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2006年11月27日 (月)

政治と情

週末、テレビで政治番組など眺めながら、夫と自民党の復党問題について語る。

これは来年の参院選の選挙対策と政党交付金欲しさの問題だと、私は思っていたし、それなら政権を維持し日本のための政治をやるために仕方がないじゃないかと思っていたが、夫は「何言ってんだよ」と言う。

夫: 「参院選に負けたって、政権取られるわけじゃないよ」
私: 「そりゃそうだけど、法案が通らなくなるんでしょ」
夫: 「参議院で否決されたって、再び衆議院に戻して3分の2以上の賛成があれば可決できる。自民党が当面心配してるのはそんなことじゃない。参院選で仲間を救おうとしてるだけだ。自民党内の「情」が働いてるだけだよ」

見ていた「サンデープロジェクト」では、山本一太議員、舛添議員らが議論していた。
山本さんは「その『情』は、党内の情でなく、国民に向けられた『情』でなければいけない」と言い、舛添さんは「有能な人を戻して日本のための政治をするという大きな視点で考えなきゃいかん」と言う。

私は以前から自民党議員の「私は自民党を愛していますから」という言い方が大嫌いだった。
仲良しクラブのようなこの言い方、「国家」の観念がない。

政治のためには勢力を結集することは必要だが、組織内だけの愛情でものごとが動いてしまっては道を誤る。

山本さんたち、復党に反対の自民党議員は、権力ばかり大きい古狸連中の動きをあらわにすることで、政界再編まで持っていこうとしているのかもしれない。

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2006年11月23日 (木)

まあまあそう責めないで

自民党が復党問題で責められているので、アマノジャクの私は流れに逆らい自民党の気持ちになってひとつ弁護を試みてみる。

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あの解散総選挙はなんだったんだとか、おめおめ復党するつもりかとか、みなさんご批判盛んになさいますが、党の議席をできるだけたくさん確保したいのは当たり前のこと。
自民党はとにかくこの国の政治をやりたいんですよ。自分たちのやり方が一番だと思ってるんですよ。自分たちのやりかたで政治やったら国が良くなって国民が幸せになると思ってるんですよ。だから他党に政権を渡してなるものかと思ってるんですよ。そのためにはなりふりかまわないんですよ。
なりふりかまわないのがいけませんかね。
行儀よくして勝てるんだったらみんなそうするんじゃないですかね。
それでも、誇り高く毅然とした態度で堂々と戦え、と仰るんですか。
その結果負けちゃったら、政権取られちゃうかもしれないんですよ。
政権についてなきゃ思うような政治はできないんですよ。
少しは政治家の気持ち考えたらんかい、どあほ。(あ、いかん、つい)

あんな頼りない政党に政治やらせたらこの国はいったいどうなってしまうんだ、ここは絶対引くものか、なんとしてでも勢力拡大をはからなければ。何と言われようとかまわない、日本のためだ。何もわからん国民やマスコミは「節操がない」などと責め立てるが、かまうものか、お前たちのためなんだよぉ。
くそ、大衆ってやつはどうしてこうバカなんだ。もっと民度をあげねばならんな。ここはやっぱり愛国心教育だな、うん、うん。
・・・・なんて。

だから自民党も、あれこれ弁解しないで、「勢力拡大したいんだ。どこが悪い」って言やあいいのに。

たとえ民主党がそういうやり方しても同じように弁護してあげる。「自分たちにやらせてほしい」と切望する民主党に一度くらいやらせてあげたいもの。

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2006年11月21日 (火)

国家権力って・・・

エネルギー 着火 発動」 に真魚さんが意見を書いてくださいました。 
一所懸命返事を書いてみましたので長いですが読んでいただければ嬉しいです。

_______

今まさに経済発展途上にあるアジアの国々の「熱気」はたしかに日本にはすでにないものであり、それを求める時期は過ぎ去った、という真魚さんの仰ることはよくわかります。

しかし、私の言っている「いい国にしようという若者の熱」はそういう経済発展のために頑張る熱ではありません。
もちろん、国民の幸せのために、経済の停滞も衰退もしてはならないわけだから、その頑張りも当然なくてはなりませんし、そのためには「熱」は不可欠です。
しかし同時に、道徳の衰退、つまり堕落を食い止める努力だって当然しなければなりませんよね。だって、日本人の劣化に国民こぞって困った困ったと嘆いているわけですから。

だから、みっともなくない国を目指してみんなもっと熱くなったらどうか、という提案をしているのです。

真魚さんは、「だめな若者もいるが、ちゃんとしている若者だっている」と仰いますが、それは私も知っています。こんなの書いたことあります。 →「格差・・・?」 

今、「崖っぷち弱小大学物語」 というのを読んでいます。
著者は京都大学の教授から、名古屋の弱小私立大学の学部長になった人で、全大学の3分の2以上を占める弱小大学の学生の資質の低下に警鐘を鳴らします;
日本をこれから動かしていくのはAランクやBランクの大学を出たリーダーだけではない。「その他大勢」こそ社会を構成するマジョリティそのものであり、好むと好まざるとにかかわらず、無意識のうちにも社会の流れ、すなわち良くも悪くも新しい文化を作る前線部隊とその予備軍なのである。」

