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2007年4月29日 (日)

なんとかなるさ

近頃は専業主婦でも携帯電話を普通に携帯しているらしい。

私は持っていないがほとんど不自由を感じたことがない。
外での仕事を持っていないし、しょっちゅう連絡を取り合わなければならない友だちがいないせいもあるかもしれない。

たまに娘と待ち合わせして行き違いがあった時など、「お母さんも携帯持ってよォ」と叱られることがあるが、「すまないねえ、お母さんがふがいないばっかりに」としおらしさは見せるものの、持つ気は全然ない。

「ケータイが壊れちゃって、マネージャーと連絡が取れなくて本当に困った。ケータイなかった時、みんなどうしてたんだろうね」と芸能人が言っているのを聞いたことがある。

ほんの10年ほど前は、ほとんどの人が持っていなかったのに、今やそれがなければ世の中は機能不全に陥る。まったく不思議だ。ケータイなかった時、みんなどうしてたんだろうね。

便利なものができると、それなしには人間は生きていけなくなる、というより、なかった時はどうしのいでいたのかさえ思い出せなくなるのだ。

私は19歳で車の免許を取った。運転が好きでよくドライブにも行ったし、買い物や旅行にもよく車を使った。

20代になって、社会問題にも目を向けるようになり、環境汚染は食い止めなきゃならないのに、自分が排気ガスまきちらしてちゃいかんじゃないか、と深く自省し、車を使うことををなるべく遠慮するようになった。

しかし、結婚して子育てが始まると、車はものすごく便利で助かる。ずいぶんとお世話になった。車がなかったらどうしてただろう。もっともっと子育ては大変だったろう。事実、周りは車なしで子育てしているお母さんのほうが多かった。私は時々、彼女たちのために車を運転した。

今も短時間で買い物しなくてはならないので、よく車は使う。

しかし、そのうち、運転にも自信がなくなったら、歩くようになるだろうし、足が不自由になれば、今度はケータイが必要となるかもしれない。

10年後、20年後、世の中はどうなっているのかしらねえ。

    
         とりとめのない独り言ですみません
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2007年4月27日 (金)

「日本が夢の技術先導」

応援してくださるかたがたのおかげでランクが少し上がった。
本当にありがたい。
なぜありがたいかといえば、「インターネットは神さま仏さまの思し召し」で書いたとおりである。

このランクをキープもしくはもっと上げてネットワークを広げなければならない(おこがましいが)。
そのためには毎日の更新が必要だ。
しかし、毎日書くのは大変だ。

大変だけれどもやらねばならない。
意見は発信せねばならない。

_______

4月16日の朝日新聞の科学面に太陽光エネルギーの研究についての記事があった。

宇宙航空研究開発機構(宇宙機構)で、近赤外線レーザーの実験が続けられているそうだ。
「レーザーは、宇宙でとらえた太陽エネルギーを地球に送る根幹の技術。実験段階まで来ている国は世界のどこにもない」と。

太陽光のエネルギーは無尽蔵でクリーンだが、問題点もある。(雨の日や曇りの日は使えないし、晴れていても大気や雲に吸収されて地上に届くのはごく一部)

記事の全部を写す時間はないので、簡単に抜粋すると:

現在、
①太陽光をレーザーに変換する
②レーザーでエネルギーを地上に送る
③地上で受けたレーザーで水素を発生させる
の三つの研究を平行して進めている。

つまり、私の理解するところによると、石油に頼らない未来のエネルギーは「水素」であり、その水素を地上で作るために、太陽光から効率よく変換させたレーザーを使用する、ということらしい。

水さえあれば水素なんていくらでもできるじゃないか、と思っていたが、製造するには膨大なエネルギーが必要なんだな、ふむふむ。

太陽光の研究ははもともとアメリカで盛んだったそうだが、今では日本が世界の先端をいっているとのこと。

計画責任者の森雅裕宇宙機構高度ミッション研究センター長は「基礎技術はそろっている。ぜひ実現させ、日本を究極のクリーンエネルギー輸出国に変えたい」と話す。

なんと頼もしいことか。

世界がごちゃごちゃもめてる間に、この日本には、ほんとうにやらねばならないことについて黙々と努力している尊敬すべき人々が沢山いてくれるのだなあ、と感謝の念にたえない。

