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2006年8月 7日 (月)

右寄り・・でなく、「日本人の誇り」ではないのか

小林よしのりの「靖国論」と「いわゆるA級戦犯」の半分ほどを読んだ。
漫画形式ではあるが、すごく字も多いので、読むのに結構時間がかかる。

8月を迎えて、靖国を考えてみる。
議論は出つくし、決着はつきそうにない。

しかし、私の心の中では一つの考えがまとまりつつある。
冒頭に挙げた本を読んだことで着地点を見出しつつある。

「首相の靖国参拝反対」とか「A級戦犯分祀論」を唱える、いわゆる「現在の靖国神社否定論者」の言い分はつぎのようなものに集約されると思う。
「A級戦犯のかたがたに責任をとってもらう形で、天皇と国民を守ったということに意味がある。それが正しいとか正しくないとかの問題でなく、いわゆる『外交上の手打ち』という形で、あの戦争に決着をつけたのだ。東京裁判が裁判の体をなしていないひどいものだったということは事実だが、しかし、サンフランシスコ講和条約でそれを受け入れたことで、日本は国際社会に復帰でき、未曾有の戦後復興を経てこんなにも平和で豊かな日本を作り上げることができたのだ。その恩恵に60年もの間、自分たち自身、浴してきていながら、今さら、『東京裁判は間違いだった』とか、『A級戦犯は悪者ではなかった』とかほじくりかえして、いったいどうするのか。あまりにもナイーブだ。」

これは、一見もっともな論理である。
私も似たようなことを思う時期もあった。

しかしだ。
私たちは知らなかったのだ。
50年以上もの間、「東条もその他の多くの閣僚も戦争回避のため最後の最後まで努力していた」とか「日本はアメリカに追い詰められる形で開戦した」とか「東京裁判が裁判とはいえないひどいしろものだった」とか「日本を裁いた国々はもっとずるくもっと酷いことをしていた」とか、そんなことを私たちは全然知らないまま生きてきた。日本人だけが悪いと信じこまされて生きてきた。

学校の歴史の授業で昭和史を習うこともなく、ただただ、日本は他国に侵略し、そこで残虐の限りを尽くし、その責任者である当時の指導者は極悪人だと、まあ、このように単純に思い込まされてきたのだ。
もちろんすべての真相をわかっている人々は政治家にも一般人にも沢山いたことだろう。
しかし、そういう人たちの意見は公になることはなかった。
公にした途端、国をあげてのバッシングにさらされ、その言論は封殺され、一部の勇気ある人だけが、叩かれながらもマイノリティとして戦争の真実を語り続けた。それらの意見はまるでアンダーグラウンドの抵抗運動のようであったし、誰もそんな「異端」の考えを本当のことだとは思わなかったのだと思う。
こうした言論統制にも似た空気が日本全体を50年以上もの間、覆っていたのだ。

「今さらほじくりかえしてどうなる」、と言う人たちは、では、「何も知らないままの50年間」をこのまま継続していれば良かった、と言うつもりなのだろうか。
ほじくりかえさなければ何もわからなったではないか。
ほじくりかえしてくれたおかげで私たちは色々なことを知った。
ほじくりかえしてくれて本当にありがとう。
少なくとも私たちは「知る」必要はあった。

小林よしのりは、「わしが8年前に『戦争論』を書いてから、日本は変わり始めた」と言う。

私は「戦争論」は読んでいないが、これを読んだ人々が正気を取り戻し、その正しい歴史認識の空気がまわりまわって、私のような主婦にも及んできたのだと思う。
「お坊ちゃまくん」のようなギャグ漫画を書く人物による戦争論ということで受け入れられやすかったのだろう。若者を中心として、日本の誇りを取り戻そうという気運が高まってきた。彼らの中には曲解して過激な考えに走る者も出てきたようだが、そんな輩は早晩淘汰される。

小林よしのりの言うことは筋が通っていると思う。
アメリカの独善的なやり方は昔も今も変わってないじゃないか、として、反米の立場をとっている。
反米の立場をとっているからこそ、日本はあんなアメリカの言いなりになることはない、日本は自分で自分を守らなければいけない、だから、「団塊の世代のじじいたちよ、最も人口の多い世代の者たちよ、祖国の危急存亡の際には共に武器を持って戦おうではないか」、と言っている。
ギャグ的な言い方だが筋が通っている。

アメリカに世界をまかせれば、一応平和になるだろうから、そこから世界の秩序についておいおい考えて行こう、などという、ドライな私の考え方などとはまったく違う。

非常に純粋だ。

アメリカに守られながら反米を叫ぶという筋の通らないことをやっている人たちとも違って格段に潔い。

私はこう思う。
現実的なことを考えれば、日米安保条約を堅持し、アメリカと仲良くすることも必要だし、諸事情を鑑みて首相の靖国参拝を控えるということも必要だろう。
しかし、だからといって、首相の靖国参拝が間違ってるなどと、日本人ならば言わないでおこうではないか。
戦犯と言われ、石もて追われた人々を、「あれで決着がついた」として真実に目をつぶり、A級戦犯は悪者だから分祀せよ、などと日本人ならば言わないでおこうではないか。

連合国によって一方的に悪者にされた「いわゆるA級戦犯」を、我々日本人までもが、何も知らないくせに石をぶつけるような行為をしないでおこうではないか。

首相の靖国参拝が終わりなき混乱を招くのであれば、しないほうがいいと思う。
そのかわり、そうだ、例えば赤穂浪士のように、まわりを欺きながらも、ひとりひとりの心の中にだけでも「我々はわかっているのだ」という正義と真実の共通認識を持つことはできないものか。
赤穂浪士のような内向的が故のテロ行為は容認しないが、その精神は見習ってもいいのではないか。

「幸せのつかみかた」で書いたように、「あいまい、したたか、器用、ドライ、ちゃっかり、何とでも言え。生き延びるということは、そういうことだ。」などと言う私の考えはまるで筋が通っていない。

しかし、少なくとも筋の通った右派言論人をまともだと思うし、その純粋さに心から敬意を表する。
彼らのその純粋でまっすぐな精神が、封殺されることのないよう、擁護し守っていくことが、その他大勢の「あいまいな日本人」である我々のやるべきことではないのか。
おおっぴらに擁護の弁を述べることができないのなら、せめて心の中で彼らの潔さを応援していこうと思う。
そういうのは同じ日本人として、他人ごとみたいな言い方だが、「決着のついたことを今さら騒ぎ立てることは日本のためにならない」とか、「それこそ、戦後左翼に言論封殺されたのと同様の、今度は右翼によるその状況を作り出す」という懸念があるならば、我々は筋を通そうとしている潔い人々を心の中で応援するしかないのではないか。

言論なしに、共通認識を持つことなど不可能かもしれない。しかし、せめてマスコミは中韓を煽るような報道をやめたらどうか。
国民は戦後処理の虚構を知った上で、静かな気持ちで靖国に敬意を示してはどうか。
それぐらいの仲間意識は持ったっていいではないか。一国を成す国民として。
                             
                            
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コメント

robitaさん、ありがとうございます。涙がこぼれるほど感動しています。
昨年亡くなった父は、戦時中フィリピンのルソン島で文字通り辛酸をなめ、亡くなる寸前までrobitaさんの言われることと同様のことを言い続けていました。たった一度の戦争に負けたくらいでいつまで誇りを失ったまま生きるつもりか、と私たち子供一同に説き、その後静かに眠りました。痛いとか苦しいとかを一度も訴えない病人でした。
小林よしのりさんの本はすべて読んでおりますが、それがこのネット上に、しかも一女性の手によるブログで採り上げられているという事実に感謝しないでいられません。
このままもう少しねばって、私なりにメッセージを発していこうと心強い思いです。ありがとうございました。

