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2007年5月24日 (木)

井筒監督

少年ゴルファー石川遼クンが評判が良い。
朝のワイドショーでも出演者たちがその礼儀正しさや度胸の良さを口々に褒め称える。

その中でひとり憮然としていた映画監督井筒和幸に、司会の赤江珠緒アナが、

「どうですか、ご感想は」と振る。
井筒は不愉快そうな表情のまま、
「この人、お坊ちゃんなんですか」と問う。
一瞬戸惑った赤江アナに、「いや、それがわからないとコメントしようがないもんでね」と井筒。

「普通のサラリーマンのご家庭のようですよ。それがわかった上でご感想は」と赤江アナがさらに聞くと、井筒はふーんと言って、昔はゴルフは金持ちとかアメリカ人の遊びだったとか、昔ゴルフ場でアルバイトした時、アメリカ人が偉そうだったとか、そんな話をし始めた。

この人は金持ちやお坊ちゃんが嫌いなんですね。

彼が信用できるのは、「暴力的でも心のきれいな非行少年」であり、「豊かな家庭に育った品行方正な少年」ではないのだろう。

石川君のような少年は、この日本の希望の星、私はそう思う。

妬みにつぶされることなくまっすぐに生きていってほしい。

_________

話のついでに井筒監督の自信作「パッチギ!」(一作目)の感想を書いてみる。

「ゲロッパ!」が、素晴らしい役者を大勢使っているにもかかわらず、あまりにもつまらなかったので、これも期待しないで見たが、期待しなかった分、意外と楽しめた。

若者たちの演技がなかなかうまかったし、せりふもテンポが良くて面白かったし、ボーっと見てる分には退屈しなかったので、「ウェストサイドストーリー」にそっくりなのはまあいいとして、娯楽作品として悪くなかったと思う。

しかし、深みのない映画ではある。

差別されてきた在日の人々の悲しみを描いたつもりだろうが、いかにも底が浅い。

例えば、在日の老人が日本人高校生に向かって搾り出すように言うせりふ;

「お前ら、淀川のしじみ食ったことあるか。土手の草食ったことあるか。」

 

戦中戦後の生活の苦しさは、日本人も同じではなかったのか。
私は子供の頃から、その頃の生活の悲惨さについて周りの大人たちから聞いている。
「土手に生えている草の中から食べられそうなものを摘んで食べた」とか「田んぼのタニシを食べた」とか「食べるものがないので、お腹がすいたら寝てなさい、と子供たちに言っていた」とか、物乞いをしたり、娼婦として生き延びたり、現に私自身の記憶にも残っているが、終戦後何年かたってもまだ近所の横穴に住んでいる人がいたし、物置のような掘っ立て小屋に茣蓙を敷いて住んでいる友達の家に遊びに行ったこともある。
みんな生活苦にあえいでいたと思う。
淀川でしじみが採れたのなら、それは貴重な蛋白源としての立派な食べ物でもあったのではないか。

朝鮮半島を植民地化して、朝鮮の人たちを無理やり連れてきて強制労働させたというのが本当なら、それは国家としての重大な罪で、被害に遭ったかたがたは本当に気の毒なことだったと思う。

でも、戦後生まれの罪のない高校生に何も恨みをぶつけることないじゃないかと思う。

真実を知ることは必要だ。

しかし、「お前の親は罪人だ。だからお前も同じ罪人だ」というような責め方は、私だったら、しない。

朝鮮の人々の苦しみや日本の罪を、そのような描き方でしか表すことができないのなら、井筒は表現者としてお粗末だと思う。単なる反日プロパガンダ映画と批判されても仕方のないことではないか。

それともうひとつ。

表現に品がないのだ。

高校生の性行為。あまりにもあからさまだ。テレビ放映されて家庭で見るとなると、いたたまれないような場面がある。

「個の時代」だから、家族で茶の間で見る、ということを想定していないのかもしれない。

しかし、それだからといって、ああいうどぎつい表現が必要なのかどうか、この映画に限らず、私はよく思う。

見るのが辛いほどの直接的な描写しかできないのだったら、表現者としてどうなのか。

「ぜひ必要な場面」だとしても、そういう行為が行われていると想像できるような描写の仕方は必ずあると思う。プロなんだからそういうことをこそ探求すべきではないか。

性行為の場面をぜひとも見たいのであれば、それを専門とする映画などいくらでも作ればいいし見ればいいのである。

せっかく「良い映画」だと思っても、明かるい居間で家族で見るのが憚られるような場面があるとみんなで楽しめないじゃないか。

良い映画を作ろうという気があるなら、「品のない場面」も「品性」をもって表現してもらいたい。

 

