« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月28日 (木)

恋愛して結婚したいの

ひとりよがりでぶっきらぼうで偏屈で皮肉屋でゴーマンで自信家で・・・、そんな男でも女性にとって妙に魅力的であることが往々にしてある。
なぜか。
そういった「性格的短所」とは別の、いわゆる「人間的魅力」というのを備えてるからだよね。

どんなに「あいつはとんでもないやつなのだ」「こんな男に惚れちゃだめなのだ」「こんな男と結婚したって幸せになれないのだ」などととアドバイスされようが、「結婚できない男」の桑野信介であろうが中村勘三郎であろうが石原慎太郎であろうが、魅力的であれば女は惚れる。

そういう負の特徴を持っていたとしても、その人間の「魅力」とは、あまりそういう性格的なこととは関係がないのだ。
だから、「この人のこういうところが好き」なんていう言い方は恋愛感情の湧き上がる理由の説明にはならないのである。

要するに、「好きになるのに理由はない」のだ。

で、そういう「惚れた男」とめでたく結婚し、年月を経て恋愛感情も擦り切れ、衝突が頻発し、「こんな人だとは思わなかった」などと憎み合うようになって離婚する羽目になろうがそれはそれでしかたのないことだ。

なるべく衝突しなさそうな「無難な男」と恋愛感情もないまま結婚するより、惚れるだけの男に出会わないのであれば、その時は独身で通すがよろし。

「女性を惹きつける魅力」に乏しい男性、でも、とても良い人で、良い夫、良いお父さんになりそうな人は、昔なら、世話焼きおばさんのおかげで出会いがあり、結婚し、家庭を持てた。
私は、実はそういう男性たちの結婚問題こそ気がかりで、なんとかしなけりゃなあと思っているのだが、もう今はそういう時代ではないのかもしれない。

現代は、「女性を惹きつける魅力のない男」は結婚できない時代なのである。
女たちは、「ただ結婚したいんじゃなくて、恋愛したいの」とのたまうのだから。

その気持ちはよくわかる。

だって、私自身がそうだったんだもーん。

            いつもありがとうございますm(_ _)m →ランキング

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2006年9月21日 (木)

珠玉と模範 二本の柱

再びkakuさんへの返信です。

>そんなに「続いている血」と言うことに対して敬意を表するのなら、それこそ「世界遺産」に登録して頂き、国家の文化遺産か人間国宝か分かりませんが、そんな風にお守りしていく方が自然かも。

それなら「ボンクラ」であっても誰からも文句が出ないでしょうし、現行の様に国家運営に巻き込まれて一挙手一投足、国民からああだこうだと言われずに済むので、配偶者手配の心配もさほどありません。側室だって離婚だってOK、血さえ繋げれば、と。<

天皇制というもの自体が、摩訶不思議で理不尽で不合理で不条理なものなので、こういう言い方をし始めると収拾がつかなくなるのではないですか。それこそ、「天皇制を廃止したい人々」の思う壺になるわけで。
言い出したのは私のほうですが、あれはどうしても言わなければならないことでした。
だって、ただ「尊崇の対象」が欲しいから「尊崇に値する人物」が望ましいのであれば、なにも「血」でつなぐ必要はなく、大統領のように選挙かなにかで選び出せばいいだけのことですから。

>遺伝子学的に男系でなければ意味が無い、と言うのが皇統論争の核心。従って、平沼氏らの「非女系」は決して「非女性」と同一ではないと思います。<

もちろんその通りです。
「女系」と「女性」では違うのは承知しています。
ただ私は女性天皇が容認されて皇太子の長女である愛子内親王が皇位につかれ(またはそう予定されて)た場合、たとえ「つなぎ」だとしても(この時点まではまだ男系ですね)、愛子様の夫をみつけるのは至難の業だという思いがあるのです。それは、眞子様や佳子様にも同じように言えることです。
とにかく、どちらにしても配偶者をみつけるのはたいへんなことであるわけです。それなら、一般的に考えて(日本人のメンタリティを考えて)より可能性の高い男性天皇を選択したほうがいいと私は思いますよ。「婿入りしてくれる男性がひょっとしているかもしれない」というだけじゃ、かなり不安です。

それと、もちろん、「遺伝学的に男系でなければ意味がない」という理由も私は支持します。ただひとつの男系家系王朝が2千年も継続してきたことの希少性に意味があるわけですから。
私の「皇統は男系であっても女系であってもどちらでもよかったと思います」という考えは別におかしくないんじゃないかと思うのですが。
女系で2千年の伝統があったとしたら、それを続けるべきなのではありませんか。
それとも、そのような伝統があった場合、「男系死守派」の人たちは「女系はおかしい、今こそ男系に変更すべきだ」と言ったのでしょうか。