投稿: ねこっち | 2006年8月 7日 (月) 13時44分

東京裁判の効力の理解、そして、アメリカに守られながらアメリカが壊した保守の回復を要求する背理:この2点の理解以外は、ほぼ同意見です。TBつけさせていただきます。

投稿: KABU | 2006年8月 7日 (月) 15時06分

靖国問題は、異なる3つの問題がごっちゃになっていると感じています。
1)外交問題
2)国内問題
3)宗教問題
です。
ただ、どのスタンスをとろうとも、一つだけ言えることがあります。
つまり、A級戦犯の合祀は、つまるところ16人の問題にすぎない、ということです。240万柱の英霊を祀る靖国に、16人の問題があるから参拝しないという論理を、どのようにして正当化するのでしょう。私は、人はこんなにも手前を正当化するために理屈をもてあそぶのだな、と思っているのですよ。
どんな学者がもっともらしい論理をならべようとも、畢竟、16人の問題の前には240万人はどーでもよい、早い話が「エライ人だけが死んでも問題の対象で、一般の民草はどんなに沢山いようがどーでもいい」という考え方がそこにあるのです。これは否定できますまい。
私は、A級戦犯が罪があろうがなかろうが、たかが16人の話じゃないか、240万人が全部善人だったかどうかなど検証すること自体がおかしな話だと思っています。
国が、自国民を戦争に送るときに「亡くなったときは靖国にお祀りします」と約束していたわけですよ。他国とのことをどうこう言う前に、まず自国民との約束を守るべきだと思いますし、エライ人たちの都合で勝手に約束を変えないで欲しいと思っています。約束を守るべき相手は、まず自国民であるはずですから。

投稿: single40 | 2006年8月 7日 (月) 17時36分

robitaさん、

>>「東条もその他の多くの閣僚も戦争回避のため最後の最後まで努力していた」

「戦争回避のため最後の最後まで努力していた」というわけではありません。東條英機は、もともと日米交渉の必要はなしと言って、近衛内閣と対立していました。ところが、近衛内閣の後、自分が首相に任命されて内閣を作ると、どーも、こりゃそう簡単に戦争はできないなと考えるようになったんですね。でまあ、なんとか外交交渉を伸ばしていくように計らうのですが、総理大臣の権限なんて小さいものですし、世の中は日米戦争やむなし、やるなら今、という雰囲気でしたし。自分が戦争を回避したいというそぶりを少しでも見せれば、陸軍省や参謀本部の若手将校たちに暗殺されることを覚悟しなければならなかったし、さあどうしたらええのかいな(いや、この人は岩手出身ですから関西弁ではなかったですけど)と思ってみても、なんの打つ手もなく、そのままズルズルと日本は戦争に至ってしまったというわけです。


>>「日本はアメリカに追い詰められる形で開戦した」

についてはその通りですが。追い詰められる状況に陥ったのは日本側の問題です。


>>「東京裁判が裁判とはいえないひどいしろものだった」

これは勝者が敗者を裁くのですから当然です。ひどいしろものでした。


>>「日本を裁いた国々はもっとずるくもっと酷いことをしていた」

これも当然ですが。だからといって、日本も外国に惨いことやっていいという理由にはなりません。

投稿: 真魚 | 2006年8月 8日 (火) 01時36分

>ねこっちさん、

感動していただいて、こちらこそ、恐縮して感動しています。
いつも読んでくださってありがとうございます。
昨日、NHKスペシャルで「硫黄島玉砕戦」見ました。
近いうち、靖国神社にお参りに行きます。

投稿: robita | 2006年8月 8日 (火) 09時47分

>KABUさん、

>東京裁判の効力の理解<

例のjudgmentsの件ですね。
細かい理解はさておいて、「いまさらほじくりかえすな」とする人々の言い分を大まかに表現しました。

>アメリカに守られながらアメリカが壊した保守の回復を要求する背理<

筋を通そうとするならば、それなりの覚悟が必要ということですね。

トラックバック4件ありがとうございました。
法解釈の議論、難しいなァ・・・。

投稿: robita | 2006年8月 8日 (火) 09時53分

>single40さん、

>靖国問題は、異なる3つの問題がごっちゃになっていると感じています。<

だから簡単に解決というわけにはいかないんでしょうが、私としては、「日本国民としての最低限の連帯感」を持てば、こんなもの簡単に解決するんじゃないのかな、という気持ちです。
でも、その「最低限の連帯感」をも危険視する人々もいるわけでして・・・。

>私は、A級戦犯が罪があろうがなかろうが、たかが16人の話じゃないか、240万人が全部善人だったかどうかなど検証すること自体がおかしな話だと思っています。<

こういう意見は初めて見ました。うーむ、なるほど。

投稿: robita | 2006年8月 8日 (火) 09時56分

>真魚さん、

4月に「必需品としての愛国心」( http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_45a1.html )という記事のコメント欄で同じようなやりとりしましたね。
小林よしのりはおびただしい数の文献を参考にして自論をまとめています。
私にはそういう文献を研究する余裕などありませんので、彼がまとめてくれたものを読んで、そうだったのか、と理解するのみです。
ただ、あの戦争についての細部にわたる議論は、こんなちっぽけなブログの手には負えませんし、私は元々そういうことを目的としてこの記事を書いたのではないんです。
みんなで戦争をしたのに、日本だけが残酷なことをしたと思い込まされ、「負けた側なのだからどんな仕打ちを受けても仕方がない」という自覚すらなく、戦後60年も過ごしてきたのはおかしいじゃないか、と言ってるのです。
「戦争に負けたのだから屈辱には耐えるぞ。しかし、誇りだけは失うものか」という精神すらないのが変だと思うのです。
東京裁判の不当性を知った上での忍耐と、知らないままの自虐的姿勢とでは天と地ほどの差があるとは思いませんか。
私の言ってるのは「日本はよい子だったのに悪い子にされてしまった」などということじゃないんです。

投稿: robita | 2006年8月 8日 (火) 10時23分

…真魚さん、今年も参拝行れるのかしら。二礼二拍手しなくてもいいけど、お賽銭だけは弾んで欲しいわー、財政厳しいらしいから。ところで:

>現実的なことを考えれば、日米安保条約を堅持し、アメリカと仲良くすることも必要だし、諸事情を鑑みて首相の靖国参拝を控えるということも必要だろう。

TB記事にもありますが、靖国英霊の子孫としての立場から言いますと、論理は以下のようになるのが筋かと思っています:

【天皇および首相による靖国公式参拝は行われるべきである(ただし、終戦記念日の8/15である必要は全くナシ。むしろ政争の具とされ迷惑である…純ちゃん、了解していると信じておるぞ)

その為に現代の諸事情で不都合が生じるのであるならば、必要な措置を取るべきである】

「必要な措置」とは何か。靖国とは「センチメンタリズム」と「ダイナミズム」の狭間で漂う存在。ここを利用する手はありません。公式参拝の為には時として合理的な判断もすべきではないか、と。