まだ終わりまで読んでいないので、永江朗氏による書評を引用しますと;
【・・・学力低下や勉強嫌いについて、「大学は学問をするところだ、職業訓練なら専門学校に行け。基礎学力がない者は大学に入れるな。授業中に携帯電話をいじったり化粧しているような学生は退学にしろ」なんて突き放すこともできる。
だが著者は違う。
「普通の人間が普通の社会で普通の人生を送れるような、普通の社会が安定して保たれ、普通の若者が元気を出せるような教育をしたい」と述べる。そのためには、中学・高校でやり残した勉強を教え、家庭が施さなかった「しつけ」まで引き受ける。勉強嫌いの学生たちも興味を持つように授業に工夫をして、教員や管理職の意識改革に取り組もうというのである。

その心意気にホロリとさせられるが、同時に暗然ともする。いまどきの普通の若者はだめなのか。これはもう「大学」ではないのではないか。 

この先生の心意気は素晴らしい。
でもこういう個人の善意に頼るだけで、若者はしゃんとするようになるのだろうかという疑問を持ちます。
この先生の運動が全国の大学に広がれば少しは改善されるかもしれない、でも、ほとんどの教員や経営者はそんなことに興味がない、というか、面倒なことはやりたくない、と思っているのではないか。
結局、善意の個人のからまわりに終わるのだったら、ほんとうに気の毒なことです。

こういった草の根的な動きが大学生を少しは変える一助になるかもしれません。
それでも、あとからあとから送り込まれてくる質の悪い学生を大学の先生たちはしつけ直すことに生涯を費やさなければいけないのでしょうか。

もっと前の段階、小学校低学年(ほんとうは幼児期)からのきちんとした育て方が必要で、それを親ができないのだったら、学校(国家の教育)でするしかないんじゃないでしょうか。

真魚さんは「国家は権力を持ち、自分たちに都合の良いように国民を動かす」と仰います。

私はそんなこと当たり前ではないかと思います。「自分たちに」の「自分」は我々自身でもあります。

それがだめだというなら、国は統治機構を持ってはいけないことになります。それはもはや国ではないのではないですか。

権力はあって当然のものではありませんか。権力で治めないでどうして国が成り立つんでしょう。権力でないなら、何が国を統治するんですか。

北朝鮮の権力は悪者だけれど、日本の権力は世界でも良いほうですよね。

真魚さんは「国家は権力を使って国民の嫌がるあんなこともするこんなこともする」なんて仰いますが、これらはみな、権力者が快感を得るためにやっているんですか。
国のためになるからやっているんじゃないんですか。
国民の嫌がらないことばかりやっていては国は滅びませんか。

国家を「敵対するもの」と思い込んでいると、国民のためにやっていることを、先の読めない大衆は「反対反対なんでも反対」になりがちです。

国家に育まれていながら国家のやる良いことは忘れられがちです。 →「幸せなあたたかさ」 
国家は我々を守ってくれる装置であるという視点がなければ、どうしてそれをより良いものにしようという心が芽生えるでしょうか。

60年安保の時、左翼勢力や学生たちは、安保条約断固反対ということで、「政府の横暴」に抗議し、大暴れしました。
しかし、「それまでの日米同盟よりはるかに改善されている条約の内容を学生たちは読んでさえいなかった」と数十年もたってジャーナリスト田原総一郎が述懐し、この頃から彼は左翼思想から脱したようです。

例えば、リベラル勢力が政権についたとしたら、やはり、その政権は権力を使って国民を統治するわけですよね、言うまでもなく。
それでも、それは「権力」だから信用できない、ということになりますか。

昨日の新聞に写真家の藤原新也氏が子供たちの惨状について書いていましたが、「もう評論言語は意味をなさない時代に来ているのである。腐った根っこを掘り出し、別の土に植えかえる抜本治療のみが必要とされる。」として、「荒療治」の提案をしています。例えば、「東大の解体」、携帯電話や塾が子供をおかしくしているので、「携帯電話の所持の年令による線引き」、「塾も小学生までは廃止すべき」などと言っています。

この人はたしかリベラルな考えの持ち主だったと思うのですが、こういった荒療治は国家の介入なしにはできませんよね。国家の命令が必要だ、と言っているに等しいことに気付いているんでしょうか。

しかも、(私は「評論言語は意味をなさない時代に来ている」という意見には大いに賛成なのですが)、この荒療治は単なる対症療法に過ぎません。

根本を変える、という覚悟ができているなら、国家統制だって覚悟しなきゃならないはずです。

つまり、どんな政権であろうと(保守であろうとリベラルであろうと共産党であろうと)、統制は不可欠だと思うのですが、どうですか。

それがいやなら、国家はいらないという特殊な思想を受け入れざるを得ません。

長くなってしまいましたが、さあ、子供たちを正しく導くために、藤原新也氏の言うように、子供の携帯や塾を禁止したりするのが良いのでしょうか。それとも、道徳の強化や国の一員であることを自覚させる教育をしたらいいのでしょうか。それとも、日本の若者は捨てたものではないので、何もしなくてもいいでしょうか。

私は、子どもたちが言うことをきかないなら言うことをきく子供になるよう教育すればいいと思います。それで自分の考えがなくなって一丸となって戦争に突っ込むような人間になるとはぜんぜん思いません。

それでもやっぱりそういう教育は良くない、というなら、これからもだましだまし対症療法を続けていくしかないと思います。それでいいのかもしれないけれど、日本、本当に腐ってしまうかも。

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2006年11月20日 (月)

種の保存

私は、「男は女より弱い」と思っているし、そう言い続けている。
何度も書いた。

女性を守るということ」 
女が男をつくる」 
男振り」 
ほんとに中身さえ良ければ?」   
柔軟な心」  
     :
     :
     :
ああもう、数え切れないくらい書いた。この外にも探せばいっぱいみつかると思う。

