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2006年12月25日 (月)

それならこれでどうでしょう

前記事について真魚さんが意見を書いてくださったので、お返事を書きます。

真魚さん、
仰ることはよくわかりますし、教育基本法改正に異議を唱える人たちが真魚さんの記事を読んで「そうだそうだその通りだ」と拍手するであろうこともわかります。
同時に、私の「自由や人権ばかりに偏らないで少しは国家の一員であるという自覚を持ったらどうか」という意見に賛成してくれる人も多いと思います。

「革命権」については、繰り返しますがあくまでも「突き詰めると」という意味です。「圧制をしいて国民を苦しめる悪い国家」に立ち向かうという意志が国民にあるならば、理論的にはそこに行き着くだろう、という意味です。
国家も、国民にそういうことをされては困るわけですから、改正教育基本法にはそういうことはもちろん書いてないし、「革命」の理念など含まれているはずもありません。
「自由過ぎること」から「国家の一員であることの自覚」へ、バランスを少し良くすることはそんなに危険なことではないんじゃないでしょうか。
「国の言うことをきかなくてもいい戦後の教育基本法は明るさをもたらした」というご意見はたしかにその頃はそうだったでしょう。でも真魚さんの仰る「明るさや希望」は永遠に続くものではなく、手にしたさまざまな事柄は60年を経て人や社会を磨耗させてきたことにようやく日本人は気付いたのではないですか。

>新しい教育基本法を読んでみると、公共とか伝統とか文化とかいったことよりも、むしろ、国家が全国の都道府県の教育を統括・管理するという国家主導による教育行政を濃厚を感じます。<

真魚さんがこう感じるという新教育基本法、私は、むしろ、「そうですが、それがいけませんか」と言ってしまいたいくらいです。
それでは「革命権」とはまったく相容れないではないか、と言われるかもしれませんが、「国民が国家を作る」という事実がある以上、国家方針の設定には他の方法がありません。
(個々の学校の手法については地域や保護者の協力も必要ですし、いろいろな意見がこれからは交わされていくことと思いますし、「公共とか伝統とか文化とかいったこと」については、しっかり教育されていくと思います。それが行わなければ文句を言えばいいんです。政権を変えてやればいいんです。)

愛国心教育に恐ろしさを感じる人がいる一方で、むしろ戦前戦中の苦しさを経験しているにもかかわらず、教育基本法改正に賛同する年配の方々も少なくない、ということをどうお考えになりますか。これは決して「過ぎ去った苦しさを忘却の彼方に追いやった上でのノスタルジー」などではないと信じます。

私は、ロックもルソーもダワーも何も知りません。
でも、生活者として、地域を見、学校を見、子供たちを見ていく上で、何年もかけて、たどりついた考えを披露しているだけです。

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2006年12月21日 (木)

愛国心、これでどうでしょう

改正教育基本法の「愛国心」について、「国家は権力の言いなりになる国民を作ろうとしている」って、それはいったいどういうことなんだろうか。
繰り返すが、今の指導者は永遠に指導者のままではない。民主主義国では政権は変わり得る。立場が変わるかもしれないのに、なんで「自分たちにも都合が悪くなるかもしれないこと」を制定するだろうか。

そりゃあ、個別の色々な政策についてはそういうことは当然起こるだろう。自分たちの都合の良いような施策をするのはどんな政権になっても起こる。政権維持のため仕方がないことだってあるだろう。
そういうことについてはよく監視して批判をしていかないといけないと思う。

でも、「権力の言いなりになる国民を作る」だなんて、教育の基本政策でそんなことしたって仕様がないではないか。

それとも、「今の日本のような民主主義政権が続くかぎり、国民は政権の言いなりになり続ける。政権は、民主的でない**党や**党に担当してもらうべきだ」ということなのだろうか。

そんなことはないだろう。国民が今の政権に任せているのは、他の政党にはとてもこの国の舵取りはできないとわかっているからだ。

「良い国にしよう」という心、つまり愛国心を育てることは大事だと、そのことを私は繰り返し書いてきたけれど、反対する人はどうしても「愛国心は押し付けるものではない」「愛国心を持つと国の言いなりになる人間ができるだけだ」と言ってきかない。