つまり、どうせすべてがあやふやな神社なのですから、今更何をかいわんや、時に「やっぱり分祀出来ました、同じ敷地内のあちらに移動されました♪」と、ケロリとして行うぐらいで良いと思います。

大切なことは、祀り方だの法解釈だのの形式なんぞでは無く、国の為と信じて命を落とした人びとに対する敬意を示す場所として守ること。戦後60年以上経った我々がその為にこの程度「割り切る」ことは英霊も許して下さりましょう。

蛇足ですが、当の英霊の気持ちはイザ知らず、当家の遺族の全員が東条首相を始めとする当時の戦争遂行責任者に対する憎悪の念を死ぬまで失わずにいたことをお伝えしておきます。

投稿: kaku | 2006年8月 8日 (火) 20時55分

>kakuさん、

>当家の遺族の全員が東条首相を始めとする当時の戦争遂行責任者に対する憎悪の念を死ぬまで失わずにいたこと<

ご遺族のかたがたのお気持ちは当事者でない私には想像することしかできませんが、「あのような状況下で他の誰が首相だったとしても戦争を止めることができただろうか」といった記述を読みますと、東条さんも気の毒な立場だったのだなあ、と同情を禁じ得ません。
やはり、開戦はともかく、心残りは「どうしてもっと早く終わらせることができなかったか」ということにつきるのでしょうか。(これも、外相の「和平工作」は、弱腰の終戦工作として軍部に潰されたとか、停戦に応じる日本の意志を無視したのは原爆を使いたかったアメリカの方針だったとか、いろいろありますね)

とにかく大切なことは、「A級戦犯の名誉回復」でなく(小林よしのりはそれをしたいようですが)、戦争と戦後処理の事実を知ったうえで、靖国参拝を考えようじゃないか、ということだと私は思います。

>「やっぱり分祀出来ました、同じ敷地内のあちらに移動されました♪」と、ケロリとして行うぐらいで良いと<

これは、ハマコーさんの「『分祀しました。しかしどこに分祀したかは言うことはできません』と言ってくれまいかと靖国の宮司に土下座して頼もうと思っている」というのと同種の考え方ですね。

「散るぞ悲しき」を、今年3月、大学入試を終えた息子が読んでましたよ。もちろん自主的にではなく、父親に勧められて、ですが。
感想は聞いてません。
私も「読め」と言われていますが、未だ果たせず。

投稿: robita | 2006年8月 9日 (水) 15時44分

私は以前より『靖国シリーズ』で、A級戦犯も赤紙で命を散らした兵士も等しく「国のため」と信じたはず…と書いています。

ですが、これはあくまで後世の私達だからでしょう。もちろん私達はそれで良いのでしょうが、いや、そうでなければならぬのでしょうが、私の知る限り、実際に戦地から戻ってきた人および英霊の遺族で、当時の責任者に対し「同胞」と言う様な温かい思いを持っている人にお会いした事は無いです。

うちの別方の祖父(フィリピンより帰還)なんぞは、死ぬ直前まで鬼の形相で国会をTV中継で「監視」していました(一度、じいちゃんこんな難しいの見てるとボケるで、とチャンネル替えたら本気で殴られました…この爺さんの戦争体験話は結構興味深いエピソードがあるので、いずれまた)。

小林よりのり氏が、何故何の為にA級戦犯の名誉を回復することにそこまで熱心なのか知りませんが、現代の感覚から言えば、彼の言はあまりに情緒的過ぎると思いますし、そんなんじゃ愛国者としても足腰が弱いですね、叫ぶだけならチワワだって出来ます。「誰がやっても大変だったのじゃ!」と同情することと、国家としての大敗戦を戦略的な反省に立って責任追及することとは別の話です。

そもそも、日本は敗戦国だったが為に、その責任者が他者から「裁かれちゃった」のであって、それゆえ国民自らの、責任者たちへの思いは、個々人の胸の中に仕舞い込み、ただただ前へ進むしかなかった…その複雑な思いを抱え生きられた事について、後世の我々はもっと繊細に思いを馳せるべきではないでしょうか。

戦犯たちが他国から悪し様に言われたら「沈黙する」と言う形で庇って来ただけで、実際当時の人々が責任者をどう思っていたのか、と言えば…。

ハマコー爺さん、たまに良いこと言いますね。先の大戦までの文化はあいまいで骨が折れますよ、ハハ…と言う事で解決して、さっさと本当の意味で「国民の命を慈しむ場所」として天皇と首相に参拝して頂かねば、と言う種の考え方でしょうか?

だいたい明治期の廃仏毀釈で神社と寺が同じ場所にあったりと、聖徳太子の時代以来神道はダイナミズムを抱えていた…そこが日本のいいところでもあったのですし。

ただし、戦後はそのあいまいとは相容れぬ精神で国家が形づくられて来たので、これからはよりシンプルに明確にしていかなければ国家運営が苦しいだろうと思っています。

息子さんのご感想聞きたいですね…kakuのオススメの『硫黄島の星条旗』も是非とお伝え下さい。


投稿: kaku | 2006年8月 9日 (水) 21時18分

>kakuさん、

>私の知る限り、実際に戦地から戻ってきた人および英霊の遺族で、当時の責任者に対し「同胞」と言う様な温かい思いを持っている人にお会いした事は無いです。<

遺族でない人たちだってつい最近まで、当時の責任者を極悪人だと思っていたのですから、ましてご遺族のお気持ちとしては無理からぬことと思います。

>小林よりのり氏が、何故何の為にA級戦犯の名誉を回復することにそこまで熱心なのか知りませんが、現代の感覚から言えば、彼の言はあまりに情緒的過ぎると思いますし、そんなんじゃ愛国者としても足腰が弱いですね、叫ぶだけならチワワだって出来ます<

手厳しいですね。でも、そのチワワのように叫んでくれたことが、日本人の目覚めにつながったのでは?
叫ぶことは非常に勇気のいることで(特に誤解されやすいああいう意見は)、誰にでもできるとは私は思わないんですよね。

小林氏は非常に純粋なのだと思います。
あいまいでぼやかしながら筋も通さず、ちゃっかり平和と豊かさを享受しているほとんどの日本人と違って純粋なんです。
しかし、異論を受け付けない「思い込みの激しい人」とは思えないんですよね。
彼のギャグ漫画のユーモアを見てると私にはそれがわかるんです。
私なんでこんなに小林よしのりの弁護してるのかなあ。
たぶん、覚悟を持ったまっすぐな日本人という稀有な存在に感動してるのかもしれません。
彼は、左翼が誤解しているように、単純に勇ましいことを叫んでるだけというわけではありません。
イラクで人質になった若者たちに対しても、格差社会の弱者に対しても、優しい視線を持っています。

>そもそも、日本は敗戦国だったが為に、その責任者が他者から「裁かれちゃった」のであって、それゆえ国民自らの、責任者たちへの思いは、個々人の胸の中に仕舞い込み、ただただ前へ進むしかなかった…その複雑な思いを抱え生きられた事について、後世の我々はもっと繊細に思いを馳せるべきではないでしょうか。<

同感です。当記事はそういう思いで書いたものです。
ただ、繰り返しますが、一般国民の殆どは「責任者に対する個人々の思い」を持ちようのない状況でずっと生きてきたわけで、「ほじくりかえしてくれなければわからなかった」のです。
で、やっぱり、小林よしのりは大衆の心を掴んだんだと思います。いくら偉い学者先生がたが自論を書物などで発表しようと一般国民はそんなもの読みませんから。