だから、「心配いらない」に書いた「逞しい男と可愛い女の遺伝子だけが受け継がれ」の、「逞しい男」というのは、言うまでもなく「女性の後ろ盾によって逞しくいられる男」という意味である。

セックスレスの原因は、ぐーたんさんの仰る「環境ホルモン」も「男性が仕事で疲れている」というのもあるだろうが、「強い女」が増えてきた、というのも一因に挙げてはいけないだろうか。

先日、ラジオで宮台先生が「だから、これからは大人の女と年下の男がカップルになればいいんですよ」と言っていた。
大人の女が年下の男を一人前の男に育てるのがいい、ということだ。私も似たようなこと書いたことがある→「年上の女」 
この場合、「いい男」に成長した男が年下のかわい子ちゃんに目を移すことも考えられるが、ま、それは男のサガと受け止める包容力さえあれば克服できるものと思う。
このようなカップルは今後増えていくだろうか。

女性の母性本能をくすぐる男性。
男性も、守られている感で、成り立っている関係。」

      ↑
ぐーたんさんはこのように仰る。
しかし、これは男の本意ではない。
男は基本的に女性を守る立場でいたいものだ。
しかし、傷ついた時に癒してくれる存在でいてほしい。その時にこそ母性を発揮してほしい、それが男の望みだと思う。

そんな勝手な、と思うなかれ。
女は堂々と本音を公に言うけれど、男はそれをしないだけである。

「本音」は男にも女にも、ちゃんと存在するのである。

これを理解しなければ、これからもカップル成立の難しさは続くだろう。
だから女は従順になれといってるのではもちろんない。
カップルのタイプはいろいろある。
たくましい女に惹かれる男もいれば、友達夫婦もいれば、夫にひたすらついていく女もいる。
しかし、大部分の男が本音を隠していてそれに女が気付かないのであれば、やはり、需要と供給のアンバランスは避けられない。

「男は所詮女の掌で踊っているだけだから」というのは昔から言われていることだが、これを、単なる慣用句のように使いながらも、実感している女はどれだけいるだろうか。

それを体感する女性が少なくなっているというのはやはり女性のユニセックス化が進んでいるとしか言いようがない。

「逞しい男と可愛い女」の組み合わせは、だから、「虚構」と言ってもいい。どうせ人間社会で本音を言えないなら虚構で大いに結構ではないか。

そして、その組み合わせが多く子孫を残すのであれば、その遺伝子は勝つ。

そんなのひどいとかあんまりだ残酷だ、などと悲しんでもしょうがないのである。
それが生物学的に起こる事象だからである。
私がそう思うのでなく、それが生物界なのである。

あなたが今ここに存在しているのは、あなたの先祖が生き延びる努力をしてきたからこそなのである。
強引なやり方をしたからかもしれない。戦争で勝ったからかもしれない。
その結果、あなたは存在しているのである。
(私自身は実は「自分の存在」と遺伝子の継承はある意味なんの関係もないと思っているのだが、哲学的な話になるのでここではこれ以上言わない)

「優しい」だけでは実行力はない、というのはこういうことである。
だから私は若い女性から総スカンを喰っても言い続けるもんね。

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2006年11月17日 (金)

心配いらない

週刊新潮で渡辺淳一のエッセイ「現代セックスレス考」を読んだ。

【それにしても、なぜいまセックスレスが増えつつあるのか。
この点についてはさまざまな意見があるだろうが、私が思うのは、男の「下方志向」と女の「上方志向」のアンバランスである。
といっても、これだけではわかりにくいので、以下、具体的に説明するが、男の性的欲望、いわゆる性的リビドーは総じて、自分より下の方に向かって強くかきたてられる。
たとえば、「愛らしい」とか「優しい」「脆い」「小さい」といった感じの女性に対したときに、強く刺激される。
もちろん、外見の美しさも重要だが、くわえて男の保護本能をそそられる女性と接したときに、とくに欲望をかきたてられる。
これに反して女性は、「逞しい」「大きい」「頼り甲斐がある」「安心して従いていける」といった男性に対したときに、恋愛感情とともに、性的感興も強まってくる。
もちろん、数ある男女の中には、同性愛嗜好の人や、セックスそのものを嫌う人もいるから例外はある。
だが、大多数の男性は下方志向を、そして女性は上方志向をもっている、といっていいだろう。
実際、多くの男は、成績優秀で社会的地位が高くて、経済力のある女性を敬遠する。むろんそういう女性を素晴らしいと思い、尊敬はしても、自分とセックスする対象として、選ぶことはあまりない。
同様に女性は、自分より社会的に下にいて、能力も劣り、頼れそうにもない男に、惹かれることはあまりなく、性的関係を持つこともほとんどない。___中略___要するに、男の下方志向と女の上方志向は、この世に男と女が生まれたときから備わっていたもので、こうした生理的な特性は、百年や千年の単位で、簡単に変わるとは思えない。___中略___

男の保護本能をくすぐり、俺が抱いてやらなければ、と思わせるような女性はきわめて稀。
それどころか、最近は夫より妻の方が逞しくて頼り甲斐がある。さらには頭もいいし、収入も多いとあっては、男の性的リビドーは落ちるばかり。
お陰で現代は、男が男で、雄であることが難しい時代。
このあたりで、男たちも下方ばかり見て垂れ下がるより、上方志向になって立ち上がるように、根底から変える必要がありそうだが。
ここから先は、創造主である神様に創り直してもらうより、方法はないのかもしれない。】