先日、ラジオで例の宮台真司先生が次のようなことを言っていて、私は「あ、そうか。このように言えばいいんだ」と目からうろこが落ちる思いがした。

「国民は政権には常に疑いの目を持っていることが必要なんですね。先進国はどこもそうなっています。権力者は国民を思うように操って何か悪いことをしているのではないかと。圧制に対する抵抗。政権を覆す権利。アメリカなどは憲法で革命権を認めているんですね。愛国心というのはそういうことを含むんです」

つまり、政権が信用ならないとなったら、力ずくででもそれを倒して国民のための国家を再構築する、という覚悟を含む、という意味だろう。

私の考える愛国心はこれに近い。非現実的だが、究極的にはそうなる。愛する国を良いものにするために行動を起こす、ということだ。理念的にはそういうことになる。

もちろん、国家の転覆を図ることは重大な罪だし、誰もそんな過激な方法は望まない。第一、不可能でまるでお笑いだ。

しかし、「国家の言いなりになる日本人」を作るのでなく、「良い国にするにはどうしたらいいかを考える日本人」を作る、という意味で愛国心を考えると、革命権の理念に行きつく。

あくまでも、「突き詰めると」ということだ。「良い国にしよう」という心とは、突き詰めるとそこのところに到達する。

しかし、日本ではその必要がない。民主国家であり、選挙も公正に行われる。意見は自由に言える。肥大化したマスコミ権力が作り出す世論は為政者を引きずり降ろすことも可能にする。

革命は必要がないが、要するに自分たちで何とかしなきゃいけないんだという覚悟が愛国心なのではないだろうか。

ところで、宮台先生はその話をしている時、なにやら楽しそうであった。
全共闘世代のちょっと下の世代の人たちで、「革命」に甘美な興奮を覚える知識人は結構いるのではないか。
宮台先生がそうだとは言わないが、法政大学の田中優子教授は、白土三平の「カムイ伝」を教材に用い、百姓一揆を例に挙げながら学生達をそそのかすような講義をしているらしい。「あなたたちは元気がない。昔の学生は考える前に行動を起こしたものです」と。

宮台氏など団塊世代よりちょっと若い世代にとって、年かさのお兄さんお姉さんたちが、権力に立ち向かって闘っている勇ましい姿はさぞかしまぶしかったことだろう。
「自分ももう少し年がいってたら共に闘えるのに」と歯軋りしたことだろう。

でも、「蜂起せよ」などという教え方は間違っていると思う。
「良い国を作ろう」という志を育てることが大事なのだと思う。
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どうだろうか。このように書けば愛国心を教えることの大切さは伝わるだろうか。

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2006年12月12日 (火)

メリー・クリスマス

2年前にこんな記事を書いた。→「日本人のクリスマス」  

single40さんがため息をつかれる日本人のクリスマスのとらえ方は、クリスチャンの人々からみたら奇異に映るのは当然だ。

11月に入るやいなや競って飾りつけを始めるこの国のクリスマス事情について外国でインタビューしている番組を見たことがある。

フランス人は「えっ、日本ではもう?」と驚き、次に「たぶん日本人は信仰心が厚いのだろう」とニヤリ。 わっはっは、一緒に笑っちゃえ。

いいさ、なんと言われたって。だって日本ではクリスマスは「国を挙げての大忘年会」なんだもーん。

でもね、クリスマス礼拝、どこの教会も初めての人大歓迎だと思うから、ちょっと行ってみたら? ディケンズの「クリスマス・カロル」読むのも良いし。 なんて、私読んでないけど (- -;)  いかんなあ。

ところで、クリスマスソングはどれも大好きだが、オーソドックスなクリスマスキャロル以外だったら、私は稲垣潤一の「メリークリスマスが言えない」が気に入っている。 
歌詞というより、メロディが良い。

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2006年12月 8日 (金)