>ハマコー爺さん、たまに良いこと言いますね<

たまにどころか彼はわかってる人だと思いますよ。
現役の頃は、品がなくて乱暴で嫌だなと思っていましたが、「TVタックル」などでの発言を聞いていますと、なんて賢いんだ、と思わずにいられません。「自由な立場」になると、今の政治家たちも良いこと言うようになるんでしょうね。「立場」は辛いものですね。

>ただし、戦後はそのあいまいとは相容れぬ精神で国家が形づくられて来たので、<

ずっと「あいまい」だったので戦後なんとかかんとかやってこれたんじゃないかとも思いますが、国防をどうするかの問題は確かに、あいまいではやっていけない、という現実を常に国民につきつけていますね。そういう意味でしょうか。

>kakuのオススメの『硫黄島の星条旗』も是非とお伝え下さい。<

わかりました。あいまいな奴ですが。

投稿: robita | 2006年8月10日 (木) 10時47分

小林よしのり氏は、三島由紀夫でも乗り移ったと考えるのが良いかもしれませんね。

A級に限らずB,C級戦犯達が刑に服したのは、戦勝国に裁かれたからだけではなく、やはりそれが指導的地位にあった人間としてのケジメであったからでしょうし、それによって、自国民の思いを収めてもらおうとしたこともあるでしょう。

だとするならば、名誉回復がどうしても合祀でなければならぬ必要は無い。神社が外国人殉難者にそうしているように、慰霊碑を立てそこで慰霊を祈るとか、何とでも出来るはず。

一般国民の殆どは「責任者に対する個人々の思い」を持っていたと思いますが、彼らの処刑を受けたからこそ「ほじくり返してくれるな」と言うことで、後世の人間に語らなかった、だから後世の人間はなかなか知りえなかった、と私は思います。

大切にすべきはむしろ一般国民(英霊)の慰霊の場であるということで、問題があるからと言って、まず参拝を控える、などと言う順序を踏んでいたら永久に慰霊はされないでしょう。なぜ、多少合理的に過ぎる手法を取ってでも、問題を取り除こうと考えないのでしょうか。(この考え方、古賀誠議員と同種の様です…ええっ!?)

その様を見る後世の日本国民に国への誇りは生まれぬのは道理、と私は常々思っています。

投稿: kaku | 2006年8月11日 (金) 00時34分

>kakuさん、

小林よしのりは純粋でまっすぐ。
しかし、「純粋でまっすぐ」は「正しい」とか「合理的」と同義ではないですね。

私は彼を信奉してるのでなく(そこはおわかりと思いますが)、漫画家の彼の靖国や東京裁判についての検証や自論展開は、近年の「右への揺り戻し」に貢献したのではないか、ということです。

戦死者のご遺族のかたがたやA級戦犯のご遺族のかたがたの思いはこの60年間それぞれあったでしょうが、そのほかの一般の国民や近頃の若い人たちには、あまり知識がなく(なにしろ教えられもしなかったし、タブーでもあったし、関心もなかったでしょうから)、小林よしのりのような人が現れなければ、日本人の自虐体質はもっともっと継続していたのではないでしょうか。
小林よしのりでなくても他の右派論客も沢山いる、と言われるかも知れませんが、ギャグ漫画家の影響力の大きさはあなどれません。
三島由紀夫の行動は受け入れられなかったけれど、小林よしのりはとにかくわかりやすかった。
例えば何も知らなかった私が、右派言論の空気に触れて、なるほどなあ、と思い始めた、その「空気」を作ったことに、この漫画家はずいぶんと貢献したのではないか、ということです。
(そうでないというなら、私、こんな記事書いちゃってどうしましょう)

そのこととは別に、私は「合理的な対処の仕方」に賛成、というのは最初から変わりありません。
(この「合理的」というのは、私考えますに「分祀」でもあるし、「合祀のまま首相参拝を控える」ということでもあるのですが、kakuさんは、「分祀でなければならぬはず」というお考えですよね。そしてそこに日本のトップが堂々と参拝するのでなければどうして日本人の誇りが取り戻せるものか、というお考えなんですよね。よくわかります。一番良いのは、今のまま首相が参拝してもマスコミも国民も騒ぐなという空気を作ることだと思うのですが、これが一番難しい)

>なぜ、多少合理的に過ぎる手法を取ってでも、問題を取り除こうと考えないのでしょうか<

いずれにしても、戦後語られなかったさまざまなことを知った上でなければ、国民も「合理的な手法」に共感することはできないでしょう。

投稿: robita | 2006年8月11日 (金) 09時08分

robitaさん、盂蘭盆直前の忙しい時期にお相手下さり有難うございます。ワタシメ、靖国&少子高齢化社会のことにはこだわる、と決めていて…。

純粋で真っ直ぐ、と言えば吉田松陰の「狂気」を思い出します。もちろん幾多の歴史でそう言った狂気が社会を動かして来たのですから、否定するばかりではいけませんね。

『小林よしのり論』にする気は無いのですが、私が彼を「チワワ」と評したのは、『祖国の危急存亡の際には共に武器を持って戦おうではないか』なんて事を読者に言っている割には、視点が一般英霊ではなくA級戦犯などの指導者にあることが伝わって来るからです。

国民よ国家の為に命を投げ出さん!と勇んでいるが、国民の慰霊さえせぬ国家に誰が命を預けると言うのか、あほらし、と。だから主張の足腰が弱い、と言うんです。

私の言う「合理的」とは、rationalもしくはreasonableのことで、何と言うか…「ドライである」と言うことではないです。

私が「分祀(的処置)やむなし」と主張する理由は、「靖国は“英霊”を慰霊する場所である」と定義しているからです。慰霊する場所であるためには、当然天皇と首相の参拝(=慰霊)が無ければ意味はありません。「合祀のまま参拝を控える」と言う対処にはどんな目的(合理性)があるのでしょうか。今の靖国が今の靖国で有り続けることぐらいしか思いつきません。これは私からすると「合理的」では、無いです。

それでも、robitaさんの仰せの「戦争と戦後処理の事実を知る」と言うことにはもちろん、賛成しています。拙記事「嫌国教育」でさんざん書きましたよね。

素朴な疑問ですが、現代の若者はともかくとして、当時の人々と段階の世代くらいまででも極東裁判について、そんなに知られていないものだったのですか?裁判はラジオ中継されていた、と聞いていますし、私なんぞでも大河ドラマ化された山崎豊子の『二つの祖国』のことを強烈に覚えていますが。

投稿: kaku | 2006年8月11日 (金) 21時45分

>kakuさん、

>純粋で真っ直ぐ、と言えば吉田松陰の「狂気」を思い出します。もちろん幾多の歴史でそう言った狂気が社会を動かして来たのですから、否定するばかりではいけませんね。<

私、純粋でまっすぐな人好きなんですが、純粋でまっすぐで頑迷な人は苦手です。小林よしのりは頑迷には見えないです。
私も「靖国論」と「いわゆるA級戦犯」読むまでは、氏を「過激な右翼」としてしか認識していなかったんですが、雑誌の対談なんかの発言を見ても、かなり柔軟な人なのではないかと思いました。

