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2006年12月25日 (月)

それならこれでどうでしょう

前記事について真魚さんが意見を書いてくださったので、お返事を書きます。

真魚さん、
仰ることはよくわかりますし、教育基本法改正に異議を唱える人たちが真魚さんの記事を読んで「そうだそうだその通りだ」と拍手するであろうこともわかります。
同時に、私の「自由や人権ばかりに偏らないで少しは国家の一員であるという自覚を持ったらどうか」という意見に賛成してくれる人も多いと思います。

「革命権」については、繰り返しますがあくまでも「突き詰めると」という意味です。「圧制をしいて国民を苦しめる悪い国家」に立ち向かうという意志が国民にあるならば、理論的にはそこに行き着くだろう、という意味です。
国家も、国民にそういうことをされては困るわけですから、改正教育基本法にはそういうことはもちろん書いてないし、「革命」の理念など含まれているはずもありません。
「自由過ぎること」から「国家の一員であることの自覚」へ、バランスを少し良くすることはそんなに危険なことではないんじゃないでしょうか。
「国の言うことをきかなくてもいい戦後の教育基本法は明るさをもたらした」というご意見はたしかにその頃はそうだったでしょう。でも真魚さんの仰る「明るさや希望」は永遠に続くものではなく、手にしたさまざまな事柄は60年を経て人や社会を磨耗させてきたことにようやく日本人は気付いたのではないですか。

>新しい教育基本法を読んでみると、公共とか伝統とか文化とかいったことよりも、むしろ、国家が全国の都道府県の教育を統括・管理するという国家主導による教育行政を濃厚を感じます。<

真魚さんがこう感じるという新教育基本法、私は、むしろ、「そうですが、それがいけませんか」と言ってしまいたいくらいです。
それでは「革命権」とはまったく相容れないではないか、と言われるかもしれませんが、「国民が国家を作る」という事実がある以上、国家方針の設定には他の方法がありません。
(個々の学校の手法については地域や保護者の協力も必要ですし、いろいろな意見がこれからは交わされていくことと思いますし、「公共とか伝統とか文化とかいったこと」については、しっかり教育されていくと思います。それが行わなければ文句を言えばいいんです。政権を変えてやればいいんです。)

愛国心教育に恐ろしさを感じる人がいる一方で、むしろ戦前戦中の苦しさを経験しているにもかかわらず、教育基本法改正に賛同する年配の方々も少なくない、ということをどうお考えになりますか。これは決して「過ぎ去った苦しさを忘却の彼方に追いやった上でのノスタルジー」などではないと信じます。

私は、ロックもルソーもダワーも何も知りません。
でも、生活者として、地域を見、学校を見、子供たちを見ていく上で、何年もかけて、たどりついた考えを披露しているだけです。

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コメント

お二人の議論を拝見して、どこにコメントしたら良いのかと思いつつ、真魚さんより先にここへコメントする失礼をお許し下さいまし。

何だかなーどうも変なんですよ、基本的には真魚さんのオチ:

>しかし、そのやり方が、昭和22年の原点にもう一度戻ろうということではなく、教育基本法を変えるというのはなんだかなあというか。結局、こうなってしまうのか。というか、国民が今の国家に求めているのは、教育基本法がどうこうとか、そうしたことじゃあないように思うのです。<

と言うのに同意なんです。にも関わらず、その真魚さんの突っ込み部分には「ん?」と思う。なぜかしら。

多分、robitaさんの仰ることの方が現実的だからでしょう。

>「国の言うことをきかなくてもいい戦後の教育基本法は明るさをもたらした」というご意見はたしかにその頃はそうだったでしょう。でも真魚さんの仰る「明るさや希望」は永遠に続くものではなく60年を経て人や社会を磨耗させてきたことにようやく日本人は気付いたのではないですか。<

教師を親を国を先人を、つまり「権威」とは何かを知らぬコドモばかりかオトナまでを作り上げてしまった60年。軌道修正があってしかるべきです。そのことは日本社会に生きる多くの人が感じているはずです(亡国を望むのなら話は別でしょうが)。

で、robitaさんはその手段としての教育基本法改正を是となさっている。私自身は、教育基本法自体が日本国の幼児教育へも影響を及ぼすことを重要視されていない点が欠陥だと思うし、同時に、ご存知の通りマジメな廃憲派なので、どーせホウリツなんてぇのは後手後手に回るだけの不自由な存在なんだから、もー捨てちまえ、そのほーがコトは早いのよ、とは思っているけれど。

