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2006年11月21日 (火)

国家権力って・・・

エネルギー 着火 発動」 に真魚さんが意見を書いてくださいました。 
一所懸命返事を書いてみましたので長いですが読んでいただければ嬉しいです。

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今まさに経済発展途上にあるアジアの国々の「熱気」はたしかに日本にはすでにないものであり、それを求める時期は過ぎ去った、という真魚さんの仰ることはよくわかります。

しかし、私の言っている「いい国にしようという若者の熱」はそういう経済発展のために頑張る熱ではありません。
もちろん、国民の幸せのために、経済の停滞も衰退もしてはならないわけだから、その頑張りも当然なくてはなりませんし、そのためには「熱」は不可欠です。
しかし同時に、道徳の衰退、つまり堕落を食い止める努力だって当然しなければなりませんよね。だって、日本人の劣化に国民こぞって困った困ったと嘆いているわけですから。

だから、みっともなくない国を目指してみんなもっと熱くなったらどうか、という提案をしているのです。

真魚さんは、「だめな若者もいるが、ちゃんとしている若者だっている」と仰いますが、それは私も知っています。こんなの書いたことあります。 →「格差・・・?」 

今、「崖っぷち弱小大学物語」 というのを読んでいます。
著者は京都大学の教授から、名古屋の弱小私立大学の学部長になった人で、全大学の3分の2以上を占める弱小大学の学生の資質の低下に警鐘を鳴らします;
日本をこれから動かしていくのはAランクやBランクの大学を出たリーダーだけではない。「その他大勢」こそ社会を構成するマジョリティそのものであり、好むと好まざるとにかかわらず、無意識のうちにも社会の流れ、すなわち良くも悪くも新しい文化を作る前線部隊とその予備軍なのである。」

まだ終わりまで読んでいないので、永江朗氏による書評を引用しますと;
【・・・学力低下や勉強嫌いについて、「大学は学問をするところだ、職業訓練なら専門学校に行け。基礎学力がない者は大学に入れるな。授業中に携帯電話をいじったり化粧しているような学生は退学にしろ」なんて突き放すこともできる。
だが著者は違う。
「普通の人間が普通の社会で普通の人生を送れるような、普通の社会が安定して保たれ、普通の若者が元気を出せるような教育をしたい」と述べる。そのためには、中学・高校でやり残した勉強を教え、家庭が施さなかった「しつけ」まで引き受ける。勉強嫌いの学生たちも興味を持つように授業に工夫をして、教員や管理職の意識改革に取り組もうというのである。

その心意気にホロリとさせられるが、同時に暗然ともする。いまどきの普通の若者はだめなのか。これはもう「大学」ではないのではないか。 

この先生の心意気は素晴らしい。
でもこういう個人の善意に頼るだけで、若者はしゃんとするようになるのだろうかという疑問を持ちます。
この先生の運動が全国の大学に広がれば少しは改善されるかもしれない、でも、ほとんどの教員や経営者はそんなことに興味がない、というか、面倒なことはやりたくない、と思っているのではないか。
結局、善意の個人のからまわりに終わるのだったら、ほんとうに気の毒なことです。

こういった草の根的な動きが大学生を少しは変える一助になるかもしれません。
それでも、あとからあとから送り込まれてくる質の悪い学生を大学の先生たちはしつけ直すことに生涯を費やさなければいけないのでしょうか。

もっと前の段階、小学校低学年(ほんとうは幼児期)からのきちんとした育て方が必要で、それを親ができないのだったら、学校(国家の教育)でするしかないんじゃないでしょうか。

真魚さんは「国家は権力を持ち、自分たちに都合の良いように国民を動かす」と仰います。

私はそんなこと当たり前ではないかと思います。「自分たちに」の「自分」は我々自身でもあります。

それがだめだというなら、国は統治機構を持ってはいけないことになります。それはもはや国ではないのではないですか。

権力はあって当然のものではありませんか。権力で治めないでどうして国が成り立つんでしょう。権力でないなら、何が国を統治するんですか。

北朝鮮の権力は悪者だけれど、日本の権力は世界でも良いほうですよね。

真魚さんは「国家は権力を使って国民の嫌がるあんなこともするこんなこともする」なんて仰いますが、これらはみな、権力者が快感を得るためにやっているんですか。
国のためになるからやっているんじゃないんですか。
国民の嫌がらないことばかりやっていては国は滅びませんか。

国家を「敵対するもの」と思い込んでいると、国民のためにやっていることを、先の読めない大衆は「反対反対なんでも反対」になりがちです。

国家に育まれていながら国家のやる良いことは忘れられがちです。 →「幸せなあたたかさ」 
国家は我々を守ってくれる装置であるという視点がなければ、どうしてそれをより良いものにしようという心が芽生えるでしょうか。

