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2006年7月25日 (火)

禁止事項を課す

子育てに関しての「政策」というものが、それぞれの家庭にあると思う。
それはいわゆる「躾け」とか「道徳」、のような抽象的なものだけではない。

虫歯予防のためチョコレートとあんこは食べさせない、とか、味覚がおかしくなるといけないので、カップ麺だとかハンバーガーなどのファストフードは食べさせない、とか、考える力をなくすのでテレビは親の許すもの以外見せない、とか、これらは私が子育て中に実際に見聞きした家庭の方針である。

小さい頃住んでいた神戸の家の近くに駄菓子屋があって、私たち兄妹や近所の子どもはよくそこで1円単位の駄菓子、今から考えるとぞっとするような添加物が入っていたであろう得体の知れない駄菓子を買って食べたものだ。
近所にちょっと上流の家があって、そこの同年齢の娘たちとはよく遊んだが、彼女たちはその駄菓子屋には決して行かなかった。山猿のような自由な遊び方をなすがままにさせていた他の親たちと違って、その家庭はきっちりとしたポリシーを持って子供を育てていたのだろう。

しかし、チョコレートやカップ麺やハンバーガーを味わうことのできなかった子供時代、くだらないテレビ番組にバカ笑いすることもなかった子供時代、そういう子供時代は果たして子供にとって幸せなのだろうか。
小銭を持って駄菓子屋の中をうろちょろした子供時代は、たとえ悪いものが多少体の中に入ったとしても、それを上回る楽しい思い出を蓄積することができたのではないか。

昔読んだSF作家レイ・ブラッドベリの短編にこんな文章があって印象に残っている。
「・・・そうやって、水遊びをしなかった川や食べなかったお菓子が心の中にたまっていって、大人になった時、そういうものがたまらなく懐かしくなってくるんだ。」
正確ではないが、こんな文章だった。

それぞれの家庭で、子供に課す禁止事項というのはあると思うし、締めなきゃいけないことはきっちり締めなきゃいけないとも思う。親はひたすら「将来のお前のためだ」と思ってやっているのだから。
でも、生活全体を通して息苦しさだけを感じるのでは子供も辛かろう。
「遊び」「逃げ」の部分や「抜け道」を見て見ぬふりをする大人の度量がなければ、子供時代ならではの面白味を経験することなく人は大人になってしまう。

たいていの親はこういうことはわかっていて、適当に手綱を緩めたりしているわけであるが、今の世の中、手綱を緩めるにもひどく気を遣う。適当にヒョイヒョイなどといかないのが現実なんである。
昔も今も子育てには悩みがつきものだ。(それを上回る楽しみもあるけどね)

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2006年7月18日 (火)

何が子供を成長させるか

お父さんとお母さんは喧嘩などせず、仲良く幸せな家族であってほしいと、子供たちは願う。
子供の心の安定にはそれが一番だ、と普通は思う。

3人の子供たちが小さい時のことだ。
連休最後の夜に家族旅行から帰ってきた。
次の朝は粗大ゴミの回収の予定だった。新しいベッドを買ったので、もらい物の古いベッドをマンションの部屋から下のゴミ置き場まで運ばなくてはならない。既に連絡済みであったので、今晩中に運ばなくては、と思い、夫に一緒に運んでくれるよう促した。しかし、旅行疲れの彼はそれを嫌がり、「疲れてるんだよー」と露骨にイヤな顔をする。「でも、取りに来てもらうよう連絡してあるのだし・・」と言っても、「また次でいいんじゃないの」と腰をあげようとしない。
粗大ゴミ回収のことについては、私は夫に前から言ってあった。この時突然言い出したのではない。
でも、彼は「子供3人連れて旅行して、くたくただよ。明日から会社なんだよ。少しは休ませてくれよ」と、自分が子供の世話で疲れきっていることばかり強調する。

