教育基本法だ愛国心だ、・・・と、我が国はまさに、鶏やら卵やら矛やら盾やらのごった煮が煮詰まりつつある状態のようだ。

【棚上げといわれるかもしれないが、このままもう少し「いきすぎた個人主義」とやらに身を寄せていてもいいような気がするのだ】、というコウイチさんの言葉を読んでいると、いっそのこと、どんどんこのまま煮詰まるままにして、焦げ付かせて、炭化させて、無にして、また新しいものを構築していくのも一つの道かもなあ、なんて思う。

行き着くところまで行った挙句、再びゼロから出発するための、そういった形の「焼け跡闇市」もありかな、なんて。

【でも逆に心地よい個人主義のおかげで能力を如何なく発揮できた人間もいるのではないだろうか。特に女性だ。才能ある女性はこの個人主義のおかげで花開いた人が多いのではないだろうか。】

たしかにこういうことはあると思う。
でも、戦前の女性たちに生き生きとした個性的な人物が多く見られるような気がするのはなぜだろう、とも思う。
「男女平等」「自己実現」の名目のもと、かえって、個性発揮がステレオタイプになってしまっているのかもしれない。
「共学校でなく、女子校に女性の才能が花開くことが多い」と言われることも関連があるかな、と思うがよくわからない。
抑圧の中でこそ、個性は際立ち、輝くということなのか。

ま、傍観者的勝手な観測ではあるが。

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2006年6月 8日 (木)

息子と話す

私は母親にしては、そしてこの年にしては息子(特に長男)とよく会話するほうだと思う。

プライベートなことはほとんど知らない。何かを相談されることも今のところまったくない。
しかし、いわゆる世間話というか、ブログ上でお喋りするような話題についてはよく語り合う。
息子が遅い帰宅後独りで食事することが多いので、そういう機会を持ちやすいということがあるかもしれない。

世間では、母親と親しくお喋りするような男はマザコンだみたいな思い込みがある。私も「柔軟な心」のコメント欄でそんなことを書いた。
なんと偏見にみちた考え方だろう。

私の知る複数の男は、母親に対してぶっきらぼうでほとんど喋らない。しかし、母親の理不尽な「命令」をきっぱりとはねつける態度を持ち合わせていない。
こういうのをマザコンというのかどうか知らないが、情けない男であるのは間違いない。
いや、「情けない男」と決め付けるのは少々厳しすぎるかもしれない。
問題は母親なのだから。

マザコンというのは、息子が問題なのではなく、母親のほうに問題があるのだと思う。
息子を自分の所有物としてつなぎとめておきたいという欲求が母親のほうにあって、息子のほうは、それを自分から断ち切ることができないでいるのだ。
深情けの母を持ってしまった身の上も気の毒だとも言える。

シビアな意見を言う長男とは議論になることもしばしばあり、私もガツンとやられることが少なくないのだが、こういう時には、長幼の序より、人間同士としての交流を感じることができて不快に思うことはない。
もちろん、友人たちとの議論のほうが数段深く広いのだろうし、彼にとってはおばさんの世間話に軽く付き合ってる程度だろうとは思うが、おばさんの、いや、女性の考えを知らせる機会を私は大事にしたいと思う。たとえ、私の考えが一般的な女性を代表するものではなかったとしても。

これからの良好な男女関係構築には「男も大いに語る」ことが求められるのではないか。

愚痴や他人の悪口といったおばさん的お喋りは男には似合わないが、それ以外の自分の思いはどんどん喋ったら良いと思う。
ブログでは男性は主に政治や経済といった話題を取りあげることが多くて、そういう分野では女は太刀打ちできないのかもしれない。
でも、身近な話、足元の話になると、男はほとんど何も言わなくなる。
これでは男女はなかなか理解し合えないし、トラブルも起きやすいし、こじれやすい。

・・・・しかし、それでも、と原点に戻ってしまうのだが、男女の間には溝があるからこそ、妙味というものが生まれるんだなあ、なんてことも考える。

ことはそんなに簡単ではないのだね。

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2006年6月 7日 (水)

蚊の季節

そろそろ蚊の出る季節だ。

私は、とても不思議に思うのだが、家の中にいるアカイエカというヤツはどこで生まれるのだろうか。
家の中に水溜りなどない。
外で生まれて家の中に入って来るにしては、毎晩毎晩一匹ずつ現れるのが解せない。
やっつけてもやっつけても次の夜には必ず「プ~ン」といって別のがやってくる。

