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2007年5月28日 (月)

「しゃべれどもしゃべれども」

もう10数年前になるだろうか。「話し方教室」に通ったことがある。

子供の小学校のPTAの役員を引き受け、さらにはくじ引きで副委員長を引き当ててしまった。

生来のアガリ症で、人前で話すことが最も苦手。4.5人の人数ならまだしも、大勢の人を前にして自分の意見を述べるくらいなら死んだほうがマシ、というくらい人前に立つことが嫌いだった。恐怖だった。
アガってしまうと、早くこの場を切り抜けたい一心で、言葉を最小限に端折るどころか、狼狽しまくって思うこととまったく反対のことを口走ってしまうこともしばしばで、その度に自己嫌悪に陥る。
学校の保護者会などで、一人ひとりお子さんの家庭での様子などを、と教師に求められ、みんなどうしてああも長々とお喋りができるのだろうと感心しつつ、自分の番になると、ほんの一行だけ感想を述べて終わりにするのが常だった。

副委員長という立場は補佐だから、しゃべる必要はあまりない。しかし、委員長が欠席などすれば、まとめ役はこちらにまわってくる。
書記の人に押し付けるか、いやそれはあまりにも卑怯で情けない。しかし、あの沢山の目がこちらに向けられる中、まともな口がきけるだろうか。仮病を使うか、死んだふりするか、ああどうしよう・・・・・、いや、逃げちゃいけない。子供たちに逃げるなと諭しながら自分が逃げてどうする。なんとかしなくちゃ。度胸をつけるんだ。勇気を奮い起こすんだ。
しかし、どうやったら度胸は身につくんだろ、どうすれば勇気を持てるんだろ・・・何かそういう練習の場というものはないのだろうか、・・・・・おおそうだ、話に聞く「話し方教室」というものがあるじゃないか。

というわけで、電話帳を調べて、一番大手の「話し方教室」に、えいっとばかりに行ってみた。
世間的には、「話し方教室」などというものに参加する人って、とっつきにくくて暗くてちょっと変わった人、みたいなイメージを持たれていないだろうか。
実は私もそういう偏見を持っていた。
しかし、集まった人たちはまったくそういうことはなく周りで普通に見かける普通の人たちだった。

若いサラリーマン。この人は、何故こんなところに来るのだろうと思うくらい話が面白かった。聞けば営業活動の研修の一環として、会社から言われて来たとのこと。
一児の母でもあるキャリアウーマン。彼女も喋ることに何の不自由もなさそうだったが、ステップアップの手段として話術を磨きたかったのだろう。
私と同じ専業主婦。よく笑う明るい人だった。喋り方が要領を得ないと言われてコツを学ぶために来たと言っていたように思う。
はるばる千葉からやってきた朴訥な農家のおじさん。五穀豊穣を祝う地域の祭りで挨拶役がまわってきたのでそれを滞りなくこなしたい、ということだった。
ちょっとはにかみやの感じの良い大学生。時々ぼそっと面白いことを言うタイプ。
説明会の時に知り合った可愛い女性は小学校の栄養指導をしているが、大勢の子供たちの前でうまく話したい、と言っていた。曜日の都合で私と同じクラスにはならなかったが。

毎回ひとりづつ3分ほどのスピーチをし、先生に論評をしていただく。他にどんなことをやっていたか今となってはあまり覚えていないが、早口言葉の練習などもあった。
レッスンが終わるとお酒好きの先生を先頭に飲食店に繰り出し、まだ陽の高いうちからビールを一杯やりながら懇談した。

一週間に一回、3ヶ月ぐらいやっただろうか。

PTA活動のほうは、幸いにして委員長は丈夫な人で、欠席することなく、私が喋らなくてはならなくなる事態にはならなかった。

その後、地域の子供会の役員にもなったが、7.8人のお母さんたちの前での連絡事項報告はなんなくこなせた。
あの経験がものを言ったのか、それとも年を重ねておばさん度が増しただけなのかはわからない。

