特殊で愛すべき日本
真魚さんが私の記事へのコメントとして、「おまかせ文化」という記事をお書きになったので私もコメントします。
「日本人は変わった民族」というのは同感です。
同じようなことを書こうと思っていたのでメモ書きをしてありました。
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日本人はあまり「お上」を疑わない、これこそが、日本が飛躍的な発展を遂げた最大の理由ではないでしょうか。
つまりある意味「全体主義国家」であったために、国家運営は効率よくなされてきたのですよね。
よく日本人は「従順だ」とか「長いものに巻かれる」とか言われますよね。
「他の国だったら暴動が起きている。なぜ国民は怒らないんだ。バカだ」と熱心な人々は言います。
たしかに腹の立つことは沢山起こります。悪い政治家も悪い官僚もいます。
彼らの起こす悪事に我々は怒ります。
でも、暴動など起こさない。
それはどうしてかというと、怒ってないから、とか、従順だから、とかいうことではないと私は思います。
暴動を起こしたり、個々人がむやみと権利を主張をしたりすることによって生じる時間やお金やエネルギーの無駄を予見できるだけの知性というか、落ち着きを持った国民だからだと思うのです。
無駄に大騒ぎしたって物事の解決にはならない、とわかっているからではないですか。
加えて、政府批判を安心して口にできる自由、政権を脅かすほど大きな力を持っているマスコミの存在、そういう安心感も相まって、日本という国は世界でも稀にみる一体感に満ちた国、とも言えるのではないでしょうか。
そしてその「まとまり」こそが日本をこんなに大国に押し上げたのではないですか。
(・・・・、とまあ、こういうことは、私が言わなくても「日本論」として普通に言われていることなのかもしれませんが。)
かといって、他国がこの日本のような「全体主義」を真似したってうまくいくはずがありません。
真魚さんの仰るように「日本人は特殊」なのだと思います。
その特殊性を、「おとなしい」とか「バカ」だと見るか、あるいは「知恵がある」とか「落ち着きがある」とか「我慢強い」という風に見るかは人によって違うと思いますが、豊かで平和になったのだから、たしかにどちらにしても良かったことだと思います。
しかし問題は、このまま日本だけがそんなやり方で安泰を保つわけにはいかなくなった、ということなんですよね?
それとも、教育にもっと力を入れて、良い人材を沢山育て、立派な官僚や志を持った政治家を国政に送り込む努力をすれば、今までどおり「おまかせ」の効率よい政治が続き、日本は世界の勝ち組であり続けるのでしょうか。
「そうした人がいる日本であるのならば、日本人はバカと言われても全然へっちゃらですよ。」
なるほど。へっちゃらになりたいものです。
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コメント
テーマから外れているかもしれませんが、ぼくはこういうことを考えています。
政治家とか官僚とか行政や司法や立法に携わっている人々、範囲を広げると自治体の中枢にいる人々、実業界のエリートたちは、現在に満足しているので国民が暴動を起こさないかぎり現状を変えようとは思わない。だから今後も変わることはない。
さらに、そういう人々は自分の得た職業や立場を世襲制にしようとし現実にそうなってきつつある。教育もお金がないと必要な教育を受けられない社会になりつつある。教育を受けられないと上記のような地位や立場も得られにくい。
前のイラク戦争にお金を出すまでの50年間、世界中で紛争や戦争にまったくかかわることのなかった国家は日本だけであった。その間、敗戦からの奇跡の復興は、日本人の優秀性だとは思うが、それ以上にアメリカの保護の下で守られていたからである。でも、それはなぜか?