夫は運転免許を持たないので、一日中運転していたのは私である。オムツもとれていない末息子を世話していたのは私である。明日から子育ての大嵐に再突入するのも私である。

キレた、なんて言葉は使いたくないが、やっぱり「キレた」のだろう。
思いのたけを泣きながらぶつけた。今まで我慢してきた夫のわがままにも言及した。
そうやって泣きながら流しに向かって洗いものを始めたので、夫や子供たちがどんな顔をしていたのかわからない。

洗っていたガラスのコップが手から滑り落ち、シンクの中でガシャーンと大きな音をたてて割れた。
夫が駆け寄ってきて、「悪かった。悪かった」としきりに謝り、「ベッドを運ぼう」と言ってくれた。

解体できない古いタイプのベッドだったので、苦労してエレベーターに載せ、下まで運んだ。その間中、夫は謝罪の言葉を繰り返していた。

しかし、本題はここから先である。
ベッドをゴミ置き場に運んで部屋に戻って来ると、驚いたことに、ベッドがなくなった後の床に長男がせっせと掃除機をかけていたのである。
当時小学校2年か3年だった長男はたいしたお手伝いなどできず、掃除機などかけたこともなかった。
幼稚園児の長女は這い回る弟をおとなしくさせようと面倒をみていた。

おそらく、長男は、見たこともない両親の喧嘩を目の当たりにしてびっくり仰天し、妹に弟の世話を託して、争いの元となったこのベッドの処理に関して少しでも自分のできることをしなければ、と考えたに違いない。
両親の諍いが子供を成長させることもあり得るということだ。

それ以来、子供はそういう光景を見ることなく育ってきているので、波風の立たない家庭で「世の中って平和だねー」みたいな、のほほ~んとした人間が出来上がってしまったような気もするのだが、果たしてこれは良いことなのか悪いことなのか。
社会に漕ぎ出した時、世の中はこんなに厳しいのか、と気付いて初めてびっくりするのか、それとも、友人関係バイト関係などで充分とは言えなくてもある程度の厳しさは経験しているのか。それもわからないのだが、でも、なんとなくわかることはある。彼らはのんびりと優しい人間ではあるかもしれないが、たぶん、心は強靭のような気がするのだ。苦境に陥っても挫折しても、ぎりぎりでふんばる、その心だけは備わってるような気がする。

親の喧嘩にも色々なタイプがあると思う。
たけしくんの家みたいに、両親が口汚く罵倒し合うのが日常茶飯事の家庭もあるだろうし、子供を不安のどん底に突き落とす重く激しい喧嘩もあるだろう。
うちみたいに、普段喧嘩しないから、稀に起こした争いで子供が奮起する、ということもあるだろう。

両親はこんな風でなくちゃいけない、などというマニュアルなどはないのであり、子供に対するいとおしい気持ちさえあれば、紆余曲折はあっても、そんなにおかしなことにはならないだろう、というのが、当たり前ではあるが結論になる。
いとおしい気持ちを持てない人は、だから、不幸だ。

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2006年7月15日 (土)

「好ましい老夫婦形成」に要するエネルギー

「子供を守る」にいただいたぐーたんさんのコメントへの返信が長くなったので記事にします。

広い世間を見渡せば、夫婦が不仲になる事情や離婚に至るケースは種々雑多で、一概に「すべきでない」とか「すべきである」とか決め付けられるものではありませんね。(夫婦関係に限らず何事もそうですが)

「変質者」というのは「自己の欲望のために子供を犠牲にする」という広義の解釈で言えばそういうとらえかたもあると思います。もちろん、いわゆる子供をもてあそぶ性犯罪者とは全く違うのは言うまでもありません。でも、あの奈良の放火事件の父親は家庭を崩壊させ、その後も有無を言わさず子供を勉強に駆り立てた、この残酷さをあんまりだと私は思いました。いずれにしても、「変質者」というイメージは非常に悪いので、誰もそういう表現は認めないでしょうけど。