話がうまくなったというわけでもないし、アガリ症が治ったわけでもないし、今でも公衆の面前で演説をしろなどと言われたら死んだほうがマシだと思うだろうが、話し方教室への偏見はなくなった、という意味で一つ壁を越えた。しゃべることに関してなんとかしたいと思っている人は案外多い。

佐藤多佳子「しゃべれどもしゃべれども」を読んで、昔のことを懐かしく思い出した。

   
        

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2007年5月24日 (木)

井筒監督

少年ゴルファー石川遼クンが評判が良い。
朝のワイドショーでも出演者たちがその礼儀正しさや度胸の良さを口々に褒め称える。

その中でひとり憮然としていた映画監督井筒和幸に、司会の赤江珠緒アナが、
「どうですか、ご感想は」と振る。
井筒は不愉快そうな表情のまま、
「この人、お坊ちゃんなんですか」と問う。
一瞬戸惑った赤江アナに、「いや、それがわからないとコメントしようがないもんでね」と続ける。

「普通のサラリーマンのご家庭のようですよ。それがわかった上でご感想は」と赤江アナがさらに聞くと、
井筒はふーんと言って、昔はゴルフは金持ちとかアメリカ人の遊びだったとか、昔ゴルフ場でアルバイトした時、アメリカ人が偉そうだったとか、そんな話をし始めた。

この人は金持ちやお坊ちゃんが嫌いなんですね。
普段から自分こそ真っ当だというような顔をして人を批判していながら、いざこういう真っ当な少年が現れると、いかにも「信用できない」といった風にひねくれてみせる。なんでも反対の野党みたいな人だ。

彼が信用できるのは、「暴力的でも心のきれいな非行少年」であり、「豊かな家庭に育った品行方正な少年」ではないのだろう。

石川君のような少年は、この日本の希望の星、私はそう思う。

妬みにつぶされることなくまっすぐに生きていってほしい。

_________

話のついでに井筒監督の自信作「パッチギ!」(一作目)の感想を書いてみる。

「ゲロッパ!」が、素晴らしい役者を大勢使っているにもかかわらず、あまりにもつまらなかったので、これも期待しないで見たが、期待しなかった分、意外と楽しめた。

若者たちの演技がなかなかうまかったし、せりふもテンポが良くて面白かったし、ボーっと見てる分には退屈しなかったので、「ウェストサイドストーリー」にそっくりなのはまあいいとして、娯楽作品として悪くなかったと思う。

しかし、深みのない映画ではある。
差別されてきた在日の人々の悲しみを描いたつもりだろうが、いかにも底が浅い。

例えば、在日の老人が日本人高校生に向かって搾り出すように言うせりふ;
「お前ら、淀川のしじみ食ったことあるか。土手の草食ったことあるか。」

戦中戦後の生活の苦しさは、日本人も同じではなかったのか。
私は子供の頃から、その頃の生活の悲惨さについて周りの大人たちから聞いている。
「土手に生えている草の中から食べられそうなものを摘んで食べた」とか「田んぼのタニシを食べた」とか「食べるものがないので、お腹がすいたら寝てなさい、と子供たちに言っていた」とか、物乞いをしたり、娼婦として生き延びたり、現に私自身の記憶にも残っているが、終戦後何年かたってもまだ近所の横穴に住んでいる人がいたし、物置のような掘っ立て小屋に茣蓙を敷いて住んでいる友達の家に遊びに行ったこともある。
みんな生活苦にあえいでいたと思う。
淀川でしじみが採れたのなら、それは貴重な蛋白源としての立派な食べ物でもあったのではないか。

朝鮮半島を植民地化して、朝鮮の人たちを無理やり連れてきて強制労働させたのならば、それは国家としての重大な罪で、被害に遭ったかたがたは本当に気の毒なことだったと思う。
でも、戦後生まれの罪のない高校生に何も恨みをぶつけることないじゃないかと思う。