こういうことはよく言われるし、私もずいぶん前に同じようなことを書いた。  →「少子化の原因、いろいろあれど」 

少子化は、働く女性へのサポートが足りないからだという論もある。

しかし、それだけでは、少子化に拍車をかけるセックスレスの説明がつかない。

渡辺氏の言うことはたぶん当たっているだろう。

しかし、最後の「男たちも下方ばかり見て垂れ下がるより、上方志向になって立ち上がるように、根底から変える必要がありそうだが。」というのは無理がありそうだ。
そんなもの「頑張れ」と叱咤激励して実現する類のものではないのである。

しかし、心配はいらない。

強い女、弱い男がセックスをしなくなる、ということは、いずれそれらの遺伝子は淘汰される、ということだからである。子供が生まれなければその遺伝子は継承されない。当然である。

逞しい男と可愛い女の遺伝子だけが受け継がれ、やがてそういう男女関係の再来する世界になるだろう。恐ろしく時間がかかりそうだが。

ふふ、竹内久美子さんが言いそうなことですね。

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2006年11月15日 (水)

最強の兵器

新聞の経済面や科学面など眺めていると、「へー、こんなことまでできるの」とびっくりするような科学技術の進歩を毎日のように知ることができる。
日本の科学技術力はすごい。

核兵器廃絶が叫ばれ、核抑止力の論議と対立する。

「兵器は進化するよりほかない。今ある兵器を上回るものを作るしかない」という論があるが、私も、そうかもしれないなあ、と思う。

最強の武器である核兵器をみんなで「いっせーのせ」で同時に廃棄することなどできないだろうと思う。

核の抑止力を信じられないのならば、核を上回る何かを作ればいいじゃないかと思う。
核反応を中和するというのか、無力化する何かを考えればいいんじゃないか。

無知なので核爆発のしくみがどうなっているのかわからないが、核分裂の連鎖反応を起こさせないとか途中でストップさせるそんな技術が考えられてもいいんじゃないか。

ミサイルに付けられて飛んできたら途中でふんわり受け止めて無力化する何か。あるいは手榴弾のように、投げ込まれたらこっちで爆発する前に受け取って敵側に投げ返すとか、そんなこと不可能だろうか。

でも、荒唐無稽だと思われたことが次々と実現していく科学技術の力を目の当たりにしていると、案外できるんじゃないかと思えてくる。

ミサイル迎撃の精度を高める研究と同時に、核兵器が古臭くなるような最強の武器の開発を日本人が率先してやったらどうだろうか。
しかし、こういうのは武器とは言わないんでしょうね。防御システムか。

核武装論を喧々諤々やってる間に水面下で着々と研究を進め、ある日「こんなんできましたけど」とやったら痛快ではないか。

そういうことにお金かけるんだったら誰も反対しないと思う。

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2006年11月14日 (火)

夕日に向かって走る

「たけしの日本教育白書」にぐーたんさんからコメントをいただきました。返信です。

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今の子どもは子ども時代にしっかり「子ども」をしていない、というのはたしかにそうでしょうね。
世論は「子どもには強制が必要だ」に傾いていますが、実行は難しいです。
世の中自体がそれができにくい状態ですから。つまり、学校で「強制」したところで、世の中が同調しない限り、「学校とは息苦しい場所だ」という意識を植え付けるだけになってしまいますよね。

それでもなお、子供たちを正しく教え導くのは学校しかないと思うわけです。
よく「家庭教育が一番大事」なんてことが言われますが、そんなことは当たり前のことであって、親が優しく時に厳しく丁寧に愛情を持って育てれば基本的に子どもがおかしくなんてなるはずがないんです。

でも、社会とのギャップはそれをできにくくしている、ということと、子育てに関心のない人が「親」になっている、この二点こそが問題なんですよね。
ネットやゲームやその他の子どもに悪いものは禁止できないし、自分の子どものことより自分の恋の行方が気になる親も増えています。

ぐーたんさんはじめ、子育てしながらあれこれ考えて意見を述べる人たちは、悩みながらもなんとかかんとかやっているわけです。昔からたいていの人は大なり小なり子育てには苦労しているのですから。

問題なのは、社会情勢。
それと、子どもより自分の欲望を優先してしまう人たち。

大人ひとりひとりが子どもをしっかり育てればいい、なんて何度叫ぼうが、どんなに大きな声で言おうが、そういう声はこういう人たちには届きません。だってどんな育て方しようと自由なんですから。

そういう人たちを今から育て直す手立てなどありません。

だから、教育とは、将来の親になる子どもを今から育てるという壮大な意味も持つわけです。

自由と豊かさが子どもをおかしくしてしまったのはほぼたしかだけれど、それが一大事だと本当にみんなが心から思うなら、大人は子どものために自分たちのさまざまな不自由を我慢すべきじゃないですか。

でも、大人に我慢を強いたり自由を制限したりすることで世の中が停滞し、日本の経済にも良くないことになるのなら、子どもの歪みはある程度仕方がないものとして受け入れるか、または、豊かで自由なまま子どもを正しく教え導く方法をひねり出すかどっちかしかないわけです。

太田光は、人間には「青臭い時期」が必要だ、として、「平和教育」に力をこめているのだと思いますが、私も前々回の記事で「近代化を成し遂げた国家では堕落は仕方がないのでだましだましやってくしかない」みたいなことを書いてはみたものの、やはり、青臭いと言われようが、「プライド」だとか「正義感」だのを小学校低学年までにたたき込むべきだ!と力説せねばいけないのだろうなあ、と「教育白書」を見ながら思いました。それが年配者の仕事なんだとも思います。
小学校3,4年にもなれば、子どもはたけし的毒舌やシニカルなものの見方の面白さがわかるようになりますから、その年令以前に基本を教え込まないとだめなんじゃないでしょうか。