少年は家を出る時、元の家族の写真を持ち出したかったけれど見当たらなかったので、お父さんの写真を持って家を出たそうです。この子はお父さんが好きだった、というより、元の家族をあきらめきれなかったんじゃないかと思います。
この人たち(新しい母と子供)さえいなければ、元の楽しかった家族に戻れるんじゃないかという妄想は抱いたでしょうね。非常に幼い発想ですし、やったことは許されるものではありませんが、「何もかもいやになった」というほど追い詰められていたその救いのない身の上には激しく同情します。

ぐーたんさんの言葉;  【子どもと暮らしたいと思う自分のためだよ】

ちょっと違うかもしれませんが、似たようなことを思います。
と言うのは、行動の動機というのは何ごとも「自分が幸せになるため」じゃないですか。
私は偉そうなことを書き並べていますが、「可哀想な子どもを見たくない自分」「自分のために我慢してくれている人を見たくない自分」がいるから、子供を可哀想な目にあわせないようにするし、夫をサポートする側にまわったりしてるんだと思うんです。
つまりは、最終的にはすべて「自分の幸せ」のためなんですよね。

にも書いたのですが、「自己実現に比べれば自己犠牲のなんとたやすいことか!」(エリック・ホッファー)で、私はすごくたやすいほうを選んでるんですね。自分の幸せのために。

結局「自分」の幸せのためであるなら、自己主張なんて面倒くさいことするほうが損。・・・私、人間じゃなくてまるで・・・・言うなれば、そう、ミミズだよー。
苦しんでる人は、いっそのことミミズになっちゃったら楽なんですよね。
でも、みんながミミズになるわけにいきませんね。そんなことしたら、国全体が沈んでしまいますね。やっぱりそれぞれが夢と希望を抱いて大空を飛び回る鷹のようでなくっちゃあ。

ね、家庭を幸せな場に作り上げることができないのは誰の責任かな。
誰の責任という単純な問題ではないのだ、というのが普通の答えですよね。
でも、論理的に責任論で言うなら、その家庭内の大人の責任だ、と私は思うんです。だから、その責任が果たせないような人は、どっちみち家庭を形成するのに向いてないんじゃないかと私は思います。もちろん理想的な家庭を築く、という意味でなく、喧嘩をしながらも、どたばたしながらも、家庭の崩壊をぎりぎりで食い止めるくらいの努力はできるんじゃないでしょうか。

私は人間同士、たいていのことは真剣に話し合えば分かり合えると思っています。
テロリストや北朝鮮みたいな、話の通じない相手ならともかく、通常の人間だったら、話して平和的に解決できないもんでしょうか。
もしそれができないような人間であるなら、夫であれ妻であれ、離婚も仕方がないかもしれませんね。テロリストや北朝鮮と我慢しながら仲良く付き合うなんてそんな無体な。

【離婚の形が悪いのではない、皆が結婚と言う形に拘らない社会だとしたら、両親が揃っているかどうかは大きな問題ではない気がします。】

そうなんです。
人間社会は長らく、「両親と子供が揃った形」が普通の家族とされてきました。
その「普通」からはずれることで、子供は不幸を感じます。

社会学者宮台真司氏が「以前の家族像が崩壊しても、それに替わるものが出てくれば問題はない」と言ってます。
この人は、フランスが少子化を食い止めることに成功しているのは、シングルマザーを容認する社会がある、ということが大きい」とも言っています。

色々な形の家族を社会が何の違和感もなく受け入れるような時代が到来すれば、お父さんが家庭外の女性を好きになって出て行こうが、ママと称する男性が家族の一員として参加しようが、宗教団体によくあるような集団生活をしようが、なんでもありの家族形態の中で、子供はすくすくと育つことでしょう。

ただし、はるか未来のことではあると思いますよ。この宮台先生にしてからが、そういう説を口にしながら、しとやかな奥さまと最近お生まれになったお嬢様とのほのぼの家族の幸せを満喫していらっしゃるようですから。
「昔の家族に戻れ、といった見当違いのバックラッシュも、過去の記憶を持つ世代が退場すれば、じきに終わる」と、先生は仰いますが、「幸せな家族」という「過去の記憶」はこれからも継続して作り続けられるわけで、何も、ある世代から前が退場すれば、それがなくなるというわけではないのですよね。