真実を知ることは必要だ。
しかし、「お前の親は罪人だ。だからお前も同じ罪人だ」というような責め方は、私だったら、しない。

朝鮮の人々の苦しみや日本の罪を、そのような描き方でしか表すことができないのなら、井筒は表現者としてお粗末だと思う。単なる反日プロパガンダ映画と批判されても仕方のないことではないか。

それともうひとつ。

表現に品がないのだ。

高校生の性行為。あまりにもあからさまだ。テレビ放映されて家庭で見るとなると、いたたまれないような場面がある。

「個の時代」だから、家族で茶の間で見る、ということを想定していないのかもしれない。

しかし、それだからといって、ああいうどぎつい表現が必要なのかどうか、この映画に限らず、私はよく思う。

見るのが辛いほどの直接的な描写しかできないのだったら、表現者としてどうなのか。
「ぜひ必要な場面」だとしても、そういう行為が行われていると想像できるような描写の仕方は必ずあると思う。プロなんだからそういうことをこそ探求すべきではないか。

性行為の場面をぜひとも見たいのであれば、それを専門とする映画などいくらでも作ればいいし見ればいいのである。

せっかく「良い映画」だと思っても、明かるい居間で家族で見るのが憚られるような場面があるとみんなで楽しめないじゃないか。

良い映画を作ろうという気があるなら、「品のない場面」も「品性」をもって表現してもらいたい。

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2007年5月21日 (月)

小松左京研究会

SF作家小松左京のファンクラブに入っていたことがある。
「小松左京研究会」、略して「コマケン」と称していた。
会報第一号作成にちょっとだけ関わった。

すぐにやめてしまったのでどんな人がいたのかあまり覚えていないが、若い男性が中心で女性は私を入れて5人いた。
まだ明治大学の学生だった漫画界の異才、とり・みきさんもいた。

もう30年ほども前のことだが、検索してみるとコマケンは今も存続しているようだ。
創成期の活動は小松作品や雑誌などに散逸する膨大な数の文章を集めてのリスト作成だった。

その中でひとりの女性と親しくなり、2回ほどお茶だか食事だかを一緒にした。彼女は私より三つほど年下で、出版社に勤めながらキャリアを積みつつある颯爽とした女性だった。
似たような考え方生き方の中で培った学生時代の仲間とは違う雰囲気のその人とは不思議と話が合った。SF愛好者同士としての共通の話題はあったが、あんな会合に思い切って出かけてみなければ知り合うこともなかったタイプの人だ。
結婚後、一度電話を受け、会いませんかと熱心に誘ってくれたが、子育てに追われている時でもあり、かなわず、今に至るまで音信不通のままだ。

年をとると昔のことがいろいろと思い出されるようになる。
あの人は今どうしているのかなあ、などと折にふれいろいろな顔が脳裏に蘇る。

社交性がなく、おもいっきり青春を謳歌する、といった類の若者ではなかったが、人生を振り返ってみると、ああ、こんなこともあったっけなあ、なんていう経験をしているものだ。

       

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2007年5月15日 (火)

お婆さんの役目

今の世の中、自分に本当に合う結婚相手を見つけるのは至難の技だ。
時代が進むにつれ「自分に本当に合う」などという条件に厳しさが増すのだから、今のこの状況(結婚しない、または結婚できない人が増えている)は当然のことと言える。

相手に恵まれない男女の増加に伴って、森永卓郎さんの「結婚の配給制度」やsingle40さんの「性の共産化」が冗談でなくなる日が訪れるかもしれない。

かといって、女心として、また男心として「人には添うてみよ」などというアドバイスに従って一生の大事を決めるのも不安が募るし、異性なら誰でもいいというわけでもない。

「こういう条件の人でなければ私の人生は納得いくものにならない」という考え方で割り切って、条件を満たす人と結婚してみるのか、あるいは、「心から愛する人ならば条件などつけない。きっとうまくいくはずだ」という愛情至上主義でいくのか。あるいは、その両方が必要だという信念を守ってそういう人にめぐり合わなければ独身やむなしという考え方でいくのか。