60年安保の時、左翼勢力や学生たちは、安保条約断固反対ということで、「政府の横暴」に抗議し、大暴れしました。
しかし、「それまでの日米同盟よりはるかに改善されている条約の内容を学生たちは読んでさえいなかった」と数十年もたってジャーナリスト田原総一郎が述懐し、この頃から彼は左翼思想から脱したようです。

例えば、リベラル勢力が政権についたとしたら、やはり、その政権は権力を使って国民を統治するわけですよね、言うまでもなく。
それでも、それは「権力」だから信用できない、ということになりますか。

昨日の新聞に写真家の藤原新也氏が子供たちの惨状について書いていましたが、「もう評論言語は意味をなさない時代に来ているのである。腐った根っこを掘り出し、別の土に植えかえる抜本治療のみが必要とされる。」として、「荒療治」の提案をしています。例えば、「東大の解体」、携帯電話や塾が子供をおかしくしているので、「携帯電話の所持の年令による線引き」、「塾も小学生までは廃止すべき」などと言っています。

この人はたしかリベラルな考えの持ち主だったと思うのですが、こういった荒療治は国家の介入なしにはできませんよね。国家の命令が必要だ、と言っているに等しいことに気付いているんでしょうか。

しかも、(私は「評論言語は意味をなさない時代に来ている」という意見には大いに賛成なのですが)、この荒療治は単なる対症療法に過ぎません。

根本を変える、という覚悟ができているなら、国家統制だって覚悟しなきゃならないはずです。

つまり、どんな政権であろうと(保守であろうとリベラルであろうと共産党であろうと)、統制は不可欠だと思うのですが、どうですか。

それがいやなら、国家はいらないという特殊な思想を受け入れざるを得ません。

長くなってしまいましたが、さあ、子供たちを正しく導くために、藤原新也氏の言うように、子供の携帯や塾を禁止したりするのが良いのでしょうか。それとも、道徳の強化や国の一員であることを自覚させる教育をしたらいいのでしょうか。それとも、日本の若者は捨てたものではないので、何もしなくてもいいでしょうか。

私は、子どもたちが言うことをきかないなら言うことをきく子供になるよう教育すればいいと思います。それで自分の考えがなくなって一丸となって戦争に突っ込むような人間になるとはぜんぜん思いません。

それでもやっぱりそういう教育は良くない、というなら、これからもだましだまし対症療法を続けていくしかないと思います。それでいいのかもしれないけれど、日本、本当に腐ってしまうかも。

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コメント

質問なんですけれど、「いうことを聞く子供に教育する」方法は具体的にだいたいわかっていることなのでしょうか。
私はわからなくって困っている状態なのだと思っていたのですが、わかっているけれど、実現が難しいから国の強制が必要だと、そういうことなのでしょうか。現状、教育現場は国の権力でもって運営されているのではないのですか。


いつも思うことなのですが、今までの方針が間違っていたからその方針を転換しよう、というのは正論です。でもその、今までの方針が本当に間違っていたのか、それともそれを実現させていなかったからだめだったのか、という検証なくしての方向転換って「適当だなあ」と思ってしまうんですが、本当にきちんと検証なされているのでしょうか。

理想と現実の乖離、理念と現場の不一致、ずれ、そういったものはないのでしょうか。それが大きな原因ということは。

ゆとり教育だって、本当は「詰め込みじゃなく、自分で考える力を」、ということで始まったものが、蓋を開けてみれば、時間を短縮して余計詰め込みになっただけ、という方法のまずさ、というのがありますよね。

結果的によくなるなら、何でも良いんです。
国の強制があろうが、何しようが。
本気で躾まで国がやってやろうっていうなら、幼児教育を義務化すればいいと思いますよ。自立した人になる基礎を作れる方法論を確立すればいい。それが一番手っ取り早いのではないですか。

何事もやってみなければわからないし、今考えうるこれがベストだ、と胸を張っていえる内容ならとりあえずそれでやってみましょう、って思います。

けれど、某自治体の教育委員会の課長4人と話したことがありますが、これが教育を司る人たちの姿勢かと、体の底から震えがきました。
こんな人たちが教員の上に立って仕事をしているということに暗澹たる思いになったのを覚えています。まるで保身ロボットのようでしたよ。