>視点が一般英霊ではなくA級戦犯などの指導者にあることが伝わって来るからです。<

これは違います。
「いわゆるA級戦犯」では主にA級戦犯を扱っていますが、戦死者全体に対する愛情は並々ならぬものがあります。
私も小林よしのりについて何も知らないくせに彼についてあれこれ言うことはできないので、昨日、問題の「戦争論」買ってきました。読んでみると、「靖国論」や「いわゆるA級戦犯」の内容とあまり変わりません。同じことを手を変え品を変え書いているようです。

>「合祀のまま参拝を控える」と言う対処にはどんな目的(合理性)があるのでしょうか。<

これはわかるのですが、「分祀」の途方もない難しさを考えると仕方がないかな、と考える次第です。
ですが、私もずっと前に「合理的な方法」についても書いてるんですよ。一所懸命探しました( http://blog.livedoor.jp/robita_48/archives/23317526.html#comments )。コメント欄に「『分祀』という儀式をあらたに創設したらどうなんでしょう」とあります。

>素朴な疑問ですが、現代の若者はともかくとして、当時の人々と段階の世代くらいまででも極東裁判について、そんなに知られていないものだったのですか?<

当時の大人たちはわかっていたのかもしれませんが、口にできない社会の空気が50年もの間続き(愛国心を言うことさえ憚られたでしょう)、戦後世代である私たち団塊の世代以降の日本人は「本当はどういうことだったのか」知らされないまま、ここまできてしまったのだと思います。現に昭和23年生まれの私が「A級戦犯は極悪人」と単純に思っていたことが戦後の風潮を如実に表していると思います。(え?単に私ひとりが知らなかっただけ?)

靖国に関しては、それぞれの人の色々な思いがあり、論理があり、「これが正しい」というものはないのでしょう。論理と論理はぶつかります。

でも、そういう時にこそ、「合理的判断」の必要性をねばり強く説く根気が必要となってくるのかもしれません。

ラジオで宮台真司さんの意見を聞いたのですが、kakuさんと同じではないのかなと思いました。
彼の「オレ以外みんなバカ。どうしてこんな簡単なことがわからないんだ、田吾作ども」という口調はともかく、合理的判断はこれしかない、と結論づけています。
限られた時間内で早口でまくしたてるので、炊事しながらの私には聞き取れないことも多いのですが。

投稿: robita | 2006年8月12日 (土) 10時26分

robitaさん、

>>「負けた側なのだからどんな仕打ちを受けても仕方がない」という自覚すらなく

ということについて言えばあったと思います。敗戦により、日本人は巨大な精神的空白に落ち込んだと思うのですよ。それまで信じていた価値観が180度転換し、天皇は人間宣言をし、国の指導者は裁判で次々に裁かれていったわけです。

占領時代、アメリカ兵はかなりひどいことをしてきました。そうしたアメリカに対して、日本人は誇りを持つというよりも、進駐軍にうまくとりいって、いかに儲けるかということに長けた人々が、今の時代の有力者やお金持ちになっています。「誇り」を持つ、ではなく、いかにその日その日を生きていくかが当時の日本人の関心事だったんです。この時代に何が行われたのかを知っていくと、こんなことまでやったのかということばかりです。例えば、日本政府は、進駐軍が良家の婦女に乱暴するのではないかと危惧し、遊廓・私娼・芸妓屋などの業者を集め、RAAという進駐軍相手専門の接待業(実質的には赤線です)を作りました。こうしたことは、今ではあまり知られていません。

しかし、ではだからといって、これを平成の今の時代感覚で民族の尊厳をなぜなくしたんだと糾弾しても意味がないと思います。そうした時代だったということです。数多くの日本人が敗戦にうちひしがれている中で、民族の誇り、大和撫子の誇りなどということなどどうでもよくて、パンパンとして胸を張って堂々と積極的に生きていく若い女性たちのたくましさこそ(もちろん、パンパンではない若い女性たちのたくましさも)、戦後日本の復興の姿そのものだったのかもしれません。

そして日本は朝鮮戦争やベトナム戦争の軍事特需で景気がどんどん上がり、高度成長時代になります。この時代もまた、民族の誇りとか、国家とか、ではなく、来年は洗濯機を買おう、今度のボーナスで月賦でテレビを買おうということを楽しみにして働いている若い夫婦の姿もまた戦後日本の復興の姿そのものです。

こうした昭和20年代、30年代の日本人に

>>「戦争に負けたのだから屈辱には耐えるぞ。しかし、誇りだけは失うものか」という精神すらないのが変だと思うのです。<<

と言ってもナンセンスだと思うのですよ。「誇り」よりも、明日の食べ物だったり(昭和20年代)、明日の冷蔵庫や洗濯機(昭和30年代)だったわけです。そういう時代だったというわけです。そういう60年間だったわけです。

それが最近になって変わってきたんですね。今の世の中、小林よしのりが読まれているのはマンガだからではないと思います(まあ、それもありますが)。「国家の品格」がベストセラーになるわけですから。むずかしそうな活字本ではないから、偉い学者先生の意見ではないからではなく、民族の誇りや国家のあり方が、普通の庶民の関心事にさえなった程ゆとりが出てきたということなのだと思います。これは、逆から言えば、平成の日本人は、昭和20年代のパンパンとして胸を張って堂々と積極的に生きていくたくましさや、昭和30年代の月賦で買う洗濯機や冷蔵庫に働く活力を感じることがなくなったということなんだと思います。そうしたものがなくなって、「国家の品格」を読んで国を思うという時代になったということです。靖国神社で世論が騒ぐのもそうですね。衣食足りて、国家を思うというわけです。

投稿: 真魚 | 2006年8月13日 (日) 00時33分

kakuさん、

今年はちと仕事がありまして靖国神社には行かないと思います。

戦後、「戦争と戦後処理の事実を知る」ことがなくなったのは、以前、僕のブログで書きましたが、戦後メディアは8月15日を中心として、大体この時期に戦争を扱う(逆から言えば、この時期以外は扱わない)ようになったからだと思います。なぜこの時期なのかというと、お盆と重なるわけです。お盆イコール先祖の供養であって、「過去の時代を客観的に考える」という雰囲気ではありません。それで、歴史的に太平洋戦争を検証しようという態度が生まれなかったんだと思います。

戦前のことも、戦後の占領時代のことも、日本人は思い出そうともしないのは、日本人らしいのかもしれません。欧米では歴史を論理的に考えていきますが、日本人はそうしたことをあまりしません。それじゃあ、日本人には過去はないのかというとそうではなくて、情緒や情感で過去を捉えるんですね。山崎豊子の『二つの祖国』の主人公の最後がなぜああなったのか、日本本国の日本人にはわからないんじゃないかと思います。

投稿: 真魚 | 2006年8月13日 (日) 01時04分

>真魚さん、

>ではだからといって、これを平成の今の時代感覚で民族の尊厳をなぜなくしたんだと糾弾しても意味がないと思います。そうした時代だったということです。<

いやー、仰るとおりです。
私自身小さい頃、進駐軍のジープをチョコレートをねだりながら追いかける子供たちを見た記憶がありますし、銭湯では、他人の履物を平気で履いて帰る人、やられた人は同じように人の履物をちゃっかり拝借し・・・、のようなことは日常茶飯事だったようです。闇市、闇米、売春・・・、それぞれが生きていくために必死な時代だったんですね。
知っているはずの私が、ずっと若い真魚さんに思い出させていただきました。面目ない。