道徳教育は充分やっていると学校の先生は言いますが、効果が上がってないのは方法が間違っているんじゃないかなあ。
こういう方針を徹底させるにはやはり、国家の号令しかないわけで、それがいやならやっぱりなるようにしかなりませんね。

学校で道徳教育さえしっかりやっていれば子どもがまっすぐ育つという保障もないわけですけれども、道徳教育は悪いことではないので、やらないよりはやってみたらどうでしょうかねえ。

もちろん、学校で発生する様々な問題についてはそれぞれが努力して対症療法を施せばいいのですが、4~5歳から9~10歳くらいまでの時期、基本の基本、土台作りは国の主導でしっかりやってほしい、と私はこう思いますです。

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2006年11月13日 (月)

「たけしの日本教育白書」

土曜日、フジテレビの「たけしの日本教育白書」を見た。延々6時間、ところどころ座をはずして全部は見られなかったが、非常に面白かった。

特に、爆笑問題の太田光の指摘していたことは現代の子どもの問題点の核心をついていた。

【僕たちが子どもの頃、たけしさんがテレビに出てきて、それまでの子供たちの人間観とか世界観をガラッと変えた。「夕日に向かって走る」(若者特有の情熱)といった表現に対して、「夕日に向かって走ってどこまで行っちゃうんだろうね」というようなギャグを連発して、僕たちに「現実」を示唆してくれた。僕たちは美しいものや理想から抜け出して、ああそうか、現実というものはこうなんだ、ということを知った。テレビはただ面白おかしいことに笑うだけじゃなく、世の中はキレイ事じゃないという、大人になればわかることを子どものうちに修得してしまうツールになった。でも、キレイ事じゃないことを知る前にキレイ事もちゃんと知る、という段階を踏まなくちゃいけないんじゃないか」と、太田は、表現はこのようではなかったが言葉を要約してわかりやすくすると、こんな風なことを発言した。

チャーチルが言ったという(ウソかホントか)「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」という言葉に通じる。

「子供がおかしくなったのは俺のせいだったのか」とたけしが言ってスタジオは大爆笑だったが、たけしのせいかどうかはともかく、大人の価値観を子どもが共有するようになったことは否めないのじゃないかと思う。

太田光は自らが総理大臣になって模擬国会を開くという番組をやっているが、そこで、青筋たてて平和論をまくしたてている。
彼はたぶん、自ら子どもになって「こうあるべき」論をわめき散らすことによって、段階を踏んで成長することの大切さを主張しているのではないか。

頭の良い人であり、馬鹿と思われることを恐れない人だから、それは充分考えられる。

つまり、たけしがテレビでやったことの逆を、同じテレビでやろうというわけである。

気持ちはわかるが、もうテレビでそれはできない。

理想は大事だが、理想に乗っかっているだけでは国策を誤る、ということを、国民の多くがもう知ってしまった。

明らかに現実論のほうが説得力があり、現実をわかった国民にサポートされる政治家が堂々とテレビで国防を論じる時代なのである。

思えば、本当のことを何も知らずに理想を叫んで若者が騒いだあの頃のほうが、子供たちにとっては幸せな時代だったかもしれない。
それは、大人が「悪者になって」「攻撃される」という時代でもあった。

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2006年11月 9日 (木)

エネルギー、 着火、 発動

教育問題というのは本当に色々なことが複雑に絡み合っていてややこしく、また、国家の根幹に関わることであるにもかかわらず、とりあえずは直接国民生活に響かないので、政治課題としては後回しにされやすい。

そんな中、安倍政権が教育に並々ならぬ意欲を燃やしているのは大変喜ばしいことだ。

「美しい国」や「教育基本法改正」にやたら拒否反応を起こす人がいる一方で、「やっぱり基本をなんとかしなけりゃどうにもならんじゃないか」と思う私のような人間もいるわけで。

子どもがおかしくなった、女が破廉恥になった、男が軟弱になった、政治家が、警察官が、教師が、父親が、母親が・・・と、このように、いわゆる「日本人の劣化」が嘆かれるようになって久しい。
色々な人が「日本人の誇りを取り戻せ」とか「このままでは日本はだめになる」とか警告を発する。
「国家の品格」に多くの人が涙を流して共感もした。

しかし、もし日本人が劣化したのなら、その原因は簡単なことだ。
「民主主義」である。「自由」である。

自由にしていい、と言われればそれは自由のほうが心地よいからそうなるに決まっている。

人間の行動を抑制し秩序を保つのは法律だが、それだけでは法律を犯さなければ何をしても良いという風潮を生むのは必至だ。

つまり、法律ではコントロールできない人間の根本を正しく育てるのが教育ということになる。

・・・、ここまでは誰でも思う当たり前のことだ。

今、「教育基本法」に「日本人としてのアイデンティティ」とか「道徳教育の強化」を盛り込もうという動きがある。
これを、「国家が国民を思うように操るための陰謀だ」として反対する人がいる。

