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2006年6月23日 (金)

ブラフマンってそういうことだったのか

single40さんのコメントへの返事です。

【池田晶子さんの本は、私も読んだのですが、私にはこちらのほうが「わかりませんでした】

池田さんは、週刊誌にエッセイを連載していて、手を変え品を変え、「自分」の存在ほどの謎はない、と書き続けているのですが、その文章はたしかにわかりにくく、「あんたの言うことはさっぱりわからん」という投書などもあるそうです。
もし、彼女の言うことが、「それは誰でも感じる当たり前のことだよ」というたぐいのことなら、「わからない」という反応はないでしょうが、現に「わからない」という人がいるということは、当たり前のことではなく、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない、ということだと思います。

この「認識する自分という謎」という感覚を説明するために、池田さんの週刊誌のエッセイ、切り取ったのがありますので、抜粋します。

【先日、NHKのスペシャル番組「世界一の望遠鏡『すばる』で見る宇宙」を見た。___中略___ナレーションが、感動を込めて語るには、「この光は、140億年もの間、宇宙空間を旅して、今私たちのところに届いたのです。私たちは、140億年の光を、今見ているのです」___中略___続けてナレーションは言う。「さらに新しい望遠鏡ができれば、150億年前の宇宙の始まりを、私たちは見ることができるでしょう」___中略___この宇宙は、150億年前のビッグバンによって始まったというのが、現在の宇宙論の定説となっている。そして、地球の始まりは、40億年前ということになっている。つまり、40億年前にも150億年前にも、われわれは存在していなかったわけである。しかし、それなら、われわれが存在していなかった時の始まりを、なぜわれわれは見ることができるのだろうか。われわれが存在していないはずの存在の始まりを「見る」ということは、どういうことなのだろうか。
これは、物理学上は、例の「観測者問題」と呼ばれる難問になるのだが、じつは明白に哲学上の問題なのである。なぜなら、試みに、右の疑問を強意にすると、
「誰が」存在の始まりを見ているのか。「われわれ」もしくは「私」とは誰なのか。
と、こうなるからである。
で、誰なのか。
物質を観測する観測主体を、同じく「物質」と措定するところに矛盾が生じるのである。観測主体あるいは「私」を、物質としての肉体、もしくは視覚器官を含む「脳」と同一と考えるから、現在ただ今ここに物(ブツ)として存在しているこの脳が、なぜ、その脳の存在していない宇宙の始まりを見ることができるのかという、笑いたくなる矛盾が生じる。じっさい私はこういう時、よく笑う。たまらない諧謔を「脳髄に」覚えるのである。
「宇宙の始まりを誰が見てるのか」なんて無体な問いは、たてるほうが馬鹿なのである。ナニ、見てると言えば、「私が」見ている。誰が何と言おうと、神が馬鹿と笑おうと、絶対に、「私が」見ているのである。いや正確には、「見ている」のではない、「立ち合って」いる。私は宇宙すなわち存在の始まりに、現在ただ今のここ、この刻々において、まぎれもなく立ち合っているのである。
ところで、「存在の始まり」とは、これまた何事であろうか。まるで、存在に始まる前が、あったかのようである。しかし、「存在の始まる前」とは、それ自体、思考の万才である。存在には前後はなく、存在は存在するのみである。したがって、ここにおいて、「存在の始まりを見る」という考え自体が、まったくのナンセンスであったということが露呈する。私が馬鹿なのではない。___後略_】 1999・3・14 サンデー毎日

この文章は、わかりやすいと思うのですが、でも、池田さんとて、最後にやっぱり、「ナンセンス」なんて言葉を持ってきて匙を投げているようにも見えます。(違うかもしれないけど)

で、たぶん、ここから先が私の感覚は池田さんとは違うのですが、「自分が存在しなければ世界は存在しない」ということを、一年ほど前だったか、「これだこれだ」と思わせてくれるものに出合いました。
ビッグコミックに今も連載中の「宗像教授異考録」という漫画です。

インドの賢者みたいな人が出てきて「全ての人が己自身だと考えよ」という言葉が出てくるんですが、これがピッタリはまるんです。

たぶん、いわゆる「輪廻思想」というものとも違うと思うのですが、長くなるので、今日はこの辺にしておきます。
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コメント


はじめまして。(^-^)♪

数日前にひょんな事からこちらのblogの存在を知り、
以前のブログ(livedoor)と併せて、
20~30近くの記事を読ませて頂きました。

。。。上手く言えませんが、
「とてもいいblogに出会えた」と、
今 思っています。

これからも更新を楽しみにしています。


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投稿: 清水 順子 | 2006年6月24日 (土) 23時48分

>清水順子さん、

はじめまして。
過去の記事をたくさん読んでいただいたようでありがとうございます。
お褒めの言葉は大きな励みです。
これからも色々とコメントいただければ嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

投稿: robita | 2006年6月26日 (月) 10時27分

すいません、降参です。やっぱり、さっぱり分かりません(苦笑)