>民族の誇りや国家のあり方が、普通の庶民の関心事にさえなった程ゆとりが出てきたということなのだと思います。<

>衣食足りて、国家を思うというわけです<

だから、真魚さんはアナーキスト的なんですね。
国家の誇りなんかバカバカしいと思ってらっしゃるかどうかはわかりませんが、真魚さんの目から見ると、「国の誇り」を口にする人はどのように映るのかなあ、と思います。

「余裕が出てきたから『国の誇り』などという観念が浮き上がってきたのだ」というのは、本当のことかもしれません。

でも、人間ってそういう風に状況の助けを借りて「美しさ」を感じ取っていくもんじゃないですか。
「尊厳」とか「誇り」ってそうやって身についていくものだと思うんです。
そういうことがなければ、人間はただの動物で、誇りを傷つけられて立ち上がる、とか、名誉を回復するために奮起する、とか、そういうエネルギーさえ育たないと思います。
何もないところから「誇り」も「毅然たる態度」も生まれませんから。
国家間のせめぎ合いってそういう意味があると思います。

だから、戦後の焼け跡闇市のみなさんに向かって「誇りがないのか」と言うつもりはありませんが、余裕がでてきた時代に「戦後処理と自虐史観とはどういうものかについて知ること」は日本人にとってぜひとも必要だったと思います。

小林よしのりも藤原正彦も「今の日本人の自堕落さはいったいどこからきてるのか」と考え続けた末にああいう本を著したのだと思いますよ。

真魚さんは「民族の誇りがなくなったからではない」と仰るかもしれませんが、そんなことは誰にもわかりません。
「豊かさのせい」とも言われますが、それじゃあ、貧しければ誇りは保てるのか、といえばそんなこともないわけで。

お盆休みに入ったので、もしコメントくださってもすぐには書けないと思います。

皆様、暑さ厳しい折柄、お体お大事になさいますよう。

投稿: robita | 2006年8月13日 (日) 14時09分

robitaさん、

お返事が遅くなってしまいました。
お盆休みはいかがお過ごしだったでしょうか。

大ざっぱに言うと、明治の日本人の国家意識は、このままでは西洋の植民地になるのではないか。清国や朝鮮みたくなりたくないという恐怖心と劣等感の裏返したものでした。その「恐怖心と劣等感」がどんどん膨れあがり、膨らませすぎた風船が割れるようにはじけてしまったのが太平洋戦争です。

戦後は、今度は風船がしゅんとしぼんでしまったように、軍事力でアジア全土を支配したいという意識はなくなりました。アメリカの保護の下で、経済成長をしていく国になろうとしてきました。アメリカへの劣等感はありますが、植民地にされるかもしれないという恐怖心はなくなったと思います。ですので、明治の頃にあった国家意識も国民意識もなくなりました。日本人は、明治の前の江戸時代のメンタリティーに戻ったのだと思います。

江戸時代は、国家のことを考えるのは一部の武士階級だけです。大多数の非武士階級の人々は、その日その日の自分のなすべきことをなしていれば、それで良しでした。明治政府が誕生して、百姓・町民が国民になるわけですが、国民になるということは、庶民から見ればはた迷惑なことだったんです。庶民には、武士ではないことの自由と気楽さがありました。それが、多額の税金はとられるわ、徴兵に行かなくてはならないわ、お侍さんみたいにしゃんとせいと怒られるわ、庶民にとって割の合わないことばかりだったんです。国民はつらいよ、というわけです。

それでも、それなりの希望があったのは、大日本帝国の国民であり、天皇陛下の臣民になったということが、なんか新しい世の中になったことを感じさせたのと、身分制度がなくなったことですね。百姓の子でも勉強をして試験に通れば官僚にでも軍人にでもなれる世の中になりました。もちろん、だからといって誰にでもできたわけではありません。しかし、そうしたことが可能なのだということだけで、庶民は開かれた社会を感じました。明治は国家専政の時代でしたが、それでも庶民に明るい希望のようなものがあったのはそのためです。

ただし、それも明治いっぱいで終わりました。大正時代になると格差社会になって、裕福な家でないと中等学校や陸軍幼年学校の受験すらできないという世の中になりました。このへんからですね、社会がだんだん閉塞していったのは。庶民から見て、国家などというものは、ひたすら抑圧し搾取してくるものだという意識が広がりました。

昭和20年、日本は戦争に負けて、上記のような重苦しい日本国家がとっぱられたわけです。もう庶民は、天皇陛下の臣民なんだからしゃんとせいとか言われなくてもいい世の中になったわけです。特高とか憲兵とかにつかまって殴られることがない世の中、隣組で監視しあうことを、もうしなくていい世の中になりました。この時の日本人が感じた自由な解放感を理解することなくして、終戦直後の日本を理解することはできません。GHQの占領に素直に従い、マッカーサーを解放者としてあがめたのはそのためです。

小林よしのりの本を読むと、戦後日本はGHQに騙されていた、日本人は戦前の日本人の誇りを取り戻せと書いてありますが、僕はなにゆえ「戦前の日本」に戻るのかと思います。戦前の日本はどうであったのを知ることは必要です。しかし、それは戦前の日本はそうであったということで、今の時代がそうでなくてはならないわけではありません。衣食足りて国家を知る、で十分いいです。まず、衣食が足りなくてはなりません。しかしながら、衣食足りて国家を知る、の国家とは、まるで「戦前の日本」と大差ないのはなぜなのかと思います。敗戦時、日本は国歌も国旗も天皇制も、そのまま存続されましたから、国家のイメージは戦前とあまり大差ありません。ありませんというか、同じになるように簡単に政治的に操作されやすいということです。今、左翼や外国の世論が言っているのはこの点です。「戦前の日本」と「戦後の日本」の明確な区別がついていない(ように外国からは見える)から、話がややこしくなるのです。

平成の日本人は、自堕落的である、だらけている、しゃんとせい、ということで「戦前の日本」を持ち出してくるのはなぜのかと思います。過去を持ちだしてくるのが保守の保守たるゆえんですが、その過去が昭和前期や明治の日本に限定されるのはなぜなのか。江戸時代の庶民の生き方は、なぜ出てこないのだろうか。江戸時代だって、しゃんとした人もいれば、そうでなかった人もいたでしょう。しかし、しゃんとした人は、別に小林よしのりの「戦争論」とか藤原正彦の「国家の品格」とか読んでいたわけではありませんね(あたりまえか)。そうでなくても、しゃんとした生き方をした人はいました。過去の良き時代の回顧からは、新しい価値観は生まれてきません。

つまり、話を元に戻すと、国家意識を持つことは必要だし、大切なことです。しかし、人の価値観はそれだけなのかというと、そうではないということです。戦後の教育の理念は、「人は国家のためにあるわけではない、もっと多種多様な価値観があるんですよ」ということだったんだと思います。それが、その「多種多様な価値観」が「多種多様な価値観」にならずに、不幸なことに社会主義の方向に向かってしまいました。これは20世紀は、それほど社会主義のイデオロギーの力が強い時代であったため、しかたがないと言えば、しかたがないと思います。

しかし、そうした社会主義のイデオロギーの力が強い時代は終わりました。その意味で、社会主義の呪縛のなくなったこれからこそ、国家意識を持ちつつ、国家とは別の価値観で、この世界は動いていることを学ぶことができる時代に、ようやくなったのではないでしょうか。国家意識オンリーではなくても、人はしゃんとした生き方をすることができる時代になったのではないでしょうか。衣食足りて、脱国家を知るということです。