だけど各自治体に任せてきた教育行政がこの体たらくを生み出した以上、国家がこれをやらずして誰がやる?と言うのは正論でしょう。

真魚さんの文章からは、そのオチとは異なり「現実を軌道修正する必要がある」と言う認識があまり感じられませんね。もしかしたらそこが「?」と思わせるところかなあ。もしくは、始めにホウリツありきではなく、ホウリツは現実に鑑みて修正されていくものである、と言うお考えを嫌っているように感じられるところが、憲法9条が我が国を守ってきたというロンリ(建前)と同じ気がしちゃうのかもしれません。

投稿: kaku | 2006年12月25日 (月) 15時35分

kakuさん、

>robitaさんはその手段としての教育基本法改正を是となさっている<

教育基本法を変えたところで、即、教育がめざましく良くなる、とは誰も思ってないでしょう。

私の一番の疑問、というか、「つくづく根深いなあ」と思うことは、「愛国心」は「怖いもの」という思い込み一辺倒では、考えることを拒否しているに等しい、ということに気付かない人たちがいるということです。(いや、そういう人たちの存在こそが議論を成り立たせる要素になっているわけですから、いてくれないと困ります)
もちろん、愛国心は戦争を引き起こすタネにもなるし、全体主義国家体制維持の手段にもなる、そんなことは私たちは知り過ぎるほど知っています。
そのことをわかった上で、自由や人権、自己抑制や報国心のバランスについて考え続け、議論する人はしていくことに意義があると私は思うんです。国が衰退しないために。
国が衰退してしまっては個人の幸せも何もありませんから。

>教師を親を国を先人を、つまり「権威」とは何かを知らぬコドモばかりかオトナまでを作り上げてしまった60年。軌道修正があってしかるべきです。そのことは日本社会に生きる多くの人が感じているはずです(亡国を望むのなら話は別でしょうが)。<

     ↑
kakuさんのこの言葉、仰るとおりと思います。


記事、わかりにくいところが数箇所あったので少し修正しました。
______

お読みになったかどうか、MIYOさんという方がkakuさんにご質問ですよ。
http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_a5c4.html#c8188608

投稿: robita | 2006年12月26日 (火) 10時52分

robitaさん、

>お読みになったかどうか、MIYOさんという方がkakuさんにご質問ですよ。

あっ!気づきませんでした、早速ご返答申し上げようと思います。有難うございます。

それにしても、確かにこの一連の妙なコメントは、実害が生じているという点で何とかしてもらわないと困りますね。これって、ココログでしか見かけない気がするのは気のせいでしょうか?(関係ない話題ですいません)

投稿: kaku | 2006年12月26日 (火) 20時22分

はい、今また4つばかり削除しました。

投稿: robita | 2006年12月27日 (水) 00時23分

robitaさん、

生活者として、地域を見、学校を見、子供たちを見てきた、その結論が国を信じましょうというのでは、まことに失礼ながら、まだ国にだまされ続けるのですかと言わざるをえません。

国家主導による教育行政とは、具体的にどうなるかというと、現場の教師や中間管理職の校長や教頭への管理を強くするだけだと思います。ゆとり教育への見直しとは、具体的にどうなるのかというと競争原理と効率追求の導入になると思います。

そもそも、今のような世の中になったのは、教育の理念が個人主義、自由主義尊重であったから、こうした世の中になったのでしょうか。これは考え方が右とか左とかの話ではなく、右とか左に関わらず、その以前に、そもそも政治家の言っていることが信用できないではないですか、と言いたいわけです。

政治への不信感を招いたのは政治家自身であって、国民の側ではありません。政府が愛国心などと言うと、戦前に戻るんじゃあないかと危惧するのはまったくのナンセンスでしょう。しかしながら、そうした危惧というか疑いが出てきてしまう。これは当然のことではないでしょうか。これまで政府は法律を、自分たちの都合のいいように解釈してきました。法を守るという遵法意識そのものがありません。法とは一種の方便であると思っているようです。そうした人々に愛国心を持てと言われても、なんかこーなんなんだなと思うのです。「政治家はどうも信用できない」「何をするかわからない」という不信感があるから、そうした危惧なり疑いなりが出てくるのです。

例えば、改正教育基本法には、次の一文があります。
「個人の価値を尊重して、能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。」

この後半の部分ですね。この「職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。」これを読んで、僕は少しムカッときました。