>そもそも配偶者の来手が無いのは、基本的に天皇家に対してアレコレソレコレダレソレが言い過ぎ、既定され過ぎ、求め過ぎていることだけなんだと思います<

そうですね。だから、私も「皇室改革」がある程度必要だと言ってるわけで、マスコミのほうも言い過ぎないことと、宮内庁も時代に合わせて少し変わることと、その両方が求められるんじゃないでしょうか。

天皇家、皇族のかたがたに「ぜひともこの男系をつなげたい」という思いがあるならば、その根本のところは尊重されなければならないと思います。

私は記事の中で、『尊崇に値する天皇のあのお姿というのは、我々日本国民の「思い」が凝縮された具象体ではないのか、と思うわけです。そしてそのことを一番理解しているのは、天皇ご自身ではないでしょうか。』と書きました。
我々は何故、こんな不合理なものを「なくしてはならない」と思うのか、そこのところを納得しなければ、こんなものを持ち続ける意味がないと私は思うのです。

日本国がお育て申し上げた、と言えば不遜になるでしょうか。国民のほうも、天皇家を仰ぎ見て襟を正す、と言いますか、相乗関係にあると言ったらいいでしょうか。
「国民の思いが凝縮された」については、「こうありたい」「こうあってほしい」という国民の願いが「天皇」という鏡に映し出されるのではないかと、個人的には私はそんなふうに思っております。

                いつもありがとうございます m(_ _)m ランキング

| | コメント (13) | トラックバック (3)

2006年9月20日 (水)

尊崇の対象

前記事「はじける笑顔」にいただいたkakuさんのコメントに返信です。 

>確認ですが、彼は「女系」でなく、「女性」と仰ったんでしょうか。
だとするならば、私は純粋に、WHY?(何でそう思うの?)と問いたい。<

平沼さんは「女系」と言ったと思います。
でも私自身は、「配偶者がみつからないだろう」という一点で、たとえ「つなぎ」であろうと「女性」天皇は考えないほうがいいと思います。

世の「男系死守」論者の意見をくまなく読んだわけではないので、主張の根拠がよくわからないのですが、私自身は次のように考えます。

「万系一世」の家系を「天皇家」という形で保持している我々日本人はその事実をどのように理解すべきでしょうか。

まず、世界に例のない「稀少性」がゆえの「貴重性」ということがあると思います。

その「男系」が確かなものであるのはいつのころからなのか、少なくとも「確かである」と確認される以降の系図だけでも尊重されるべき貴重なものなのではないかと考えます。
神話の時代はともかく、少なくとも千二三百年ほどの男系皇統の歴史がはっきりしているのなら、それはもう世界遺産ほどの価値があるのではないですか。
これは、不敬な表現かもしれませんが、あえて言わせていただくなら、科学的にも得がたいサンプルではないのでしょうか。

なにより、皇族のかたがた自身が、万世一系こそが天皇制に意味を持たすものである、と考えておられるのではないですか。
秋篠宮ご夫妻が頑張られたのも、三笠宮寛仁殿下が「女系に移ってはならない」と天皇家の意思を代弁されたのも、皇太子殿下が「皇室典範改正有識者会議」に「待った」の声をかけられたのも、女系天皇容認の空気に対する精一杯の抗議であったろうと拝察します。
天皇家自身が女系を望んでいないとしたら、我々はその思いを無視していいのか、ということです。

>現代においては「男系の血を持つボンクラ」より「女系の血でもこちらが襟を正したくなる崇高な精神を持つ方」の方が効果的に果されるであろうと思います。<

現天皇が皇太子時代、学友たちからどのように揶揄されていたか、私は複数回別の情報源から聞いたことがあります。
「あいつ」(とは言わなかったかもしれませんが)が天皇を務められるとはとても思えない、と言われていたそうです。今の皇太子のような、品行方正なイメージではなかったらしいです。
「帝王学」を学んでこられたとは思いますが、敗戦を経験し、自身の人生観、立場などを、ひとりの人間として考える過程を経験されたことと思います。
しかし、いま、皇后陛下とともに国民の前に示されるお姿は、まさに高貴、寛容、慈悲の具現であります。

