永遠に変わらないもの
美容院で女性週刊誌をめくっていたら、こういうタイトルが目に入った。
「人間の品格はやせ我慢と知性が作る」
脚本家内館牧子の主張だ。
内容は読めなかったのだが、持って生まれた品格を備えている人でないかぎり、凡人が「品格」というものを保ちたかったら、「我慢」は必須だと私も常々思っている。
人権や個性発揮や自己実現が何よりも大事とされる今の時代、「我慢」など、体にも心にも悪いことだ、として、人は個人の自由を主張する。
「自己犠牲」「自己抑制」「我慢」、つまり、自我を抑えることは「良くないこと」なのである。
社会生活を営む上で、それぞれの人がある程度の我慢をしているし、自己犠牲を余儀なくされているとは思う。
しかし、基本的には、自己抑制は「不自由なこと」で「そこから脱却すること」が人間のあるべき姿だということになっている。
「自由」こそが人間の目指すべき価値で、自己犠牲や自己抑制は「不幸」であり、不満を持って当然のことだと思われている。
文明が進むとは、そういうことなのだろう。
自己犠牲などちっとも美しくないし、人間の心の底から湧き上がる自由意思を表現し実行する努力こそが美しい、とされる現代社会だ。考えてみればそれが人間の望む高度な社会とやらいうものなのだ。
このように変化、脱皮していく人間について、もう、昔のままの価値観で規制したりあれこれ分析することはできないに決まっているのに、「やはりあのほうが良かったんじゃないか」「もう一度あの価値観を取り戻すことはできないか」などと、人間はあがき続ける。
しかし、どうなんだろう。
もし、過ぎ去った価値観に永遠不滅の美しさがあるのなら、それらを捨て去ることは「人間をやめる」ということにならないだろうか。「品格」とは「美しいこと」に他ならないのだから、「美しさ」を捨て去る覚悟もしなければならない。
それとも、その「人間をやめる」ということこそが、人類の次の段階なのだろうか。
すでに人間は文明の発達によって、あちらこちらで大きな矛盾を抱えて生きなければならなくなっている。
親子関係、師弟関係、民主政治と国民の幸せの関係、国際関係、社会が複雑になればなるほど、人の背負う矛盾は増え続ける。際限なく増え続ける欲望が矛盾を増やす。
何かを得るために何かをあきらめなければならないはずなのに、どちらか一方をあきらめて我慢するということをせず、単純な二者択一でない方向を模索しようとする。何とか二兎を得ることはできないものかと人は考え努力する。
賃金の格差はない方がいいけれど、競争原理も取り入れてやる気を起こさせたい。
環境が大事だから、なるべく電気だのガスだのによる活動は抑えて人力で頑張りたいけれど、昔のような肉体労働はあまりしたくない。
家族のために快適な家庭作りに励みたいけれど、外でやりがいのある仕事もバリバリやりたい。
謙虚で穏やかで反省三昧の国でいたいけれど、お人好しが過ぎて経済的に損をして、景気が悪くなるのもいやだ。貧乏はいやだ。いやなのだ。
国の効率的な運営のためには統制が必要だが、個人の権利は何より大事にしたい。
親としての威厳や品格は保ちたいが、漫画も読みたいし、バカ笑いもしたいし、酒も飲みたい。
・・・・・・こういったジレンマを抱えながら、柔軟に合理的に粛々と、あれもこれも手に入れようと知恵を絞る。
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この世は厳格な人も軽薄な人もいて当然だ。
逃げ道や羽目をはずしたりということがなければ息苦しくてたまらない。
しかし、「軽薄」が「普通」になるのはどうなのか。
まあまあ、そう硬いこと言わないで、と処理していくうちに、何もかもがゆるゆるぐずぐずになっていくのではないか。
真面目な人のほうがずっと多いし、世間でもてはやされる「軽薄」も、その裏にはさまざまな苦しい事情があるだろう。そのこと自体はそんなに心配いらない。
しかし、騒がしく表に出るその雰囲気の影響を子供たちはモロに受ける。
不倫騒動を起こした女性タレントが、それをネタにお笑いとともに再び脚光を浴びるという、「世間の何食わぬ許し」。
どん底から這い上がるのはかまわない。
しかし、世間のこの浮ついたムードは、これでいいのか、と思う。あまりにも軽すぎないかと思う。
どんなに文明が進んでも、人間が「品格」を保つことの意味、これだけは永遠に変わらないだろうと思う。
「品格」のためには、「我慢」や「厳しさ」は不可欠なのだ。子供たちのために「品格」のある大人でいたい。
・・・・・・と、品格のない私は一生懸命そう思う。
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