今の時代は、その衣食そのものが、グローバル経済で作られていますよ。服も食べ物もメイド・イン・チャイナが多いですね。もう国と国とが競いあって産業を興し、豊かになるという時代ではないのです。今の時代は、国と国が「ひとつのプラットフォーム」でつながっていて共同で産業を興し、共同で豊かになる。むしろ、そうした方法でなくては国は豊かになれない。そうした時代になりました。そうした世の中で、国の誇り、日本人の誇りを持つためにはどうしたいいのか。これは「戦争論」や「国家の品格」を読んでもわかりません。国が教育基本法に愛国心を加えれば、それでいいわけでもありません。今、世界はどうなっていて、そうした新しい世界に対応した新しい国家観、日本人観はなんなのだろうかという問いかけが必要であるということです。

投稿: 真魚 | 2006年8月20日 (日) 14時52分

>真魚さん、

返事遅くなってすみません。

>お盆休みはいかがお過ごしだったでしょうか<

相変わらず飯炊き掃除洗濯の毎日でございました。
主人が在宅ですと普段より忙しゅうございます。

さて、江戸時代の日本の幸せについてですが、
「台所から世界が見える」( http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_333b.html )という記事のコメント欄で書いた文章があるのですが、こんなふうにでもすれば世界はうまくいくんじゃないですか。

【 穏やかな農耕民族である日本人が、国際収支など無視して、みんなで農業林業漁業などに従事するのです。そうなるよう、国の体制を変えるのです。革命を起こすのです。
みんなで体を使って働くのです。
江戸時代のように、国のトップで頭を使う人、第一次産業で体を使う人、流通に携わる人、とはっきり職分化し、それぞれが身分をわきまえ、身分不相応なことは望まない、そういう社会を強引にでも作ってしまうことです。
そうやって、みんなで穏やかに暮らし、それを見た世界の人々は、「おお、なんと立派で幸せな人たちだろう。われわれも見習わなくてはいけない」と思い、必ず日本人のあとに続くはずです。】

・・・というのは冗談ですが、つまり、自由や平等を知ってしまったからには、人間はもう「分をわきまえ」などということとは無縁の存在になってるわけですね。

真魚さんの仰ることはよくわかるし、素晴らしい世界観だと思いますが、人間は「共同体」より「個」を優先する存在になってしまった、つまりそれはより多くの混乱を生み出す、ということに他ならないと私は思ってるんです。

それでも私は昔のような「それぞれが分をわきまえた階級社会」に戻るべきだなんてもちろん思っていませんよ。

訴追はされなかったけれど戦時中指導的立場にあった軍人石原莞爾:
彼はアメリカの検察に追求されてこう答えてるそうです。

検事:「大東亜戦争の起きた原因は、日本の満州事変より始まる。また満州事変そのものが大陸侵攻の日清・日露戦争にある。だから大東亜戦争はその当時まで追及すべきだ。」

石原:「よしっ、分かった。そんなに歴史的に遡るのならペルリを呼んで来い。」

検事:「それはどういうことか?」

石原:「我々は当時、鎖国主義で満州も台湾も何もかも不要であった。鎖国で以って満足し、たくさんだと言っているのに、ワザワザ黒船と大砲で脅かして日本を世界の荒波の中に曝してしまった。こうなったら、日本も何とか生きる方法を考えなければならないではないか。要するにペルリが無理矢理に日本を隣国に赴かしめ、脅すような結果にしたのだ。鎖国主義で結構だ、と言っている平和日本を脅したのは実にペルリである。本当の元凶はペルリだ。ペルリを連れて来い!」

・・・・とアメリカ人がたじたじとなるほどの弁説をぶったと、これは、有名な話なのでしょうが、私はつい最近小林よしのりの「いわゆるA級戦犯」で知りました。

「我々はこれで充分幸せなのだから放っておいてくれ」という日本の姿勢は遠藤周作の「沈黙」にも読み取れます。

まあ地球上に生きるかぎり、そういうわけにもいきませんが、話としては痛快で面白いですよね。

ところで、真魚さんの仰る「国家意識を持ちつつ、国家とは別の価値観で、この世界は動いていることを学ぶことができる時代に、ようやくなったのではないでしょうか。国家意識オンリーではなくても、人はしゃんとした生き方をすることができる時代になったのではないでしょうか。衣食足りて、脱国家を知るということです。」という考え方は大変素晴らしく理想的だと思うのですが、その考え方を地球上にそれぞれ国家を成して暮らしている一人々の「地球市民」のみなさんに納得してもらうためには具体的にどうしたらいいと思いますか。

否、誰が納得するでしょうか。
人間とは「欲」の生き物です。
そういう思想を広めようとしたところで、「自分は分け合うのはいやだ」とみんなが思うのであれば、仕方のないことなんじゃないかなあ。

コメントで真魚さんは、日本人の国家観や価値観がどのように変化していったかをていねいに説明してくださっていますが、それはそれとして、要するに、「人間の本性」を無理矢理にでも抑えつけて、「分け合う精神」「みんなで協力して産業を発展させる精神」を押し付けることが可能かどうかの問題なんじゃないでしょうか。

それに、たとえばですよ、真魚さんの仰るような理想社会が実現したとしますね。
その「平和な理想社会」こそが、新たな争いを育くむ土壌にもなると、私には思えるんです。人間が人間であるかぎり。

>別に小林よしのりの「戦争論」とか藤原正彦の「国家の品格」とか読んでいたわけではありませんね<

いつの時代も小林よしのりや藤原正彦はいて、「昔の人は立派だったのに、今のこのふしだらな日本人の体たらくはどうだ!」って叫んでたんじゃないですか。

それでですね、「人間は欲の生き物なのだから仕方がない」と言う私が、「誇り」を口にするのはおかしい、と思うでしょ。

欲があってもそれを制御しなければならない、「誇り」を教えなければならない、というのが人の道だと私は思っていますが、しかし、「自由」である「個人」は何もないところからそれを学習することはできませんよね。それができるのは、家庭でもなく地域でもなく、唯一「国家」ですよね。
「国家の締め付け」が、結局は人に「誇りの大切さ」を学習させてくれるんだと思います。
「国家意識オンリーではなくても、人はしゃんとした生き方をすることができる時代になったのではないでしょうか」と真魚さんは仰るけれど、「権威のある大きな何か」しかそれはできないのじゃないでしょうか。
たとえば、「家庭で」と言ったって、親自身がしゃんとしてなければ子供をしゃんと教育できないし、親が「しゃんとしなさい」といくら命令しようが、子供は言うこときかないし、どうしたらいいんですか。

まったく、ああいえばこういうおばさんでしょ。
お返事は何回でも歓迎です。しつこく食い下がられること、私は嫌いじゃないです。(というか、私がしつこく食い下がってるんですね)
しつこいまでに話さなければお互いの考えは見えてきませんから。
今、とても忙しい事情を抱えていてすぐ返せないかもしれませんが、読むことはできます。


投稿: robita | 2006年8月22日 (火) 16時17分

robitaさん、

えーと、こちらの方でゴネるんですが(笑)

「国家とは別の価値観で、この世界は動いていることを学ぶことができる時代になった」ということを理解するのは簡単です。先日、NHKスペシャルでマグロのことをやっていましたがご覧になりましたでしょうか。今のマグロは日本近海で捕れたものだけではなく、太平洋、大西洋、インド洋など世界の各地で捕れたマグロを日本は輸入しています。そのマグロを寿司にするのは、日本の文化です。つまり、日本の食文化が世界の海によって支えられているのです。まさに、世界があって日本があるわけですね。その逆もしかり。今、お寿司は世界中の人々が食べています。日本人の寿司職人がいて寿司料理があるわけです。寿司職人としてのいい腕があれば、世界の各地で働くことが可能です。日本があって世界があるんです。

