エネルギー、 着火、 発動
教育問題というのは本当に色々なことが複雑に絡み合っていてややこしく、また、国家の根幹に関わることであるにもかかわらず、とりあえずは直接国民生活に響かないので、政治課題としては後回しにされやすい。
そんな中、安倍政権が教育に並々ならぬ意欲を燃やしているのは大変喜ばしいことだ。
「美しい国」や「教育基本法改正」にやたら拒否反応を起こす人がいる一方で、「やっぱり基本をなんとかしなけりゃどうにもならんじゃないか」と思う私のような人間もいるわけで。
子どもがおかしくなった、女が破廉恥になった、男が軟弱になった、政治家が、警察官が、教師が、父親が、母親が・・・と、このように、いわゆる「日本人の劣化」が嘆かれるようになって久しい。
色々な人が「日本人の誇りを取り戻せ」とか「このままでは日本はだめになる」とか警告を発する。
「国家の品格」に多くの人が涙を流して共感もした。
しかし、もし日本人が劣化したのなら、その原因は簡単なことだ。
「民主主義」である。「自由」である。
自由にしていい、と言われればそれは自由のほうが心地よいからそうなるに決まっている。
人間の行動を抑制し秩序を保つのは法律だが、それだけでは法律を犯さなければ何をしても良いという風潮を生むのは必至だ。
つまり、法律ではコントロールできない人間の根本を正しく育てるのが教育ということになる。
・・・、ここまでは誰でも思う当たり前のことだ。
今、「教育基本法」に「日本人としてのアイデンティティ」とか「道徳教育の強化」を盛り込もうという動きがある。
これを、「国家が国民を思うように操るための陰謀だ」として反対する人がいる。
私は今までも何回も、「国家」と「国民」は敵対するものではない、と書いてきた。
日本は果たして独裁国家なのか。
我々は一握りの為政者によって思うまま操られる哀れな人民なのか。
いや、そうではない。民主主義の観点から言えば世界でも良いほうの部類に入る幸せな国家だ。
政府は我々国民が曲がりなりにも選挙で選んだ結果そのものではないのか。
あの政府は、どこぞの独裁国家のように世襲で継続して、その一族だけが甘い汁を吸い続けるというそういう類の権力なのか。
現在の為政者だって、情勢によって一般の国民にもなるのである。その一族だって一般の国民である。立場はいつだって変わるのである。立場が変わり得るのに、「政府がコントロールしやすく」なんてことを考えるか。特に100年の計である教育の分野で。
国家は我々自身なのである。
誰がなんと言おうが、いくら真魚さんに「相当なボリュームの反論ができる」と言われようが(笑)、日本のような民主主義国家では、国家は我々自身だと、私は何度でも言う。
「自分を律する」という言葉がある。自分で自分をコントロールするというまことに立派な行為である。
ならば、我々自身を、国家である我々自身がコントロールするのはおかしなことでもなんでもないと思うのだがどうだろうか。
「日本人、しゃんとせい」というのは誰が言ってくれるのだろうか。
いくら、言論人が「日本人、しゃんとせい」と叫んだところで、それは号令にも命令にもならず、何の実行力もないのである。
「しっかりせよ、国を良くしようという気概を持て」という言葉は誰によって言われれば、国民は承諾するのだろうか。
それは当然我々自身だろう。つまり国家なのである。
私はこの構図を考えるとおかしくなって笑ってしまう。
今の教育が抱えている問題は教育基本法とは関係がない、という人がいる。
先日の新聞のコラムでも立花隆氏がそう書いていた。
【今の教育が抱えている諸問題はすべて教育基本法とは別の次元の問題だ。教育基本法を改めなければ解決しない問題でもなければ、教育基本法を改めれば解決する問題でもない。