つまり、尊崇に値する天皇のあのお姿というのは、我々日本国民の「思い」が凝縮された具象体ではないのか、と思うわけです。
そしてそのことを一番理解しているのは、天皇ご自身ではないでしょうか。

秋篠宮殿下の、年令に伴う変貌ぶりも注目に値すると思います。
皇太子殿下に比べて「軽さ」が目立ったやんちゃな秋篠宮殿下がこのところとみに落ち着きを増してこられた、と言っては失礼でしょうか。

極言すれば、ボンクラであってもかまわない、ということではないのか、とさえ思えます。
仮に女系天皇が認められ、皇位継承第一位の女性がボンクラであったとしても、第一位を動かすことはできません。

皇統は男系であっても女系であってもどちらでもよかったと思います。女系の伝統が千年以上続いているのであれば、今でも女系をつなぐべきだと考えます。
しかしそれはどっちにしろ、なかったであろうと思います。
なぜなら、単純なことですが、男のほうが力が強いからです。
腕力の優る者が権力を手にするのは当然すぎるほど当然のことですよね。

そして、多くの人が心配するのが、何度も言いますが、「女性天皇」に配偶者をみつけるのは、皇太子妃をみつける困難の比ではないでしょう。おそらく独身で終わるかもしれない。それは天皇制崩壊に向かう第一歩となります。

皇室に嫁するというのはたしかに難しいことではあるけれども、それでも、「雅子様」や「紀子様」のような女性は、将来現れる可能性があると思います。

そのためにも、皇室というものをもう少し変えていく必要があるのかな、と思います。

            いつもありがとうございますm(_ _)m → ランキング 

.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年9月12日 (火)

はじける笑顔

櫻井よしこさんのブログで「はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い 皇室はなんのために存在するのか?」という記事を読んだ。  要するに、雅子妃は皇室がどういうところかわかってない、皇太子妃の務めというものがどういうことか自覚していない、というかなり手厳しい内容だ。

この国をこよなく愛し、日本統合の力であるところの皇室の存続を願う櫻井女史の気持ちはよくわかるが、彼女はいったい雅子妃に何を望んでいるのだろうか。
体の不調など我慢してさっさと公務に復帰せよ、とせかしているのだろうか。
もっと子作りに励め、と尻を叩きたいのだろうか。

講演を聴いたこともあるが、櫻井氏はとても聡明で美しく優しく清々しい女性という印象を受けた。

しかし、雅子妃批判を読むと、これではまるで話のわからない姑のようではないか。

小和田雅子さんが皇太子殿下と結婚しようと決意した経緯をちょっと振り返ってみてほしい。

皇太子殿下は長年妃選びに苦労しておられた。それはもう皇室や宮内庁側が「選ぶ」というより、是非来ていただきたい、というお願いの状況だったと思う。皇室に嫁に行ってもいい、と思う女性がそれほど少なくなっているということだ。

もちろん、雅子妃はいやいやながら嫁したのでなく、徳仁親王という一人の男性に惹かれたからこその話ではあっただろうが、それでも天皇家に入るということには大いなる迷い、苦悩があっただろう。

それを「なんとか来ていただきたい」と説得したのは皇太子殿下はもとより、宮内庁側であっただろう。

説得の内容は察しがつく。
「外交官としてのキャリアは皇室外交として生かせる。あなたでなければできないことだ」というようなことであったろう。

雅子さまは非常に賢明なかたであるから、「皇太子妃として外国訪問さえしていればそれですむ」などと思ったはずはなく、さまざまのことを考え、たいへんに重い決心をして皇室に入られたことだろう。

「子供をたくさん生みたい」という希望も、婚約会見の時、はにかみながらも表明されていた。

皇太子ご夫妻は不妊治療に極めて積極的で大変な努力を重ねておられるという報道もあった。

雅子妃は日本国内の公務が嫌で、外国訪問をしたいのだ、とか子産みのために日本国内にとどめ置かれるのがたまらなく辛いらしい、とか、そういう言い方が意地悪なマスコミでなされる。

バカを言うな、と言いたい。
もとよりわがままな性格の人ならあのような病気になるはずがないのだ。
まわりに気を遣う、いかにも長女らしい性格の人だと聞いている。

雅子妃殿下の心の内はまわりにはわからない。
男子が生まれなくて皇位継承者が途絶えることに責任を感じておられるのか。
それとも、愛子様を天皇にしたくないと思っておられるのか。
それならば弟宮家に男子が誕生したことで救われるのか。
それとも、皇統が「分家」に移ることに心を痛めておられるのか。