これは、ニートのことを言っていると思います。しかし、ニートの問題の根本は、ワカイモンが勤労を重んじないからニートになっているわけではなく、非正規雇用になると正規雇用になる機会が極端に少ないというこの国のいびつな労働市場の構造に問題があります。改正教育基本法は、そうしたことには目を向けずに、ワカイモンに向かって「おまえたちが、きちんと働こうとしないからだ」。あるいは学校の教師に向かって「おまえたちが、ワカイモンに正しく勤労の意義を教育しないからだ」と言ってるようなものです。これはもう本末転倒です。労働市場がもっと流動化するとか、極端な意見ですが政府が終身雇用を保障するとすれば、誰も本人の意志に反してニートやリストラ失業にはならないわけです。つまり、本来は政治が改善すべき社会政策上の問題であることを教育(もっと具体的にいうと現場の教師)に押しつけていませんかと申しているのです。改正教育基本法にはこのように、何でもかんでも学校教育が悪い、教師が悪い式の内容があります。

国家にも義務があります。国民の生命と財産を守る義務です。国家が国民の生命と財産を守ってくれるから、国民は税金を支払うのです。しかしながら、北朝鮮拉致事件やイラク人質事件を見てもわかるように、この国は国民の生命と財産を守ってくれません。国家の基本中の基本のことが、この国はできない、やらないのです。これで政府が国民に国を愛しなさいというのは、いささか無理があるように思われます。

(「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。」のくだりについては、かなりの言いたいことがありますが、割愛します。)(笑)

日本というのは、平成といういち時代とは別の、もっと大きな歴史の流れ、そのものです。私たち日本人は、平成という時代に生きていると同時に、もっと大きな民族の時の流れの中に生きています。それを、平成といういち時代の、日本国政府といういち行政機関(くどいか)(笑)が国を愛せというのはおこがましいのではないでしょうか。愛国心、郷土愛というのは、日本国政府より大きな、民族にとっての普遍的な価値観です。私たち日本人が富士山や桜に対する感情、先祖に対する感情は、日本国政府が定めたものでもなく、学校教育で教えられたものではありません。

それをまあ、政府にですね。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに」とか言われてしまうと、ほおー、では歴史研究や史跡調査や文化財保存や伝統芸能に国はどれだけの予算を出しているんだっけなあとか、公立の博物館や図書館などがどれだけ充実しているのかなとか思っちゃいます。


投稿: 真魚 | 2006年12月29日 (金) 22時00分

kakuさん、

robitaさんの方が現実的です。僕の言っていることは多分に理念的です。しかし、国家というものは理念も(「も」ですよ「も」)必要なんです。

これはシバリョーが書いていたことですが、国家というものを建物だとして、その建物の土台に圧搾空気のようなものを入れてふくらませる必要があります。圧搾空気のない、地面にべたーとした土台では、その上に建物が建ちません。国家も同じです。この圧搾空気みたいなものが、国家の理念です。どういうような国家にするのかという基本設計思想のようなものです。

アメリカの場合は、建国の父たちの理念と合衆国憲法が、その圧搾空気です。理念というのは、現実にできる、できない、という話のものではありません。理念とはタテマエです。しかし、理念とは、現実の世界になにか問題が起きたとき、その判断の基準というかお手本のようなものです。暗闇の中で目指すべき方向を示してくれる光のようなものです。だからこそ、政治には理念は必要なのです。ジェド・バートレット大統領を見てもわかりますね。

戦後日本にとって、その拠って立つ理念とはなんだろうかと思うと、それは日本国憲法も含む占領下の時代に作られた法律であり、社会理念であると思うのですよ。原理原則というのは、現状が合わないからホイホイと変える。そうしたものではありません。逆から言えば、そのように現状に合わせてホイホイ変えるのは社会理念ではありません。今回の教育基本法の変更は、合衆国憲法修正なんとか、という意味の修正ではなく、社会理念そのものの変更なんです。ただ単に、法律の文章が変わることではありません。そういう社会理念そのもののもホイホイと変える。それはつまり、過去の社会理念をそれほど深く理解していないということです。だとすると、今の「国を愛せよ」風潮も、また時代が変わればホイホイ変わるのでしょう。

何度も申しますが、そうやってホイホイ変わるものは社会理念ではありません。欧米では、ロックやルソー、あるいは建国の父たちといった何百年も前の人たちが考えたことが今でも生きています。福沢翁が書いたことだって、今読んでもうんうんとうなずけますね。そういうものなのです。

戦後日本の形というか規範、基準とはなんであるのか。まずこれを明確にしなくてはなりません。昭和22年の基本理念に、もう一度戻る。そして現状の変えるべきところを変える。基本理念のレベルまで変更しようというのならば、それ相当の論議をしっかりとやる、時間を十分にかけて、しっかりと考えて行う。これが本来のスジつーか、やり方というものです。

投稿: 真魚 | 2006年12月29日 (金) 22時03分

>真魚さん、

どうもねえ、なんか私の文章をちゃんと読んで下さってないんじゃないかと思うんですよね。
だから、同じことを何度も言わなくちゃならない羽目に陥っているんだと思うんです。
私のほうも同じこと何度も言わなくちゃならない羽目に陥ってるんですけど。(^^;)