教育基本法に書かれていることは__中略__人類社会が長きにわたって普遍的価値として認めてきたことだ。
そこにあるのは、「人格の完成」「平和国家」「真理と正義」「個人の価値」「勤労と責任の重視」「自主的精神」「心身の健康」など、誰も文句のつけようがない目的だ。このような普遍的価値にかかわる問題を、なぜバタバタとろくな審議もなしに急いで決めようとするのか、不可解としか言いようがない。__中略__考えられる理由はただひとつ、前文の書き換えだろう。__中略__
憲法改正を真っ正面の政治目標に掲げる安倍内閣としては、憲法と一体をなしてそれを支えている教育基本法の存在が邪魔で仕方がないのだろう。】
おおかたの人はこれに納得してしまうだろう。
しかし、「憲法と一体」、これは当たり前のことであるから、憲法改正するなら、教育基本法の方針も変えるのは当然だ。なぜなら、教育は国家を構成する土台なのだから。
現行教育基本法に欠けているものは、ズバリ「熱」であると私は思う。
美辞麗句が並んでいるものの、それらの美しいことを実現するためのエネルギーに欠ける。
エネルギー注入なしに、いくら「良いこと」を並べられたって、人は動かないのである。エンジンはかからない。
エンジン作動は、ある意味「エゴ」に基づいている。つまり、「自分の家族」「自分の友だち」「自分のテリトリー」「自分の国」を守る、良くする、というエゴがなければ人は奮起しない。
「愛国心」を盛り込むというのはそういうエネルギー注入の意味があると思う。
どこにも負けない国にするんだ、という気概が必要だとは思わないか。
このニッポンをどこに出しても恥ずかしくない国にしてやろうじゃないか(そこまで大仰でなくてもいいけどさ)、という「熱」が必要ではないか。この「熱」こそ愛国心ではないのか。
たいていの人は覚えがあるだろう。
「あいつには負けたくない」だとか「偉くなって見返してやる」とかそういうことを思う時にこそ人は奮起し、エネルギーを溜め込み、エンジンを作動させるのである。
今の日本はまるで老人だ。
「もう何もいらない」「負けてもいい」「何事もなく暮らせればそれでいい」。 国自体に熱がない。
金や学歴に狂奔してるやつらがいるじゃないか、あれは良いことなのか、と思ったあなた。それは個人レベルの話だ。個人で暴走しているに過ぎない。
国としての熱がない。
それが日本人の劣化の元凶だと私は思っている。「熱」を危険視する必要があるか。
この「熱」は、国民の三大義務を果たしてさえしていれば自然と生まれてくるようなものでもない。
もう一度この国にエネルギーを満ち溢れさせるために、国家目標に熱を籠めてみたらどうか。
「そんなものはいらないっ。私は念力で自家発電ができるのだっ」と思う人はどうぞそうなさったらいいと思うが、国全体のエネルギーにはなり得ない。
ただ「みんな仲良く平和で明るい社会を」などと言われたって、それは単なる美しいスローガンを羅列しているに過ぎない。当たり前すぎて、読んでも読まなくても何も変わらない。
ここまで読んで、「ほら見ろ、戦争に突っ込んだ愛国精神の再現じゃないか」と思ったあなた。
国家は自分自身ですよ。操られているんじゃない。
自分で自分を律するんです。
言論の自由もある、選挙もある、世界情勢も瞬時に見渡せる、こんな日本が再び自ら戦争に突入するなどという天地がひっくり返るような珍しいことが起こるというなら、むしろ私はそれを見てみたいものだと思う。怖いもの見たさで。