先日の新聞に、【男児出産 思いひとしお___後継者に悩む「伝統の世界」】と題して、男児が生まれぬ旧家の嫁の悩みについての記事があった。

伝統工芸職人、お寺、旅館、などの嫁たちが、「男の子だから後継者」と決めつけないでほしい、と雅子妃と思いを重ね、心情を吐露する。

しかしこれはまったく次元の違う議論ではないか、いや、似たようなことかもしれないが、規模の違いにおいて比較することはできない、と言ったらいいのか。

ずっと前、作家の林真理子氏が皇室について書いていたのを読んだことがある。彼女の意見は実にはっきりしていて、「皇室にそもそも男女同権や民主主義の概念を持ち込むことが間違いなのだ。雅子様が自立した女性だから皇室に変化をもたらすのではないかと期待することも間違い。古色蒼然、旧態依然こそが皇室のアイデンティティなのである。女系に移行する必要もなく、それで皇室に跡継ぎがいなくなって、皇統が途絶えてもそれはそれでしかたがない。国民はそれを受け入れるだけのことである」というような表現だったと思う。

そこまで割り切ることは私にはできないが、天皇制という摩訶不思議なものを考えると、そういう意見もわからないことはない。

しかし、もし、国民の多くが天皇制をなくしてはならない、と思うなら、新しい時代の皇室というものを是非とも考えていかなければならないと思う。

ただし、そこに「女系天皇容認」の考えを持ち込むのはどうか。

男子の万世一系ということが、歴史的文化的科学的にどれほどの重要な意味があるのか私にはよくわからない。
しかし、もし、女性天皇を容認した場合、たぶん皇統は途絶えてしまうのではないか、という強い懸念がある。
それは以前から言っていることだが、女性天皇には配偶者はみつからないだろう、ということだ。
嫁でさえみつかりにくく苦労しているのに、婿入りなど誰がしてくれるだろう、ということだ。

先日、衆議院議員の平沼赳夫氏がテレビで言っていた。
「天皇制反対のある学者が、『天皇制を崩壊させるには女性天皇を容認すればいいだけのことだ』と言っています。女性天皇を認める、ということはそういう意味なのです」

女性女系天皇を容認するということはそういう事態を引き起こすということを認識し、その上で、それでも女系天皇容認派に与するというなら、そうすればいいと思う。何年か後、天皇制は存続不可能になって崩壊するだろうけど、国民がそう願うのならそうするしかない。

紀子妃殿下の懐妊発表以前、「皇室典範改正有識者会議」で改正論議が盛り上がってきた頃、「改正はちょっと待ってくれないか」という皇太子殿下の意向が伝えられた、ということがあったそうだ。

秋篠宮家に期待されていたのかもしれない。そうだとすれば、たとえ「本家本流」でなくても男子の生まれた今、雅子様へのプレッシャーは大幅に取り除かれたことと思う。

それがオランダ訪問時の「はじけるような笑顔」として反映されたのかもしれない。

そのはじけるような笑顔を、「外国だとそんなに楽しいのか」などと意地悪く批判するのはやめなさい。

そういう心ない報道が病を治りにくくしているのがどうしてわからないのか。

救いは皇太子殿下との信頼関係は強いとのことだ。

批判する人もいるかもしれないが、皇太子ご一家を支持している国民のほうがずっと多いと思う。
雅子妃殿下におかれては、バッシングなど気にせず、ゆったりとした気分で毎日を過ごしていただきたい。

             

      いつもありがとうございますm(_ _)m  →ランキング

.

| | コメント (9) | トラックバック (2)

2006年9月11日 (月)

我々のやりかたのほうが正しいのだっ

民主主義国では、国民は自由に政府批判ができる。言いたい放題だ。

政権が変わってもそれは止むことがない。

小泉政権は「アメリカ追従」「弱者いじめ」「独裁者」などと、左派ばかりでなく、中道の人たちからも強い批判を受け続けた。

リーダーが変わろうとしている今、その新しいリーダーにもすでに批判の声は集まる。

かといって、たとえば民主党が政権とって小沢首相が誕生しても、その他の誰が政権取ったとしても、国民は政府批判を続けるだろう。

そんなこと当たり前じゃないか、と言われそうだが、私は時々、人はなぜ「政府批判」をするのだろうかと考える。

自分の得になるから自分の考え方に近い政権を望む人と、自分は損をしてもみんなが幸せになれるからという考え方で政府を作ろうとする人を比べてみれば、後者のほうが明らかに立派だ。崇高な精神の持ち主だと言える。