自分の家族だけ守れればいいじゃない

コウイチさんがたけしの本を引用して、道徳を取り戻したかったら貧乏に戻ればいい、という主旨のことを書いておられる。
このことは、たけしに教えてもらわなくても、ある程度人生や社会を経験した者ならばすぐ気がつく。
経済発展のために伝統や文化をあっさり捨てることができた日本だから繁栄したというなら、それは金のために魂を売り渡したようなものだと言える。

だけど、日本人としての品格は取り戻したい、豊かで平和で自由なままで道徳だけはしっかり守っていきたい、となったら、その方法を無理にでもひねり出すしかない。
問題はただ二つ、貧乏になりたくない、自由を奪われたくない、これだけなのだ。

豊かで自由になったら人間は堕落するに決まっているというのに、それを無理矢理にでもそうでない方向に持っていこうというのだから、並大抵のことでは済まないのである。

人間を正しく作り上げるのは教育であろう、ということで、教育をなんとかせねばならない、ということになる。
しかし、大きく育ってしまった「大人」を今さら教育し直すシステムはこの国にはないので(どこの国にもないと思うが)、これはもう、子供をちゃんと教育してちゃんとした大人になってもらうことに期待するしかないわけである。豊かで自由な国のまま。
ここまではいいですね?
ここまでで、「いや大人を教育し直す方法がある」というのならどうか言ってもらいたい。

で、教育をどうするかなのだが、それは各現場でそれぞれの事情に合わせて工夫していけばいいと思う。
そして、それを現場の先生方ができやすくなることが大事だと思う。それにはどうしたらいいか。

問題なのは、今の子供は自由過ぎるということなのである。

今の入試制度が良くないだとか、東大を頂点とする学歴社会がいけないだとか、教員採用試験制度に問題があるだとか、教育委員会の存在が悪いだとか、まあ、そんなことは悪いと思えば直せばいいのである。実はそんなことは根本的な問題ではないと私は思っている。
何をどう変えようが人間は学歴を大事にするだろうし、どんなに制度を変えたってヘンな人が教師になることもあるだろう。教育委員会のような天下り組織だって、今の大人が今の大人であるかぎり、なくならないのである。

子供が先生の言うことを聞くようにすればいいではないか。それが現場の先生方が一番望んでいることではないのか。

で、教育基本法の中身を見てみる。それはたしかに、人間に施されるべき教育の基本が書いてあることはある。立花隆氏が力説するように、申し分ないといえば申し分のない内容だ。

まあ、それはそれでいいのである。どうせ教育基本法なんて、「子供が悪くなったのはそのせいじゃない」と言われるくらいのあってもなくてもいいようなしろものらしいから、別に改正しなくたっていいんでしょうよ。

現行教基法に足りない「愛国心」と「道徳教育」を入れろと言う人たちは、ただ、個人主義に偏りすぎた教育を、「国の一員なんだ。自分だけの自由は許されないんだ」ということを少しは自覚させる教育に変えてみたらどうか、と言ってるだけなのだ。

教育基本法改正に反対する人はなぜあんなに反対するのだろうか。
子供に影響を及ぼすものでなければ(改正しても何も変わらないと思ってるわけでしょ)、何もそんなに怖がることもないだろうに。

教育の基本方針を変えても、何も変わらないかもしれない。
でも、ひねり出すしかないのだよ。何かをやってみるしかないのだよ。
やってみて、やっぱりだめだ、となったら、これはもう仕方がない、たけしが言うように、貧乏に戻れ、というしかない。

inumashさんという方が当ブログを引用して下さって記事を書いておられる。 

『「大人」とやらがちょっと浮ついたくらいでそれが機能しなくなるほど脆弱なシステムなのだろうか。』

私は学者でもなんでもない、58年社会を見てきての単なる主婦の感想をベースにして雑感を書いているだけなのだが、この「脆弱なシステムなのだろうか」という疑問が、教育改革のポイントだろうと思う。
もし、「強固なシステム」であれば、容易には崩れないはずで、そのシステムによる教育現場をかくも崩壊させているものは一体なんだろうかと考えた時、やはりそれは「個人の自由」に他ならない、と多くの人が考えるに至っているのだろうと思う。

inumashさんはこのように指摘される:
『本当は、「そういう社会」が欲しくて人間は今の社会をつくってきたんじゃないだろうかと思うのだけれど、一体いつからそんな社会は「敵」になってしまったのだろう。人間そのものの「欲求」自体が罪だというのだろうか。』