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コメント

でも、それは放送したテレビ局にいう文句であって、
最初から(お茶の間ではない)映画館に
足を運ぶことを前提として、作られた映画に対して
品位や品性を求められても…

もっともテレビ放送された「パッチギ!」はそれでも
やはりカットされていたシーンが多々ありましたが…

葬儀のシーンにしても、もちろん最初からあの笹野高史
扮する長老のセリフは言いがかりであり、イチャモン
ですよ。それこそ、いわゆる在日コリアンの定番発言?
でもあの長老もおそらく言い過ぎたこと、そして怒りを
ぶっつける所を間違ったと反省していますよ。
「帰れ!」と怒鳴りながらも、お終いには鼻をすすりながら
小さく「帰って…ください」と懇願する仕草(さすが笹野
高史は上手い)そしてキョンジャが突きつけるラジオから
流れる康介が歌う「イムジン河」に対してうなだれる姿…
ラストシーンで康介をラジオ局まで迎えにいったキョンジャ
が彼を伴って、再び葬儀の席へ帰る姿が想像できます。

行き違いや、あつれきが多々あったとしても、ここに和解の
状況が生まれるかもしれない可能性を感じませんか?
パッチギとは頭突きを意味するケンカ用語であるとともに、
お互いを隔てる、壁や溝を乗り越えるという意味をも合わせ
持ちます。井筒和幸が、あるいはこの映画が言いたかった事
は、確かに日本と朝鮮半島の過去の歴史や差別といった問題
もあるでしょう。でもその先にあるのはタイトルでもある
パッチギの意味が目指すであろう、共に生きる「共生」では
ないのでしょうか。

投稿: なるみしょうじ | 2007年5月24日 (木) 16時35分

全くこの映画の本質を理解されていないようで少々呆れてしまいました。底の浅い見方でレビューする資格なし。批判するならもう少し勉強されてからではいかがかと。この映画を見て心に響くものがないとは、やはり世間でご指摘のとおり日本人のレベルは低下してきているのだと思わざるを得ません。先の大戦では日本は被害者でもありますが加害者でもあります。各々が恨みや偏見、差別を乗り越え、歩み寄らないことには未来は見えてきません。
また暴力ですが、戦争という圧倒的な暴力の対比として若者たちのケンカがあるんです。
この時代どこかの高校とどこかの高校の番長どうしが決闘、とか高校どうしで抗争、みたいなことはよくありました。でもそんなことはニュースになりもしなかった。エネルギーをもてあまして全身で人間どうしがぶつかっていましたよ。今みたいなヘンな事件なんかありません。
この監督は建前ばかりが横行する現代に、それこそパッチギかましているわけですよ。
蛇足ですが主婦ってナントカ王子とか好きですよねー。私全然興味ありません。なんでこんなくだらない話題をワイドショーがひっぱるのかも謎です。他にやることないのかよって。

投稿: muga | 2007年5月24日 (木) 18時08分

>なるみしょうじさん、
はじめまして。
丁寧なコメント、どうもありがとうございます。

>行き違いや、あつれきが多々あったとしても、ここに和解の
状況が生まれるかもしれない可能性を感じませんか? <

なるみさんは映画をご覧になってそうお感じになったんですね。
私も映画自体はなかなか面白く感動的で、娯楽作品として楽しませてもらいましたよ。ハッピーエンドもなかなか気持ちよかったですよね。私ハッピーエンド大好きなんです。
でも、「その先にある和解」というのは、「映画」というお話の中だけのことであり、まあ言わばファンタジーなわけです。
朝鮮と日本のことは、イムジン川を聴いて感動して、それで仲良くなる、なんていうような簡単なものではないというのはおわかりだと思います。

笹野高史演ずる映画の中の長老は過去のことは忘れようという気になってくれたかもしれないけど、現実では朝鮮半島の二つの国は政府からして反日の構えですし、日本で豊かに暮らす北の国のかたがたはどうしたわけか祖国の同胞の不幸に目をつむっているようです。
在日のかたがたと日本人がイムジン川一緒に歌って仲良くなっても、北の不幸な人民が解放されるわけでも、朝鮮半島が統一されるわけでもないです。
だからあれがただの青春映画であるならばそれでいいと思うのですが、もし井筒監督が、映画賞をねらうほどの自信作として、また、本当に何か重大なことを訴えかけるつもりであの映画を作ったのなら、やはり、「底が浅い」と言われても仕方がないんじゃないでしょうか。