私は今までも何回も、「国家」と「国民」は敵対するものではない、と書いてきた。

日本は果たして独裁国家なのか。
我々は一握りの為政者によって思うまま操られる哀れな人民なのか。

いや、そうではない。民主主義の観点から言えば世界でも良いほうの部類に入る幸せな国家だ。

政府は我々国民が曲がりなりにも選挙で選んだ結果そのものではないのか。

あの政府は、どこぞの独裁国家のように世襲で継続して、その一族だけが甘い汁を吸い続けるというそういう類の権力なのか。

現在の為政者だって、情勢によって一般の国民にもなるのである。その一族だって一般の国民である。立場はいつだって変わるのである。立場が変わり得るのに、「政府がコントロールしやすく」なんてことを考えるか。特に100年の計である教育の分野で。

国家は我々自身なのである。

誰がなんと言おうが、いくら真魚さんに「相当なボリュームの反論ができる」と言われようが(笑)、日本のような民主主義国家では、国家は我々自身だと、私は何度でも言う。

「自分を律する」という言葉がある。自分で自分をコントロールするというまことに立派な行為である。
ならば、我々自身を、国家である我々自身がコントロールするのはおかしなことでもなんでもないと思うのだがどうだろうか。

「日本人、しゃんとせい」というのは誰が言ってくれるのだろうか。
いくら、言論人が「日本人、しゃんとせい」と叫んだところで、それは号令にも命令にもならず、何の実行力もないのである。
「しっかりせよ、国を良くしようという気概を持て」という言葉は誰によって言われれば、国民は承諾するのだろうか。

それは当然我々自身だろう。つまり国家なのである。

私はこの構図を考えるとおかしくなって笑ってしまう。

今の教育が抱えている問題は教育基本法とは関係がない、という人がいる。

先日の新聞のコラムでも立花隆氏がそう書いていた。
【今の教育が抱えている諸問題はすべて教育基本法とは別の次元の問題だ。教育基本法を改めなければ解決しない問題でもなければ、教育基本法を改めれば解決する問題でもない。
教育基本法に書かれていることは__中略__人類社会が長きにわたって普遍的価値として認めてきたことだ。
そこにあるのは、「人格の完成」「平和国家」「真理と正義」「個人の価値」「勤労と責任の重視」「自主的精神」「心身の健康」など、誰も文句のつけようがない目的だ。このような普遍的価値にかかわる問題を、なぜバタバタとろくな審議もなしに急いで決めようとするのか、不可解としか言いようがない。__中略__考えられる理由はただひとつ、前文の書き換えだろう。__中略__
憲法改正を真っ正面の政治目標に掲げる安倍内閣としては、
憲法と一体をなしてそれを支えている教育基本法の存在が邪魔で仕方がないのだろう。】

おおかたの人はこれに納得してしまうだろう。
しかし、「憲法と一体」、これは当たり前のことであるから、憲法改正するなら、教育基本法の方針も変えるのは当然だ。なぜなら、教育は国家を構成する土台なのだから。

現行教育基本法に欠けているものは、ズバリ「熱」であると私は思う。
美辞麗句が並んでいるものの、それらの美しいことを実現するためのエネルギーに欠ける。
エネルギー注入なしに、いくら「良いこと」を並べられたって、人は動かないのである。エンジンはかからない。

エンジン作動は、ある意味「エゴ」に基づいている。つまり、「自分の家族」「自分の友だち」「自分のテリトリー」「自分の国」を守る、良くする、というエゴがなければ人は奮起しない。
「愛国心」を盛り込むというのはそういうエネルギー注入の意味があると思う。
どこにも負けない国にするんだ、という気概が必要だとは思わないか。
このニッポンをどこに出しても恥ずかしくない国にしてやろうじゃないか(そこまで大仰でなくてもいいけどさ)、という「熱」が必要ではないか。この「熱」こそ愛国心ではないのか。

たいていの人は覚えがあるだろう。
「あいつには負けたくない」だとか「偉くなって見返してやる」とかそういうことを思う時にこそ人は奮起し、エネルギーを溜め込み、エンジンを作動させるのである。

今の日本はまるで老人だ。
「もう何もいらない」「負けてもいい」「何事もなく暮らせればそれでいい」。 国自体に熱がない。

金や学歴に狂奔してるやつらがいるじゃないか、あれは良いことなのか、と思ったあなた。それは個人レベルの話だ。個人で暴走しているに過ぎない。

国としての熱がない。
それが日本人の劣化の元凶だと私は思っている。「熱」を危険視する必要があるか。

この「熱」は、国民の三大義務を果たしてさえしていれば自然と生まれてくるようなものでもない。

もう一度この国にエネルギーを満ち溢れさせるために、国家目標に熱を籠めてみたらどうか。

「そんなものはいらないっ。私は念力で自家発電ができるのだっ」と思う人はどうぞそうなさったらいいと思うが、国全体のエネルギーにはなり得ない。

ただ「みんな仲良く平和で明るい社会を」などと言われたって、それは単なる美しいスローガンを羅列しているに過ぎない。当たり前すぎて、読んでも読まなくても何も変わらない。

ここまで読んで、「ほら見ろ、戦争に突っ込んだ愛国精神の再現じゃないか」と思ったあなた。

国家は自分自身ですよ。操られているんじゃない。
自分で自分を律するんです。

言論の自由もある、選挙もある、世界情勢も瞬時に見渡せる、こんな日本が再び自ら戦争に突入するなどという天地がひっくり返るような珍しいことが起こるというなら、むしろ私はそれを見てみたいものだと思う。怖いもの見たさで。