以前、yahoo掲示板で、「理系のママさんでお話しませんか」とかなんとかいうトピがあったので、そこで聞いてみたら、やはりアカイエカでも、外の水溜りで発生するとのこと。そして少しのすきまをみつけて家の中に侵入するのだそうだ。
でも、そんな穴もすきまもどこにもない。網戸にほんの小さな直径5ミリほどの穴はみつかったが、そこを飛んで通過できるとは思えないので、「その穴は歩いて通るのでしょうか」と聞くと、「そうですそうです。歩くんです」と言う。ほんとかなあ。

もうひとつ、やぶ蚊についての疑問もある。

山の中にいるやぶ蚊、めったに人が入らないところでも、藪の中に入っていくと、蚊が寄って来る。
人や動物がいないのに、どうしてそんなところに生息しているのだろうか。
蚊の一生はどれほどなのか知らないが、せっかく生まれても一度も血にありつけないまま老いて死んで行く蚊も多数いるのではなかろうか。哀れな話だ。

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2006年6月 6日 (火)

金儲け

村上ファンドの村上世彰氏が逮捕された。
インサイダー取引という犯罪の容疑だ。

しかし、この犯罪を犯してなかったにしても、村上氏は世間から、批判的な目で見られ続けていた。

「額に汗して働く人が憤慨するような不正を困難を排して摘発していきたい」、ある検事さんはそう言った。

不正はぜひとも厳に正してもらいたい。

しかし、マスコミや大衆の「金を右から左に動かすだけで莫大な利益を得るのはいかがなものか」との大合唱はいかがなものか。

みんなそんなに立派なのか。

本音を言えば、できたら昨日買った宝くじで1000万円当たってほしいと思っているはずだ。持ち株が倍に値上がりするのを心待ちにしているはずだ。拾った1000万円から謝礼金の100万円でも手に入ったら、なんて思っているはずだ。

私もほしい。お金がほしい。

我々は、「額に汗して働くことは尊い」ということをわかってさえいればいいのである。

そしてそのことをきちんと子供に伝えさえすればいいだけのことなのである。

金の儲け方はいろいろだ。

額に汗して肉体労働に励む人もいれば、鍛えぬいた頭脳を駆使して、株取引で儲ける人もいる。

村上氏は何もせず儲けたわけではない。ものすごいリスクも背負った。その覚悟があった。
金を儲ける人間に対するやっかみが「額に汗して働くことなく」という美辞麗句に変えられ多用されすぎてはいないだろうか。

「法律の範囲内でお金儲けをして何が悪いのですか」という村上氏の言葉は、出る杭を許さぬ日本社会へのひとつの挑戦状だとも思う。

・・・・・・・、と昨日までは思っていた。

しかし、今日のワイドショーなど見ていると、結構、村上擁護のコメントは多く見られた。
もちろんインサイダー取引は不正であるし、それを認めた村上氏は処罰されるべきではあるのだが、村上氏が風穴を開けたことに対しては好感を持っている人も少なくないようだ。

日本も変わってきたのかな、と思う。

その変化が良いことなのか悪いことなのか、人によって価値観はさまざまだから、どっちとも言えないのだが。

ワイドショーのコメンテーターたちの中で、室井佑月という作家が、「アタシ、この人個人的にキラーイ。なんかエリートの匂いプンプンさせててェ~。物事を損得勘定だけで決めてるみたいでェ~」というコメントを発していた。

この人は資本主義社会とエリートが嫌いらしい。

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2006年6月 5日 (月)

男脳→女脳

先日珍獣さんとお会いしたのだが、私がその時着ていたセーターに虫食いの小さな穴があいていた。

私は、ジャージーニットは表に響かないようにうまく補修できないので、どっちみちもう10年近く着ているものだし、捨てるつもりでいた。

そのことを珍獣さんの記事にコメントで書くと、彼女は「スパンコールをつけてみたらどうでしょう」と提案してくださった。

私は珍獣さんのアイデアを読んで、そうだ、こういう工夫ってすごく楽しいものだったなあ、と思い出したのだ。
手芸が大好きだった私も、ネットを始めてからというもの(たぶん)、すっかり生活が大味になってしまい、こまごました工夫に時間をかけることがめっきり少なくなったように思う。

たぶん、社会問題などについてあれこれ論評しているうちに、男脳になってしまったのかもしれない。

使えなくなったものをポイポイ捨てるのは、経済の大きな視点で考えると悪いことではないのかもしれないが、潤いのある人間的な営みのためには、生活の細部にもっと優しい目を向けなければいけないな、と思った。

【とにかく、いろいろ試して失敗してから捨てるのでも遅くないですよ】

珍獣さんのこの言葉は私にとって「喝」である。

そろそろ、リボンの騎士から亜麻色の髪の乙女へ転換するかァ。

                     

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2006年6月 3日 (土)

