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2007年3月29日 (木)

教育問題は堂々めぐり

私たちは現代の子供たち(大人たちも)の状況を嘆かわしく思い、教育をこうしたらいいああしたらいい、といろいろ意見を言いますが、結局は「バカ親をどうしたものか」、に尽きるのだと思います。

親がしっかり子供を育てられれば、学校は勉強だけをしっかり教えてくれればいい、ということになり、先生のしんどさは激減し、先生になろうという人も増えるわけで、そうなれば必然的に先生の質だって向上します。(今だって先生の質が悪いというわけじゃない、と私は思っていますが)

この「バカ親問題」こそが問題なのであって、私はもうそれは治しようがないじゃないか、と思っています。

ならば、もうあがくことはやめて、時間はかかっても今いる子供たちをとにかくまともな大人になるよう育てるしかないじゃないか、と考えるわけです。

それは学校の教育しかないじゃないか、そうですよね。

で、「公教育の役割はもう終わった」というなら、すべての学校を民間に委ねるとか、国は金だけ出して一切口出すな、とかいうことにして、それぞれの学校で特色ある教育をするようにすれば、親は自分たちの考えと合致する学校を自由に選んで子供を入れることができるようになる。これは素晴らしいことではないか・・・・、私も以前そう思っていましたが、しかし、バカ親ですよ。余計に混沌としてくるんじゃないでしょうか。ここでもやはり呉智英先生の「民主主義とは、バカは正しいという思想である」という至言が頭をよぎります。

そして、もう一つの重大問題は、何もバカ親の子供たちだけが問題を起こすのではない、という社会状況です。(「バカ親問題に尽きる」と言いながら何ですが)

しっかりした親、常識をわきまえた親、教育に一生懸命な親、の子供たちですら、おかしくなることが多い。こういった社会状況がいったい国が教育に関与しなくなっただけで変わるものでしょうか。

何か根本的に国の体制でも変わらないかぎり、教育の枝葉をいじっただけでは変わらないんじゃないか、という気がします。

それでも私は、この日本という国が世界中の国と比べてもそんなにひどい国とは思わない。むしろすごく良い、と思っています。

若い人にはどんどん海外で見聞を広めてほしい、と思います。そして外から日本を眺めてほしい。祖国がいとしく思えてくるはずです。もちろん、海外に出かけなくたって、情報によって外国の実情は知ることができると思います。「外から眺めてみる」とは、そういうことでもあると思います。私もそうやっていろいろな書いたものを読んで知りました。

日本はダメだダメだばかり言ってないで、もっと自信を持ってもいいんじゃないですか。

政治家だって官僚だって、ダメなのもいるかもしれないけれど、一生懸命な人のほうがずっと多いのではないですか。
私は日本政府を信用していますが、みなさんはどうですか。信用できませんか。

官僚組織が腐ってる、というなら、良い国を作ろう、と育てられた子供たちがそれを作り直してくれるかもしれません。

                         ↑
  (しかし、これ、紅衛兵を育てるみたいなことになっちゃいますかねえ、あはは)

私は日本という国は、理想的(に近い)な国家のモデルになり得るんじゃないか、それぐらい日本人の国民性や能力に期待しているんですが、買いかぶり過ぎでしょうか。

_________________

徳育について;
nazunaさん【どうしても徳育をもうけるのなら、新しく各界の方々に「教材」を書いてもらい、その説き方も書いてもらうことしかない。それで全国一律の「質」を保証するしかないと思う。】というお考えは非常に良いと思うのです。

でもnazunaさんは、【モラルや倫理の部分は「学校にあまり期待しない。依拠しない」というのが今のところのnazunaの姿勢です。】と仰います。

つまり、そういうことは、公教育の中で一律に授けるものでなく、心ある人々の自主性に任せるものではないか、というお考えです。

でも、「人々の自主性」に期待できない世の中になってしまったからこそ問題なのに・・・・、ああもう、堂々巡りですねえ。

だから、インターネットでの発信がぜひとも必要であり、このようなブログの発達も何か人間を超えるものの意思によるのではないか、と私は感じるのであります。 
         

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コメント

トラックバックをいただいたので、補足をさせていただきます。徳育についての「心ある人々の自主性に任せるものではないか」という私のコメントへの解説は少々ちがいます。

小中学校というところは、学問の入門期教育であるというのが私の持論です。そこで一番大事なのは、子どもの(人間の)もつ「好奇心」です。何故?どうして?知りたい!見たい!のやつです。

それを押しつぶさずに育てること、そして感じたり考えたりすることの基礎を身につけさせることが教育目標です。

そんな考えに立てば、あらゆる授業の中で必然的にあるいは結果的に、「モラル」や「宗教心」の基礎的な部分は養われるのです。

また、人間が集団で8時間も毎日いっしょにいるわけですから、相互に影響しあうのも事実です。そういう日常の中での共感や反発、事件と解決の中から、社会的なルールや他者との接し方を学べるのです。