アメリカは日本人は日ごろは羊のように温厚であるが、一旦限界を超えると暴走すると確信している。それに優秀で勤勉な民族だとも確信している。
アメリカは中国に対して、日本に核を持たさないことがアメリカと中国の共通の利益であり重要なテーマだと非公式に言っている。
で、北朝鮮に関わる事件でなんと、元日本弁護士連合会会長の土屋弁護士と元公安調査庁長官の緒方弁護士がびくりするようなことをしてしまった。元公安調査庁といえば、北朝鮮を見張る(表現が妥当でないかもしれない)部署ではないか。
これがいまの日本の実態だとしたら、、どう考えたらいいのだろう。なんといっても、日本は食糧もエネルギーも自給できない国家で自己破産寸前の国家でもある。どうなっているのだろう。
こんなことを毎日考えています。
投稿: angelcats | 2007年6月15日 (金) 23時05分
>angelcatsさん、
私もこんなことを考えています。
この日本はとても豊かで平和で、国民は飢えることなく人権も守られ(他国に比べても大変良いほうだと思います)、おおむね幸せです。
でも、時として、役人や政治家の不祥事が発覚し暗い闇の部分が垣間見えることがある。
その暗く汚い部分を引きずり出してすっかり洗い直そうと試みるや、そこには国の根幹を揺るがす得体の知れない何かがあることに気付いて、いじらないほうがましだ、とあわててフタを閉じてしまう。
汚泥の上の華麗な蓮の群生のような世の中で我々が生きているのであれば、国家崩壊で棄民となることも臆せず根こそぎ綺麗にするその覚悟が我々国民にあるのか。
近代国家というものはどこもこのようなものなんじゃないか。
こんなことをよく考えます。
間違っていたらごめんなさい。
投稿: robita | 2007年6月16日 (土) 10時16分
>>汚泥の上の華麗な蓮の群生のような世の中で我々が生きているのであれば、国家崩壊で棄民となることも臆せず根こそぎ綺麗にするその覚悟が我々国民にあるのか。
近代国家というものはどこもこのようなものなんじゃないか。
こんなことをよく考えます。
これはすごいテーマですね。何やらイラクとアフガニスタンを連想させてしまう。圧制国家のレジーム・チェンジに相通ずる一言です。北朝鮮を考える際にも重要なコメントです。
日本とドイツの戦後レジーム・チェンジはどう評価すべきか?
投稿: 舎 亜歴 | 2007年6月16日 (土) 17時47分
>舎亜歴さん、
圧制国家ならば、土台の脆さや汚さというのは当然でしょうし、国家崩壊はその人民にとってとても良いことのように思えますが(周辺国への影響など知ったこっちゃありません)、私が思うのは、我が日本のような幸せな民主国家の土台にあるものが汚泥だとすれば、それを栄養源としている我々自身、この幸せを捨ててまでもその汚泥を清浄化する覚悟があるか、ということです。
戦後レジームから脱却すると言いながらそれは土台からの建て直しのことではない。
国会議員や官僚の汚職に怒る国民の声を無視するかのように、いつもいつもトカゲの尻尾切りで一件落着するたびに、山本夏彦翁の「世の中は清廉潔白になるだろうに、それをしないのは我々がみんなグルだからだ」という言葉が頭に浮かびます。
この国では誰も真のレジーム・チェンジなど望んでいない。それほどまでに我々は幸せだということです。汚泥が故の幸せ、ということではないんでしょうか。
投稿: robita | 2007年6月17日 (日) 09時28分
ribitaさん、
清い水には魚は住まない、ということですね。これはこれで事実ですが、程度によります。それと、汚泥の上の華麗な蓮がある、であるのは、そうなのですが、であるのならば、綺麗な蓮をもっとアピールする必要があります。この世とは、清い水には魚は住まない、ものであり、人は清濁併せ持つ度量が必要です。しかし、その一方で、人は希望がなくては、朝起きて、布団から出て、仕事に行くことができないものでもあります。清い水には魚は住まないのが事実であっても、その魚が自分の住む水は汚れているんだと思っていたら、生きていく希望もなくなるじゃあないですか。客観的見れば多少は汚れているんだけど、隣の河よりうちの河の方が水は綺麗なんだと思うことで、希望がわいてきます。
