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2007年1月30日 (火)

「女性は子供を産む機械」

「女性は子供を産む機械だ」
このような直截的な表現をしなかったとは思うが、ともかくこのようなあからさまなフレーズにまとめられて、柳沢厚労大臣の発言がヒステリックに(マスコミの扇動だと思うが)批判される。

でもそれなら、と私は思う。
女性による男性蔑視の数々の表現も決して許されるものではない。(ありますよね、意地悪で残酷な表現いろいろ)

わかっている。公人たる大臣、しかも少子化問題担当の大臣が公の場で言うべき言葉ではない、と怒るのもわかる。

しかし、世の騒然たる空気は「発言どころか思うことさえいけない」という雰囲気だ。現に民主党の小沢党首は「政治家として以前に人間として(そのような考え方は)ありえない」と言っていた。

子供を生み育てやすい制度を整えもせずに、女性にばかり責任を押し付けるのが許せない、という言い分もわかる。

しかし、生みたくても生めない、育てたくても育てる余裕がない家庭が沢山あるのも事実であると同時に、子供を生み育てることの喜びや重要性を感じることのできない人々、結婚しない人々(できない人々じゃないですよ)が沢山いることもまた事実なのである。

制度を整えることについてもただいま努力しているが、同時に、自分だけで人生を完結するのでなく次世代につなげる気持ちもどうか持ってほしい、柳沢大臣はそういう切実な思いを伝えたかったのじゃないかと私は思う。

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2007年1月18日 (木)

「華麗なる一族」

「テレビドラマ見ました」に、RIEさんからご意見をいただきました。
面白い問題なので、記事にします。

>長髪あり、パーマありの時代でした<

ええ、そうですね。若者はさまざまな格好をして自由を謳歌していました。
そして就職活動に入ると、髪を切り始めたんですね。
判で押したように髪を七三に分け、紺やグレー系の背広に身を固め、会社勤めに突入して行きました。
企業人であれば、しかも営業活動に携わる者であれば服装や髪型はとても大事な問題だというのは昔も今も変わりはないと思いますが、特にあのドラマの舞台となる時代は私はリアルタイムで生きていましたので、その「判で押したような企業人の服装」への変わり身の早さが一つの象徴的風景として心に蘇ります。

たしかに、プライベートでは若者は色々なファッションを楽しんでいたのかもしれません(私の知るかぎり企業人でプライベートでもキムタクのような格好や髪型をしている人はいませんでしたが)。
でも、冒頭のシーン。商談を終えて出てきたキムタクの姿は街並みから完全に浮いていました。私の見間違いでなければカラーシャツに派手な色(オレンジだったかな?)のジャケットかなんかではありませんでしたか?
あの時代でも、電通とか博報堂とかいう広告代理店などファッションセンス自体を問われる業界では割合自由な服装をしていたようですが、鉄鋼業という堅い会社の専務という立場であればなおのこと、あのようないでたちは現実的ではない、と思った次第です。

それでも、服装については百歩譲るにしても、あの髪型です。
パーマの髪を後ろになでつけて、後頭部を盛り上げてとんがらせるというのは、ここ数年の流行ではありませんか。昔はオールバックにしても後頭部を盛り上がらせることはしませんでした。
第一、勤務中とプライベート時を区別して、服装は変えられるにしても、髪型はそうそうパーマかけたり取ったり、切ったり伸ばしたりそんなめまぐるしいことできないですから。

・・・・とまあ、当時をよく知る者として、そういう細かいことが気になって、現実味が薄れるとなんだかしらけてしまうのですが、考えてみると、あの時代の企業人の格好をそっくりそのまま「あの」キムタクにさせるとなると(髪を七三に分け、ドブ鼠色の背広を着せる)、これはもう真面目なドラマでなく、お笑いというかコントの様相を呈してきてしまうでしょう。ですから、あれはあれで仕方がないのかな、とも思います。要するに、キムタクに鉄鋼会社の専務役をやらせるのは無理がある、ということだと思います。