今の教育基本法には国としてのエネルギーがない。なければやる気や正義感は実働しないのである。脳科学に造詣が深い立花氏にそれがわからないはずはないのだが。
ただ、もちろん、教育基本法に熱を込めるだけでは何の意味もない。
その精神で教育に取り組むということである。
どうしても「国を愛する心を育てる」という文言を書きたくないなら書かなくてもいい。とにかく、「他の国に負けてなるものか」という負けん気を少し子供たちに植えつければいい。
近頃はやりの、中国や韓国の悪口を言っては悦に入ってる若者のようになれと言ってるのではないよ。健全なライバル心を燃やせ、ということだ。そうでなければエネルギーなど生まれるものか。
「愛国心」を教育の大方針に加えるというのは、まずエネルギー注入ということだ。具体的な施策は大いに議論し工夫したらいい。
「愛国心を義務化するのか」とか「愛国心の有無を評価するのか」とか「愛国心のない人間にペケをつけるのか」とか、そういうおかしなことを誰かが流布するので、善良な人たちが不安を感じてしまうのだ。
「日本人としての誇り」だとか「我が国の伝統的美風」だとかの言葉を出すと、「ケッ」などと言って頭からバカにする人がいるが、その態度こそが日本人をかくも劣化させる元凶となったのではないか。
「誇り」はなくてもいいものなのだろうか。「国の美風」は大事にしなくていいものなのだろうか。
________
そして、「道徳教育の強化」である。
「自由」「人権」「個性」の名のもとに、規制や管理をすべてとっぱらえばいいというものではない。
子供には特に「規制や管理」が必要だ。
「規制や管理」は子供を息苦しくさせるだけだ、という懸念もあろう。
それなら、息苦しくならないような逃げ道を用意してやればいい。
たしかに誘惑の多い今の時代、「規制や管理」はとてつもなく難しい。
しかし、小学校低学年までに、人の道の基本をたたき込むことは重要である。
「立派な人にならなくてわっ」
子供たちがそう思ってくれなければ、そして、そういう基礎力を持った大人に育ってくれなければ、なんでこの国が良くなるだろうか。
______
今、「家族が大事」だとか「地域力の見直し」などと盛んに言われているが、人間の自主にまかせていて、はたしてそんなものが構築されるものなのだろうか。
例えば、先日、地域の防災訓練があったのだが、近所の人は誰も出ていなかった。
離れた地域の人たちが何人か来ていて、そのうちの二人の奥さんと一緒にいたのだが、彼女達も班長だから仕方なく来た、と言っていた。
お菓子などが配られるので家族連れもちらほら見受けられたが、彼らも子供が大きくなれば来なくなるだろう。
結局いつも、世話役の役員さんたち(退職して、こういうコミュニティが楽しみになっている年配の方々)がはりきってお世話をするだけの単なる年中行事。何年続けようが人は集まらない。
訓練自体は、発見もあり、なかなか興味深いものだったが、地域の力はこんなことでは向上しない。
結局みなさん忙しくて、地域の行事や掃除や学校の集まりなんかに出て来やしないもの。
地域力を高めよう、とか、温かい言葉を掛け合って、などと、すごく良いことは言われるけど、いざみんなで何かしよう、となると、そんな面倒くさいことはイヤ、になるのだ。
そんなことより気の合う仲間とランチしたほうがどれだけ楽しいし充実しているか。
「自主性に期待する」だの「優しい言葉を掛け合う」だの、そういったことが、地域力構築には実に無力なのだという現実をまず知ることから始めなければならないのではないかと思う。
つまり、「束ねられる」のがイヤなくせに、自主的には動こうとしない、という人が多いほど、物事は成就しない、ということをわからなければならない。
