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2007年3月18日 (日)

内心に立ち入る・・・?

人の心がおかしくなっている、と人は言う。
豊かさのせいだとか、あいまいな国柄のせいだとか、宗教心がなくなったせいだとか、いろいろなことを言う。
軽々に人を刺したり、自殺したり、抑制がきかなくなっている、と言う。

そして原因はこれなのだから、ここをこうしたらいい、などと言う。

しかし、私は思うのだが、「ここをこうすればいい」の「こうする」とは、いったいどうするのか。

例えば「宗教心がなくなったのが原因だから宗教心を持てばいい」、これはまことにその通りではあるのだが、では、「持てばいい」と言えば、宗教心がない人が持つようになるのだろうか。

そんなこと言われなくたって、自分で自分を律することのできる人はどんな世になろうと、そうするのである。

世の中がおかしい、公徳心がなくなっている、気力が失われている、なんて人は嘆くが、ちゃんとしている人だってちゃんと存在する。

問題は、ちゃんとしていない人が増えていて、そういう人たちに、「こうすればいいのである」という声が届かないことなんである。

国が人の心に介入すべきでない、と主張する人たちは、「そういう人たちは放っておけばいい」、と言っているに等しいと思うのだがどうだろうか。

公教育で、そういったことが教えられないのであれば、放っておくしかない。

だって、親も教えられない、隣近所のおじさんおばさんも教えられない、のであれば、そして唯一「首根っこ捕まえて」教え込むことができる公教育でも「人の心に介入してはいけない」のであれば、そういう目覚めない人々はこの豊かな社会の中で「どうぞご自由に」と放置するしかないではないか。
そういう人たちは「ためになるお話」を聞く気なんかさらさらないのだから。

私は以前こんなことを書いた。→「格差・・・?」  

この「格差」は、インターネットやなんやらで「立派な意見」が広がるようになれば、自然に埋まっていくのだろうか。
私にはわかりませんねえ。

      
        
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