さらに、考えてみますに、あのドラマ自体が現実離れした設定ですので(一応、モデルとなった企業や出来事はあるらしいのですが)、全体を面白いファンタジーとしてとらえるのであれば、キムタクがどんな格好をしようが何もいちいち目くじらをたてることもないわけで。

要するに、「細部の描写にこだわらずともただ楽しませてくれればそれでいい」とする人もいれば、「大作と言われる社会派小説をドラマ化したものであればなおさら現実的な細部」が気になる私のような人間もいる、という、世の中にはいろいろな人間がいるものですね、というお話でした。

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2007年1月16日 (火)

テレビドラマ見ました

テレビ朝日「マグロ」
天海祐希も良かったけど、お調子者でガサツな東北弁の漁師が見事にハマッていた高橋克典が良かった。
漁師のおカミさんにしては色白でマダムのような松坂慶子も、おばさんぽい演技はうまかった。

日本テレビ「演歌の女王」
天海祐希も良かったけど、軽佻浮薄の原田泰造、好色ド派手の高畑淳子。非常にうまい。抱腹絶倒。ドタバタ加減が私好み。これは毎週見ようと思う。

TBS「華麗なる一族」
昔、小川真由美のやった役を鈴木京香が。妖艶な厚化粧に雰囲気は出ている。
昭和の経済成長期の話なのに木村拓哉の今風の髪型や服装に不快感を覚える。せっかくの40年代街並みが一人のジャニーズアイドルで台無し。誰の意図か。
豪華キャストに豪華舞台、お金かかってそうだから言うと気の毒だけど、演出がまずい。面白くない。「ドラマのTBS」と言われた頃の「金曜ドラマ」はあんなに良い作品がいっぱいあったのに。

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2007年1月 9日 (火)

可愛くてキラリと光る日本

真魚さんの記事に返信です。 

>主権国家で言う国家とは、人々を軍隊と警察で支配し管理する権力機構です。国家の命令であるのならば殺人も合法になります。国家にはそうした側面があるから、左の人々はとにかく「国家がコレコレを命じる」となるとハッと警戒するわけです。<

私は国に「人を殺せ」などという理不尽な命令をされたことがないので、左の人々のように国家を対立するものとして警戒することはありません。もちろん国民が自分たち自身で作った政府を間違いがないか監視するのは当然ですが、ほとんどの国民は私のような気分でいるでしょう。
独裁国家でもなく、マスコミが大きな力を持つ国では、「世論」に怯えているのは当の為政者のほうですよね。

>教育の目的とは、この公の意識を教えることだと思うのです。robitaさんは、これを愛国心であると言われているから、左の人は首を傾げてしまうのです<

「愛国心」を「一丸となって戦争に突入してしまう」というただ一点にのみ特化してしまう強固な思い込みこそ、とても危険なものだと私は思います。
「愛国心」という言葉がどうしてもイヤならばということで、私は「国を大事に思う心」「良い国にしようという志」と、説明じみた言葉に言い換えて使ってきたんですが、もうそんなことはどうでもいい、曽野綾子さんの言う「鍋釜並みの必需品」でいいじゃないか、怖がることは何もない、「愛国心」でいいじゃないか、と思っています。
これは、左も右も真ん中も関係なく、この国の者ならば誰でも持っていて良いはずの根本精神だと思います。左翼だから愛国心を否定する、なんていうのはお話になりません。
(でも、どうしても「愛国心」という言葉にアレルギー反応が起きてしまうのであれば「良い国にしようという志」と表現するほうがいいかな。どっちでも同じことだと私は思っていますが)

しかし、私が始めからずっと言ってきたのはそんなことではない。
真魚さんは、丁寧な記事をいくつも書いてくださって、その最後にいつも、「このようにする必要があるでしょう」とか「こうすればいいのです」とかいう言葉で締めくくられますよね。
真魚さんだけじゃなく、ネットや新聞の読者投書欄で立派な意見を述べられるかたがたもみんなそうです。「こうするべきだ」とか「こうでなければならない」とか。

特に新聞の読者の意見なんてもうずうっと昔から立派な意見としていくらでも掲載され続けています。でも世の中変わらないどころか、人間の堕落度は増してきています。国民の一部が「このようにすべきだ」などといくら言ったところで、そんな意見はただの意見で、なんの実行力もありません。どうしてかというと、そのような立派な意見を読んでくれるのは、元々そういうのを読む必要のない「心ある」人々だけだからです。

何が言いたいかというと、わかりやすくするために、極端な例えをすると、例えば真魚さんが「教育はこうすればいいのです」という政策を掲げて国会議員に立候補したとすると、共感する人は票を投じます。
でも当選しません。なぜかというと国民の関心は教育などではなく、いま現在の自分の欲求が満たされること、それを満たしてくれそうな候補者に投票することしか考えてないからです。
それは当たり前のことではあるけれども、政治家にも教育者にもマスコミ関係者にも良い人材がいなければ国が良くなるはずがないのに、そして国民自身ももう少し賢くならなければ国が良くなるはずがないのに、教育を立て直す政治家がいない、と国民は不満を述べ立てているだけなんです。(政府に文句を言うのが大衆というものだということは私も何度も書いていますが)

国民一人一人の自覚を引き出す、つまり「国家の一員であること」を少しは自覚させる、というそのことからまず始めなければいけないのに、愛国心という表現ごときで大騒ぎして反対する。いったい本当にこの国を良くしたいと考えているのだろうか、と思います。
つまり、「教育システムをこのようにすればいい」という以前の話を私はしてるわけです。

「国が良くなれば国民一人一人も充実し幸せになれる」と考える順番が間違っているというなら、いったい何をどうしたら志ある政治家が生まれるのか教えてください。(「こうすればいいのです」という「立派な意見」だけではだめで、それが本当に国民を動かし政府を動かす具体的な実行力があるかどうかが問題なんです)

ところで、世界中を見渡して、愛国心を教えない国はない、などと言われます。
でも、そういう国々が愛国心を教えているから国民がみんな立派かといえばぜんぜんそんなことはありません。
むしろ、世界のどの国と比べても日本こそましな国なんじゃないかと思うのです。

私は40年近く前に外国で2年ほど暮らしたことがあります。
色々な国の人と接しました。
未熟さゆえあまりいろいろなこと深く考えもせずに無為に過ごしてしまったなあ、という反省はありますが、日本という国や日本人を外から見つめることができたということは一つの収穫だったな、と思います。

日本人は他国と比べて優秀だ、などという劣等感の裏返しのようなことは言いませんが、たしかな感触として「日本人の性根の良さ」を知ることができました。
穏やかで優しくて「和」を好む、そういった性根の良さを他国と比べて感じることができました。
こういう日本人が愛国心を胸に抱くことができたら、どんなに良い国になるだろうか、と思わずにはいられません。

「小さくてもキラリと光る」、誰かが言ったこのフレーズ、私は今でも大好きなんですが、日本人の可愛い性根を鑑みるに、小さくても世界から一目置かれるような国になる可能性は大きい、と新年を迎えて新たに日本という国に希望を託したいと思います。

とは言え、私は国のことを考えるより自分の家庭の幸せのために行動します。家族を信じていますから国家がどうなろうと本当はちっともかまわない。(^o^)

真魚さんがさらにさらに書いてくださるかもしれませんが、これからはすぐにはお返事できません。
怪しいコメントやTBを削除するために一日一回はPCを開きますが、記事もそうそう書けません。書きたいことは山ほどあるけどね。

母の介護を、同居している妹がその大部分をやってくれていましたが、家の改築も視野に入れて介護を今度はこっちで全面的に引き受けようと思っています。
この国の介護保険制度に私たちはすごく助けられ、ほんとうに有難く思っています。そんな経験談もいつか書いてみようと思っています。

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2007年1月 1日 (月)

これでどうでしょう②

真魚さんにいただいたコメント二つ http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_f2e8.html#c8775066 http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_f2e8.html#c8879303 にお返事です。