私自身、家のことや自分の楽しみに忙しくて地域活動なんか二の次三の次なのだから、気持ちはよくわかる。
いっそのこと「強制されたい」なんて思ってしまう。
先日も朝日新聞の生活面のコラム「CM天気図」に評論家天野祐吉氏がこんなことを書いていた。
【 (近所同士挨拶をしないという)こんな異常な風景をなくしていくためには、結局は地域の大人たちがもっと声を出し合うことで、子どもたちに安心な環境を取り戻していくしかないんだろう。「子どもは親が育てるもんじゃない、村が育てるもんだ」と、昔の人は言っていた。
地上の大気は、酸素と窒素とことばでできている。とぼくは思っている。だから、ことばの濃度が薄くなると、どんどん息苦しくなり、心がパサパサにかわいてくる。ぼくにとって「美しい国」というのは、みんなが気持ちよくアイサツのできる国だ。ほかはいらない。】
この人は相変わらず「美しい国」の嫌いな人だが、まさにsingle40さんの仰る「郷原」 だ。
誰でもわかっている美辞麗句を並べているに過ぎないのだ。
評論家であるから、その言葉がいかに無力でも言い続けることに意味があるのかもしれないが、そんなもの、地域の生活者である主婦から見たらほんとうにつまらない。
われわれ現実の生活者は、「自由や平和」と「号令による実現」の間で日々葛藤しているのだよ。「優しい心」だけでは何も解決しないからこそ、一歩踏み出すことを含めて考えようといるのに、ああ、ほんとうにバカの壁。
___________
いじめというのはいつでもどんな社会にでもあるものだが、私の子どもの頃とちがうのは、やはり陰湿化しているということだろう。
だから耐えられなくて死んでしまう子も出てきてしまう。
いじめちゃいけないんだ、「優しい心が一番」なんだ、と必死に訴え続ける人もいる。
それも大切なことなのだが、いま、子供たちに最も欠けているのは「正義感」だと思う。
優しさは大事だが、それを言い続けても実際の効果はない。それよりもっと実行力があるのは「正義感」だ。「正義感」は「怒り」と「熱」がなければ育たない。
級友が辛い思いをしているのにそれを助けないどころかいじめに加担してしまう卑怯さ。
自分に降りかかってくると怖いのでいじめる側にまわってしまう弱さ。
卑怯は恥ずべきことだ、という気概、矜持、プライドが子どもの世界に育っていないことが問題なのだ。
「国家の品格」を読んで感動した人は多いと思うが、元々ああいう本を読む人はそんなこと教え込まなくても済む人なのだ。
問題はそんなもの読まない人々なのである。
読む自由、読まない自由があるからである。
民主主義国では人は自由なのである。
______
長くなってしまったが、我々が悩んでいるのは、言うまでもなく「個人の自由」と「国家が生き延びるために国家の構成員として成すべきこと」のバランスをどうするか、ということなのだ。つまり「自由」と「命令」のはざまで葛藤しているのである。
子供たちが言うことをきかないのなら、きくように強制すればいい。
地域社会の結束がうまくいかないというなら、末端まで影響力が及ぶように戦時中の隣組のような組織にすればいい。
少子化が困る、というなら、貧しくなるのを厭わずどんどん子どもを生めばいい。
格差がイヤだというなら、ちょっと前の自民党政権に戻してやればいい。
豊かさが精神を堕落させたというなら、元の貧乏に戻ればいい。
・・・でもそんなのイヤですよねえ?
「自由」と「公」のバランスをうまくとって効率良い社会にするのは恐ろしく難しい。
結局、民主的な先進国はどこも同じような悩みを抱えている。理想的な国家などどこにも存在しないのである。
であるからして;
結論!!