究極の防衛についての研究(→「最強の兵器」も進めなくてはならないし、やっぱり科学教育に力いれないといけない。

改憲だの護憲だのそんなことはどっちでもいいから、技術開発と科学教育に金を惜しまないよう我々国民は政府に訴えるべきだ。

平和の大切さを説くなら、「仲良きことは美しき哉」の色紙一枚で充分なのである。

      

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2007年4月25日 (水)

いよっ、健さん

妹とよく話をする。
妹には子供がいないが、子育てや現代の若者についての話もよくする。

昨日、今の若者の特徴(お決まりの「ひ弱」だとか「我慢が足りない」だとか「覇気がない」とかそんなことである)の話題で、「幸せなことなんか人生の中でそんなにあるもんじゃないのにね。ほとんどがつまらなくて苦しいことで、その中に少しの幸せを感じることがたまにあるからこそ生きてる意味があるのにね」などと、これまた世間がよく言うことを飽きもせず話していた時、妹が「こういうのがある」と昔の切り抜きを出してきた。

それは朝日新聞の「天声人語」で、日付はわからないが、映画「鉄道員」(浅田次郎原作)が上映された頃だから、8年くらい前だろうか。

監督の降旗康男が母校、長野県松本深志高校にその映画を見せに出かけた。
主演の高倉健が駆けつけ、試写の後の懇談会で生徒たちに語りかけた、と。

以下、コピー:

【 生徒に、こんな感想もあった。
「僕たちの父親の世代の人たちは、ずっと会社で働いてきて、最後まで頑張ろうってときにリストラであるとか・・・・。自分も何年かして社会に出て行くんですけど、最後は自分のやりたかったことをまっとうして、悔いの残らないように人生を終えたいな、っていうのがすごいあるんです」
「悔いのない、前途洋々たる人生に向かって、一生懸命走っていってほしいと思います」と応じた高倉さんは、がらりと口調を変え「そんなに仕事って、いつもいつも楽しいことなんてありゃあしないよォ。志高くやってて、みんなうまくいくなんて、それもないと思う、僕は。絶対ないな。ホンノたまにちょっとあるだけですよ、ああ生きてるの悪くねえナってのがね。それも一生懸命やってないと、きっとないと思いますよ」】

健さんが言うからいいんだよねえ。

        

いつもありがとうございます。m(_ _)m   
あとお二方ばかり押していただけるともう少し上がるのでございますが 
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2007年4月21日 (土)

「世界の日本人ジョーク集」

「世界の日本人ジョーク集」(早坂隆)を読んだ。 
「バカ売れ」だそうだから、お読みになったかたも多いことと思う。

読んで思った。世界は一つになんかならないし、また、なったら面白くもなんともなくなる、と。
国柄というか、国民性というものは実に面白いものである。
国内の地方ごとの特性などというものよりずっと興味深い。

なんとも愛国心をくすぐられる本なのである。著者はくすぐる意図は毛頭ないだろうが、世界各国を旅しながら集める日本に関する情報は日本人として誇らしい気持ちになるものがほとんどだ。

我々は、「こんな態度では外国にバカにされる」とか「こんな外交姿勢では孤立する」だとか、日々おどおどと心配し反省してばかりいる。
たしかに「日本人のあいまいさ」は世界の常識からすると外国の人を戸惑わせることが多いとしても、そのことをはるかに越える長所をたくさん備えていることにもっと自信を持ってもいいのではないかと、あらためて気付かせてくれる。

日本人は和を好み、真面目で勤勉で、科学技術力はどの国よりも優れている・・・、日本人ジョークを成り立たせる要素はそういうものばかりである。

ジョーク集としての面白さだけでなく、国際情勢や歴史などのわかりやすい解説が有難い。

例えば、自衛隊が長期間イラクに駐屯した挙句、当初の歓迎振りから一転「日本人は何もしてくれない。早く帰れ」などと非難されたのも、日本人が来てくれれば、サマワは日本のような高層ビルが立ち並ぶ近代的な都市に生まれ変わるのだ、という過剰な期待があったからだ、というような説明がある。