ちなみに、「イムジン川」、昔好きでよく歌っては涙流してました。ほどなく発禁になりましたが。

それから、性描写のことですが;
>それは放送したテレビ局にいう文句であって<

仰るとおりですね。
でも、私は劇場映画でも、子供が見る可能性があるならば、あまり刺激的なセックスシーンはやめてほしいと思いますね。製作者としても、中学生にも見てもらいたいと思うでしょ、それなら、あまり激しい描写は良くないでしょ、ということです。
だいたい、この頃、一般映画でもポルノと見まごうような描写が多すぎると思いませんか。ポルノ見たことないのでよく知りませんが。
それに今の時代、映画はすぐにビデオやDVDになって売り出され、家庭に持ち帰って家族でゆっくり見ようという人も多くなったのではないかと思うので、映画製作者ももう少し配慮してほしい、というのは、ひとりの真面目な母親としての希望です。良い映画であれば、興行的にも特に問題ない(つまり客寄せシーンがないことによる収益減)と思いますがいかがなものでしょう。
頭の固い教育ママのようなことを言うつもりはないのですが、セックスシーンというのは、暴力シーンやくだらないお笑いなどとはまったく質の異なる影響を子供に与えるのではないかと思っているもので・・・。どっちにしろ、みんな子供のうちからこっそりとそういうものに触れていく、とは思うのですが、あまり自由に氾濫するのもどうかなあ・・・と思います・・・、ちょっと苦しいですかね。あはは。

>もっともテレビ放送された「パッチギ!」はそれでも
やはりカットされていたシーンが多々ありましたが…<

あれよりもっとすごいシーンがあったんですね・・・。

>品位や品性を求められても…<

何も上品にしろということではなくてですね、記事にも書きましたが、そのように想像を膨らませることのできる表現ってできないもんですかねえ。

投稿: robita | 2007年5月25日 (金) 09時36分

>mugaさん、
はじめまして、かな?
コメント恐れ入ります。

>エネルギーをもてあまして全身で人間どうしがぶつかっていましたよ。<

仰るとおりですね。
男の子の成長過程には肉体のぶつかり合いが欠かせない、と私も思います。
昔よくあったという高校間の抗争は私も話に聞いてましたし、祭りでの無礼講の大騒ぎなどは若者のエネルギーのはけ口になっていました。
しかし、暴力は許されないし、祭りも、今や若い連中にとっては魅力あるものではないようです。
かといって戦争をするわけにいかないし、どうしたらいいんでしょうねえ。

>蛇足ですが主婦ってナントカ王子とか好きですよねー<

別に主婦じゃなくても、真面目に頑張ってる若者に好感持つ人は多いんじゃないですか。
早稲田の斉藤君、卓球の愛ちゃんや石川佳純ちゃん、スケートの浅田真央ちゃん・・・、まあこういう子たちはマスコミで騒がれるので目立ちますが、礼儀正しくて真面目に努力する若者はそこここに存在すると思います。
たしかにあまり騒ぎたてるのは可哀想だし、安倍総理も官邸に呼びつけるこたァないだろう、と思いますけどね。

maguさんはさわやか少年がお嫌いなんですね。ついでに主婦もお嫌いなんですね。人間同士わかり合い仲良くするのはなかなか難しいものですね。

投稿: robita | 2007年5月25日 (金) 09時45分

ぼくは以前からこの監督には、なぜか妙な違和感を感じております。人それぞれでしょうが、ぼくは、彼の意見の述べ方はあまりにも幼稚に思えて好意をもてませんでした。

投稿: angelcats | 2007年5月30日 (水) 21時12分

>angelcatsさん、
はじめまして。

>彼の意見の述べ方はあまりにも幼稚に思えて好意をもてませんでした<

そうですね。独善的ですね。
でも善い人だからそうなっちゃうのかもしれないなあ、とも思います。

投稿: robita | 2007年5月31日 (木) 09時41分

そうですね。映画の中の男の子のような人かも知れませんね。実は、ぼくは池田晶子さんが大好きなのです。このご縁でここに寄らせていただきました。^^

投稿: angelcats | 2007年5月31日 (木) 09時54分

>angelcatsさん、

>映画の中の男の子のような人かも知れませんね<

なるほど。悪意はないけど直情的みたいな。

>ぼくは池田晶子さんが大好きなのです。このご縁でここに寄らせていただきました。<

そうでしたか。
実は私は池田さんの本は一冊も読んでいないのですが、「自分と言う存在の不思議」のただ一点で、感性がピタリとはまります。
これからもよろしくお願いします。

投稿: robita | 2007年6月 1日 (金) 09時38分

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