日本は問題を抱えながらも、世界の国々に比べてかなり良いほうである。
ゆえに、特に方針転換もいらず、このままなるようになっていけばいいのではないか、ああでもない、こうでもない、と議論しながら、不満言いながら。
・・・・・なんのこっちゃ。
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コメント
こんばんは。記事の方とても楽しく読ませていただきました。
今日か明日にでもトラックバックで関連した記事を書かせていただこうと思います。
地域社会や家族の大切さというのは、やや聞こえてきますが、サイレントマジョリティとしてはどうでしょう。やはり都市生活の快適さが一番だと感じているのではないかと思います。家族持ちならともかく、今は僕も含めていい年して独身もかなり多く珍しくないでしょうし、普通に暮らすぶんにはあまり気にならないのかもしれません。
robitaさんの書かれているエネルギーですが、今の若い人は楽しい虚構の世界があればつまらない現実世界での関係の構築を嫌うそうですし、オタク化(プチロリ化)し、先人達の築いた素晴らしい国を守りたいと言っている人間が一方で二次元があれば現実の女性はいらないといっているぐらいです。
保守化といっても体面的なところだけで自身の内面にまで踏みこめる人間は少ないと思います。
それが糞味噌な韓国中国叩きや宮台・宮崎のいうセックスフォビアとしてのジェンダーフリーバッシングに表れています。いずれも自分という個人から逃げたあげくに、他人(特に女)という個人と真正面に向き合うことができず不安に駆られレッテルを貼って叩いているだけでしょう。
で、これをなんとかしようとして共同体の中でしばきあげろと言っているのが宮台先生なのです。素晴らしい。
投稿: コウイチ | 2006年11月10日 (金) 03時09分
>コウイチさん、
だらだらと長い文章読んでくださってありがとうございます。
>今の若い人は楽しい虚構の世界があればつまらない現実世界での関係の構築を嫌うそうですし、<
彼らは別に悪い人でもなんでもなく、社会に迷惑をかけるわけでもなく、特に問題はないだろう、と一般的に思われているわけですが、もし、彼ら(及び彼らに準ずる大人しくエネルギーの乏しい若者たち及び漢字の読めない大学生)がマジョリティであるならば、20年後30年後の日本はどうなっているのかな、と考えます。
彼らがマジョリティとして国を支えることになるわけですから。
>オタク化(プチロリ化)し、先人達の築いた素晴らしい国を守りたいと言っている人間が一方で二次元があれば現実の女性はいらないといっているぐらいです<
オタクでも一向に構わないんですよ、元気さえあれば。
>で、これをなんとかしようとして共同体の中でしばきあげろと言っているのが宮台先生なのです。<
宮台さんの意見はラジオ(と時々新聞)でしか聞けないのですが(本も読んでないし、ブログも字が小さくて読みにくい)、「共同体の中でしばきあげろ」という意見の中で、具体的な策は仰っていますか。
スパムの嵐が激しいので、TBは止め、コメントもすぐに反映しない設定にしてあります。
ですので、ご不自由ご迷惑をおかけしますが、なるべく早く反映につとめます。すみません。
投稿: robita | 2006年11月10日 (金) 10時46分
robitaさん、
ご指名によりまして「相当なボリュームの反論」を書いてみました(笑)。
もっと色々考えることはできるのですが、とりあえずということで。ゴネております(笑)。
投稿: 真魚 | 2006年11月18日 (土) 01時00分
>真魚さん、
下までスクロールしてみました。
うーん、相当のボリュームですね。
月曜以降にじっくり読ませていただきます。
投稿: robita | 2006年11月18日 (土) 23時15分
Robitaさん、
<<オタクでも一向に構わないんですよ、元気さえあれば。
ああ~~よかった。だって僕は元気なオタクなんだもん。(秋葉原的なオタクではありませんが…、立派なオタクです。)
Robitaさんが言っている事を一番恐れるのが共産・社会主義の方々です。教育システムを使って馬鹿な人間を作り。”より平等”な世界を作ってその世界で君臨する。
今の日本は悪いところではありません。この50年間の日本はいいところです。
もっと良いところにはなれます。
僕は少しでも貢献できればと思います。
MikeRossTky
投稿: マイク | 2006年11月19日 (日) 10時31分
>マイクさん、
そうですね。
国家は権力を持った悪者である、というけれど、共産・社会主義のかたがたが政権につけばやはり権力をもって国民を統治しようとするわけで・・・。
ずいぶん前に真魚さんとオタクについて話したことあるんですよ。
ノーベル賞の田中さんもサーヤのご主人の黒田さんもロボットコンテストの高専の若者たちもオタクじゃないですか。
オタクこそ日本の☆です。
投稿: robita | 2006年11月20日 (月) 11時26分