このことはまさしくその通りで、個人の欲求は他者とぶつかるし、公共の秩序も不安定にさせやすい、ということだ。

全体主義の国では個人の自由はないので、安定している(表面上)のを見てもわかる。思想の自由がないので、みんな同じ考え方。でもそれはそれで安定している形と言える。

まあ、こんなこと別につらつら書く必要もないわけで、人は自由で豊かになれば堕落するし、統制されていれば、一応は秩序は保たれる、という当たり前といえば当たり前のことにすぎないのだが。

ただ、自由主義社会で、さまざまな「自由」は担保された上で、もっと根本の「道徳」だけはとにかく子供のうちに厳しく教えたらどうか、というただそれだけのこと。

結局は、自由と抑制のバランスだということに帰結するという、ただそれだけのことなのだ。

それで、どうしたらこういうことをわかってもらえるのかと、いろいろな論法(というほどのものではないが)を駆使して今まで書き続けてきたのだけど、私は別に困っているわけではないので、ほんとうはどうでもいいんですけど。
自分と自分の家族がつつがなく暮らしているのだから、他の人のことまで心配する必要はないのだ。
そんなのエゴイストだ、というなら、ついでに言ってしまってもいい、国家なんてくそっくらえだと。

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コウイチさんがご自分のブログのコメント欄で書いておられるようなことは私も同感で、でもそうは言っても、議論に加わるべき人が加わらず(現実問題に対処するのに忙しく議論などやってられない)、地域社会に貢献しようという気もない人がネット上であれこれ言っている現状を考えれば、もうこれは「議論をもっと深めて」などという意見自体が意味をなさなくなっているのだと思う。 

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2006年12月 5日 (火)

歩いていく

私はぶつかり合いが嫌いな性格で、子育てに関しても、時間をかけて話してきかせて納得させるようにしてきた。
しかし、実は、それが一番良い子育てだとは思っていない。

たしかに、私と子供たちとの仲は親子としてほとんど何の問題もない。プライベートなことを何もかも話してくれるわけではないが、断絶やいがみ合いなどという関係とは程遠い。

しかし、子供は、親という強固な壁を、あがきながら乗り越えてこそ、成長する、というのもまた事実である。
我が家の子供たちはそういう経験をしていない。
もちろん思春期にはわけのわからないモヤモヤを抱え、不機嫌になったり親に反抗したり文句をつけたりは普通にあったわけだが、こちらがそれを押さえつけることもしなければ、元々が良好な関係なので、特に困った事態に発展することもなく過ごしてきた。

そういうのってどうなんだろう、と思う。
のんびりした子供たちには負けじ魂の不足を感じる。
無気力ではないが、人にライバル心を燃やす、というのか、やってやる、追いついてやる、乗り越えてやる、という闘争心の不足を感じる。

そういうおっとりした人間も世の中に必要だ。彼らは人と激しくぶつかり合うことなくきっと幸せに生きていくだろう。それでいいのかもしれない。みんながみんなギラギラした闘争心に燃えていたらこの世は困ったことになるだろうし。

しかし、理不尽な親、むやみに厳しい親に育てられ、それを乗り越えて強くなる子もいる。
一方で、強くならずに、悪く影響を受けてしまって不幸なことになる場合もあるわけで。

きっとそれは「賭け」なのだろうと思う。
そう、子育てとは「賭け」なのかもしれない。

育てている時は「賭け」などという意識はもちろんなくても、結果的にそうなっているのかもしれない。

だから、子供の成長の過程で難儀があったとしても、「あんな育て方したからだ」と自責の念にかられるのはちょっと待ったほうが良い。もう少し先に期待して、待ってみるという我慢をしたほうがいいかもしれない。

親子関係の根本に「愛」があればどんなことがあっても強い、と思うのはそういうわけだ。  →「愛は力

だから根本に「愛」のない親の元に生まれた子は気の毒だ。と、こう言うよりほかない。「愛」は制度で決められるものでも強要されるものでもないから。
みもふたもない言い方だがそうなのだから仕方がない。