「学校にあまり期待しない」というのは、今申しましたきわめて当たり前に何処の学校でもありうるメンバー構成に関係のない付与の条件が育てる、教育環境があるということなのです。問題は「それ以外」が大事であるとか、「それ以外」がないとダメとかという、過剰な期待感にあるというのが、私の意見です。だから「あまり」という言葉で、教育論議好きの陥るワナを未然に防ごうとしています。

もう少し強く言えば、「タメにする議論に振り回されている」現実に危惧を覚えているのです。ご理解のほどを。

投稿: nazunayh | 2007年4月 3日 (火) 09時53分

>nazunayhさん、

nazunayhさんは実際に小学校の先生をしていらっしゃったので、そういう方から見れば世にはやる教育論議というものの浅薄さや陥る罠に危惧を抱かれるのは当然のこととと思います。

学校で子供の好奇心を受け止めてきちんと育ててやれば自ずと宗教心やモラルというものは身についてくるし、集団生活によって自然と社会的なルールや他者との接し方を学べる、とのことですが、それならばそれほど難しいことではないように思います。
なぜ、誰も正しい対処ができないでいるのかわかりません。
これは国があれこれ押し付けるから現場の先生が何もできないでいる、ということなのですか?

それならば、「国は何もしないでほしい」という世論を高めて実際に国が関与しなくなったら、教育はある程度正しい方向に向かうということでしょうか。

でも聞くところによると、小学校に上がる時点ですでに子供たちは手がつけられない、ということです。(つまりこれは家庭の問題ですね)
私自身はそういうのは身近に見聞きしませんが、色々な情報により、そういう学校も数多くあって先生たちは本当に困っているのだ、と理解していました。

でも、そうでないなら、ことは案外簡単ではないかと私には思えます。
実際公立学校でも良い教育を受けてちゃんと育っている子供のほうがずっと多いのではないかと思います。

・・・・となると、何故われわれはこのように熱心に教育論議に花を咲かせているのでしょう。
よくわからなくなってまいりました。とほほ。

>「学校にあまり期待しない」というのは、今申しましたきわめて当たり前に何処の学校でもありうるメンバー構成に関係のない付与の条件が育てる、教育環境があるということなのです。問題は「それ以外」が大事であるとか、「それ以外」がないとダメとかという、過剰な期待感にあるというのが、私の意見です。だから「あまり」という言葉で、教育論議好きの陥るワナを未然に防ごうとしています。<

この文章を何度も読みましたが、すみません、どういうことなのかよくわかりません。つまり、どんな環境であっても「子供が育つ肥やし」になり得る、ということなのでしょうか。

いずれにしましても、学校の先生がどうしたいのか、それを明らかにすることがとりあえず必要だと思いますが如何なものでしょうか。

投稿: robita | 2007年4月 3日 (火) 17時45分

たしかに、堂々巡りなのだと思います。
そこで、こんな画期的な意見を紹介しましょう。最近はまっている養老孟司氏の「まともな人」にこう書いてありました。
「教育は、今荒廃していると言う。当たり前である」
「実験室のネズミは、生まれたときからエサを貰って生きている。だから、野生ネズミとは違う。しかし、実験室のネズミが逃げ出すと、ねぐらもエサも自分で探さなければいけない。だから、1週間も立つと、ちゃあんと野生ネズミと同じようになる」
「今の子どもは、エサもねぐらもあるのだから、教育の効果がないのは当たり前である」

ええと。伝統的な右翼思想の立場から申しますと(笑)日本人は生まれつき「良い心」を持っております。それ故、余計なことをする必要はなくて、読み書きソロバン、すぐに喧嘩をしないこと、物事をよく観察することだけ教えて、あとは放っておけば良いのです。そうすれば、日本の国のお恵みで、立派な日本人になるのです!(笑)日本思想の根本は「する」ではなくて「なる」なのですから。

ですから、最近の教育論議をみますと、左右どちらも「する」という立場から行われています。私は、古い日本人の立場として「なる」を主張したいわけです。nazunahさんのお話も同じこと、つまり教育を「する」のじゃなくて、どうせなるように「なる」ので、大騒ぎしなさんな、ということではないか、と。

無責任?まあねぇ。。。40過ぎて独身ですと、どうも、そういう考え方に陥ってしまうのですな(苦笑)

投稿: Single40 | 2007年4月11日 (水) 12時59分

>Single40さん、

文明の発達は、日本のような国をも「なる」から「する」に変えてしまったんでしょうねえ。
もう一度「なる」にしたければ、あの頃に戻るしかありませんねえ。あの頃とはいったいどの頃なのか私にもわかりませんが。

バカ親もワルガキも、不自然な現象ではなく、文明社会の自然な姿、というか、必然の結果なのかもしれません。人間があれもこれもと望んだ結果として現れることなんでしょうね。

もしかしたら「教育の荒廃」なんてたいしたことではないのかもしれません。いや、「荒廃」さえ本当にあるのかどうか。
真魚さんへのコメント( http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_4dbe.html#comment-18428118 )で書いたように、「何も外野がこんなに騒がなくたって心ある人の地道な努力でなるようになっていく」のかなあ、と私もようやく思い始めました。

投稿: robita | 2007年4月13日 (金) 10時13分

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