しかし、その「崇高さ」を持つ人間はこの地球上ほんの一握りだろうし、その「崇高さ」を全人類に期待することもできない。

大地主の家に生まれ、何不自由なく育った娘が、貧富の差に憤りを感じて左翼運動に身を投じたなんていう話は昔はよく聞いたような気がする。偉いなあ、と感動したものだがそんな偉い人は少ない。

憲法9条を持っていさえすれば、ブッシュのような人も石原慎太郎のような人もビンラディンのような犯罪者もみんないなくなるだろうか。この世はみんな「良い人」になるだろうか。

「悪い人」「傲慢な人」「自分勝手な人」「過激な人」などというのはどんな世にも出てくる。
もしそういう人たちが出てこないようにしたいのであれば、力で押さえつける以外ない。

そういう人たちが出てこないような政治システムを築けばいいのだ、という考え方にも無理がある。
不満が出ないようにみんなが等しく幸せになるという「理想社会」を築くためにはやはり、人間らしい欲望を抑えた分配システム、つまり社会主義以外ないからだ。

それはもう誰も望まない。

結局人間は、どんなシステムがいいのか、より良いものを模索しつつ、主張し、対立し、争い、失敗し、失敗に学べ、などと反省しながらどこかへ向かって歩み続けるしかない。

(あはは、なんだか、「なぜ人間はこんなにも利己的なのか。なぜ争うのか」と、反戦フォークを聴きながら考えをめぐらせていた青春時代の気分だ。)

平和は大事だから憲法9条は絶対変えてはならないのだ、と叫ぶ人が、実生活ではまわりの人と喧嘩ばかりしているのは、なんかヘンだなあという気がする。

だから私は、このとりあえずの平和の中で、自分のまわりの人との関係を大事にして生きていきたいと思う。

            いつもありがとうございますm(_ _)m  →ランキング  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 8日 (金)

普通の国

「共産主義と社会主義の違いがわからない」とコメント欄に書いたところ、KABUさんからトラックバックをいただいた。→ 『娘たちと話す左翼ってなに?』 

欧米ではこの両者は明確な区別をするけれども、日本では、「進歩的文化人の先生方」の都合で、あいまいにされたままだったんですって。

私が昔書いたメモには:

【共産主義】:私有財産の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想

【社会主義】:共産体制実現の第一段階

と書いてある。

KABUさんの説明では:

甲)共産主義(communism);
主要な生産手段を国有化する中央集権的な経済体制と一党独裁の政治システムを特徴とする全体主義、その革命の動力としては「失うものは何もない」労働者階級の団結を想定する社会思想

(乙)社会主義(socialism);
富の再分配に主眼を置く社会保障制度を組み込んだ資本主義経済体制と複数政党を認める政治システムを特徴とする自由主義、その政治体制への移行は教養ある有産階級(普通選挙制度導入以降は広範囲の国民大衆)を想定する社会思想

と、なっていて、違いがはっきりしている。「人間性」を考慮しない共産主義と、長らく日本が実行していた社会主義、という違い、これなら両者ははっきり違う、とわかる。

ところで今、single40さんの記事で興味を持ち、安倍晋三「美しい国へ」を読んでいる。

あるオピニオン誌の新聞広告に「美しい国へ」という大タイトルの下、批判文なのだろう、何人かの進歩的知識人の寄稿のタイトルが載っている。
「論理も懐疑もない保守の危うさ」高村薫
「『闘う政治家』の原点のゆるさ」船曳建夫
「ナショナリズムを煽る論理の飛躍」中島岳志・・・・・・等々。

ネガティブなタイトルだなあ。

私はあの本をまだ半分も読んでいないのだが、それでも、きわめて「まとも」「普通」という印象しか持たない。
「危うい」とも「論理の飛躍」とも思えない。
「左翼」でない者を「右翼」と呼びたがる人々がいるのは仕方がないとしても、「普通」というジャンルもあるのだよ。

この本は平易な言葉で大切なことが沢山書いてあるのだが、次のような文章には特に共感を覚える。

【「地域コミュニティの再評価」をスローガンにして活動している人たちのなかには、地域にたいして愛着をもつのは、よいことだが、国家にたいして愛着をもつのは、ごめんだ、という人がいる。そういう人たちには、地域社会から国家をバイパスし、一足飛びに地球市民にいってしまう考えの人が、なぜか多い。
 地球上のすべての人類が、自分の生まれ育った地域を大切にすれば、やがて地球が一つの大きなコミュニティになる、という考え方である。一見正しいように思えるが、どこか不自然だ。
 地球市民というのは、人類がかかげるべき概念のひとつかもしれないが、事実上空想の世界でしかない。かりに実現したとしても、その市民の安全や財産、あるいは人権をいったい誰が担保するのか。基礎的な単位が必要であり、その単位が国家であるのは自明だろう。にもかかわらず、その国家をバイパスするという感性が育まれた背景には、戦後日本が抱えてきた矛盾が大きく影響している。国家という概念へのアレルギーが、地域住民と地球市民をダイレクトに結びつけてしまう作用をはたしてしまうのだ。】