闘争する家庭がさまざまなドラマを生み、タフで賢い人間を作るかもしれないのと同様、戦争で流された血や涙は人間の心にとてつもなく大きなものをもたらす。皮肉なことだが、平和な状態で起こりにくい自浄作用が戦時には働く。

石原慎太郎がよく「平和には毒がある」と言うのはそういうことだと思う。

だからといって誰もがそう願うように、戦争は絶対にあってはならない。血が流れるのはいやだ。肉親を失うのはいやだ。愛する人が死ぬのはいやだ。そんな辛いことは経験したくない。
家庭が平和でありたいように、社会も平和であってほしい。

だけど、戦争と平和の構図はそうなっている、ということだけは知っておいたほうが良いと思う。

そして、どんなことがあっても、愛する人が先に死んでしまっても、決して絶望してはいけない。
再び立ち上がる大きな力をもらったのだと思わなくちゃいけない。

KABUさんのところでこういうのを見せていただいた。 

少し泣いた。

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2006年12月 4日 (月)

うわついた社会

今日本中が教育問題に関心を持っている。そのように見える。
いじめ自殺などの事件や高校の必修科目未履修問題、教師の不祥事など、良からぬ出来事が続発してこその現象だ。

でも、「教育をなんとかしなければ」という気運が盛り上がっている今がやはり、教育改革の好機なのだと思う。

昨日テレビ朝日「サンデープロジェクト」で教育問題を取り上げていた。政治経済問題が中心のこの番組では珍しいことではないかと思う。
教育再生会議の義家弘介さん、海老名香葉子さん、民間から中学校長に起用された藤原和博さんたちが意見を述べた。

海老名さんが、「親がしっかり育てないからです」とか「昔は近所のおじさんおばさんが注意してくれた」だとか、「原因」を力説していた。
この人はよくこういうことを言うが、そんな当たり前のことを言うために会議のメンバーになったのだろうか、と思う。
たしかにそれは事実である。家族関係と子供の人格形成は因果関係がある。
しかし、それをいくら言ったところで何の解決にもならないのである。

家族の愛、近所のおじさんおばさんの優しい言葉、そういうのが大事、そんなことをいくら力説しても、それでは、はい、そうしましょう、と言って、思いやりにあふれた家族が増えるのか、近所に優しいおじさんやおばさんがたくさん出現して癒しの言葉をかけてくれるのか。

そんな意見は具体的な対策でもなんでもない。単なる「こうなったらいいなあ」という願望に過ぎないし、精神論でしかない。
願望や精神論に過ぎないものを何遍繰り返そうが、実働はしないのである。

民間から公立中学の校長に起用された藤原さんが、実際に地域住民と学校との協力を図る具体的な対策の実施状況を報告していた。
子供たちにいじめ問題について討論させる授業にも取り組んでいる、との藤原さんの報告を受け、義家さんが言う:

義家:「先生の学校は恵まれていますよねえ。例えば今問題になっている学級崩壊などが起こっている学校で、そんなことさせようとしたってみんなしませんから。討論以前の問題です。」

藤原:「ええ、ですから、生活指導はかなり厳しくやっています。靴のかかとを踏むなだとか、シャツはきちんとズボンの中に入れろとか、本来は家庭でお母さんたちが躾けるべきことをですね・・・」

ああもう、先生たちのご苦労はいかばかりかと同情申し上げるが、いずれにしても、民間校長の起用だとか、地域住民を学校に巻き込むとかの対策は、国の規制緩和の流れによって義務教育を取り巻くさまざまな環境の変化がもたらしたものなのだろう。