私自身は、「お父さんお母さんと子供たち」という家族形態が別のものに切り替わるということはないんじゃないか、と思います。
もし、そういうことが起こる時代が来たとしたら、その時にはもう、人間は今と同じ「情感」を持つ生き物でなくなってると思います。真の意味での「新人類」の誕生でしょうね。
でも、そんなこと、今の私たちが考える必要もないほど遠い未来のことだと思います。
(これはシングルマザーの問題とは離れてしまいましたが)

それはさておき、おとといの新聞の生活面に熟年離婚についてのリポートがありました。

例1:  カチャ。ドアの音が聞こえると、高校3年生のひとり息子との和やかな空気が凍り付く。帰宅した夫は無言で自室へ直行。結婚して20年余。埼玉県内に住む女性(53)と夫の間に会話がなくなって久しい。
   大企業勤めの夫は仕事一筋。女性はお茶にお花、外国語教室に通い、働きに出たことはない。「何が不満なの」。周囲から言われる。
   だが、結婚直後から違和感があった。自転車で転んでけがをした時、最初に夫が言ったのは「卵割れなかった?」。妻の体より、買い物袋の中身を心配する人だった。「独身のときよりさびしかった」。心身のバランスを崩してしまった。妊娠中、夫は浮気をしたようだが、もうどうでもよくなっていた。息子が生まれても、「忙しいから」と遊ぶこともなかった。
   育児に夢中になり、精神的に強くなったが、息子が4歳のころ、母子べったりはいけないと我にかえった。それからは、「いつか離婚すること」を心の支えにするようになった。受取人を自分にする個人年金に入り、終身年金が商品化されたらすぐ加入した。金利のよいころに投資信託をした。年金分割の話にもピッとアンテナが立った。
   最近は日々電卓をたたいて、離婚後の懐具合を試算している。いよいよ年金分割が実施される来年度以降が、決断のとき。どれぐらいもらえるのか、判例などでわかってきて、条件が整えば踏み切るつもりだ。
   これまでは、離婚への抵抗感があり、働く勇気も力もなく、耐えれば済むと思ってきた。でも今は「1回の人生ですもの。もう我慢しなくていいと思う」。別居も考えたが、夫の姓の墓に入りたくないから「やっぱり離婚したい」。夫には、これまで何度か「離婚したい」と手紙で伝えている。返事は一度もない。

例2:  朝6時の台所に「トントントン」とキュウリをきざむ音が響く。簡単なサラダをこしらえ、鍋で1人分のみそ汁を作る。
   東京都内に住む60代後半の元会社員の男性は、定年直後から自分で朝食を作っている。結婚40年を過ぎた妻は、別の部屋でぐっすり眠っている。
   昼はたいてい別々に外食。唯一、夜は同じ物を食べるが時間が違う。男性は6時ごろから食卓で妻の用意したものを食べ、独り晩酌をする。隣の居間に移る8時ごろ。妻が食卓につき、男性はテレビの画面を見始める。
   台所のホワイトボードには「11時銀座」「2時歯医者」・・・・。互いに買い物や病院通いなどの予定を書き込む。泊りがけで出掛けるときは、宿泊先の電話番号も。話せば喧嘩になる。できるだけ会話を減らせるよいアイデア、ともう何年も続いている。
   ズレは定年後に広がった。「酒を飲みすぎ」「音はたてるな」「水を飛ばすな」。妻の言うことすべてが小言に聞こえる。「昔、子どもに言っていたようなことばかりでうるさい。もううんざり」
   専業主婦の妻は「年金は夫婦の共有財産」と主張する。男性が「僕の稼いだ金でかけたもの」と言えば「あなた一人で稼いだと思ったら大間違い」と大げんかになったことも。
   離婚は何度も頭をよぎった。でも一緒にいられないとの思いは膨らんだりしぼんだり。風船が割れるように破裂するきっかけはあるのかどうか。わからない。
   来年度から始まる年金分割は妻にとっては心強い制度だろう。「こっちにすれば半分とられたらたまったものじゃない。内助の功は認めるが、半々と言われるとちょっと違う気がする」