合理的に確率の問題として考えるなら、難しい選択をすれば結婚が遠のく可能性が高いのは当然のことだ。

とは言え、「決してわがままを言っているのではない人たち」の「出会い」というものがあまりにも少ないということは由々しき問題である。

森永氏の言うような「男を便利に利用しておきながら、いざ結婚を前提の交際を申し込むと『ムリ、ムリ』と切って捨てる女性」などというのがそんなにいるとも思えない。

要するに、男女ともに、異性に働きかけることにシャイな人が多いのだと私は思う。日本人は昔から変わっていない。

中には、結婚したいという願望さえ包み隠す人もいるほどだ。それではお話にならない。

いい人がいれば誰だって結婚したい、家庭を持ちたい、子供も産みたい。そうに決まっている。

それでだ。
私は今家庭のことで余裕がなく、というよりおせっかい婆さんの器量がないので実質的に何もできないが、このブログをそんな男女の中継点にするぐらいのことはできるのではないか。

男女の出会いのお膳立てをするネット上のサイトなど、きっと山ほどあると思う。

でもそういった場はそれこそ「そのことだけ」に特化されていて、たぶん「合コン」のようなものではないかと思うのだ。(「合コン」もどういうものかはよく知らないが)

仲良し掲示板によく見られるような「今日はどうこうしました、明日はこうする予定」式の日常生活の報告に終始するような場でなく、当ブログのような性質であればさまざまな話題について持論が飛び交う中で、人柄や価値観に興味を持ち、惹かれていく、などということも起こり得るのではないか。

kakuさんが以前そんな提案をしてくださったこともあるのだが (「ほんとに中身さえ良ければ?」のコメント欄 ) そんなだいそれたことをしてもいいのだろうかと言う不安もあったし、そういう方針を掲げると今まで自然体で訪問してくださってた方たちまで遠のいてしまうのではないかと思い、進めることなくそのままになってしまったが、ちょっとやってみるかと今思っている。

私は在宅でできることしかしないしできない。キーボードを叩いて話題を提供するだけだ。宣伝もしないといけないが、シャイなので人の集め方もよくわからない。誰も来ないかもしれない。でも来てほしい。来てください。

このブログにはなかなか独身女性が来てくれないのだが、これからは少しとっつきやすい話題を増やしていくつもりだ。

自主憲法制定も大事だけど、それよりもっと早くなんとかしなくちゃならないのが、教育と結婚だ。うん、うん。

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2007年5月14日 (月)

まだまだ説明不足?

「なぜ今憲法改正が必要なのか。そういう説明が不十分なまま、わけのわからないうちに国民投票法案を通そうとするのがいけない」というようなことを言う人がテレビのワイドショーの護憲派コメンテーターなどによく見られる。

「説明が不十分」、「わけのわからないうちに」・・・、これはいったいどういうことなのだろうか。

私など、普通の生活をしている普通の国民だと自分で思っているが、ボーっとしてても、毎日イヤというほど、憲法改正の話、国民投票法案の話は耳に入ってくる。
新聞を眺めても、テレビのニュースやワイドショーを見ても洪水のように押し寄せてくる。ネットを覗けばその話でもちきりだ。
逃れようとしても逃れられないほど、これでもかというくらい説明があふれているのではないか。

それでも、「説明がない。国民は何も知らされていない。何がなんだかわからない。」と言い張る人たちはいったいどんな生活をしているのだろうか。新聞もワイドショーもネットにもまるで触れない生活をしているのだろうか。
それは一言で言って「無関心」ということではないのか。

それほどまでに国のことに無関心な人たちにこれ以上誰が何を言えばいいのか。素朴な疑問である。

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2007年5月 7日 (月)