今の教育基本法には国としてのエネルギーがない。なければやる気や正義感は実働しないのである。脳科学に造詣が深い立花氏にそれがわからないはずはないのだが。

ただ、もちろん、教育基本法に熱を込めるだけでは何の意味もない。
その精神で教育に取り組むということである。

どうしても「国を愛する心を育てる」という文言を書きたくないなら書かなくてもいい。とにかく、「他の国に負けてなるものか」という負けん気を少し子供たちに植えつければいい。

近頃はやりの、中国や韓国の悪口を言っては悦に入ってる若者のようになれと言ってるのではないよ。健全なライバル心を燃やせ、ということだ。そうでなければエネルギーなど生まれるものか。

「愛国心」を教育の大方針に加えるというのは、まずエネルギー注入ということだ。具体的な施策は大いに議論し工夫したらいい。

「愛国心を義務化するのか」とか「愛国心の有無を評価するのか」とか「愛国心のない人間にペケをつけるのか」とか、そういうおかしなことを誰かが流布するので、善良な人たちが不安を感じてしまうのだ。

「日本人としての誇り」だとか「我が国の伝統的美風」だとかの言葉を出すと、「ケッ」などと言って頭からバカにする人がいるが、その態度こそが日本人をかくも劣化させる元凶となったのではないか。
「誇り」はなくてもいいものなのだろうか。「国の美風」は大事にしなくていいものなのだろうか。

________

そして、「道徳教育の強化」である。
「自由」「人権」「個性」の名のもとに、規制や管理をすべてとっぱらえばいいというものではない。
子供には特に「規制や管理」が必要だ。
「規制や管理」は子供を息苦しくさせるだけだ、という懸念もあろう。
それなら、息苦しくならないような逃げ道を用意してやればいい。

たしかに誘惑の多い今の時代、「規制や管理」はとてつもなく難しい。
しかし、小学校低学年までに、人の道の基本をたたき込むことは重要である。

「立派な人にならなくてわっ」
子供たちがそう思ってくれなければ、そして、そういう基礎力を持った大人に育ってくれなければ、なんでこの国が良くなるだろうか。

______

今、「家族が大事」だとか「地域力の見直し」などと盛んに言われているが、人間の自主にまかせていて、はたしてそんなものが構築されるものなのだろうか。

例えば、先日、地域の防災訓練があったのだが、近所の人は誰も出ていなかった。
離れた地域の人たちが何人か来ていて、そのうちの二人の奥さんと一緒にいたのだが、彼女達も班長だから仕方なく来た、と言っていた。
お菓子などが配られるので家族連れもちらほら見受けられたが、彼らも子供が大きくなれば来なくなるだろう。

結局いつも、世話役の役員さんたち(退職して、こういうコミュニティが楽しみになっている年配の方々)がはりきってお世話をするだけの単なる年中行事。何年続けようが人は集まらない。

訓練自体は、発見もあり、なかなか興味深いものだったが、地域の力はこんなことでは向上しない。

結局みなさん忙しくて、地域の行事や掃除や学校の集まりなんかに出て来やしないもの。

地域力を高めよう、とか、温かい言葉を掛け合って、などと、すごく良いことは言われるけど、いざみんなで何かしよう、となると、そんな面倒くさいことはイヤ、になるのだ。
そんなことより気の合う仲間とランチしたほうがどれだけ楽しいし充実しているか。

「自主性に期待する」だの「優しい言葉を掛け合う」だの、そういったことが、地域力構築には実に無力なのだという現実をまず知ることから始めなければならないのではないかと思う。

つまり、「束ねられる」のがイヤなくせに、自主的には動こうとしない、という人が多いほど、物事は成就しない、ということをわからなければならない。

私自身、家のことや自分の楽しみに忙しくて地域活動なんか二の次三の次なのだから、気持ちはよくわかる。

いっそのこと「強制されたい」なんて思ってしまう。

先日も朝日新聞の生活面のコラム「CM天気図」に評論家天野祐吉氏がこんなことを書いていた。

【 (近所同士挨拶をしないという)こんな異常な風景をなくしていくためには、結局は地域の大人たちがもっと声を出し合うことで、子どもたちに安心な環境を取り戻していくしかないんだろう。「子どもは親が育てるもんじゃない、村が育てるもんだ」と、昔の人は言っていた。
 地上の大気は、酸素と窒素とことばでできている。とぼくは思っている。だから、ことばの濃度が薄くなると、どんどん息苦しくなり、心がパサパサにかわいてくる。ぼくにとって「美しい国」というのは、みんなが気持ちよくアイサツのできる国だ。ほかはいらない。】

この人は相変わらず「美しい国」の嫌いな人だが、まさにsingle40さんの仰る「郷原」 だ。
誰でもわかっている美辞麗句を並べているに過ぎないのだ。

評論家であるから、その言葉がいかに無力でも言い続けることに意味があるのかもしれないが、そんなもの、地域の生活者である主婦から見たらほんとうにつまらない。

われわれ現実の生活者は、「自由や平和」と「号令による実現」の間で日々葛藤しているのだよ。「優しい心」だけでは何も解決しないからこそ、一歩踏み出すことを含めて考えようといるのに、ああ、ほんとうにバカの壁。

___________

いじめというのはいつでもどんな社会にでもあるものだが、私の子どもの頃とちがうのは、やはり陰湿化しているということだろう。
だから耐えられなくて死んでしまう子も出てきてしまう。

いじめちゃいけないんだ、「優しい心が一番」なんだ、と必死に訴え続ける人もいる。
それも大切なことなのだが、いま、子供たちに最も欠けているのは「正義感」だと思う。
優しさは大事だが、それを言い続けても実際の効果はない。それよりもっと実行力があるのは「正義感」だ。「正義感」は「怒り」と「熱」がなければ育たない。