この「熟年離婚」についての記事は、上・中・下のシリーズで、きのうは、妻と夫、それぞれ相手のお金の細かさに強い不満を抱く2例の紹介でした。
そして、今日の記事は、夫に嫌気がさして何度も離婚を考えたが、「きちんと自分の思いを伝えてこなかったことに気づいた」「夫も寂しかったのだろう」「なぜこの人と結婚したのか思い返した」・・・、そんな風に思って、まず自分を変えた。「自分が変わったら夫も変わった」、そして、今は「私が最期をみとる人」になった、という内容でした。
「家庭を壊したくない」という強い思いが危機を乗り越えるエネルギーとなったのでしょう。

お金に細かい夫についての昨日の記事を読むと「こんな男はとても我慢できるものではない。離婚しかない」と思いましたが、たぶんこんな例はそんなにあるものではなく、ちょっとした行き違いがだんだん大きなズレに発展していった関係であれば、話し合いや歩み寄りで必ず修復できる、と信じている私には、今日の記事は、うんうん、と大きく頷けるものでした。 最初に挙げた2例も、他方の言い分を聞いてみなければ真相はわかりません。

相手にきちんと自分の思いを伝えたり、自分のほうから歩み寄ったりすることは、そんなに困難なことなんでしょうか。

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2006年7月10日 (月)

・・・の時に・・・するとは何ごとか

single40さんの「不謹慎はどっちか」が面白い。
今はなき、もとい、休業中(かな?)のブログ「すちゃらかな日常」で、「・・・の時に・・・をするとは何ごとか」というマスコミの大合唱を皮肉る文章に笑わせてもらったことがある。
人間、親が死んでも腹は減る。

麻生外相が、「ミサイル乱射のおかげで世界が北朝鮮の危険性を認識してくれたので、金正日に感謝しなければならないようだ」と言ったらマスコミが騒いだようだ。

さあ、これは不謹慎でしょうか。不謹慎でないでしょうか。

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2006年7月 7日 (金)

子供を守る

奈良の高一生放火事件で、週刊新潮先週号にこんな記事があった。
この少年の父と生みの母は離婚しているのだが、母親は息子をあきらめきれず、息子も母を慕って会いたがったという。ごく普通の母子の感情である。
少年には妹がおり、その妹は母が引き取ったのだが、別れる時の描写が悲しい。
【離婚調停が成立して、いよいよ小さな妹とも今後会えなくなるという時、**君が泣きじゃくって、妹を抱いて離さなかった。二人を引き離すのに、まわりの大人が苦労したそうです。】

これを読んで胸が痛まない人がいるだろうか。
記事では離婚の原因は夫の浮気と家庭内暴力で、その浮気相手は再婚した女性だということだ。真偽のほどはわからないが、いずれにしても大人の都合で子供は深く傷ついた。

人間、生きていく上で、何もかも子供優先というわけにはいかない。
親の都合で、子供に不自由な思いをさせてしまうことは誰にでもあると思う。

しかし、子供が背負いきれないほどのものを無理やり背負わせてはいけない。

親が離婚して、辛い思いをする子供は珍しくない。ほとんどの子供は傷ついても事件など起こすことなく何とか生きていくだろう。そして、そういう辛い経験が人を成長させることもあるだろう。
子供にいっさいの試練を与えてはならないなどとももちろん思わない。

しかし、「子供は深く傷ついている」、そのことを親は忘れてはいけない。
表面上「お母さんが幸せにならなきゃ、僕も幸せになれない」などと大人に無理やり納得させられたようなことを口にはしても、ほんとうは離婚なんかしてほしくないのだ。