着実に、あちこちで動きは起こっていると思う。

さて、子供たちがおかしくなったのは、社会が悪い、とよく言われる。
それはたしかなことなのであるが、ではこの、社会とはいったいなんだろうか。

人はよく、政治家があんなことする、公務員がこんなことする、と公人の不祥事を持ち出して、あれらの大人がいけない、あんなのを見てるから子供が悪くなる、などと言う。

でも、そういう偉い人ばかりが悪いのだろうか。

今の日本の大人が全体的に「うわついて」いる、と私は思う。親がうわついている、と思う。

夫や妻以外と恋したい、子育てより自己実現、孫の世話より自分探し、そしてそれを容認する社会。例えばそんなことだ。

これらを指して、うわついている、と表現するのは酷なのだろうか。(酷だろう。恋はともかく、自己実現や自分探しは人として当然の権利なのだ)

しかし、こんなことをいくらブログで言ってみたところで、何の解決にもならない。

だって、そういう人たちは教育問題を真剣に考えたこともない、新聞も読まない、ネットの議論も読まない、ただ、マスコミの尻馬に乗って「政治家がああだから、教師がああだから、大人がああだから、子供がおかしくなる」などと言っているだけなのである。その「大人」に自分自身は含まれていない。

子供は一番身近な大人に最も強く影響を受けるものではないのか。

うわついた親の元に生まれた子供は気の毒だ。

結局、うわついていない親の元に生まれた子供だけがちゃんとした躾けを受け、ちゃんとした人間に育っていく。それだけのことかもしれない。

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2006年12月 1日 (金)

自然淘汰は生物界の摂理ですから

「国家」と「教育」について、真魚さんが続きを丁寧に書いてくださった。 
私も真魚さんのお考えをお借りして、自分の考えを書こうと思う。

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真魚さん、
仰ることはよくわかります。
役人のやることはロクなもんじゃない、というのもわかります。だから、具体的な点で、ロクでもないことをやろうとしたら大いに意見すればいいんじゃないですか。
政府の具体的な施策というのは実施される前に、「こういうことを具体的にやりますよ」と何らかの形で国民に知らされるようになっているんでしょうか。(無知ですみません)
もしそういうのがあるとしたら、「そんなこと知らなかった」と後から文句言うのは国民の怠慢であり、自分たちにも責任はあると思うのですが、まあ、どちらにしても国民も忙しいからいちいち国の施策をチェックできないでしょうから、それならば、「国を大事に思う心を育てる」という大方針だけは、ともかく決めなさい、と国家に命令するだけはしたらいいんじゃないですか。

どう言ったらいいのかな、仰るようなことは(民間でやるということ)、単に「できない」と言ってるんですけどね。
誰も自主的になんかやらないから、「できない」ということなんですけど。

「子供」というものに対する認識の違いについてもちょっと考えてみたほうがいいかな、と思います。
「大人が変われば子供も変わる」←これは一面の真実です。でも全部じゃない。
子供は生まれついて「善」かというとそんなことはありませんね。
育て方が悪いから「悪くなる」、これも事実ではあります。
でも、極端な言い方をすれば、「子供はまだ人間になっていない」と思います。先日の「TVタックル」でも評論家三宅久之氏が、「子供なんてまだ人間じゃないんですよ。それを人間にするのが教育なんですよ。それが強制ということなんですよ」と発言し、北野たけしが大きく頷いていました。
私はこの言い方を「大人の言うことを聞きなさい」 という本で知ったのですが、なるほどそういうことかと腑におちるものがありました。
もちろんそれは正しくないかもしれない。「子供はやはり天使なのだ、しっかりした意志も持っているからそれを尊重しなければいけない」、と考える人もいるかもしれない。
でも、私自身は「子どもは自主性に任せておくととんでもないことになる」(あくまでも低学年ですよ)という意見のほうにくみします。

で、武道における礼儀作法の話なんですが、真魚さんの仰ることは本当によくわかるんです。もっともなことです。

問題は、「できない」ということです。
考えてもみてください。武道(その他)を習わせてやろう、という親の元に生まれた子は幸せですよ。
でも、子育てが嫌いな親、子育てとは塾に通わせて良い学校に行かせることだと信じている(またはそうせざるを得ない)親が大多数ですよ。

それでも、自然淘汰、自由競争だということなら、私は賛成してもいいのですよ。
公教育に期待するか、民間の自主性にまかせるか、との違いであるならば、当然、淘汰も考慮に入れなければなりませんよね。