革命思想まで持ち出して「良い国を作ろうとする気概が大事」という単純な基本を述べてみたんですが伝わらないかなあ。

国の言うことを何でもかんでも大人しくきくんじゃない、国は自分たちで作るんだという志、これを愛国心と言わずしていったい何をもって愛国心と言うのか、ということなんですけどねえ。

論点が違うんですよ。(私の言ってることは「論点」というほどのものでもないですが)

つまり、真魚さんの仰る、そして私もそう思う「大切な理念」以前の問題なんです。

時間があるときにもう一度整理して書いてみます。元日は一人でお留守番なので、たぶん書けます。書けなければ4日以降になります。

良いお年を!

投稿: robita | 2006年12月30日 (土) 10時28分

robitaさん、

いえいえ、robitaさんの言われることは十分よくわかっています。
僕も何度もおなじことを書いていますし。
わかっている上で、あえて書いているようなものです(笑)。

「良い国を作りましょう」と言われたら、「ええ、そうですね」と答えるしかありません。それで会話は終わりになります。ので、まーあえて、個人の自由、個人の尊厳が必要なんですよと何度も申しているようなものです。自分があって、みんなもいる。自分を育ててくれた親がいて、さらにその向こうに親の親の親のと続く多くの人々がいる。そこから郷土愛や愛国心は生まれると思うのです。

本年もお世話になりました。来年もよろしくお願い致します。
それでは、よいお年を。

投稿: 真魚 | 2006年12月30日 (土) 22時41分

まず始めに、robitaさんそして真魚さん、そしてこちらでお世話になった皆々様、良いお年をお迎え下さい。

さてさて真魚さん、

>どういうような国家にするのかという基本設計思想のようなものです<

>戦後日本の形というか規範、基準とはなんであるのか。まずこれを明確にしなくてはなりません。<

仰せのことは分かりますし、私もそういう方が好みです。が、基本設計思想なんちゅーもんを持って国家を作った国ばかりじゃないと思うんですよね。と言うか、そういう国家って「新しい」でしょう。

「ええ私ら一族は昔からここに住んでますがそれが何か?」みたいな、そういう土地ですね、この日本は。だから、

>今の「国を愛せよ」風潮も、また時代が変わればホイホイ変わるのでしょう。<

“ここに住み続ける為に”ホイホイ変わるのがこの国で、ある意味、それがこの国の大らかさでそれが外から見たらビックリするほどの大転換を産むのではないでしょうか。

太古に神仏共生OKになっちゃって、最近じゃクリスマスどころかハロウィーンやサンクスギビングまで祝っている。白洲次郎いわく「プリンシパルの無い国」です、でもそれがプリンシパルなのかと最近思えるようになりました。

>戦後日本の形というか規範、基準とはなんであるのか。まずこれを明確にしなくてはなりません。昭和22年の基本理念に、もう一度戻る。そして現状の変えるべきところを変える。基本理念のレベルまで変更しようというのならば、それ相当の論議をしっかりとやる、時間を十分にかけて、しっかりと考えて行う。これが本来のスジつーか、やり方というものです。<

これは具体的にどういうことなのでしょうか、民主党が春頃言っていた「旧法廃止の後新たな日本国教育基本法制定」と言うことでしょうか?

私は、robitaさんと真魚さんの真似して?何度も言いますが、新旧教育基本法にあるような:

【幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに…】

とか何とか、もーうるさいことを言うな!いちいち既定すな!胃に穴があくじゃないか!と思っています。これは日本社会の悪いところ。細かいところに囚われすぎて基本を見失いがち。

教育の大切なことってそんなことじゃないですよね。中教審の鳥居会長時の答申にあった言葉:

【世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成を目指す】

なんでどどーんとこれだけ、じゃダメなのかな。和歌を生み出した国なのに。

ま、その為に、信頼される学校教育の確立、世界をリードする大学、家庭の教育力、学校・家庭・地域社会の連携・協力の義務、「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵養、日本の伝統・文化の尊重、教育振興基本計画の策定、くらい言っておいて、後は現場に「全ては結果で判断する権利は国が持つことをお忘れなく」と。

個人的には、幼児教育=生の教育、と生涯教育=死の教育を忘れないでーと思います。

今話題になっている道徳的なところは、法令としての性格を持たない道徳的な記述=教育勅語でいいじゃない、と思うのであります。

私はホウリツは嫌いですが、現代日本に道徳を課す宗教的存在が無いことは、やはりカウントしないといけない、と。

投稿: kaku | 2006年12月31日 (日) 14時18分

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