« 朝日新聞と共産党 | トップページ | 国家権力の横暴とは、つまり »

2007年7月26日 (木)

コスモス

アンナさんのコメントへの返事、急いで書いたため、わけのわからないものになってしまったが、昨夜、寝る前に曽野綾子さんのエッセイを読んでいてこんな文章に出会った。

【人間の生き方は、できるだけ目立たないほうがいい。人類が発生してからどれだけ経つのか私には考える気力も知識もないが、その間の夥しい死者たちが生きて力尽きたその方法は、大河のように自然なものであった。その偉大な凡庸さに従うことが、実は人間の尊厳でもある、としみじみ思うのだ。___略___
誰でも、たとえ心にどんな悲しみを持っていようが、うなだれずに普通に背を伸ばして歩き、普通に食べ、見知らぬ人に会えば微笑する。それこそが、輝くような老年というものだ。馬齢を重ねたのでないならば、心にもない嘘一つつけなくてどうする、というものだ。この内心と外面の乖離を可能にするものこそ、人間の精神力なのだろう。それは雄々しさと言ってもいいかもしれない。】

一人ひとりの抱える悲しみは大きいものから小さいものまでいろいろあるけれど、大河の一滴としての凡庸さを受け入れる、ということは、アンナさんのコメントの「どんなことでも、宇宙では最善のことが起きている」ということだろう、と思った。
それは、「宇宙」すなわち「秩序」そのもの、ということだろう。
曽野さんは、「辛くても愚痴など言わず淡々と老人らしく生きよ」ということを言っているのだとは思うが、私としては、「一人の人間の抱えるものは他には理解できないほど大きなものだろうけど、その個人は宇宙という名の秩序(cosmos)に組み込まれた一つの要素であるという、この「内心と宇宙」という最も大きな乖離をたまに意識することが、人間の精神力を鍛えるのではないかと思うのだ。

曽野さんの言葉を借りて、「どんなことでも、宇宙では最善のことが起きている」について語ってみた。余計わけわからなくなってしまったかもしれないけど。

    それでも目立ちたい。よろしくお願いします 人気ブログランキング

|

« 朝日新聞と共産党 | トップページ | 国家権力の横暴とは、つまり »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: コスモス:

« 朝日新聞と共産党 | トップページ | 国家権力の横暴とは、つまり »