幸いにして、「子供は天使だ」と信じて(たしかに天使でした)、子育て優先家庭優先で育ててきた我が家の子どもたちは、親をひどく悩ませることもなく、空手を習わせたおかげかどうかわかりませんが、礼儀を心得ています。親に敬意をもって接します。世間様に迷惑をかけることもしません。

>つまり、学校がどうこうではないんです。愛国心や道徳について言うのならば、学校が愛国心や道徳を教えるのではなく、学校以外のものから、そうしたものを学ぶ、そうした環境を作ることが必要なんだと思います<

そういう環境を作ることが大事なんだということは私も言っています。→「国家権力って・・・」のコメントの最後のほうで。 
そういう空気を作っていくことで先生に権威を持たせるんだと。(「権威は持たされるもんじゃない」と仰るかもしれませんが、学校現場でそれができにくくなっているという教師の立場にもなってあげないといけませんね)
だけどこの空気は自然には生まれません。

草の根運動かなんかが自然に広がることに期待するんですか。
誰がそれをやるんですか。誰かがイニシアチブをとらないと事は起こらず何も進みませんよね。
私は草の根運動する気なんか全然ないんですけど。
家のことで忙しくて忙しくてとてもとても。

「そういう環境」が「自然に」生まれないということこそが問題だと思うのです。

私の言ってるのは、そういう環境が生まれやすいような雰囲気、国民の熱気と言いますか、そういうものを盛り上げるのに、せめて国家は号令をかけるくらいの役割を担ってほしいということなんです。
士気を高めるといいますか、いわゆるモチベーションを上げるってやつですか。
これは別にコワイことでもなんでもないです。人間はモチベーションが上がらないと動きません。

真魚さんは、「モチベーションを上げるのは国のやることじゃない」というお考えですよね。そういう気運が自然に高まるのを待つということですよね。それならそれでいいのですが、つまりそれは根本的なところにおいて国は何も対策を講じなくてもいい、と言うに等しいですよね。

私は、ほっといたらどうなるか、という話をしているのではなく、国は教育の根本において何ができるかという話をしているんですね。

だからこそ、「国家は我々自身だ」と否応なしにでも言うしかないじゃないかと私は考えるんです。
ここで、最初の「『日本人、しゃんとせい』というのは誰に言ってもらうんですか」に戻ってしまうんですが、やっぱり堂々めぐりになっちゃいますかねえ。

我々は国家の枠の中で現実に生きているのに、そして、その恩恵も蒙っているのに、「国家は悪者だ」とあくまで否定するのもあまりと言えばあんまりだと思うんですよ。

また、真魚さんの論法でいきますと、「子供は自分で選択する(自分で考える力がある)ので、強制は良くない」、ということになりますが、子供に考える力があるのに「責任は子供にはない、大人が悪い、大人がまず変わらなくちゃいけない」というのは筋が通らないと思うんですよ。自分で考える力があるなら、責任もとらなくちゃいけないことになりますよね。

子供は自分で考えて正しい道を選択することなんてできないから(あくまでも低学年ですよ)、大人が強制的に教育しなくちゃならない、というのが私の考えです。
仰るところの『ゲーセンとかコンビニとかでダラダラしているを「自分で選んだ」者』は、きちんと躾けをされなかった結果ああなっちゃったんじゃないですか?

でも、まあ、親に恵まれた子だけが生き残る、という淘汰もありかな、なんて。

どんな子たちが成長して大人になってこの国のマジョリティとなるか、「崖っぷち弱小大学物語」の先生の心配もよくわかりますけど。

でも、遠い未来には国家なんてなくなるに決まっているし、今はその準備段階なのかもしれませんね。ちょっと早過ぎるとは思うけど。

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堂々めぐりになっているのがわかるのだが、こういうやりとりを読む人たちが何を考えるか、それこそが大事だと思う。

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ところで、ブログランキングのリストからこのブログ消えちゃいました。
せめてリストに顔ぐらい出したいので、応援してくださる方がおられましたら、ちょっと試しに押していただけませんか。よろしくお願いします
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文章のわかりにくいところが数箇所あったので、少し書き直しました。(12/2. 2:00)

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