「世の中というのは、まあまあ、こんなもんじゃないか」という思いがあると同時に、「世の中には社会正義というものがある」とも思うのが人だと思います。まっとうに生きる、ということ。悪いことをしたら、お天道様に顔向けができない。そう思うのが素朴な心情です。
「汚泥の上の華麗な蓮の群生のような世の中で我々が生きているのであれば、国家崩壊で棄民となることも臆せず根こそぎ綺麗にするその覚悟が我々国民にあるのか。」
これはおかしいです。国民が国家に求めているのは、悪事を残すか、国家崩壊を招くか、の二者択一ではありません。その覚悟があるのかと問われれば、庶民には、そんな覚悟があるわけがないではないですか。その覚悟がないのならば、悪事に黙っていろというのでは、それこそお天道様に申し訳が立ちません。庶民には、そうした覚悟がなくても、国家が国権をもって世の悪事を糾してくれる、そして悪事を糾しても国家崩壊にならないようにしてくれる、というのが、庶民が国家に向ける期待と信頼です。
もちろん、個々の現場での不祥事、悪事を完全に全部なくすことはできません。それはそれはとして、残すことも状況としてはありうるでしょう。つまりそうしたことを残しつつ、しかし、全体として、国は崇高な理念と希望の上に乗っているんですよということを国民に演出できる人が政治家というものです。これは生半可なことではできません。政治家というのは、演出の才能も必要とするのです。微々たる悪事を粉砕して、なおかつ国家は国家で全体としてシャンとしている。理念の旗を高々と掲げている、それが国家というものです。
国家と社会には理念と正義があると思うからこそ、国民は自分の国を信頼するのです。警察官や沿岸警備隊や自衛官などといった人々は、自分の生命を投げ出しても国民を守ろうとするのです。それは、この国とこの国に住む人々を自分の命に代えても守るべきものだと信じているからです。先日も、立てこもり事件で殉職されたSATの隊員の方がいました。お子さんは9ヶ月だったそうです。こうしたみなさんは、この国が汚泥だから幸せとは思っていないと思います。
投稿: 真魚 | 2007年6月17日 (日) 12時53分
>真魚さん、
>清い水には魚は住まない、ということですね <
いえ、違います。
尤も山本夏彦の言葉はそういう意味なのかもしれませんが。
「華麗な蓮の群生」という喩えは適当ではなかったですね。たとえばこんな風に訂正します→「枯れた花も不細工な花も混じってはいるが概ね綺麗なお花畑」
「清い水に魚棲まず」じゃなくて、「パンドラの箱」ですね。
家の事情で今書けないのですが、そのうち落ち着いたらちゃんと書きます。
投稿: robita | 2007年6月17日 (日) 17時23分
robitaさん
お返事が遅くなってしまいました。間違っていないと思います。かなりの確率で正しいのではないでしょうか。
日本は恵まれた国家ですが、世界にはそうでない国家もいっぱいあります。
かなりの確率という意味は、いままでのような歴史の延長線上をトレースできればという意味です。もし、他の国家とのかかわりがさらに深くなり無視できないほどになったとき、幸せな日本という国家には自国の国民、富、文化、安全、権利などをを守りきるすべがあるかどうかで、解は異なってくると思います。
核の拡散は絶対に止まることはないでしょう。資源の枯渇や環境の変化、砂漠化、食糧危機、そして民族の格差など世界規模で起こってくることでしょう。できれば、政治家はしっかりとそのことを見据えて手を打って欲しい。池田晶子さんのいう「当たり前のこと」をやってほしいと思います。
ぼくの考えでは「国民」が国の将来を決定できた国家は、過去の歴史では皆無だと思います。国の将来を決定するのは常に政治家です。政治家とはただその一点のために存在しているのだと、ぼくは思います。
投稿: angelcats | 2007年6月17日 (日) 19時28分