「観測者問題」とは、量子物理学で、粒子の運動量と位置を同時に予言することはできず、観測した瞬間に定まる。ここから始まって、世界は実は人間の観測によって出来ているのではないか?という「人間原理」に行き着くわけなんですが。
率直に言って、こんな理論、私は全然信用してないんです。もっと言えば、私(観測者)とモノを別の存在として考えて「彼処にモノがある」「モノを見ている私がいる」というふうに2項対立で考えるという「枠組み」が信用できない。だから「観測者問題」なんて、「我(観測者)」がアテになると信じた報いじゃないのか(笑)むしろ「世界があって」「私とモノが世界のアヤ」で「似たり寄ったり」のアテにならない存在(みたいなもの)と思うほうなんですね。で、我も世界もみな一緒くた、うち揃って諸行無常だと思うわけです(笑)
言葉にするのが難しいが。

だから「話せばわかる」は「ウソだ、そんなわけない」とした「バカの壁」の養老思想のほうに説得力を感じてしまう。だって、ホントにわかんないですもん(笑)

投稿: single40 | 2006年6月27日 (火) 11時01分

>single40さん、

私は養老さんの本も池田さんの本も読んでなくて、しかも池田さんのほうも、週刊誌の連載エッセイを時々読む程度なので、両者が対立する考えなのかどうかもわかりません。

>世界は実は人間の観測によって出来ているのではないか<

これは、私が漫画で読んだ「世界は梵(ブラフマン)の集合体(梵天)の意識でできている」というのと同じことなんですか?
私はこういう教養を身につけていないので、恥ずかしながら還暦近くなって漫画でそんな考え方(たぶんインド哲学と言われるものでしょうか)があることを知ったのですが、それが、私が子供のころから抱いてきた思いと非常に近かったので、これだ!と思ったのです。

ただし、「世界は実は人間の観測によって出来ているのではないか」という文章の中で、「人間の観測」でなく「自分の観測」という表現であるべきだし、「世界は・・・によって出来ている」でなく、「観測する自分がいるから世界の存在がある。よって、自分は常に存在する」としてもらいたい、・・・あれ?同じことかな?・・とにかく微妙に違うんです.

この「観測者」は「われわれ」ではなく「自分」です。唯一無二の自分。つまり荒唐無稽な言い方ですが、自分が「神」のようなもの。もちろん、宗教で言うところの「全知全能の」とか「慈悲深い」とかいう神とは無関係であって、「自分」はこの「自分」しかいないわけだから、自分すなわちそれはすべてを認識するこの世の中心で、すべての人がそうなのです。

だって「自分」は誰がなんと言おうとこの世に「自分しか」いないわけですから。
「死」にしろ「眠り」にしろ、世界を感知する主体がなくなるなんて有り得ない。それは「世界は存在しない」と同じことじゃありませんか? (すでにここで、【「彼処にモノがある」「モノを見ている私がいる」というふうに2項対立で考えるという「枠組み」が信用できない。】というsingleさんの考えと相容れないわけですが)
ということは、「自分」という存在は絶対になくならず、「死」は「無」じゃなくて、また別の「自分」に置き換わるだけだと思うんです。
こんなこと言うと、「生まれ変わり」の思想みたいですけど、それとは違うような気がします。
説明しにくいけれど、この世とは時系列的に流れているようなものじゃなくて、宇宙のどの時間にもどこの空間にも「自分」は存在する、ということです。
でもこれは知力や教養や経験にはまったく関係なく、感じる人は感じるが感じない人はまったく感じないという、ま、ツボにはまる、といったようなものかもしれません。

singleさんはいろいろなことをご存知ですね。お話が面白い。
科学と哲学は突き詰めると境界がなくなりますが、それが「量子論」というものによってあらわになったことも私は知りませんでした。
難しい文章を読むのが嫌いなので、本でも読んで学んでみようとはぜんぜん思いませんけど。(笑)

それにしても、量子論が導き出した人間原理と似たものを、釈迦出現以前のインドの人が考えついていたんですね。
私には、量子論よりブラフマンの思想のほうがすんなりはまりそうです。両方とも、表面的にわかっているつもりになってるだけですから、私の理解はまったく的外れなのかもしれませんが。

こんな話をしたのは久しぶりです、というか、初めてだと思います。
singleさんは色々なことをご存知ですね。

投稿: robita | 2006年6月28日 (水) 10時14分

初めてなのに、もうひとつコメント。
池田晶子さんの本、数年前に新聞の紹介で2冊ほど話題になったときに、中学生程度に生きる意味を語る本だったので、これだとわかりやすいかなと思って、即購入した経験があります。
手にしたものの、拾い読み程度で、最期まで読みきらなかった記憶が・・・。やっぱり哲学のひとって、こんな世界にいらっしゃるのかと。
今日6月30日の朝日新聞の天声人語、いい話です。もう読まれましたか。こんな風に生きることで本当に大切なものはなんだろう、と説いてくれていると、心に残るのに。
あぁ、イエスが言った、らくだが行こうとする「針の穴」は、両側に山肌が迫った峡谷の実際の地名だそうです。
初コメントで、長く書いてすみません。