両親の喧嘩を見た経験のある人ならわかると思うが、子供だったころを思い出してみるといい。

いっそ別れて親に別の幸せをつかんでほしい、などと思っただろうか。
たとえ表面上だけでも、争わないお父さんお母さんでいてほしい、と思ったのではないか。両親の関係が破綻したら自分はどうなるのか、と子ども心にも思ったはずだ。
お母さん(お父さん)が幸せでなければ、子供の自分も幸せになれないなんて、そんな殊勝なことを子供が思うはずがないのだ。

子供は残酷で自分勝手、というのはそういう意味なのだと思う。
人のことなどおかまいなしに、自分の幸せだけを追求するのが「無邪気」ということなのだと私は思う。

そのわがまま、その自分勝手だけは、親はきいてやらなくちゃいけないと思う。
だって、子供は子供だから、自分で自分を守ることなんか、自分で自分を幸せにすることなんかできないのだから。

子供を狙う犯罪が起こるたびに人は言う、「子供を変質者から守らなければ」と。

その変質者は、実は往々にして家庭内にもいるのである。

「個・家・国・女」の記事にコウイチさんが書いてくださったコメントがまさにこういうことを指摘しているのだと思う。

【今の日本は男も女も変質者がいっぱいいると思ってます。女は男を殴らないだろうし、尻も触らないだろうし、レイプもしないでしょうけど、自分の子どもよりも自己実現の方が大切だと思ってる女はいる。僕は、申し訳ないけど、その人は変質者だと思ってます。】

一見厳しい言葉だが、正鵠を射ていると思う。
なぜみんな子供だった時の気持ちを忘れてしまうのか。

絶対に離婚してはならない、とは思わない。
そういう選択しかない場合だってあるだろう。
でも、子どもが深手を負っているということと、一所懸命我慢している、ということは忘れてはならないし、その後の接し方にも細心の注意が必要だということを言いたい。
小さい子供を抱えて家庭を分解する人にそのことをわかっていてほしい。

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2006年7月 5日 (水)

健全な野性

「伊右衛門はん、ちょっと涼みまへんか?」なんて小首をかしげる宮沢りえはとても清純で可愛い。「Aquos」の吉永小百合も優しく美しく上品な雰囲気を漂わせる。
世の男性がたはこういうのに弱いんだろうなあ。
しかし、もしかしたら彼女たちは男性にとって性の対象外なのではないだろうか。そしておそらく結婚の対象外でもあるのではないか。
綺麗だ、上品だ、穢れがない、あれらの女性たちは崇拝の対象、つまり、女神さまのようなものだ。

ダイハツcooのCMの篠原涼子、ショートカットで小悪魔みたいにこちらを見据える彼女はとてもセクシーだ。女性の目から見ても、男だったら抱きたいかも、と思わせるほど魅力的だ。
(バックに流れているナンシー・シナトラの「にくいあなた」は、おばさんが若い時に流行りましたのよ)

以前、コウイチさんのブログに、「エアコンなんて贅沢なもの使ってるから日本人はセックスレスになる。日本からエアコンなくせばきっと少子化問題もニート問題も解決です。」という記述があって、心に残っていた。→「勝たない卓球」 
なんとなくわかるような気もする。人間はあまりにすっきり快適になると、野性を失う。
渇望や危機が子孫存続の本能を呼び起こすのだと思う。

オトコは、篠原涼子のようなちょっと暑苦しい化粧や仕草や目つきに性的魅力を感じはしても、あまりにすっきりと涼しげな宮沢りえや吉永小百合を押し倒そうという気にはならないのではないか。

それで、思い当たるのだが、近頃の若い娘は化粧が濃い。
若いのだから、そんなに塗らなくても充分キレイなのに、とおばさんとしては思うが、もしかしたらこれは今の時代必然の現象かもしれないと、ふと思う。
けばけばしさに動物は欲情するのかもしれない。
厚化粧は「野性」とは関係ないようにも思えるが、もしかしたら、その厚化粧は、快適になり過ぎた充足感ゆえに萎えてしまった「野性」を人工的に演出する行為とも考えられる。もちろん、個々の女性が男を誘惑しようと自覚しての行為でなく、あくまでも進化したヒトの生存上の集団行動という意味である。