経済は、国家を越えて地球規模で動いているんです。今の経済を学ぶことは、この世の中はボーダーレスワールドで、僕たちは「世界」に生きているのだということがわかります。これは、大学でマル経とか近経をいくら勉強してもわかりません。実際の現場の経済を学ばなければわかりません。しかし、むずかしいことではありません。マグロひとつを見ても、すぐにわかるのですから。マグロは一例にすぎません。今、食卓の食べ物の多くは外国で作られたり、捕られたりしているものばかりです。八百屋にせよ、魚屋にせよ、みんなメイド・イン・ワールドなんです。鎖国はできませんね。

次に、
>>「人間の本性」を無理矢理にでも抑えつけて、「分け合う精神」「みんなで協力して産業を発展させる精神」を押し付ける<<

というのがよくわからないのですが。このへん、多少露骨に言うと、僕の主張は「分け合わない精神」」「みんなで協力しないで」では、儲からない世の中になったんですよということです。儲けたかったら「分け合う精神」「みんなで協力して産業を発展させる精神」を持ちましょうと言っているのです。決して、自分の儲けは少なくていいと言っているわけではありません。

利益というのは、「ある人が儲かって、ある人が損をする」や、「自分は分け合うのはいやだ」では、ある限度までしかいかないんです。それではなくて、全体の富そのものを増やすんです。「ある人が儲かって、ある人が損をする」ではなく、「ある人も得をするし、ある人も得をする」、「お互いが喜ぶ」、「みんなが喜ぶ」、に変えていくことが必要なんです。難しく言うと、ビジネスモデルの進歩です。業界用語で「Win-Win」関係と言います。お客さんをだますような商売は、一時的には儲かるかもしれませんが、その客は二度と来ないですね。これでは先が続かないです。そうではなくて、お客さんに喜ばれる商売のほうが、一回の儲けは少ないかもしれないが、何度も来てくれるので、そのほうが儲かります。ですから、欲望を否定する必要はありません。欲があっていいんです。むしろ、欲はなくてはなりません。欲があって、その欲をより高い次元で解放していくんです。みんなが欲を解放できるようにしていくのです(なんて書くと、なんか真言密教っぽいな)。つまりは、資本主義でいいんです。

最後に国家と個人の内面についてですが、自己を律する規範や倫理は、国家や父親や神といった自己の外部に求めるものではありません。東洋の思想では、それは自分自身の中に求めなさいということになります。自己を律する規範とは、自己の内面にあるものであって、外部にあるものではないんです。僕はキリスト教徒ではなくイスラム教徒でもないので、神についてよく知らないのですが、規範や倫理というのは、神様が見ているからどうこうというものではないと思います。規範や倫理は自分自身の中にあるのです。「権威のある大きな何か」は必要ありません。規範や倫理を自分の内面化するということは、「権威のある大きな何か」があるから、コレコレをしないというわけではないんです。

神様が見ているからコレコレはしない、ではなく、神様が見ていようといまいと、自分はコレコレはしない、ということです。これは国家も同様です。お巡りさん(国家)がいるからコレコレはしない、ではないです。お巡りさんがいようがいまいがコレコレはしない、ということです。規範や倫理とは、そうしたものです。

自由主義社会では、国家は個人の規範や倫理にまで立ち入ることはできません。国家が国民に強制できるのは法律です。憲法や民法や刑法などです。これは「権威のある大きな何か」がなくては成り立ちません。しかしながら、「しゃんとする」その「しゃん」の拠って立つ規範を国家に求めることはできません。教育の本当の目的とは、国家や権威に盲従する人を作るのではなく、自分で学び、自分で考えて、自分で善悪の判断ができる人を作るということです。なぜか。それは「国家や権威に盲従する人」がたくさんいる社会よりも、結局「自分で考えて、自分で判断できる人」が多い社会の方が正しい判断をするからです。

投稿: 真魚 | 2006年9月13日 (水) 00時35分

>真魚さん、

>先日、NHKスペシャルでマグロのことをやっていましたがご覧になりましたでしょうか。<

はい、見ました見ました。資源の争奪戦がすさまじいなあ、みんなもっと食べる量減らせばいいのに、なんでそんなにとめどなく食うんだ、と思いながら見ました。

>今、食卓の食べ物の多くは外国で作られたり、捕られたりしているものばかりです。八百屋にせよ、魚屋にせよ、みんなメイド・イン・ワールドなんです。鎖国はできませんね。<

ほんとにそうですよね。鎖国などしていたら取り残されて損するだけですよね。

>全体の富そのものを増やすんです。「ある人が儲かって、ある人が損をする」ではなく、「ある人も得をするし、ある人も得をする」、「お互いが喜ぶ」、「みんなが喜ぶ」、に変えていくことが必要なんです。難しく言うと、ビジネスモデルの進歩です。業界用語で「Win-Win」関係と言います。<

えっ、そんなに素晴らしいやり方があるんですか。なんで早く教えてくれないんですか。
Win-Winってよく聴くけどなんのことだろうなあと思ってました。そういうことだったんですね。
それではその実現に向けてまず国際社会は何をしたらいいんでしょう。
テロリストはテロを行う根拠を「富が集中しているからムカつく」としていますよね。
それなら、このテロリストたちやテロ支援国家に向けてこの素晴らしい「世界計画」を発信し、説明して「わかってもらう」努力が必要だと思うのですが、それには具体的にどうしたらいいのでしょう。
それにしてもそんなに素晴らしいそのやり方はどうして早く世界に広まらないんでしょう。

>自己を律する規範とは、自己の内面にあるものであって、外部にあるものではないんです。<
>神様が見ていようといまいと、自分はコレコレはしない、ということです。<

これはまったく仰るとおりです。では、人間は生まれついた時点からそのように自立して自己規制できるかというと、そんなことはどだい無理なのであって、「誰かが」育て、「誰か」が教育しなければ、まともな人間は出来上がりませんよね。
で、その「誰か」が、しゃんとしていない昨今だから色々な問題が起きると言われてるんですよね。
真魚さんは「規範や倫理」と「法律」とを分けて書いています。
当然それらは分けられるべきものなんでしょう。私には法律論はわかりませんが。
でも、それでは「規範や倫理」は誰が教えるんですか。自己を律する心を育てるのは誰の仕事なんですか。

>自分で学び、自分で考えて、自分で善悪の判断ができる人を作るということです<

これは教育によってなされるものですね。その教育は国家が管理指導しますね。だから堂々巡りになってしまうんですよ、この論議は。

私は何も「国家や権威に盲従する人」を作る全体主義にしようなどと言ってるのでなく、今の世の中、個人主義に偏りすぎているのを、少しは「国」という単位の構成員だということも自覚したらどうか、と言ってるだけなんですけどねえ。
真魚さんが5月にお書きになった幕末のカッテンディーケの話ですよ。

真魚さんは「自分で考えて自分で判断できる人にならなくちゃだめなんだ」と仰いますが、それは当たり前のことであって、そういう人間を作るためにも教育は国家でしっかりやらないと。

投稿: robita | 2006年9月13日 (水) 23時24分

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