安倍さんはまだ、政治家として経験も不足しているだろうし、優れたリーダーかどうかもわからない
しかし、少なくとも、「危険な人」とはまったく思えない。
自立したい、アメリカの言いなりになるのはもうたくさんだ、中国韓国とも対等の外交をしたい、ただそれだけのことだと私には思えるのだがどうだろうか。

安倍さんが総理になったとしても、野党もマスコミも大衆も責めまくるだろうなあ。
いえ、どんな政権でも世間は文句言いまくるでしょう。
それが民主主義国家の大衆の仕事ですから。

     いつもありがとうございますm(_ _)m  →ランキング 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月 7日 (木)

慶祝

秋篠宮家に親王さまご誕生。まことに喜ばしいことです。心からお祝い申し上げます。

赤ちゃんの誕生とはかくも人の心を明るくするものでしょうか。
ましてそれが皇室の男子ともなると、日本中が慶びに包まれます。

花火は上がるわ、祝賀の垂れ幕は翻るわ、号外は乱れ飛ぶわ、かっぽれ社中の皆さまは踊り出すわ、わーい、祭りだ祭りだ。なんとお目出たいことでしょう。

日本人、皇室がほんとうに好きなのだなあ、とつくづく思います。

皇室典範改正問題も、一応はホッと一息といったところでしょうか。

しかし、皇室の安定的な存続のためには、男系女系の議論は続けていかなければならないようです。

昨日、ラジオ番組で聴取者参加のコーナーがあったのですが、その中でこういう意見を言う人がいました。
「やはり、伝統の男系でつなげていただきたい。医学の進歩により男女産み分けは容易で、男系を保つことは可能だ」

大胆な意見に、スタジオでは「倫理的に問題が・・」という声も上がりました。

私は以前こういう記事を書きました。→「神の領域」 

自然にまかせることは良いことだし、自然に反することはよくないことが多いと思います。
でも、人間社会はすでに自然に反することだらけで成り立っています。
生命操作、遺伝子操作だけは特別だ、踏み込んではならない、と言いながら、すでにその領域に踏み込むことで恩恵を受けて幸福になっている人はたくさんいます。

皇統はなぜ男系でならなければならないのか、そのわけを納得いくように説明できる人はいないのではないでしょうか。(私個人は、DNAの問題を抜きにすれば、女性天皇の配偶者を得るのは困難を極めるだろうという懸念は非常に強くあります。)
「2千年以上続いた日本国の伝統だ、とか、世界のどこを探しても万世一系の王族などない、その血筋が尊いのだ」などと力説されても、「珍しいから尊いのか、伝統が変わったって国民の幸福に関係あるのか」などという疑問も当然出てきます。

しかし、私はこう思います。
「女系のどこがいけないのだ、おかしいじゃないか」と言うなら、「それなら、天皇制自体がおかしいじゃないか」と思いませんか。

皇族のかたがたは同じ人間でありながら、自由がなく、監視され珍しがられ、人格者であることを期待され、決まった人生しか歩めない、人としての普通の権利がありません。皇室を支える費用もバカにならない。
この民主主義の世の中で、おかしいじゃありませんか。

しかし、そのおかしなことを、大切にしたい、と人間は思うんですね。
そんなことはこの世の中いっぱいあります。それが人間社会というものだと思います。

男系の伝統に固執することは、合理的に考えればおかしなことかもしれませんが、伝統を守り、綱渡りの皇統維持に一喜一憂することもまた、日本人の日本人たる所以かもしれません。

天皇制の作り出した数々の文化、皇室の醸し出す品格と貴い空気、親王内親王のご誕生や成長ぶりに日本中が湧く。皇室はまさに国民の求心力としての役割を担っているという他ありません。
皇室のない日本、想像ができません。
たぶん、なくなってみればその珠玉の輝きに初めて私たちは気付くのかもしれません。

                   いつもありがとうございますm(_ _)m →ランキング

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »