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2007年3月29日 (木)

教育問題は堂々めぐり

私たちは現代の子供たち(大人たちも)の状況を嘆かわしく思い、教育をこうしたらいいああしたらいい、といろいろ意見を言いますが、結局は「バカ親をどうしたものか」、に尽きるのだと思います。

親がしっかり子供を育てられれば、学校は勉強だけをしっかり教えてくれればいい、ということになり、先生のしんどさは激減し、先生になろうという人も増えるわけで、そうなれば必然的に先生の質だって向上します。(今だって先生の質が悪いというわけじゃない、と私は思っていますが)

この「バカ親問題」こそが問題なのであって、私はもうそれは治しようがないじゃないか、と思っています。

ならば、もうあがくことはやめて、時間はかかっても今いる子供たちをとにかくまともな大人になるよう育てるしかないじゃないか、と考えるわけです。

それは学校の教育しかないじゃないか、そうですよね。

で、「公教育の役割はもう終わった」というなら、すべての学校を民間に委ねるとか、国は金だけ出して一切口出すな、とかいうことにして、それぞれの学校で特色ある教育をするようにすれば、親は自分たちの考えと合致する学校を自由に選んで子供を入れることができるようになる。これは素晴らしいことではないか・・・・、私も以前そう思っていましたが、しかし、バカ親ですよ。余計に混沌としてくるんじゃないでしょうか。ここでもやはり呉智英先生の「民主主義とは、バカは正しいという思想である」という至言が頭をよぎります。

そして、もう一つの重大問題は、何もバカ親の子供たちだけが問題を起こすのではない、という社会状況です。(「バカ親問題に尽きる」と言いながら何ですが)

しっかりした親、常識をわきまえた親、教育に一生懸命な親、の子供たちですら、おかしくなることが多い。こういった社会状況がいったい国が教育に関与しなくなっただけで変わるものでしょうか。

何か根本的に国の体制でも変わらないかぎり、教育の枝葉をいじっただけでは変わらないんじゃないか、という気がします。

それでも私は、この日本という国が世界中の国と比べてもそんなにひどい国とは思わない。むしろすごく良い、と思っています。

若い人にはどんどん海外で見聞を広めてほしい、と思います。そして外から日本を眺めてほしい。祖国がいとしく思えてくるはずです。もちろん、海外に出かけなくたって、情報によって外国の実情は知ることができると思います。「外から眺めてみる」とは、そういうことでもあると思います。私もそうやっていろいろな書いたものを読んで知りました。

日本はダメだダメだばかり言ってないで、もっと自信を持ってもいいんじゃないですか。

政治家だって官僚だって、ダメなのもいるかもしれないけれど、一生懸命な人のほうがずっと多いのではないですか。
私は日本政府を信用していますが、みなさんはどうですか。信用できませんか。

官僚組織が腐ってる、というなら、良い国を作ろう、と育てられた子供たちがそれを作り直してくれるかもしれません。

                         ↑
  (しかし、これ、紅衛兵を育てるみたいなことになっちゃいますかねえ、あはは)

私は日本という国は、理想的(に近い)な国家のモデルになり得るんじゃないか、それぐらい日本人の国民性や能力に期待しているんですが、買いかぶり過ぎでしょうか。

_________________

徳育について;
nazunaさん【どうしても徳育をもうけるのなら、新しく各界の方々に「教材」を書いてもらい、その説き方も書いてもらうことしかない。それで全国一律の「質」を保証するしかないと思う。】というお考えは非常に良いと思うのです。

でもnazunaさんは、【モラルや倫理の部分は「学校にあまり期待しない。依拠しない」というのが今のところのnazunaの姿勢です。】と仰います。

つまり、そういうことは、公教育の中で一律に授けるものでなく、心ある人々の自主性に任せるものではないか、というお考えです。

でも、「人々の自主性」に期待できない世の中になってしまったからこそ問題なのに・・・・、ああもう、堂々巡りですねえ。

だから、インターネットでの発信がぜひとも必要であり、このようなブログの発達も何か人間を超えるものの意思によるのではないか、と私は感じるのであります。 
         

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2007年3月27日 (火)

インターネットは神さま仏さまの思し召し

深夜のnewsの真魚さんと、「国家と教育」について、ずいぶん前からやりとりをしています。

真魚さんと私、意見が対立しているように見えるのですが、そうではなくて、単に別の問題についてそれぞれ言ってるに過ぎません。

結論から言いますと、「地域の実情に合った教育」(真魚さん)と「日本国民としての教育」(robita)は、両方大切で、両方必要だ、ということです。(地域に合った教育は多かれ少なかれ既に行われているんじゃないでしょうか)

どうも私が「国の方針を上から下に押し付けるべきだ」と言ってるかのように受け取られているようですが、そうではなくて、「良い教育」を子供たちに施すためのその手段はどうするのですか、と私は言ってるだけなのです。中身のことではないです。

ちょうど、kakuさんも「国の押し付けはダメ。国民自身がしっかりしなきゃ」という主張をしていらっしゃるので、合わせて読んでいただくといいと思います。

「人間として」「国民として」大事なことは何か、わかる人にはわかっています。
それをどうやって伝えるのか。
「ダメな大人が多い」というなら、そのダメな大人にどうやって伝えるのですか、ということです。
「子供をこう育てよ」と伝える手段そのもののことを言っています。

ダメな大人をいまさら育て直す方法はありません。
だから私は「ダメでない大人になるように子供を育てるしかない」と何度も言ってきました。

親が子に、または、大人が若い世代に、真っ当な生き方を教えるべきだ、といくら力説したところで、その親や大人自体がそれを教えられないダメ人間なのだとみんな嘆き悲しんでいるわけなんでしょ?

どうするんですか。その大人たちに誰がどうやって教えるんですか。

昔のように、「伝統の継承」とか「人間としてのありかたの根源」とか、そういう大事なものに対する意識が自然に備わっていた時代ではもうないのではないですか。
シンプルに「こうするものなのだよ」と親が子に伝えられる時代ではなくなったんです。もうぐちゃぐちゃに複雑になっちゃったんです。

愛国心も大事、宗教心も大事、先祖に思いを馳せることも大事、全部大事なのはわかっているんです。
ただ、今の時代、誰がどうやって伝えるのか。
何が大事なのか、何を教えればいいのか、そんなことは、もうずっと前からわかる人にはわかっていたはずです。

でも、何もできないまま、長い年月が過ぎ去っていっただけです。それはどうしてかというと、「手段」がないからじゃないですか。

それで、私は「愛国心」とか「道徳心」とかの「大事なこと」は、公教育で教えるしか手段がないじゃないか、と言い続けてきたわけです。

(以前、真魚さんが「『公共心』でいいじゃないですか。なぜ『愛国心』なのですか」と仰ったことがあります。私は「公共心」だけでは「弱い」と思います。根拠は、長くなるのでまたの機会に書きます)

nazunaさんという方の記事を読んでいただけますか。  

私はこれは真理だと思います。

でも、このことがわかっても、わかる人にわかるだけで、教育にそれをどうやって導入すればいいのでしょうか。

公教育で特定の宗教の考え方を教えることはできないのでしょうから、難しいことだとは思いますが、お坊さんのお話を聞く、という時間を設けることはできないものでしょうか。

しかし、いずれにしても、「このような教育を導入すればいい」と思っても、誰の力が働けばそれは実現するんでしょうか。「いずれにせよ、変えるべきは、ここなのです」と真魚さんが仰るのはもっともなのですが、「変える」とは誰の力が働いて「変わる」のですか。

それは我々国民自身に他なりませんよね。

ところが今の国民は「ダメ大人」ときてる。

だから私は結論を出したんです。
「教育をこうすればいい、という議論が国民レベルで必要だ。収斂されていく中でそれは世論として広がっていくはずだ。そしてそれはインターネットによるところが大きい」、たぶん真魚さんが考えていらっしゃるのもそういうことでしょう。
ということは、インターネットなるものが作り出されたのは神さま仏さまの思し召しに違いありません。

だから、これを読んでくださってるみなさんは、nazunaさんやkakuさんや真魚さんの記事をお読みになって自分だけ納得するのでなく、いろいろな場で紹介してください。そして話し合ってください。
それは国民の義務です。よろしいか。
国が押し付けちゃいけないんだったら、私が押し付けるしかないじゃないですか。

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2007年3月18日 (日)

内心に立ち入る・・・?

人の心がおかしくなっている、と人は言う。
豊かさのせいだとか、あいまいな国柄のせいだとか、宗教心がなくなったせいだとか、いろいろなことを言う。
軽々に人を刺したり、自殺したり、抑制がきかなくなっている、と言う。

そして原因はこれなのだから、ここをこうしたらいい、などと言う。

しかし、私は思うのだが、「ここをこうすればいい」の「こうする」とは、いったいどうするのか。

例えば「宗教心がなくなったのが原因だから宗教心を持てばいい」、これはまことにその通りではあるのだが、では、「持てばいい」と言えば、宗教心がない人が持つようになるのだろうか。

そんなこと言われなくたって、自分で自分を律することのできる人はどんな世になろうと、そうするのである。

世の中がおかしい、公徳心がなくなっている、気力が失われている、なんて人は嘆くが、ちゃんとしている人だってちゃんと存在する。

問題は、ちゃんとしていない人が増えていて、そういう人たちに、「こうすればいいのである」という声が届かないことなんである。

国が人の心に介入すべきでない、と主張する人たちは、「そういう人たちは放っておけばいい」、と言っているに等しいと思うのだがどうだろうか。

公教育で、そういったことが教えられないのであれば、放っておくしかない。

だって、親も教えられない、隣近所のおじさんおばさんも教えられない、のであれば、そして唯一「首根っこ捕まえて」教え込むことができる公教育でも「人の心に介入してはいけない」のであれば、そういう目覚めない人々はこの豊かな社会の中で「どうぞご自由に」と放置するしかないではないか。
そういう人たちは「ためになるお話」を聞く気なんかさらさらないのだから。

私は以前こんなことを書いた。→「格差・・・?」  

この「格差」は、インターネットやなんやらで「立派な意見」が広がるようになれば、自然に埋まっていくのだろうか。
私にはわかりませんねえ。

      
        
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2007年3月15日 (木)

誰が見ているのか

ななしさんから、ご指摘を受けましたので、「自分とは何か」について書いてみます。

なぜ、この世はある、とわかるのでしょうか。
それは知性ある(つまり考える)我々が、そう認識するからですよね。
自分が死んでもこの世は存在し続けるわけですが、しかし、いなくなった自分が認識しなくなったら、この世は存在しないに等しいのではないですか。
すべてを認識する主体である「自分」の脳があるからこそ、すべてがある、とわかるのに、その主体がなくなる、ということは私には考えられません。

死んだら「自分」は消滅して、ただ暗黒の中にあるのみ、ということなんでしょうか。
でも、その暗黒はいったい誰が認識するのでしょうか。

死生観は人それぞれですから、死んだら天国に行くとか地獄に行くとか、霊魂は不滅で別の体になって生まれ変わるとか、千の風になって残された人々を見守っているとか、以前見せていただいたフラッシュのようなことではないか、とか、そうありたい、と願うものを人は信じようとします。

それはそれでいいと思うのです。
信仰というものは魂の救いですから、人に迷惑のかからない限り、それぞれのことを信じる、それでいいと思います。

「自分の脳の存在」に関して思いをめぐらすことと、信仰という救済とは別ものです。

さて、繰り返しますが「自分」がいなくなったら、「認識する脳」がなくなるのでしょうか。
それはありえない、と思いませんか。思わないですか。
私は、そんなことありえないと思うんです。

「自分」は常に「存在」しなければならない。この世が存在するために。

ここで、ちょっと待てよ、と思わせるのが、宇宙や人類が進化してきた過程です。

「脳」がどこにもなかった時にだって、宇宙は存在したではないか、と思いますよね。

ここからはもう私の手には負えません。

池田晶子さんは、たぶんそういうことについてもたくさん書いておられるんでしょうね。
私は彼女の著作を一冊も読んでおらず、週刊誌のエッセイを時々読む程度だったのでよく知りません。

しかし、巨大望遠鏡のおかげで140億年前の宇宙を目撃することができる、 などという状態は考えれば考えるほど、時間と空間のパラドックスという迷路を生み出し、誰にもわからなくなります。脳がなかった時の宇宙の存在は、今我々が見ていることでつじつまが合うのでしょうか。

ただ、このように地球上に脳があふれている今、その中のたった一つである「自分」はこの世を認識する主体以外の何者でもないはずです。そのことだけは確かです。

ですから、「自分」はいつでもどこでも存在するはずだ、と私は考えます。

もしかしたらこれは単なる「生まれ変わり思想」なのかもしれません。こうなるとちょっと俗っぽくなってしまいますが。(^_^)

でも「前世」とは何の関わりもないでしょうから、「前世の記憶」などということは私には信じられないのです。

ただ、「『自分』がなくなることがない(ある意味「生まれ変わり」)からと言って、自分を決して粗末にしてはいけない」、これが大切なことだと思います。
これは、人間としての一つの信仰で、「自分の命を粗末にするとバチがあたる」と、私は思っています。

週刊新潮3月15日号で、池田さんが知人に宛てた手紙の中の「やはり、生きようとする意志を積極的に肯定することが大切なのだと思う。私は今まで生に対する執着がないから仏になれると思っていたけれども、生きることを全うしないと成仏しないのかもしれない、それに気付いてから前向きに病気と闘おうという気持ちになりました」という文章を読んで、私はとても嬉しくなりました。

「生きても死んでも大差ない」と言い続けた彼女から「成仏」という言葉が出てきたことに私は感動しました。そうだ、これでこそ、人間なんだと。

死ぬことは怖くない、でも命を粗末にしてはいけない、古来、人間が言ってきたこと、やはりこれこそが真理なんでしょう。

「自分がいないと世界は存在しない」、でもあなたが死んだ後も世界は存在するんです。そしてそれを認識する「自分」は、新たに「存在」を開始する、なんのことかわからないかもしれないけれど、私はそう思っています。

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2007年3月13日 (火)

可愛い女

男にとって好ましい「可愛い女」でいるということは、「生き残り」の最もプリミティブな形である。

可愛い女なんかまっぴらごめんとばかりに自立あるいは社会での責任を果たそうとする女こそ、実は「可愛い女」なのだが、そう感じる男は少ない。

本当のことを言えば、元々、女という生き物は可愛くなんかないのである。
男を、保護させるように仕向け、自分と子供を守るしたたかな本能で動いているのが女だ。
可愛い容姿や仕草や従順さ素直さで男の「保護本能」を引き出そうとする。

「男を立てて男の保護を求める可愛い女」より、古い価値観に背をむけてひたむきに頑張る女のほうが、本当はずっと可愛いげがあるのである。

しかし、男の正体を知るしたたかな女は、自己抑制のふりをして男を操縦し、最終的な「生き残り」を勝ち取ろうとする。

もし私が男だったら、頑張る姿に悲壮感を漂わす女に惹かれるかもしれない(無論ある程度の外見にはこだわるが)。
女である今でも、不満を内包しながらもぬくぬくとした専業主婦より、仕事や子育てに難儀しながらも女性らしい感性を失わないよう健気に頑張る女性たちはとても可愛いく映る。

しかし、それは女である私が思うことであって、現実の男は職場で髪振り乱す女より家事育児をしながら待っててくれる女のほうが可愛い、いとしい、と思うのだろうから仕方がない。

今現在、女である私は、「もし男だったら、その女のどんな過去も受け入れて」などと度量の大きいところを見せることができるが、本当に男だったら、そのように思うかどうかはわからない。

男にその度量を期待することができるのだろうか。なんといっても、男は女の掌で踊っているだけだそうだから。

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2007年3月12日 (月)

男も女も元気なほうがいい

前記事のkakuさんのコメントに返信です。

>robitaさんの前記事およびそこでリンクされている記事において主張されている核心とはどのようなことなんでしょうか。<

疑問を持たれるのは当然で、私も書きながら、こんな散漫な書き方じゃ「核心」がいったいどこにあるのかわからないじゃないか、と思ったくらい、思考があちこち飛んでますね。わかりにくくてごめんなさい。

整理してみます。

①女は「近頃の男は覇気がない」と嘆く。

②それが事実だとしたらその原因はどこにあるのか。

③原因は;
「男女共同参画の推進によって、女性がどんどん元気になりそれで男性がビビるようになってしまったのか」
「もともと生物学的に弱い男性が、女性の変化についていけなくなってしまったのか」(上の理由と同じようですが微妙に違います)
「『弱い者を体を張って守る』という覚悟を教育の中で教えなくなってしまったからか」
「日本という国がそもそも経済にばかりシフトしまい、金さえ儲ければそれが良いことだという考えが蔓延してしまって、損はしても義のために行動する、というような姿勢、つまり『潔さ』に欠ける国になってしまったからなのか」
「国自体が男らしい国ではなくなったからなのか。つまり男が勇ましくなくてもやっていける国であり続けたからなのか」

これらについて私は書いたつもりでした。

>robitaさんのこの主張に加えて過去の少子化などに関する記事を拝見すると、要するに「女がもっと男を立てておけば万事うまくいくのよ」と言うことかいな、と思ってしまうわけです。<

これはある意味その通りではあります。「男を立てておけば」というより、「男女それぞれの役割を果たしていれば」ということなんですが。
つまり、
【「男がこうである」とか「女がこうである」というのは、何らかの生存のメカニズムが働いてのことと思われる】
【生物が種を存続させるためのメスの働き、オスの働き、という科学的考察抜きにこの問題は語れない】

と、私は以前このように考えていました。「種の存続」という観点からだけ見れば、これは正しい、と私は思います。もちろん、現代人にそぐわない「自己犠牲」ということが土台になるわけですが。

しかし、もはや人間はそのような「生物」ではない、肥大した知能は種の存続の原始的なメカニズムなどとっくに凌駕していることを今では理解します。

前に記事にした「百年の恋」という小説などによってもそういう理解を深めました。
この小説では、「できる妻」は、「ダメな夫」に、「覇気を持て」などとは全然要求しないわけです。
これこそ、本当に「できる女」の正しい態度であり、そうあるべきと私は思います。

ところが、多くの女性はいまだに、自分はこんなにできるんだから、あなたは「男なんだから」もっと男らしく、もっと仕事ができてほしい、などと望んでいるのではないか、という疑いを持つわけです。

男女は平等だし、男女関係のありかたはさまざま、ということがわかっているはずの女性たちが、まるでそういうことを忘れたかのように、男に無理難題を要求しているのではないか、という疑いを持つわけです。

まさに、kakuさんの仰るこのこと;
>そうじゃなくて、女性に「せっつくならばお前が引き受けよ」と言ってやって、本当に引き受けさせてあげること、つまりところてん方式を崩させてあげるよう邪魔しないことが解決への道なんじゃないでしょうか<

だと思います。

私は要するに、女性たちに対して「男に何を望んでいるの?」と問いかけてるわけです。

ずっと前、こういう記事を書きました。→「男が家事育児に参入すると」 

この傾向がどのように発展していくのか、今はまだわかりません。
でも、女性たちはそのうち「おばさんみたいな男ばっかりで、もうやだ~」なんて言い出すんじゃないかと心配で心配で。
だって男同士で「あっちのスーパーのオムツが100円安い」とかなんとかお喋りに花を咲かせるようになるんですよ。

まあ、その時はその時ですが。

それでもなお、私は「日本の男が元気がない」原因をぜひとも解明してほしいと思うのです。
原因がわからなければ改善もできませんから。

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2007年3月10日 (土)

「毅然」とか「あいまい」とか

前記事にkakuさんがコメントをくださったので、返信します。

【「くだらないこと」と思い始めた】、というのはこういうことです。

「個」より「公」を優先させた人々の行動のおかげで(何も戦時のことだけじゃなく、連綿と続く日本社会の歩みの中での有名無名の数多くの人々のことです)、我々の社会は豊かにもなり、正しくもなってきたと思います。
「国のために個を捨てて死ぬこと」がくだらないことである、と教えてきたのが戦後民主主義ですよね。
たしかに、戦争で血を流すのは無益で恐ろしいことかもしれません。しかし、その教えを勘違いして何でもかんでも「公」より「個」を優先させることが良いことだ、と日本人が思い込んでしまった、その弊害が出てきているのだと思います。
「個」より「公」を優先させてきた人々によってもたらされた恩恵は忘れてはならない、という意味で書きました。

すべての人が「個」を埋没させて「公」に生きろ、なんて言ってるのではなく、せめて、国のために命をかけて働くことの尊さを認識するぐらいはしたらどうか、そういうことをしてくれる人々に敬意をあらわしたらどうか、ということなんです。

「公」や「国」を意識することで、人は大人になるんだと思うんです。

>戦場でドンパチやって流す血なんてまったくもって幼稚、下品!<

武器を持って身を守る、応戦する、ということはアトラクションでもなんでもなく、好きだからやるのでもなく、いわば、ならず者に対する正当防衛ですよね。
他国との利害を戦争で解決しようという気は日本にはまったくないわけで、紛争地域に人道支援に出かけた際、ならず者に対する応戦もできない、という国のありかたのほうが幼稚じゃないんでしょうか。
それとも戦後復興のお手伝いなどは必要ないのでしょうか。お金さえ出してればいいんでしょうか。まったく安全になって日本人が入っても大丈夫な状態になった時に初めて「商売させてください」ってのこのこ行くんですか。

>日本人(この場合主に男性)が流してきた「汗」や「涙」こそ誇るべき「流した血」だと私は思います。<

たしかに、日本男性はよくやったと思います。でもそれこそ、「日本」というある意味「個」の中での頑張りであり、国際社会での「公」の働きとは別ものですよね。

>日本人男性に覇気が無い、と言うのが事実だと仮定すれば、それは世界における我が国の地位/立ち位置の不安定さに影響されちゃってるだけではないか、と。<

そもそも、なぜ立ち位置が不安定なのか、ということですよね。
つまり、どうしていいかわからない、はっきりと外交姿勢を示すことができない、それはどうしてなんでしょう。
よくはわからないけど、国際協力のありかた、つまり日本国として何をすべきかがあいまいだ、というのは、国家体制があいまいだということではないんですか。

>さかもと未明さんの意図は知りませんが、私が「ニッポン男児、しっかりせえよ」と言うには「君らには実績がある、自信を持って、背筋を伸ばして歩かんかい!」そういう意味があります。<

「ニッポン男児、しっかりせえよ」って言ってあげれば、しっかりするんですか。
「君らには実績がある、自信を持って、背筋を伸ばして歩かんかい!」って、言ってあげないと、自分の実績も認識できないんですか。

>しかし、付け加えるならば、「主戦場」にいる男はやっぱり強いんです、と言うのが私の実感。

体力・エネルギー、そして生来の戦闘嗜好、これはやはり女の方が弱い。加えて、男は「家庭外」と言う社会において、今でも厳然として多数派。<

男が「現場」では多数派であり、主戦力である、ということと、生物として弱い、ということとはまったく別のことだと思います。
たしかに職場で得る利益は男のほうがずっと大きいでしょう。
だからそれを平等にしろ、という言い分も当然だと思います。

私は、すべての女性が癒す側にまわるべきだなんて思っていません。
カップルのありかたは多種多様。
ただ、男女問題を考える時、一般的に言って男性はストレスに弱い、ということを考慮に入れるべきだ、ということです。

私は現場を知りませんから、窓際OLさん(作家北杜夫の娘さんである有名企業にお勤めだそうです。あんなこと暴露しちゃっていいのかな)のリポートを読んで、今の男はそんなに覇気がないのか、なんとかしなくていいのか、と思ったわけです。

>今後も日本が憲法9条的精神を継いでゆくならば、経済的・技術的・知的立国で行くしかなく、その為には、日本人の精神的な不自由が一番の敵、と私は思っています。

今までは選択の余地無く米国一辺倒だったけど、生き残る為なら中国にだって尻尾を振るときはちゃんと振ってみせる、自発的に。<

(でもkakuさんは、靖国問題に関しては絶対に中韓の圧力に屈してはだめだ、という考えですよね)

私も以前こんなこと書いたことあります。
【あいまい、したたか、器用、ドライ、ちゃっかり、何とでも言いなはれ。生きるっちゅうことは、生き延びるっちゅうことは、そういうこっちゃ。
人間というのは混沌とした存在なのだ。
「筋を通す」だけでも生きられないし、「プライド」を捨てることも恥ずかしい。】
「幸せのつかみかた」 の下のほう。

「立ち位置をはっきりさせる」とか、「生き延びるためにあいまいな態度で目くらましをかける」とか色々使い分けなきゃいけない、国の運営はまったくもって難行苦行の連続ですね。

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2007年3月 9日 (金)

しっかりなさいませ

「男の覇気」の続編。

1月発行の別冊「正論」に載っていた、漫画家さかもと未明の「野蛮でもいい、力強き“ますらお”の復活を 」という文章を紹介する。

【 少子化、晩婚化が危惧される昨今の日本。それにはもちろんわたくしたち女の愚かさが一因としてありましょう。わたくし自身、フェミニズムの危険思想に多少毒されて二十代を過ごしてしまったことは認めざるをえませんし、「女の時代」などと囃されいい気になりすぎた女たちが、殿方の股間をちぢませてしまったツケが、自分たちにまわってきている現実も認めます。けれど三十にもなった女たちがみないい気になっているわけではないのですよ。わたくしの周りの女性たちは、顔を合わせれば「いい人がいたら生き方を変えたい」と、みんな言っているのです。けれどもわたくしたちに対する男たちの対応は以下のごとくなんですの!】

と、友人知人の女性たちが被害をこうむる、情けない男どもの実情の羅列が続く。
そして、

【 いっときは、ここまで男性をだめにしてしまったのは女の自立のせいなのか、とか、やはり働く女は幸せになれないのか、などとも考えましたわ。男を立派に育てるのには、女は後ろにひいていなくてはならないのかと。___中略___けれどもよく考えたらですね。女が仕事を持ったり、ちょっと才能を発揮したくらいで結婚も申し込めなくなる男って一体何?女が仕事をもたず、経済的弱者であるときしか「男」として振る舞えないなんて、メチャメチャ腰砕けであると証明しているのではありませんか?関係を持った女性を堂々と愛しているといえず、都合のいい女性と結婚して、自分の守備範囲を越える女性とは欲望の対象としてしか関係できない。より優れた女性に挑んでいこうという根性はなくて?】

このあと、軍事などの話に移っていくわけであるが、さかもとさんは、日本の男がだめになったのは国家体制のせいではない、という意見のようだ。
でも、何が原因か、ということははっきり言わず、ただただ男たちに「しっかりなさいませ!」と喝を入れているだけのように読み取れる。

私は、はっきり言って、日本の男に覇気がないのは戦後の国家体制にあると思っている。
そうでなければ、何故日本の男だけが覇気のない情けない存在に成り下がったのか、理由をみつけることができない。

「国を守る」、そのために体を張る、そういうことをくだらないことだと思い始めたところから日本の男は堕ち始めたのではないか。
自国の安全を他国任せにしている日本は世界でも珍しい存在なのだという。

私は何も戦争を奨励しているのではない。
自国の危急存亡を前にして、ただただ「逃げる」「避ける」「人に任せる」、そういう姿勢だけに固執することは果たして、男としてというより、人間としてどうなのか。

たしかに、危険を回避する一つの方法として「逃げる」という選択肢は立派に存在する。
しかし、逃げた自分の代わりに他の誰かが犠牲になることがわかっている時に、男はそれでも逃げるのか。