「モテ格差社会」ですと

私は以前から、少子化の主たる原因は、若夫婦の生活が苦しいわけでも、各種制度の不備でも、企業の無理解でもない、と主張してきた。

もちろん、それらの要素もあるにはある。しかし、昔からあったそういう問題を現代の少子化の主たる原因にするのは見当はずれだとずっと思ってきた。

ちょっと前、テレビ朝日「TVタックル」に我が敬愛する森永卓郎氏が登場して、「結婚できない男が増えているのが少子化の原因なんですよ。女性たちは男性をランク付けして、『イケメン』『フツメン』『ブサメン』『キモメン』とか言って、ブサメン以下は相手にしないんですよ。そういう人たちと結婚してあげなきゃ可哀想なんですよ」と言っていた。
「結婚してあげなきゃ可哀想」というのもめちゃめちゃ暴論だとは思うが、それを受けて政治評論家三宅久之が、「昔はね、割れ鍋に綴じ蓋といってね、そういう人にはそれなりの人があてがわれるようになってたんですよ」と言う。

そう、最大の問題は「それなりの女性」がいなくなってしまった、ということだ、と私は思った。

小林よしのり編集の「わしズム」という雑誌に、森永氏が「モテ格差社会が進行している」と題した面白い一文を寄せている。

ここに全文写せないのは残念だが、ほんの一部だけ抜粋させてもらう。

【 これまで日本国民のほとんどが結婚できたということは、結婚がある種の「配給制度」になっていたということを示している。この配給制度を支えていたのが、戦前においては国家、あるいは地域社会であった。___中略___ところが、《第二の家族革命》(核家族世帯が減少し、単身独身世帯が増加し始めた)以来、「配給制度」が破綻し結婚が「市場化」されることになり、結婚をするかしないかが個人の力量と選択に委ねられるようになった。その結果、結婚制度においていま起きているのは、一部の金持ちやイケメンだけがいい目を見る事実上の「一夫多妻制」の復活だと、私は冗談ではなく真面目に考えているのである。IT企業家やトップアスリートと、彼らに群がる女子アナ、モデル、芸能人を見ていると、まさに破廉恥な「一夫多妻」の状況ではないか。彼らほどではないにせよ、年収3000万円を超える外資系企業に勤める、いわゆる勝ち組サラリーマンは、女性などよりどりみどりである。___中略___で、私の友だちは全部、ブサメンやキモメンというところに・・・・。けれど、そういう人たちは、結婚したくて血のにじむような努力をしている。___略___ある程度の実績を積んだ段階で、「僕と結婚を前提にお付き合いをしてくれませんか」と告白した瞬間、「ムリ、ムリ」のひと言でばっさり斬られる。___略___
しかし、男性にモテ格差社会が到来する一方、女性はどうかというと、平均的にみんなきれいになっているから自分を低く査定する女性も少なくなった。それでみんなモラルのかけらもない六本木ヒルズの人たちの方に行ってしまう。___略____】

で、森永氏は、対策として、
①所得格差が埋まらないなら、ワーキングプア同士が子供を生める社会を作る。
②女性のみなさんに考え直していただく。

この二点を挙げる。

ヒルズ族に群がるのはほんの一部の浮ついた女性たちだと私は思うが、たしかに、【平均的にみんなきれいになっているから自分を低く査定する女性も少なくなった】という意見には同意する。
しかしそれはもともと「ブスは相手にしない」という男性の意識がもたらしたことだ。

やはり、男女ともに、「割れ鍋に綴じ蓋」などという感覚で結婚することがなくなったのが、結婚が遠のいた大きな要因の一つだろうと思う。
その傾向は女性のほうが圧倒的に強いのではあるが。

その意識を昔に戻すことなどもうできないから、・・・・・・・難問だ。

           

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2007年5月 6日 (日)

「国語教育の徹底を!」

今朝のフジTV「報道2001」で、数学者藤原正彦氏が語った。

「戦後、大事なことを教えてこなかったので、今の日本の70歳以下は総崩れだ。 『日本の心』を教える人がいなくなった。誰が教えるか、それが一番の問題だ。唯一の方法は、低学年のうちに国語を徹底的に教えて、自ら本に手を伸ばす感性を養うこと、これしかない」