「無党派日本人の本音」「教育基本法改正案について」にもイラク人民がどれほど日本に期待し頼りにしているかということをブログ主さんが書かれている。

日本は何としてももっと国力をつけ、途上国の期待に沿うのがよろしいかと思う、将来の国益を考えるならば。

________________________

国柄の違いは大変面白いものではあるが、そのことは一方で、例えば、先日のヴァージニア工科大学の銃乱射事件などで見られるように、何か重大事件が起こった時に、「その国の人間は」などとひとくくりで見てしまうおっちょこちょいが出てくる側面もあり、「*国人や*国人コミュニティに対する迫害」が懸念されるのもまた常である。
「犯人はアジア系の男」という一報で、アジア諸国が「どうかうちの国の人間でありませんように」などと祈るような気持ちになったであろうことも想像できる。

個人の犯罪であるにも関わらず、その個人の出身国全体が国際社会に対して責任や引け目を感じたりするのも、「国家」という形が国際社会での基礎となる単位であるからこそだろう。

60年以上も前に、我々自身ではない、前世代による行動がいまだに一部の国から非難され続けても、「私たちがやったことじゃないんですから。無茶言わないでくださいよ」とは言えないのも、「国家」というくくりが厳然と存在するからだ。当たり前のことであるが。

いっそのこと国家なんぞなければ、すべてのことは個人に帰結するのに。国家がなければあのような大戦もそもそも起こらなかったわけで。
しかし我々は国家なしに幸福にはなれないし、国際社会に対して責任の取りようもない。

「世界の日本人ジョーク集」、お薦めです。

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2007年4月19日 (木)

貧乏になる方法

豊かになると人間は堕落する、って言うんなら、貧乏になればいいのである。そうじゃないですか?

貧乏になるためには三つの方法があると思う。

①憲法9条を守る

②改憲して普通の国になる

③鎖国して自給自足の生活をする

①については、たとえ護憲を貫いても日米同盟を破棄するわけにはいかないのでアメリカの行動に振り回されるのを覚悟しなければならない。日本人の自立性はスポイルされたままだ。戦後60年ほどはそれで何とかやってこられたがそれがいよいよ限界にきており国際情勢からしてそのことが国益にどのような形で影響を与えるのか。

②については、たとえ改憲しても核武装でもしないかぎり日米同盟は破棄することができない。①と似たようなものである。

③が最も筋が通しやすい。

・・・・とまあ、ものすごく簡単にまとめちゃったので、護憲改憲両派から「そんな単純なものではないっ」とお叱りを受けるだろう。
でも長談義の時間も知識もない。
みなさんそうじゃないですか。
もっと真面目に憲法の勉強をしなさい、なんて言われても、子供のオムツ替えなきゃならないわ、三者面談はあるわ、仕事から帰ってすぐご飯の支度はあるわ、老親の介護はあるわ、営業成績は上げなきゃいけないわ、結婚相手探さなきゃいけないわ、そんなこんなで、憲法の解釈がどうのこうのってそんなことにいちいち付き合ってられるかってのよ、ねえ。

改憲だの護憲だの喧々諤々の議論が長年にわたってなされているが、要するに「覚悟」の問題だと私は思うわけである。

①②③のうち、どれが一番手っ取り早く貧乏になれるのだろうか。

我々日本人は、貧しくとも毅然たる国柄を示したいのか、「ずるいなあ」と思われても「安全になってから商売させていただき国益とさせていただきたい」という態度を続けるのか。そして長い目で見てそれらは本当に「国益」となるのか。経済にはどう影響を与えるのか。

「貧しくなること」とか「安全を脅かされる」とか「自分たちの安全は自分で守る」とか、改憲問題においては、そういう覚悟を日本人はつきつけられているんじゃないんですかねえ。

こっちのほうが絶対良い、なんてことはあり得ないわけで、何をどう選ぼうが、当然何らかのリスクや困難はついてくると思うのだ。

「こっちのほうが国にとって得だ。それは即ち私にとっての得だ」と思ったら、民主主義なんだからそれを選べば良いし、いや、「得」こそが間違った考えであって、堕落した日本人はもう一度貧乏にならねばならないのであるっ、と思えば、その「覚悟」が必要だ。

