内心に立ち入る・・・?
人の心がおかしくなっている、と人は言う。
豊かさのせいだとか、あいまいな国柄のせいだとか、宗教心がなくなったせいだとか、いろいろなことを言う。
軽々に人を刺したり、自殺したり、抑制がきかなくなっている、と言う。
そして原因はこれなのだから、ここをこうしたらいい、などと言う。
しかし、私は思うのだが、「ここをこうすればいい」の「こうする」とは、いったいどうするのか。
例えば「宗教心がなくなったのが原因だから宗教心を持てばいい」、これはまことにその通りではあるのだが、では、「持てばいい」と言えば、宗教心がない人が持つようになるのだろうか。
そんなこと言われなくたって、自分で自分を律することのできる人はどんな世になろうと、そうするのである。
世の中がおかしい、公徳心がなくなっている、気力が失われている、なんて人は嘆くが、ちゃんとしている人だってちゃんと存在する。
問題は、ちゃんとしていない人が増えていて、そういう人たちに、「こうすればいいのである」という声が届かないことなんである。
国が人の心に介入すべきでない、と主張する人たちは、「そういう人たちは放っておけばいい」、と言っているに等しいと思うのだがどうだろうか。
公教育で、そういったことが教えられないのであれば、放っておくしかない。
だって、親も教えられない、隣近所のおじさんおばさんも教えられない、のであれば、そして唯一「首根っこ捕まえて」教え込むことができる公教育でも「人の心に介入してはいけない」のであれば、そういう目覚めない人々はこの豊かな社会の中で「どうぞご自由に」と放置するしかないではないか。
そういう人たちは「ためになるお話」を聞く気なんかさらさらないのだから。
私は以前こんなことを書いた。→「格差・・・?」
この「格差」は、インターネットやなんやらで「立派な意見」が広がるようになれば、自然に埋まっていくのだろうか。
私にはわかりませんねえ。
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