「こうすればいい」「ああすればいい」と人々はいろいろな教育論を口にするが、それを実行に移すために具体的に何をするのか、と私はしつこく言ってきた。
「教育行政はこうすべき」とか「親はこうすべき」とか「先生はこうすべき」とか、みな口々に言うが、それらの大人がそもそもダメなのに、誰がいったいそれをやるのか、この国には大人を教育し直すシステムなどない、とずっと言ってきた。

だから、藤原先生の「誰が教えるのか、それが問題だ」という意見に同感だ。そして、「子供が自ら本に手を伸ばす感性を養う」、これにも同意する。人は書物によって覚醒し成長することを知っているから。
しかし、藤原先生、その先を言ってほしかった。
教育再生の一つの手段として「国語教育を徹底する」、そう思うなら、「この一点を国民の声として盛り上げなきゃだめなんです」と。
「世論を盛り上げるにはどうしたらいいと思いますか。テレビでもインターネットでも地域の井戸端会議でもいい、ことあるごとにこういうことを発信していくことです」と、テレビカメラに向かって力強く言ってほしかった。

世論が盛り上がれば国は動く。

一億総教育評論家のみなさんが、あまりあれもこれもと色々なことを言うと、それはただの騒音でしかなくなるので、本当に大事なことを一点にだけ絞って、それをスローガンのようにすることが大事ではないだろうか。

私は、「日本の良いところを教える」ことがいいんじゃないかと思っていたが、何か漠然としている。

藤原先生の提唱する「国語教育の徹底を、これでどうですか。

こういうことなら、挙国一致体制になってもこわくないでしょう。むしろ国民一丸とならなければ事は進まない。
「色々な意見を尊重し」などと悠長なことを言っていては、子供はこうしている間にも日一日と大きくなっていってしまうのだ。
急いだほうがいいと思う。

教育をどうにかすることのほうが、改憲論議よりずっと大事だし急がなければいけないと私は思っている。

いつの日か憲法改正が決議されたら、きっと新聞の一面はドでかい見出しに飾られ、上を下へのどんちゃん騒ぎになって、日本中総ハイテンション状態になるだろうことは容易に想像できる。
しかし、落ち着いて考えてみると、憲法改正はそんなにたいしたことではない。
9条に関しては、現実に日本がやっていることに合わせて条文を書き換えるだけのことなのだから。
ちょっと便利になるのは、海外派兵の際など、正当防衛で武器が使えるようになるので、自衛隊の皆さんが自分で自分の身を守れるようになる、ということぐらいだろうか。

平和主義を謳う9条の第1項はそのままに、2項を現実に合わせるだけのことだから、そんなに怖がることはないのである。

それより子供たちだ。教育だ。

実行可能な具体策を、何か一つスローガンにしましょうよ。

    

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2007年5月 1日 (火)

変節しよっかな~

改憲派から護憲派に転向しようかと思っている。

考えてみたら、日本を武力行使できない国にしたのは第二次大戦後の国際社会なのだ。

日曜日のNHKスペシャル「日本国憲法誕生」を見ていて改めてそう思った。

「二度と日本に武力を持たせるものか」と押さえつけたのは世界の国々ではなかったのか。

それを今になって、国際紛争の場において日本だけが武力を用いず、日本人だけが血を流さないのはずるい、などと非難する。あまりにも理不尽ではないか。

「なんたって9条ありますからねえ、武力行使できないんですよ。国際貢献? ええ、だからお金だけは出すって言ってるじゃありませんか。金ならたんまりありますよ。日本人は勤勉ですからねえ、戦争のような不毛なことには関知せず、60年間ひたすら金を貯めてきたんですもの。言ったでしょう、軍事協力は一切できませんって。あなたたちがよってたかってこの日本をそのようにしたんじゃありませんか。いまさら勝手なこと言うんじゃねえ、バーカ」

このような姿勢を明確にすれば、日本は世界の顰蹙を買い、孤立し、さまざまな協力を得られず、資源も思うように手に入らなくなる。

そうすればお望みの貧乏を手に入れることができるのだ。

貧乏になれば子供たちもまともに育つ。

護憲改憲の議論はこのようなことに凝縮される、ということでよろしかったでしょうか。

 

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