厳しさと優しさと

テレビ朝日「スーパーモーニング」で、東京杉並の引きこもり33歳の男が両親を殺害、家に火をつけて自殺した事件を取り上げていた。

コメントを求められた橋下徹弁護士が、「不幸な事件ですが、これは良い結末だったと言えるのではないでしょうか。この引きこもり男性の怨念が他の小さな子どもに向かわず、この家族内で決着をつけたということだと思います」と言ったのに対し、
見るからに優しそうな朝日新聞論説委員の50代と思しき女性コメンテーターはびっくりした様子で「そんな・・・、こんなことになる前に何かできることはあったはずです」みたいな発言をしていた。

考えさせられる二つのの意見だと思う。

橋下弁護士の意見は実に合理的だ。いや、単に合理的というだけではなく、そこには、未来ある子供たちに向けられた優しさが確かにあると思う。

一方で、女性コメンテーターの意見も人間に対する優しさからくるものだ。

どっちがどうと断ずることは本当に難しいが、我々はこういうことから、何かを学び続けなければいけないのだろう。

橋下弁護士に対する抗議は殺到しなかっただろうか。

      
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2006年6月 2日 (金)

蘇れ 日本の林業

「ガイアの夜明け」というのは、午前中に再放送やっているのね。
良い番組だと思ってはいるものの、あまり見ることはないのだが、たまたま12チャンネル押したら、「よみがえれ、日本の林業」というのをやっていた。

国産の材木は安い輸入材に押されて青息吐息、儲からないので森林はほったらかしの状態で、荒れ放題。

画面一転、アラスカの樹齢1000年の原生林が次々と伐採され、木材として輸出されるその先は日本。
アラスカの森林面積が減少し、森と共に生きる先住民の生活が脅かされる。

これではいけないと立ち上がる人々が出てくる。

・ビジネスとして成り立つ経営戦略を考え、努力を重ねて黒字に転じた林業経営者。
・彼の運営する「林業塾」に集まる若者たち。
・森林組合に就職し、林業者と組合との協力関係構築のため奔走する若い女性。
・輸入材と国産材を合わせた安くて丈夫な修正材(←誤、正→「集成材」)に力を入れる木材製造業者。
・営業マンにその集成材を売り込まれ、興味を示す建築業者。

いま、日本の森林面積は増えていて、管理さえちゃんとすれば、国産材木だけでまかなえるんだそうだ。

「アラスカの原生林を守るためにも日本の森林を守るんです。森林はつながってるんです」という林業経営者の言葉は感動的だ。

「ガイアの夜明け」は本当に良い番組だと思う。
勇敢なチャレンジャーたちに尊敬の気持ちが湧き上がり希望も見えてくる。
「プロジェクトX」よりサラッとしてて好感が持てる。

たぶん、経済とそれに基づく人間の営みというのは、あっちを立てればこっちが立たずみたいな関係になっていて、そう簡単に構造を変えるわけにいかないのだろうな、とも思うが。

それでも、こういう良質の番組は考えるための大きなきっかけになると思う。
職業教育の一環として、高校生にこういう番組を見せればいいと思うのだが、そういうことはやっているのだろうか。

このごろ、あまり知られてない職業が映画のヒットなどで人気が出る現象が起こっている。「海猿」とか。

林業とか農業とかに従事する若者の映画なんか、・・・既にあるのかな?

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2006年6月 1日 (木)

毒舌

このところ、たてつづけに面白いブログに出合う。
井上金属さんのブログはかなり面白い。
こんなところで紹介するともしかしたらご迷惑かもしれないが(いや、それはないよね。誰もが多くの人に読んでもらいたくて公開してるのだよね)、「読んでみて」と言わずにいられない。

お気に入りブログが増えると、読む時間も増え、結構忙しい。
しかし、収穫は大きい。

「ときおり失語症」という記事に共感した。
私も文章を書く時、誰かを傷つける言葉を使ってないか、けっこう気を遣う。
それを自覚しながらも、「差別的」とか「過激」な言葉を敢えて使うことも多い。

それは、これを書いても笑って受け止めてくれるであろう読者(たとえ当事者であったにしても)しか想定していないからかもしれない。
端的に言えば毒舌を共有したいのである。
人権に関わる問題差別発言は論外だが、毒舌はスパイスみたいなものだ。

言葉狩りにおびえながらの文章はあまり面白くないことが多い。

かといって、ただ過激で汚い言葉で罵倒するだけのものでは、面白くないどころか不快なだけである。

過激な表現を使いながらも、基本的なところで知性や優しさやユーモアを感じることができれば、それは「お気に入り」に入れさせていただく。

以前 「傷つきやすい心」 という記事を載せたことがあるが、近頃は、傷つきやすい人が増えたように思う。

傷つかぬよう大事に大事に育てられているからだろうか。

少々の毒舌はどーんと受け止めてみよ、と言いたくなる。

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