>いえいえ、robitaさんの言われることは十分よくわかっています<

それなら、話は早いじゃないですか。

>「良い国を作りましょう」と言われたら、「ええ、そうですね」と答えるしかありません。それで会話は終わりになります<

終わらないですよ。だってそこから始めるんですから。
日本人が「国」を意識したことすらない、そのことこそが問題の根源なんですから。

真魚さんは、改正教育基本法の「職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。」という一文にムカッときて、
『ニートの問題の根本は、ワカイモンが勤労を重んじないからニートになっているわけではなく、非正規雇用になると正規雇用になる機会が極端に少ないというこの国のいびつな労働市場の構造に問題があります。改正教育基本法は、そうしたことには目を向けずに、ワカイモンに向かって「おまえたちが、きちんと働こうとしないからだ」。あるいは学校の教師に向かって「おまえたちが、ワカイモンに正しく勤労の意義を教育しないからだ」と言ってるようなものです。これはもう本末転倒です』
と仰っていますね。

でも、私が思うに、労働市場を整備しないという国も悪いかもしれないけど、働かない若いもんも褒められたものではないと思いますよ。両方に責任があるんじゃないですか。

それでも、「若いもんは悪くない、全て国が悪い」というのなら、それは、

すべては政治のせいだ、国のせいだ、というのはつまり、すべてを国家に委ねる「国家至上主義」と同一ではないんですか。それは、真魚さんが何より大事とされる「個人の自由」「個人の尊厳」と矛盾していると思うのです。

「個人の自由」にさせてほしい、しかし、責任は全部「国」にある、というのは虫が良すぎやしませんか。

政治が悪い、政治家が悪い、官僚が悪い、と皆さん悪口の言いたい放題ですが、そんなに悪い人たちによってこの国の政治が行われているのはいったいどうしてなんでしょうか。

「国」というのはつまり悪い「政治家」や「官僚」であり、その「悪者ども」と「我々健全で善良なる庶民」とは敵対するものであり、闘い続けていかなければならないのである!・・・という敵対関係の思い込みからいい加減に脱しなきゃいけないんだと思うんですよ。

「国」は「国民自身」であり、その「国」を良くするのは、我々国民でなくていったい誰がしてくれるというのでしょうか。

政治家や官僚を勝手気ままに批判しているだけではだめなんだ、国の構成員である自分たち自身のいったいどこがいけないのかを考えることこそ「国を良くする」ための第一歩なんだと、気付くことが大事なんじゃないですか。

法律を遵守することでちゃんと国民の義務は果たしています、その他のことには関知しません、というのでは国は良くならないんじゃないかなあ。

政治家が悪い官僚が悪い教師が悪い警察官が悪い経営者が悪い、全て制度が悪い、我々は悪くない、と言い続けるだけで果たして何か良くなるんでしょうか。
今の政府はだらしがない、こんな政府によって「愛国心」を押し付けられたらたまったもんじゃない、と「愛国心」嫌いの方々は仰いますが、そもそも国民というものは政府に満足したためしがありません。いつだって文句の言い放題です。「良い政府」が「愛国心」を言うならききましょう、というのでは永遠に「国を大事に思う心」なんて誰にも宿りません。

良い政治家、良い官僚、良い教師を育てる国のしくみや方針、それを我々が作らなければ誰が作ってくれるんですか。

報国心、愛国心がなければ、そんなことは実現しない。良い国にしよう、という志がなければ出発点にさえ立てないんです。

国という土台の上に国民の幸せがあるという教育を受けた子供たちの中から、志ある政治家や公務員が育っていくんじゃないんですか。

そういう道筋をつけないまま、すでに出来上がってしまった政治家や公務員を指して「あれらが悪い」と批判するだけの人たちには、国を根本から立て直す気持ちなどさらさらないのだと私には思えてなりません。

もう一点、
真魚さんも「愛国心は大事」と思っていて、でも、「それを教育基本法に書くのはなんだかなあ」と仰っています。

しかし、国民の教育の根幹を成す法律、この最大の権威にそれを言わせるのでなければ、いったいどこでそれを表明したらいいのでしょうか。誰が言ってくれるのでしょうか。
我々自身がそのように権威づけるしか方法がありません。

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