級友が辛い思いをしているのにそれを助けないどころかいじめに加担してしまう卑怯さ。
自分に降りかかってくると怖いのでいじめる側にまわってしまう弱さ。

卑怯は恥ずべきことだ、という気概、矜持、プライドが子どもの世界に育っていないことが問題なのだ。

「国家の品格」を読んで感動した人は多いと思うが、元々ああいう本を読む人はそんなこと教え込まなくても済む人なのだ。

問題はそんなもの読まない人々なのである。

読む自由、読まない自由があるからである。

民主主義国では人は自由なのである。

______

長くなってしまったが、我々が悩んでいるのは、言うまでもなく「個人の自由」と「国家が生き延びるために国家の構成員として成すべきこと」のバランスをどうするか、ということなのだ。つまり「自由」と「命令」のはざまで葛藤しているのである。

子供たちが言うことをきかないのなら、きくように強制すればいい。
地域社会の結束がうまくいかないというなら、末端まで影響力が及ぶように戦時中の隣組のような組織にすればいい。
少子化が困る、というなら、貧しくなるのを厭わずどんどん子どもを生めばいい。
格差がイヤだというなら、ちょっと前の自民党政権に戻してやればいい。
豊かさが精神を堕落させたというなら、元の貧乏に戻ればいい。

・・・でもそんなのイヤですよねえ?

「自由」と「公」のバランスをうまくとって効率良い社会にするのは恐ろしく難しい。

結局、民主的な先進国はどこも同じような悩みを抱えている。理想的な国家などどこにも存在しないのである。

であるからして;

結論!!

日本は問題を抱えながらも、世界の国々に比べてかなり良いほうである。
ゆえに、特に方針転換もいらず、このままなるようになっていけばいいのではないか、ああでもない、こうでもない、と議論しながら、不満言いながら。

                
                      ・・・・・なんのこっちゃ。

                                

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2006年11月 1日 (水)

誰のおかげで食っていけるんだ

口にすると女性が強い拒絶反応を起こす言葉に、「誰のおかげで食っていけると思ってるんだ」というのがある。

たしかに民主主義の世の中、人権重視の世の中、男女平等の世の中、これを男は口にしてはならない。というか、どんな世でもそんなことを言って女性を押さえつける男は男らしくない。

しかし、私が子供の頃、この言葉は現在のように忌み嫌われる禁句ではなかったと記憶している。

生活力のない妻に対して夫婦喧嘩の折などに発せられるのと同様に、親に対して生意気な口を利く子供にもこの言葉は結構一般的に投げつけられていたと思う。

普通は、母親が「お父さんに向かって何て口を利くんです。誰のおかげで食べていけると思ってるんです」などと叱責したものだが、妻がそう言ってくれない場合、父親は仕方なく自分でそう言っていたんじゃないか。

つまり、「誰のおかげで・・」というのは、一家の大黒柱たる親父の威厳を示す常套句のようなものだったとも言える。ちゃぶ台をひっくり返すのと同じようなことだったかもしれない。

子供のほうも、そう言われればそれもそうなので、自分で稼ぐことのできない子供のあいだは親に従わざるを得なかった。得なかったというより、素直に「食わせてもらっていること」に感謝をしていたと思う。
「誰のおかげで・・・」という言葉にそれほどの拒絶反応はなかったのである。

こういう感覚は、人権最優先個人主義の時代に生を受け、育ち、覚醒した今の若い人にはどのように説明したってわかってもらえないだろう。

ところで、これを読んでいる人は「父親の威厳をそんな言葉で示していたのか。情けないことだ」と思うにちがいない。

その通りである。

みなさん(特に女性)は、男とは「強くて、雄々しくて、決断力があって、愚痴を言わず・・・」なんて生き物だと思い込んでいないだろうか。

美輪明宏がこんなことを言うのを聞いたことがある;
「男らしくないなんて怒ってるけど、あなた何か勘違いしてらっしゃらない?男が男らしいと思ったら大間違い。男というのはもともと、気が小さくて女々しくて劣等感の塊で優柔不断なものなのよ」

男が女より強い点は腕力だけだと私も思う。

男性全般を正確に分析できるほど私は男性を知っているわけではないが、人生の達人であらせられる美輪さんもそう仰るなら、きっとこれは間違いではない。

【参照】
  
  「貧しさに負けるのは」 

  「威厳の喪失」 

  
女性の思いやりや賢さ(したたかさ、巧みな戦略と言ってもいい)によってのみ、男の威厳は保たれる、と言ったら言い過ぎだろうか。

男性の名誉のため言っておくが、「弱い」というのは「悪いこと」ではない。生き物としての特質である。

「威厳は着せてあげるものではない、本人の実力に伴って醸し出されるものだ」、というまっとうな考え方もよくわかるが、実はそのまっとうさを固辞しているかぎり、男の人生は苛酷さを免れることはないだろう。

そして、それをすっかり見通した女性だけが、男に強さや威厳などという幻想を求めず、「同格の人間同士として共に生きる」という思想を貫こうとしているのだと思う。

まだまだ多くの女性が、男に男らしさを期待し、それが女の後ろ盾なしに実現するものだと信じている。

男は弱いものと納得して仲間同士として共に生きるのか、男を立てて守ってもらう過去への回帰の道をたどるのか、あるいは、何か別の道をみつけようと、人は果たして努力をするようになるだろうか、カップル成立のために。夫婦円満のために。

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