「命」が助かりさえすれば、「嫌なこと、危険なことは他人任せにする男」が増えても、それは良いことなのだろうか。

誰も思うように私も戦争は嫌だ。回避が先決だし、男をしっかりさせるために戦地へ送る、などという考えは本末転倒だ。

しかし、「大事なものを守る」、この気概がなければ、いったい男が力強く頼りになる存在たりえるだろうか。

こういうことを言うと「年配者はすぐ精神論を振りかざす」と言う人がいるが、人を人たらしめるものが「精神」でなくていったい何だというのか。

みんながみんな危険地帯に赴かなくてもいい。
せめて「兵隊さん、頼みます」という気持ちを持って送り出すことはできないものか。
身を挺して国のために働いてくれる隊員のみなさんに心からの敬意を表することはできないものか。
そうでなければ、誰が志願兵になって国を守ろうという気になるだろう。

さかもと未明のように「しっかりせよ!」と男に対して言い続けるだけで、男はしっかりするものだろうか。
そうであるなら、それぐらいいくらでも言ってあげるのだが、そういうことではないだろう。

ブログ始めた頃に「負け犬の本音」という文章を書いた。 
男女問題というのはまさに、国家に関わる重大懸案事項なのであって、窓際OL斉藤由香さんのエッセイで読み取れるように、男が家事育児を分担すればすべてうまくいく、というような話ではないのである。

「男は弱い」「ストレスの影響を受けやすい」と私は何度も書いた。
「男らしくあれ」「強くあれ」と要求されることでその重圧に押しつぶされる男がさらに増えるかもしれない。

それを支え、癒すのが女の役目だろうと思う。
「男は女の掌で踊っているだけ」とか「釈迦も達磨もひょいひょいと生む」などという言葉を引用して女のほうが上級だみたいな偉そうなことを言うからには、上級者の太っ腹や優しさを見せねばなるまい、と思う。

     
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(男としての「覇気」や「覚悟」は何も国際的な敵を意識することだけで育つものではない、ということについて、続々編をいずれ書きます)

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2007年3月 6日 (火)

わが師の恩

先日、TBSラジオ「日曜日の秘密基地」で伊集院光が学園ドラマに関してこんなことを言っていた。

「自分が子供の頃は、そういうドラマ見てても生徒たちの気持ちに共感してたけど、大人になったら、先生のほうに感情移入するようになった。俺に子供がいないせいもあるかもしれないけど、つまり、保護者の立場だったら子供の側に立って教師に敵対する感情を持ったかもしれないけど、(子供たちに対して)おめえら勝手なこと言ってんじゃねえよ、って思えるようになった。先生たちだって大変なんだよなあ、って」

教師対子供という構図では、必ず教師が悪いことになっている。

昔から嫌な先生はいたけれど、問題のない先生、良い先生のほうがずっと多かった。
それは今でもあまり変わりはないのではないか。

卒業式の季節。

「仰げば尊し」は歌われているだろうか。

先生についてあまり良い思い出がないにしても、特に気にかけてくれた先生に出会わなかったとしても、大多数の生徒がそんなものだと思う。

「旅立ちの日に」もいいけど、「未来へ」もいいけど、先生不在の歌ばかりがもてはやされるのはいかがなものか。

卒業の感慨を、自分を育ててくれた「学び舎」に対しての感謝の気持ちとして、一生に一度くらい厳かに表してみてはどうか。  ー→「仰げば尊し」

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2007年3月 4日 (日)

追悼 池田晶子様

哲学者池田晶子さんが亡くなった。
亡くなる直前まで週刊誌連載エッセイを続けておられたそうで、私もその連載を読んでいたので、昨日の朝刊で死亡を知って本当に驚いた。
自分の病気について何も語らず、昔から変わらぬ「自分の存在の不思議」について書き続けていた。

_________

私も子供のころから、「自分」と言う存在が不思議でたまらなかった。

この「自分」は他の「自分」ではなく、まさに世界の中心である「自分」なのである。これは心理学でいう「自我の芽生え」ということでなく、当然のことながら、性格としての「自己中心」でも「自分大好き」でもない。
この「自分」がこの世のすべてを認識するがゆえに、この世というものは存在するのであり、この世を認識し考える主体たる「自分」が存在しなければ、この世は存在しないに等しいではないか。
これほど不思議なことがいったい他にあるだろうか、そんな思いを人に言ってはみたものの、拙い言葉ではとても伝えることはできず、親きょうだいにも友人にも誰にもわかってもらうことはできなかった。

ところが、10年くらい前だったと思うが、偶然手にした週刊誌で、私の思いとピッタリ合致する文章に出会った。
それが池田晶子さんのエッセイだった。→「生きる」 
                         「ブラフマンってそういうことだったのか」 

それ以来、池田さんのエッセイを読むことが多くなったが、書かれていることはだいたいいつも同じ、「自分というものの存在、この摩訶不思議な現象について」だった。
最後まで興味はそのことにあった。