政治家はもちろん「国益」つまり「豊かさと安全追求」を念頭において政治をやっているんだと思うけどね。

 

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2007年4月17日 (火)

ランプちゃん

2003年12月の新聞の切り抜きがある。朝日新聞で今も続いている天野祐吉の「CM天気図」

【___前略___ことしの世界CM大賞(カンヌ国際広告祭)は、スウェーデンの家具メーカー、イケアのランプが獲得した。
夜の街角、小雨。アパートから出てきた人が、ゴミと一緒に古いスタンド型のランプを捨てる。雨に打たれる古いランプ。アパートの中からは、新しいランプの光がもれてくる。再び、雨に打たれる古いランプ。感傷的なピアノ曲が盛り上がる。と、突然画面に現れた薄汚いオッサンが、ひどいスウェーデンなまりの英語で、こっちに向かってしゃべり出す。
「このランプがかわいそうとか思ってるじゃろ? そんなの、おかしかないか。ランプには感情なんてないんだからよ。新しいほうがいいにきまってらあ」
すごいどんでんがえしである。
見ていてぼくらは、「あれはおじいさんの代から使ってきたランプだろう」「そう、物は大切にしなくっちゃ」といった思いにとらわれる。とくにいまは、使い捨て文化が反省されているときだ。が、そんなぼくらの思いを、このオッサンは、ミもフタもなく打ちくだいてしまう。
不快と痛快が、ここにはみごとに同居している。やたらに新しいものを追いかけるのはよくないことだが、かと言って、物に感情移入しすぎるのも気持ちが悪い。幼児じゃないんだから、ランプはランプであって、ランプちゃんではないのだ。_____中略____
第一、古い物を大切にしようなんて言っていたら、物は売れなくなり、広告はいらなくなる。「新しいほうがいいにきまってらあ」というのは、広告としてはきわめて正直な言い分であり、それをヌケヌケと言い放った反骨ぶりに、このCMの面白さがある。____後略___】

物は大事にしたいが、経済もまわってほしい、人間のジレンマであり永遠のテーマである経済と幸福の関係を語る文章だ。

物を幼児扱いすることの是非はさておいて、single40さんの「濃密な時間」を読んで、「相棒」と呼べるほどの愛用品を持つことの幸せを思った。

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2007年4月16日 (月)

必要最小限度のこと

真魚さんへ
今朝、記事を読ませていただいてもうワタクシ爆笑いたしました。
特にこういうところ ↓

【あんたらがそうやって、自由だ、人権だというから、この「わからない人々」は、ますます悪さをするじゃあないの。増える一方じゃあないの】

【そのダラケた連中の中から、親を殺害する子供や、子供を虐待する親が出てきているじゃあないの】

【「家庭で親が教えるべき」と言っても、今の世の中の親は、そんなことしないじゃないの。だから、教育でやるしかないじゃないの】

仰るとおり、私は口角泡飛ばしてこういうことを言ってきたわけで、それを的確に表現してくださって嬉しいというか、その自分の姿を思うとおかしいというか、私ってこうだったんだよね、と自分で自分を笑いました。

>せめて、これだけは、わからなくてはならないというものはある、というわけです。必要最少限度の「これだけ」があるということです。従って、必要最少限度の「これだけ」については、国家が国家権力をバックにして「わからない人々」に徹底的にわからせますよ、と。それが、国家の責任である。robitaさんが言われていることは、こういうことなんじゃあないかなと思います。<

その通りです。

で、真魚さんは、
>僕が思うのは、公教育の目的とは、必要最小限度のことを教えることなのである、ということです。アレも、コレもと公教育に多くを期待するのはやめよ<

と仰っています。
私も同感ですが、私、「国がアレもコレも教えよ」って言ってましたっけ?
そうなら、私間違ってました。忙しい先生にあれもこれも頼るのは間違ってると思います。

ただ、愛国心アレルギーを起こす左派の人たちには申し訳ないのですが、「愛国心教育」というのは今でも一応大事だと思っていて、これは「道徳心公徳心教育」とは別のステージのものだと思っています。
何も、「何でもかんでも国家の言うことを聞け」とか「国民一丸となって戦争に突入せよ」などと言ってるのでもないし、「愛国心を持て」と強要すべきだ、と言ってるのでもないことはおわかりと思います。
日本ってこんな良いところがたくさんある、と教えて自信や誇りを持たせることがとても大事だと思います。このことについては言いたいことはたくさんあるけれどまとめるには時間がかかりそう。
(この、日本の良いところを教える、ということがそもそも「アレもコレも」になっちゃうのかな?)

しかし、本当はここからが大事なのですが、
世の中がおかしくなったのは(おかしくなったと言うならば)、真魚さんの仰る「わからない人々」だけのせいじゃないんですよね。
「わかっている」と思っている人々だって、この豊かで平和な社会の中で、昔よりずっと欲望が多いし我慢が足りないし無駄が多いし文句が多いし緊張感がないし軽薄なんだと思います。

つまり「豊かさと平和」のおかげで我々はこうなった、ということですよね。「わからない人々」のせいじゃなくて、社会全体としての成り行きであろうと思うわけです。

というわけで、近いうち、「貧乏になる方法」について書いてみたいと思います。

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2007年4月13日 (金)

あくせくあくせく

「教育問題は堂々巡り」 にコメントを下さったsingle40さんにお返事を書いた。
以下である:

【 文明の発達は、日本のような国をも「なる」から「する」に変えてしまったんでしょうねえ。
もう一度「なる」にしたければ、あの頃に戻るしかありませんねえ。あの頃とはいったいどの頃なのか私にもわかりませんが。

バカ親もワルガキも、不自然な現象ではなく、文明社会の自然な姿、というか、必然の結果なのかもしれません。人間があれもこれもと望んだ結果として現れることなんでしょうね。

もしかしたら「教育の荒廃」なんてたいしたことではないのかもしれません。いや、「荒廃」さえ本当にあるのかどうか。
真魚さんへのコメント
で書いたように、「何も外野がこんなに騒がなくたって心ある人の地道な努力でなるようになっていく」のかなあ、と私もようやく思い始めました。】

まともになりたいと思ったら、教育システムを変えることに躍起になるのでなく、人間としての生き方を変えるしかない、とは思うのだが、その「生き方を変えよう」と提言したり教えたりする場はいったいどこなのだろう、と現代社会のあれこれを眺めていて堂々巡りに陥る。

single40さんのブログでこういう記事を読んだ。→「なぜイノシシは増え、コウノトリは減ったのか」 
コメントも含めて興味深い。お読みになるとよろしい。

今、朝日新聞の夕刊一面で、「自然を大事にしよう」という趣旨の記事が連載されている。

・「半農半X」(農的な暮らしをしながら自分のやりたい仕事を模索し、実践する)という生き方をする人々。
・車に頼らず歩く人々(運動という観点のみならず歩くことによって人と人とのつながり方は原点に戻る)。
・文明に麻痺する現代人を戒める倉本聰。
・江戸時代の優れたリサイクルシステムを紹介する人々。
・仏教に根ざした簡素な生活を見直そうと提言する人々。
・非電化製品の研究開発に努力を惜しまぬ発明起業家。

等々、これらのことが本当に国民の関心事になれば、本来の人間性を取り戻す第一歩になるだろう内容ばかりである。

ま、そうだろうなあ、そうだよね、いいことだよね、だけど、農業やりたくない、忙しいから歩いてられないし手作りも無理、子供に塾も行かせなきゃならないから忙しく働かなきゃ。お金が欲しい、株価が気になる。あくせくあくせく・・・・

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2007年4月11日 (水)

雄叫び

東京都知事選で石原氏が三選を果たしたことについて、石原嫌いのメディア上では口惜しまぎれのコメントが目立つ。

しかし、圧勝したところをみると、どうしても石原に消えてほしいと切望する人々の存在が根強い一方で、支持する人のほうがずっと多いようだ。

私は都民ではないので、石原氏が都知事としてどれだけのことができたのかできなかったのかはわからない。(神奈川県民として神奈川県知事の業績についてもほとんど知らないのではあるが)
政策だとか業績だとか選挙戦略だとかについてのあれこれはさておいて、どんなことでもそうだと思うが「好き嫌いで選ぶ」のはある程度仕方のないことだと思う。 → 「好きな人嫌いな人」 

石原については、「俺が責任取るから何でもやってみろ」という太っ腹なところも、おそらく繊細で気が小さい自分をデカイ態度で隠しているところも、傲岸不遜で、容赦ない叱責をするであろうところも、時々キレるところも、すべてひっくるめて、石原という人物に人々は魅力を感じているのだろうと思う。

まあ、一言で言えば、昔の頑固親父に対するノスタルジーであるかもしれない。
政治にノスタルジー持ち込んでどうすんだよ、と石原嫌いのかたがたはお怒りになるだろうが。

石原人気については、強い父親像に対する憧れ、という見方がずいぶん前からなされてきた。

政治家は公僕だから父親とは違う。
しかし、頑固で怖くて頼りになる父親が既に現実の世界にはいない今、人々はせめて政治のトップにそういう強さを期待するのだろう。

近頃の父親はものわかりがよくて優しい。
子供との関係を良くしたいあまり、厳しく叱責することもなくなった。
恨みを買って放火されたり金属バットで殴られたり自殺されたりしたらかなわないもの。

石原のような「嫌われること敬遠されることを厭わない親父」は珍しい存在になった。

彼を「好き」とか「嫌い」とか仕分けする以前に、政治家にだってああいうキャラクターは必要だろうと私は思う。

謙虚なリーダー、独裁的なリーダー、一見軽薄なリーダー、いろいろな人がいてこそ世の中は面白い。

反石原のかたがただって、彼の傲慢な言動を批判することですっきりした気分を味わっているのだろう。
石原がいなくなったら、悪口を言う対象がいなくなって張り合いがなくなるのではないか。
お好みの政治家ばかりになってしまってはこの世は平板なのっぺらぼうだ。

「山嵐の日記」の周防さんの記事に共感する。→ 「石原都知事の雄叫び―当確会見を聞いて」   

なるほど、「雄叫び」ねえ。
石原嫌いの人々のコメントは、判で押したように「選挙が終わったら傲慢な態度に戻った」の羅列だ。
そんな中、周防さんの巧みな表現に感心する。

ちかごろは雄叫びを上げる日本の男がいなくなった。ハンマー投げの室伏広治ぐらいか。

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2007年4月 9日 (月)

アナログ生活者の不満

全自動式洗濯機を買った。
4台目だ。
結婚30年近くなるので、平均すれば1台につき10年ほど使ったということになるが、二槽式→全自動→二槽式という経緯で、最後の二槽式は13・.4年ぐらい使っただろうか。

後悔した。やはり、二槽式にすべきだったと。
全自動式というのはほんとうに使い勝手が悪い。
二槽式であれば洗剤液を何回も使う作業が全然面倒でないが、全自動は洗濯物をいちいちしっかり絞って他の容器に移す作業が結構大変で二回使うのがせいぜいだ。

シーツなどは手で絞れないのでそのまま脱水して「すすぎ」に移行させてしまう。まだ洗浄力はあるのにもったいない。

二槽式だと洗剤液を少なくとも3回は使っていたのにもったいない。

それに、水を注ぐのにボタンをいろいろ操作しないと出てこない。つまり何らかの「設定」をしなければ水が出てこないのである。
水の量も3段階しかないので、もう少しほしいと思っても融通がきかない。

すすぎの水もいちいち捨てないで段階的に使いまわしできるものを、全自動はそれができない。

水と洗剤の量をこちらに教えるために洗濯物の重量を自動的に測ってくれるのだが、そんなものいるか。入れたい水の量は自分でわかるし、それに応じた洗剤の量だって自分でわかる。まったくおせっかいだなあ。

忙しい人にとっては、放っておいても洗い上がる洗濯機は便利この上ないだろうが、私のように家事が主な仕事である人間にとっては、水も洗剤ももったいないし、アナログ的な操作のできない全自動はもどかしいだけだ。

電器店の売り場には二槽式はほとんどない。キラキラと美しく光り輝いているのは全自動式ばかりである。それにつられてつい買ってしまったが、20年前、二台目に買った全自動の時から私の感じた不便さは何も変わっていない。

洗濯機を設計しているのは男の人だろうか。
全自動式であれば構造的に仕方のないことだとは思うが、もっと工夫はできないものだろうか。
脱水した洗剤液をためておいて繰り返し自動的に洗濯槽に戻すとか・・・・。
でもそれにはさらなる電力やもう一槽必要になるだろうから、やはりもったいないと思ったら人力を使うしかないのだ。

ああ、二槽式にすればよかった。
全自動洗濯機なんて大嫌いだァ。

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2007年4月 6日 (金)

昔はもっと薄汚かった

「永遠に変わらないもの」では、大人の側から見た、「正すべき姿勢」を述べた。

逆に、子供の立場から書いてみようと思う。

前エントリーでは、今の世の中は軽薄で大人に品格がなくなった、みたいなことを書いたが、それでは昔は大人に品格があっただろうか。もっと世の中は上品だっただろうか。

いやあ、そんなことはなかった。むしろ、世の中は今よりずっと汚れていたように思うし、大人の汚れた世界から子供を遠ざけようとする努力については今ほど熱心でなかったような気がする。

年配の人ならば、自分の子供の頃を思い出してみるといいと思うのだが、ヘンな大人やいかがわしい場所などは割合子供の視野に簡単に入っていたように思う。

街はもっと雑然として薄汚なく、ちょっと裏通りに入ればじゃれ合う男女と子供の遊ぶ姿が入り混じっていたり、ストリップ興行のビラが電柱に貼ってあったりもした。

犯罪だって今と変わらないくらい多かった。

法事や何やらで親戚が集まる時など、大人たちは子供に気を遣うことなく、飲んで騒いでいた。

小学校でさえ、何の行事だったのか今ではわからないが、体育館で先生方や地域の大人たちが玄人の女性のお酌で飲みながら歓談をしていたのを見たことがある。
「学校の先生があんなことをして」などとは思わなかったような気がする。

子供たちは、大人の世界を、自分とはあまり関係のない違う世界のことだと思っていたに違いない。

大人の世界を垣間見て、いやらしいとか、ずるいとか、なんとなく思うことはあっても、「見てはいけないこと」として、目や耳にふたをしてしまっていた。

それより何より、自分たち自身の生活(主に遊び)に忙しくて、いつまでも大人の世界のあれこれに関心を寄せている暇などなかったと記憶している。

つまり、大人と子供は(精神的に)ちゃんと住み分けができていた。子供は自分の領域で、分をわきまえていたと言える。

子供と大人の世界が渾然一体となったことについては、さまざまな経緯、理由があるだろうし、避けられないことでもあったかもしれない。
しかし私が一つ思うことは、これは人間全体に言えることかもしれないのだが、子供に「畏れ」の心がなくなったのが一番の理由ではないかということだ。

「それを見てはいけない」「そこに行ってはいけない」という踏み込んではいけない領域に対する無意識の畏れがあったのではないか。

たぶん、テレビ、さらにはインターネットは、その「畏れ」をなくして、子供と大人の領域をごちゃ混ぜにしてしまった原因の一部であろうと思う。

しかし、現代は現代だ。昔がこうだったからといって昔に戻るわけにはいかないし、第一、昔のほうが良かったのかどうかなんて誰にもわからないのである。

我々にできることは、せいぜい、「昔はこうでしたよ」と経験を語り継ぐくらいのものだろう。

でも、「昔はこうだった」と伝えることがとても大事なことのように、このごろ思う。

年寄りの昔話は、やはり聞かないといけないんじゃないかなあって。

       
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2007年4月 4日 (水)

永遠に変わらないもの

美容院で女性週刊誌をめくっていたら、こういうタイトルが目に入った。
「人間の品格はやせ我慢と知性が作る」
脚本家内館牧子の主張だ。
内容は読めなかったのだが、持って生まれた品格を備えている人でないかぎり、凡人が「品格」というものを保ちたかったら、「我慢」は必須だと私も常々思っている。

人権や個性発揮や自己実現が何よりも大事とされる今の時代、「我慢」など、体にも心にも悪いことだ、として、人は個人の自由を主張する。
「自己犠牲」「自己抑制」「我慢」、つまり、自我を抑えることは「良くないこと」なのである。

社会生活を営む上で、それぞれの人がある程度の我慢をしているし、自己犠牲を余儀なくされているとは思う。
しかし、基本的には、自己抑制は「不自由なこと」で「そこから脱却すること」が人間のあるべき姿だということになっている。
「自由」こそが人間の目指すべき価値で、自己犠牲や自己抑制は「不幸」であり、不満を持って当然のことだと思われている。
文明が進むとは、そういうことなのだろう。

自己犠牲などちっとも美しくないし、人間の心の底から湧き上がる自由意思を表現し実行する努力こそが美しい、とされる現代社会だ。考えてみればそれが人間の望む高度な社会とやらいうものなのだ。

このように変化、脱皮していく人間について、もう、昔のままの価値観で規制したりあれこれ分析することはできないに決まっているのに、「やはりあのほうが良かったんじゃないか」「もう一度あの価値観を取り戻すことはできないか」などと、人間はあがき続ける。

しかし、どうなんだろう。

もし、過ぎ去った価値観に永遠不滅の美しさがあるのなら、それらを捨て去ることは「人間をやめる」ということにならないだろうか。「品格」とは「美しいこと」に他ならないのだから、「美しさ」を捨て去る覚悟もしなければならない。

それとも、その「人間をやめる」ということこそが、人類の次の段階なのだろうか。

すでに人間は文明の発達によって、あちらこちらで大きな矛盾を抱えて生きなければならなくなっている。

親子関係、師弟関係、民主政治と国民の幸せの関係、国際関係、社会が複雑になればなるほど、人の背負う矛盾は増え続ける。際限なく増え続ける欲望が矛盾を増やす。

何かを得るために何かをあきらめなければならないはずなのに、どちらか一方をあきらめて我慢するということをせず、単純な二者択一でない方向を模索しようとする。何とか二兎を得ることはできないものかと人は考え努力する。

 賃金の格差はない方がいいけれど、競争原理も取り入れてやる気を起こさせたい。

 環境が大事だから、なるべく電気だのガスだのによる活動は抑えて人力で頑張りたいけれど、昔のような肉体労働はあまりしたくない。

 家族のために快適な家庭作りに励みたいけれど、外でやりがいのある仕事もバリバリやりたい。

 謙虚で穏やかで反省三昧の国でいたいけれど、お人好しが過ぎて経済的に損をして、景気が悪くなるのもいやだ。貧乏はいやだ。いやなのだ。

 国の効率的な運営のためには統制が必要だが、個人の権利は何より大事にしたい。

 親としての威厳や品格は保ちたいが、漫画も読みたいし、バカ笑いもしたいし、酒も飲みたい。

・・・・・・こういったジレンマを抱えながら、柔軟に合理的に粛々と、あれもこれも手に入れようと知恵を絞る。

___________

この世は厳格な人も軽薄な人もいて当然だ。
逃げ道や羽目をはずしたりということがなければ息苦しくてたまらない。

しかし、「軽薄」が「普通」になるのはどうなのか。
まあまあ、そう硬いこと言わないで、と処理していくうちに、何もかもがゆるゆるぐずぐずになっていくのではないか。

真面目な人のほうがずっと多いし、世間でもてはやされる「軽薄」も、その裏にはさまざまな苦しい事情があるだろう。そのこと自体はそんなに心配いらない。

しかし、騒がしく表に出るその雰囲気の影響を子供たちはモロに受ける。

不倫騒動を起こした女性タレントが、それをネタにお笑いとともに再び脚光を浴びるという、「世間の何食わぬ許し」。
どん底から這い上がるのはかまわない。
しかし、世間のこの浮ついたムードは、これでいいのか、と思う。あまりにも軽すぎないかと思う。

どんなに文明が進んでも、人間が「品格」を保つことの意味、これだけは永遠に変わらないだろうと思う。

「品格」のためには、「我慢」や「厳しさ」は不可欠なのだ。子供たちのために「品格」のある大人でいたい。

・・・・・・と、品格のない私は一生懸命そう思う。

    

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