あくまでもナチュラルメーク、シンプルファッションを心がける女性を支持する人は男女ともにいるだろうが、一方で、今のこの厚化粧現象は、種を絶やすまじ、とするヒト科の集団としての無意識の意志が働いているのかもしれない。

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2006年7月 3日 (月)

じっと我慢、しかないのかな

金王朝はいつ崩壊するのだろうか。

もちろん、誰でもわかることだと思うのだが、「拉致問題」だとか「核問題」だとか「人権問題」だとか、個別に外交交渉を試みているものの、北朝鮮の体制が崩壊しないかぎり、つまり、今の指導者たちがいなくならないかぎり、何も解決しない。

「今までも、世界は様々な独裁政権と交渉し暴走しないよう何とか抑えてきた、それが外交というものだ」ということが言われる。
しかし、少しずつ民主化を進め、国際社会に徐々に受け入れられていくように事を運ぶ、というのは、北朝鮮のような一族支配の王朝で可能なのだろうか。

とにかく「国交正常化を」と一時は小泉さんも外務省もシャカリキになっていた。そうすることで核問題も拉致問題も話し合いが進めやすくなる、ということだった。

しかし、国交正常化していったいどうなるのか、と私は最初からはなはだ疑問に思っていた。
北朝鮮と国交がある国はたしかにある。しかし、それらの国々が北と自由に行き来ができているか。

日本と国交を結ぼうが、北は自国を開放などしないし、秘密主義だって変更するわけもない。
拉致被害者をこれ以上返すわけがないし、その真相を明らかにするわけもないのである。約束など守るわけもなく、核兵器は平気で作るだろう。

結局日本にとってのメリットなど何もなく、ひとり北朝鮮だけが、援助を手にして喜び、独裁政権が延命するだけの話である。

国交正常化によって国民レベルの交流が盛んになり、そうなれば国と国の関係も徐々に良くなっていく、などと考える人も以前はいたと思う。

しかし、これはまったくおかしな夢物語だ。
国交正常化してもそんな楽しいことにはならないのは明らかだが、もし国交が結ばれ、交流が始まったとしたらどういうことが起きるか。

日本に来て民主国家の豊かさや自由を目の当たりにして、「我々は独裁者にだまされていた」と気づかない人がいるだろうか。
他の民主主義国家と自由に行き来して、その結果、起こることは「金正日に対する疑念」「金王朝独裁に対する恨み」に他ならない。

しかし当然、日本に留学や旅行に来ることのできる人々は選ばれた人々であろうから、本国でも豊かに暮らしている彼らにそのような「疑念」や「恨み」の気持ちが起こるはずもなく、従って、彼らが日本人と交流しても、何も変わらないのである。
これは、日本で豊かに暮らしている在日北朝鮮の人たちの姿勢を見ていても明らかなことである。

食うや食わずの哀れな人民は相変わらず放っておかれ、拉致被害者は隠され、テポドンをちらつかせて物乞いをする、その体質は何も変わらないのである。

そうは言っても、力ずくで政権を倒すことはできない。少しずつ弱らせ内部崩壊を起こす方向に持っていくしかないのではないか。
だから、拉致被害者家族の人たちには酷なことではあるが、それを辛抱強く待つしかないのかもしれない。

なるべく早くそれを起こさせるために、経済制裁をさっさとすればいいと歯がゆくてしかたがないのだが、なぜしないのだろう。言えない理由でもあるのだろうか。

私は長らく日朝実務者協議というのを、あんなこといくらやっても解決するわけないのに、何をやっているんだろう、と思っていたが、 「茶番」で書いたように、そういうことでもするしかないのかもしれない。

想像したくないが、拉致された人々の中には非業の死を遂げられた方もおられるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、真相は必ず明らかにされなければならない。
うやむやにしてはならない。
それが正義を貫くということであると思う。

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