投稿: 街中の案山子 | 2006年6月29日 (木) 10時14分

訂正 上記コメント内の日付、6月30日→29日です。

投稿: 街中の案山子 | 2006年6月29日 (木) 10時59分

>案山子さん、

>やっぱり哲学のひとって、こんな世界にいらっしゃるのかと。<

「『哲学のひと』は浮世離れしていて、現実のしがらみに右往左往している庶民とは違う世界にいる」と、人は思いがちですね。案山子さんの仰るのがそういう意味かどうかは定かではありませんが。

池田さんとて、毎日現実の生活を送っていらっしゃると思いますよ。おなかもすけば下痢もする。友人の一言に腹も立てれば、原稿料が入って嬉しいと思う。髪型がうまく決まらないとイライラもすれば、今日は化粧のノリがいいと喜びもする(ご存知でしょうか、池田さんお洒落な美人なんです)。
独り身である分、家庭のあれやこれやにわずらわされることはないでしょうが、間違いなく生身の人間です。
例えば私も飯炊きや掃除洗濯に明け暮れる「生活そのもの」にどっぷり浸かっているおばさんですが、洗濯機の渦をみつめながら極小や極大の世界に思いを馳せたりもするわけです。
畑仕事に精を出すお爺さんがふと空を見上げて、はて、わしは何故わしなんじゃろ、と人間最大の疑問に気づいて何の不思議がありましょうや。

果たして哲学は「違う世界」なんでしょうか?

>らくだが針の穴を<

とてもなじみ深いたとえ話です。

天声人語氏の言いたいことは要するに、同じように株で儲けたバフェット氏と村上氏の品格が違う、ということですね。
それはそれでいいのですが、「資産家の子供を甘やかすから、という理由で、バフェット氏は相続税軽減に反対した」という記述がありますね。
金持ちの子供は放蕩に走りやすいかもしれませんが、一方で、親が金持ちだろうが身を慎んで暮らす人々もいます。
単なる子育ての失敗の問題ではないかとも思うのですが、考えてみると、今の世の中は豊かになって、それは子供をだめにする、なんてことも言われます。
だから日本なんか元の貧乏に戻りゃあいいんでしょうか。

こう考えると、やはり、どんなに努力をして財を成したとしても、子供には残さず、貧しい人に分け与えるのが正しい道なのでしょうか。うーむ。難しい問題だ。

「金持ちが天国に入るよりらくだが針の穴を通る方がまだたやすい」という聖書の言葉を読んで、「金持ちへの妬み」を感じる人もいることでしょうね。

投稿: robita | 2006年6月29日 (木) 14時45分

>単なる子育ての失敗の問題ではないかとも思うのですが、考えてみると、今の世の中は豊かになって、それは子供をだめにする、なんてことも言われます。
だから日本なんか元の貧乏に戻りゃあいいんでしょうか。

>こう考えると、やはり、どんなに努力をして財を成したとしても、子供には残さず、貧しい人に分け与えるのが正しい道なのでしょうか。うーむ。難しい問題だ。

横からスミマセン。
私は豊かな生活を望むのは間違いだとは思いません。
ただ、金銭的なものの豊かさだけが先走って、バランスが取れなくなってしまうんじゃないですか?
これは子育ての失敗だけの問題ではないと思います。わが身の処し方がわからない、故に子育てが上手くいかない、のだと思います。
お金持ちになるという事は、以前のロビタさんの記事で書かれていた「富豪の務め」(でしたっけ?)にもありましたよね。財力に比例した心の豊かさがあって、初めて立派なお金持ちになっていくのではないかと。
でも、それは「らくだが針の穴」のたとえにもあるように、凄く難しい。そして人々はその難しさを知らない・・。

それほど器量がないのにお金を沢山持ってしまうと、という戒めだと思うのですが。

投稿: | 2006年6月30日 (金) 01時13分

>HN入力忘れた方へ、

>財力に比例した心の豊かさがあって、初めて立派なお金持ちになっていくのではないかと。<

そうですね。
立派であれば尊敬されるし、立派でなければ「成金」なんて陰口きかれるだけのことです。
でも成金は成金で、それも一つの文化なわけで、私は前も書いたけれど、富豪が生まれることに抵抗を感じません。面白いことをやってくれそうなので。
不正なことをして儲けたりしてはもちろんいけないし、「貯め込むだけ」も良くないと思いますが、富豪には文化の担い手になってほしいですね。

2005・10/18の記事「富豪のつとめ」→ http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_d979.html
リンクできなければ→ http://blog.livedoor.jp/robita_48/archives/50113899.html

金をたくさん持ってるヤツは貧しい人に還元すべきだ、という考えはどうもねえ・・・・。

投稿: robita | 2006年6月30日 (金) 11時37分

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