独身を貫いた彼女は「孤高」の印象が強く、おそらく人間関係も最低限にとどめていたであろうから、「自分という不思議」と向き合うことにおいては、俗世間に生きる普通の人々と違い、非常に濃いものであったろう。
結婚して、子供でもいれば、あのような哲学者たり得なかったかもしれない。

彼女はおそらく「自分の死」を重大事にとらえていなかっただろうと思う。これを「達観」とか「悟り」とか称するのかどうか、私にはわからない。
私は池田さんではないので死に行く彼女の脳に去来したものはわからないが、想像するに、新たに存在を始める「自分」がどんなものであるのか、死に直面して、彼女の思いはその興味だけに集約されていたのではないか、そんなふうに思うのだが、ちがいますか、池田さん。

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2007年3月 2日 (金)

男の覇気

週刊新潮にOLの斉藤由香さんの「トホホな朝 ウフフの夜」というエッセイが連載されていてなかなか面白いので時々読んでいる。
先日、「覇気のない男」と題されているのを読んだ。

【先日、某省の美人キャリアにお会いしたら、
「やる気のない男性ばかりで本当にイヤになる。何故こんなに男達に覇気がないのか、本当に不思議!」
と、ぼやいていた。
彼女は何十人も部下を持つ超エリートさん。
「覇気がない」「元気がない」と言われるオッサン側からは、
「派閥にも入らず、女はチヤホヤされて、楽だよなあ」
というやっかみが聞こえてくるが、女性達の勢いはとどまるところを知らない。
先日、テレビ局で新卒者の入社試験を担当する、イケメン男性にお会いした。
「テレビ局は人気がすごいですから、どんな新入社員をとればいいのか、大変なんじゃないですか?」
「会社側からの要求は一つだけ。『とにかく男性社員をとるように』ということだけです。入社試験の成績だと、上位何十人かが女性だけになってしまうんですよ」】
「あっ、そういえば防衛大学校でも成績の上位は女性ばかりだそうですよ。体力的な問題があるから一位は男性ですが、二位は女性だとか。出版社でも上位は女性らしいですよ」
「ウチもそうなんです。面接すると、女性は元気があって自分の言葉を持っているし、かわいくて明るいから、入社してほしい人ばかり。男性をとりたくても成績は悪いし、やっと面接までいっても覇気がない。いい男性をみつけるのは大変な苦労なんですよ。しかも入社しても、「自分の思っていた仕事と違った」「好きな部署に配属されなかった」と、一、二年で辞めてしまうんですからたまりません」
こっ、こんなことで日本の将来は大丈夫だろうか?
日本の男性はそんなに覇気がないのだろうか?
先週、出版社で働く美人編集者達とランチをした____中略____

「そもそも、本当に仕事のできる男性って一体どこにいるんだろう?」
「私、会ったことない」
「私も見たことがない」
美しいW子が髪をかきあげながら、ため息をついた。
「そもそも男性って四つのタイプに分類できると思わない?仕事ができてやる気のある人と、仕事はできるけどやる気のない人。できなくてやる気のある人、できなくてやる気もない人。
一番迷惑なのが、仕事ができないクセにやる気のある人なんだよね。」
「あっ、ウチも圧倒的に『できなくてやる気のある人』が多い。そういうのが部長になると、資料づくりが増えて大変なんだよね」
「そうなの!頼むから部内をかきまわさないでほしい。____中略____仕事ができなくてやる気がない男のほうが百倍マシだと思わない?」
一同大爆笑! 】

元気な女性たちの言いたい放題、どうでしょうか?
私は会社という現場を知らないので、こういう生のOLのリポートを読むと、へえそういうことになっているのか、としか言いようがないが、ほんとうにこの通りであれば、とどまるところを知らず能力を発揮する女性と覇気のない男性によって運営される役所や企業はどんなものになっていくのかなあ、と思う。

これを読んでくださっている男のかたがたには該当しないと思うのだが、世の男性が全体的にそういう傾向にあるようだ。

しかし、こんな現象は当然と言えば当然のことで、今まで何度も書いたが、もともと女は強く、男は弱いのである。

これまでは、女がそれをわかっていながら、社会の慣習上、男を立て、実質的に「手のひらの上で男をで踊らせてきた」にすぎない。

男女共同参画の世の中になればこうなることは必然なのである。「どうして男はこんなにダメなのか」などと何をいまさら嘆き悲しむことがあろうか。

それならば、と女性以上になるために努力することを男性に要求してもいいのだが、そうなるとやはり、弱い男性は強いプレッシャーを受け、ストレスによって余計ダメージを受けて破滅してしまうかもしれない。

男というもの、女というものをよーく認識して、腹をくくっていかなければいけない時代なんだよね。

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