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2006年6月16日 (金)

生きる

私は子どもの頃から「自分というもの」が存在することに尋常でない不思議を感じていた。
それは、自分が世界の中心であり、すなわち自分がいなければ世界は存在しないに等しい、という考えに発展していった。
こういう話を人にしたこともあったが、わかってもらえなかった。うまく説明する言語力も持っていなかったから。

日常生活とは別にそういう不思議感覚はずっと持ち続けていたが、50歳という年令に達してから、ある週刊誌のエッセイで私の感覚を的確に表現した文章に出会った。

哲学者池田晶子の「自分が認識するゆえに存在がある」「『自分である』というこれ以上ない不思議に驚かないで何を驚くというのか」というような文章だったと思う。

「自分が認識する」という行為がなければ全ての存在はないのであり、「自分が存在しなければこの世は存在しない」。 しかし、「世界は存在する」、よって「『自分』はいつでもどこでも存在する」と、このように私は思っているし、たぶん池田氏の言わんとすることはそういうことだろうと思う。

私は哲学を勉強したこともないからわからないが、もしかしたら、こういうことは哲学の学問上常識なのかもしれない。

いずれにしてもそういうわけで私は死を恐れない、というか、何ほどのものとも思っていない。(痛いのがイヤなだけだ)

だから、前エントリーで書いたように、「次世代に迷惑をかけないようなるべく早く死のうと思っている」というのはほんとうはウソではない。正確に言うと半分ほんとうだ。

でもそれは自分側の理屈に過ぎず、残されたものにとっては痛手だ。
みんなもう大人なのでたいしたことはしてやっていないが、家族は日常生活に不自由を感じるだろう。
何より、娘が初めての子を母親の援助なしに出産し育てるのかと思うと想像するだけで切なくて涙があふれてくる。

死はまさに本人ではなく残された者の悲しみだ。
だから親はあまり若くして死んではいけない。子供は親より先に逝ってはいけない。

でも、大丈夫、それが起こったとしても、辛いこと悲しいことは人を成長させる。 そうなっている。

温かい家族の絆は必ず人の心を強靭にしているはずだ。
愛された記憶があればこそ何があっても必ず立ち直れる。

親は、どんな風であろうとその死に方を子供に見てもらいさえすればいいのだ。

親なんて人生なんてその程度のものだと私は思っているのですがいかがなもんでしょう。
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コメント

養老孟司氏は、著書「死の壁」で、「一人称」「二人称」「三人称」の3つに死を分類しました。
駄文ですみませんが。
http://blogs.yahoo.co.jp/singleandover40/27756522.html

つらいのは2人称の死です。つまり「あなた」や「子どもの名前」「とうちゃん、かあちゃん」の死です。これが辛いのです。父とか母ではありません。「とうちゃん」「かあちゃん」です。

人間は、誰でも最後は死にますし、いつ死ぬかはコントロールできませんが、それは生まれるときがそうだったのですから、それなりにバランスが取れているように思うのですが、どんなもんでしょうか(笑)生まれるときだけ「縁」で、死ぬときは「自由」にとはいかない、それが自然のルールではないかと思うんですよ(笑)

投稿: single40 | 2006年6月20日 (火) 17時41分

>single40さん、

記事拝読しました。
私は養老さんの本は読んだことがないのですが、私と同じ感覚を持つ池田晶子さんが彼を批判している文章は読んだことがあります。どんな批判だったかよく覚えていないのですが、たぶん、「自分というものの認識」においてわかっていないというようなことだったかと思います。(わかっていなくても別に批判するようなことではないと思うのですが)
私はこの「生きる」という記事を書いた時、もしかしたら、「その感覚わかります」という人が現れるかもしれないと思っていましたが、残念ながらそういう人はいなかった。
養老さんは「死は怖くない。なぜならみな毎晩眠るではないか」と言ったそうですが、それこそが、池田さんや私の「死と自分」という考えとはまったく異質のものです。

話ぜんぜん違うんですけど、今度フジテレビで阿部寛主演連続ドラマ「結婚できない男」やるそうですよ。

投稿: robita | 2006年6月21日 (水) 10時33分

池田晶子さんの本は、私も読んだのですが、私にはこちらのほうが「わかりませんでした」(笑)。
池田さんは、もちろん現代の哲学者ですから「自分」を考えるわけなんです。近代以降、(西欧)哲学というもののテーマが自我そのもののわけですから。
養老さんの思想は、基本的に「反近代」です。時代が進むと、なぜかどんどん人間の「自分」が肥大化していくわけですが、養老さんはそれを批判しているんです。(現代の哲学者からみれば、哲学そのものへの批判になってしまうのですが)
「死」は自分の終わりですから、死への対処は哲学のメインテーマになり得るものなんですが、前近代からすると、生と死の境界は曖昧なんですね。「毎晩眠っている」というのは、つまり生と死を峻別する考え方に対する批判なんです。逆にいえば「死んでも人間」だろう、モノじゃなくて「死んだ人」という「人」であるという考えです。東洋的というか、江戸時代のような考えかたですけど、私はそちらのほうが好きなのですね。

「結婚できない男」は、そんな時代錯誤な考え方をするものなんですよ(苦笑)


投稿: single40 | 2006年6月21日 (水) 19時33分

>singleさん、

私はすごく幼稚な考えにとらわれているのか、それとも、この感覚は個人個人の壁で遮られていて説明のしようがないものなのか、よくわかりませんが、とにかく、「自」と「他」の対比の問題ではなく
ええい、主人が帰って来てしまった。
あした書きます。

投稿: robita | 2006年6月21日 (水) 21時22分

single40さん、
今日の記事にしました。

投稿: robita | 2006年6月23日 (金) 12時11分

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