この人たちに強制力を持たせるのか、と思うと正直躊躇します。まあ、これはきっとごく一部のことでしょうし、個人的な感想でしかありませんが。

投稿: haru | 2006年11月22日 (水) 09時57分

>haruさん、

>本当にきちんと検証なされているのでしょうか<

「検証」ってどこでどのようにやれば、「きちんと検証されている」ということになるんですかね。
学級崩壊に見られるような、子供たちの傍若無人なふるまいはもう何年も前から指摘されていて、現場の先生方や親たちも「子供が言うことをきかなくなっている」とさんざん声を上げ続けていますね。
さて、国や教育委員会の「検証」たるもの、これらの報告を受け、調査し、記録し、そののち、どうするのですか。
因果関係をはっきりしろ、などと言ったって、そんなこと神様にしかわかりません。世の中のほとんどのことはそうじゃないですか。
「現場」に聞くしかないですよね。
「現場」は「子供の人権を大事にする日教組」に牛耳られているとかなんとか言われますが、いまや、本当の現場の問題点が明らかになってきました。
それで充分ではないですか。
「検証」ってなんなのか、私にもよくわかりません。

>現状、教育現場は国の権力でもって運営されているのではないのですか。<

そうですね。現行教育基本法によって運営されていますね。
ですから、「道徳」や「国を大事に思う心」をもっと教育に盛り込むべきだ、ということで、改正が叫ばれているんですね。


>理想と現実の乖離、理念と現場の不一致、ずれ、そういったものはないのでしょうか。それが大きな原因ということは。<

まさにその通りですよ。現行教育基本法だって理念は申し分ない。素晴らしいものです。その素晴らしいものでやってきてなんかおかしくなってきたから、個人主義に寄り過ぎたものを少し戻そうということじゃないですか。

>けれど、某自治体の教育委員会の課長4人と話したことがありますが、これが教育を司る人たちの姿勢かと、体の底から震えがきました。<

個々の問題点について、改善していくのは当然のことです。
教育委員会解体の話も出ているし、それも大いに進めればいいんです。
そういうことについて私たちは大いに意見を言えばいいと思う。
でも、子供について「先生の言うことをきかせる」を大原則とすること、これが一番大切なことだと思います。


投稿: robita | 2006年11月22日 (水) 10時59分

とても興味深い議論ですね。
横町の隠居さん風のコメントをつけますと「国家がいけない、という人がそんな考えを持つに至ったのは、もちろん教育の成果であり、他方、国家権力にコミットしようという考えも、当然、教育による成果である」ということは言えるかと思います。
視点を変えますと、robitaさん、真魚さん、haruさんそれぞれが「教育の成果」を披露していると見ることも出来ます。それを、私の「教育」が、支持したり不支持したりするわけです(笑)

こと公教育に関していえば、私はまず「大理想を持たない」ことが必要ではないか?と思っています。できっこないことを書いても、それじゃ現場は「未達」の連続、「夢追い人でいいじゃないか」という論理は「外野」の理屈じゃないかな。

そもそも、国家を否定すれば、当然「公教育」そのものを否定しなければスジが通りません。そういう主張ならば、論理的に明快ですね。
(国家が行う公教育でもって「反国家」を教えるのは、出発点として無理があるので、それならば別のシステムを提案する必要があると思います)
そういう立場に近い「自由主義的」立場で公教育を考えると、少なくとも「公教育」自体が「必要悪」だと思うのです。できれば、やらないで済むにこしたことはないが、しかし、ないと現実に困るからな、という程度のしろもの。
そうであれば、大理想なんかいらない、最低やらなくちゃいかんことを書いた方が理屈にあっているだろう、そんな風に思うのですよ。
夢のない大人の言い分ですが、これも私の「教育」の成果です(笑)

投稿: single40 | 2006年11月22日 (水) 12時45分

>single40さん、

個々の思想を形成するのは公教育だけではない、などと野暮なことは言いますまい。
仰せの通りでございます。

その構図を考えると、やはりおかしくなって笑ってしまいます。

>少なくとも「公教育」自体が「必要悪」だと思うのです。できれば、やらないで済むにこしたことはないが、しかし、ないと現実に困るからな、という程度のしろもの。<

国家戦略にもとづいて学校制度というものがあると私は理解しているんですが、その前提が違うとなると、話がかみ合わないはずですよねえ。

私としては、「エネルギー 着火 発動」の記事の終わりで書いたように、ま、特に何もしなくていいのかな(国家主導はだめだだめだ、との反対の声もあることですし)、という結論に達しているわけです。
弱小大学のどうしようもない学生どもだって、社会人になれば鍛えられるだろうし、ゆっくり大人になっておくれ、という時代なのかな、とも思います。
結局誰も教育問題にはそんなに熱くなれなくて、目の前の給料のほうが気になるわけだ。(だから左翼のいいようにされちゃうんだよ)

それでも愛国心教育は必要だ。 ←まだ言ってる(笑)

投稿: robita | 2006年11月22日 (水) 22時31分

robitaさん、

国家については、別に書こうと思っていますが、教育について。

教育の現場を見ると、道徳とか愛国心とかの教育といったこと以前の問題があると思います。今の日本がシャンとしないのは教育が悪い、個人主義になったのは教育のせい、教育には愛国心や道徳心教育が必要であるというレベル以前の問題であるということです。今回の必修科目の飛ばしを見ても明らかではないですか。「バレなきゃ、なにやってもいい」という体質は、もはや教育の現場でもそれが浸透しているということです。

国がこれまでやってきたことの、燦々たる結果が今目の前にあります。教員の心の病気や自殺、現場と教育委員会の軋轢の中で自殺する校長。いまや、学校というのは、生徒だけではなく、教師も校長も自殺する異常な場所になっています。なぜ、教育の現場はこうなっているのか。そうした、現状の問題を解決するのが必要です。

世間では愛国心教育が必要だ、道徳心教育が必要だといい、父兄は受験に役に立つことだけを教えてくれればいいと言い、教頭や校長はいじめが起こらないように生徒たちを管理せよと言い、こんな状況で教員たちには何ができるのでしょうか。

それに学校で何を教えようと、学校の外ではコンビニはあるし、携帯電話はあるし、ネットはあるし、テレビはあるしという世の中で、学校に何ができるというのでしょうか。もちろん、学校の占める位置は大きいとは思いますが、学校だけどうこうしても意味はないと思います。

子供を変えよう、ではなく、我々みんなが変わらなくてはならないのです。抜本的に変えなくてはならないのは、子供たちではなく、大人(教育行政や教育制度などであり、その元はどこかというと文部科学省)です。大人が変わり、世の中が変わってこそ、子供たちも変わるのだと思います。

投稿: 真魚 | 2006年11月23日 (木) 09時53分

>真魚さん、

仰る通りなんです。
大人も変わらなくちゃいけない。教育もなんとかしなくちゃいけない。
両方必要なんですねえ。

家庭のポリシーや学校教育と、社会状況との大きなギャップについては、私もこれまで何度も書いてきました。つまり家庭や学校でいくらちゃんと育てようと頑張っても一歩外に出れば社会は誘惑の嵐です。そういったことは子育て中の母親が痛感しているところです。

さて、「大人を変える」というのはとてつもなく難しいと思うのですが、それは「政治を変える」ということですよね。
これもまたとてつもなく難しい。もちろん変えなくてはなりませんが、長い道のりです。

これも何度も言ってきたことなんですが、繰り返しますと、教育とは、将来ちゃんとした大人(親)になるよう育てる、という意味がありますよね。
いま、ちゃんと育てられた子供が将来親になり、政治家になり、先生になっていくわけです。これも長い道のりです。

政治を変える努力とともに、教育も良いものにしていくという努力が必要、ですよね?

なぜ、教育をいじっちゃいけない、と強固に反対する人がいるのかさっぱりわからないのです。

道徳も愛国心もとても大切なものです。
個人の権利ばかりに偏りすぎたものを、「従わなくてはならないものがある」、と教えて何がいけないのでしょうか。

もちろん、それを教えても効果がないかもしれない、という反論もありましょう。

しかし、こういうこともありますよ。
「教師と児童生徒が友だちのようななれ合い学級」と「教師が上にたって管理する学級」を比べると、前者のほうがいじめが多いという調査報告があるそうです。
どうしてそうなのかは、「なれ合いだと最初はうまくいってもそのうち学級としての安定性が崩れる」ということらしいのですが、リベラルな人はこういう報告を読んでも「そんなことはない、管理するから子供が抑圧を感じるんだ。それでいじめるんだ」と言いはるでしょう。

もちろん、ただ、理不尽な抑圧だけでは良くないのは分かりきってることで、そこは教師の力量や愛が問われるところです。

教師に権威を持たせることは大事だと思うのですが、今の学校ではそれが出来にくいのだそうです。

現場の先生方が、どうしたらいいのか、一番よくわかっているはずです。
現場は悪い先生ばかりじゃない。良い先生、夢や希望をもって先生になった人のほうがずっと多いのです。

先生方が子供たちを管理しやすい空気を作っていくのが、外野の私たち大人の役割だと私は思います。

大人も変わる、子供もしっかり教育する、その二本立てでいいじゃないですか?

投稿: robita | 2006年11月24日 (金) 11時38分

robitaさん、

「相当なボリュームの反論」(笑)の続きを、僕のブログの方に書きました。robitaさんの言われることは、こういうことなんじゃないかなと思って書きました。

投稿: 真魚 | 2006年11月30日 (木) 01時06分

>真魚さん、

今日の記事にしました。

投稿: robita | 2006年12月 1日 (金) 12時24分

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