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2007年8月31日 (金)

演技の時代

先日、ラジオに「夜回り先生」として有名な水谷修さんが出ていた。

中高生の子供を持つ親からの悩み相談に答えていた。

「悪いのはすべて大人で、子供は全然悪くないのだ」

「子供が悪いことをしても、叱ってはいけない。言葉には力がない。大事なのは表情だ。悲しい顔をして子供を見るのだ。そして何も言わずに抱きしめてあげるのだ」

「子供にこっちにおいでというのでなく、むしろこっちから子供の布団に入っていって『お母さん寂しいの。一緒に寝てちょうだい』と言うのがいいのだ」

こんな風な回答だった。

ということは、子供を正しい方向に導くためにはかなりの演技力を要するということなのか。

演技力のない親は見透かされて、かえって冷笑を浴びることにならないだろうか。死にものぐるいで演技しなければならない。

そういえば、ずいぶん前だが、夜回り先生のルポルタージュ番組を見たことがある。

講演会での語りや、夜中に悩める子供たちの電話を受ける様子を映していた。その表情、声の出し方、まるで俳優の演技を見ているようだった。

これが子供の心を救うのか。そうだったのか。大人は演技力を磨かねばならないようだ。

いや、それほど難しいことではないかもしれない。近頃はお相撲さんだって、下を向いて元気のなさを装えば、「心の病だ」と言ってかばってくれる人がたくさんいるのだから。

しかし、演技をすること、そしてそれに乗っかること、それが良いことだとか悪いことだとか決め付けることはできない。

円滑な人間関係や物事の解決のためにたまに「演技」が必要なのは大人になればわかることだ。

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2007年8月29日 (水)

青春 3

「青春 2」に山本大成さんからコメントをいただきましたので、返信します。

>自分をコントロールできる範疇で、新しいことに「挑戦する心」を忘れずに、年老いて
いきたいものだと考えています<

そうですね。いくら老人でも、やる気をなくしてやることもなくただ退屈な日々を生きるだけ、というのでは困りますね。
それに高齢化社会に向けて医療や介護にかかる莫大な費用を思えば、健康を保つことは本当に重要で体は適当に鍛えなければなりませんね。

でも私思いますに、今いる老人じゃなくて、これから老人になる人々、つまり団塊の世代(私もその一員です)を筆頭とする老人予備軍の人々は正統派老人(笑)にならないんじゃないかという危機感を覚えるんですね。
いくつになっても自分のことにしか関心がない人が増えているような気がします。
私などが分析するのはおこがましいですが、おそらく戦後の「個人主義」の刷り込みがあまりに強すぎたゆえに、全体を見渡す力が育ってないんじゃないかと・・・。
私たちから見ると、先輩のかたがたは、あとを頼むという視線で次の世代を見ていたけれど、今、そういう感覚って薄れてきているような気がするんですね。

例えば、孫の世話より自分の楽しみを優先させる老人が増えると、若い世代の子育て外注傾向が強くなります。
そのことが良いこととは私には思えないんです。

団塊世代に同情的な堺屋太一さんは「団塊世代は世のためなんか考えなくていい。今まで企業戦士として働いてきた分、思い切り楽しめばいい。」と言います。
たしかに、団塊世代が世のために何かしようと張り切ったりするとおかしなことになるのかもしれません。
でも、年寄りらしい年寄りになるほどのことなら、そんなに迷惑かけないどころか、年寄り本来の役割を遂行することは大いに社会に潤いをもたらすんじゃないかと思います。

もちろん、おじいさんやおばあさんが縁側で日向ぼっこしながら孫に昔ばなしをする光景がなくなってしまう、なんて心配は無用なのかもしれません。いつの時代も「ふさわしい生き方」をする人はいますから。
でも、「いつまでもときめいていることが若さの秘訣」なんてあまりに喧伝されると、「それはそうかもしれないが、老人は『若さ』なんて保つ必要があるのか」と反論したくなります。

山本さんは、まだお若いですよね。
自分を振り返ってみても、30代40代の頃は私も確かに「若者」の感覚で生きていたように思います。でも50代に入る頃から、若者の残像を引きずりながらも、いよいよ「正しい老人」への道を模索するようになりました・・・・なんて、そんな大げさなもんじゃないですけど(^o^)そろそろ次の使命を考える段階に移ってもいいんじゃないか、とは思います。

>「盛田昭夫さん」「本田宗一郎さん」<

かっこいいですね。自己実現も社会への貢献も果たしていらっしゃる。
評論家の呉智英さんが、カジキとの死闘で誇りを守った「老人と海」の老漁師のかっこ良さに憧れる、と書いていたのを読んだことがあります。
私は「東京物語」の東山千栄子みたいなおばあさんらしいおばあさんになりたいなあと思います。

パワフルな老人、穏やかな老人、口やかましい老人、いろいろいて当然なのですが、いつまでも恋を期待したり、美容にとりつかれたりしている中高年を見ていると、その方面は少し枯れたほうが見苦しくなくていいのではないか、と思います。ちょっと主張の主旨からずれてしまって余計なお世話かもしれませんが。

    

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2007年8月28日 (火)

青春 2

サミュエル・ウルマンの詩 「青春」 とか、「いくつになっても恋する気持ちを持ち続けることが若さの秘訣」とか、そんな言葉にうんうんと頷いて人は老いを遠ざけようと努力する。

でも、老いることはいったい遠ざけなければいけないほど悪いことなのだろうか。

年をとっても様々なことに関心を持つのは良いことだし、健康に気を配って元気に生きるのは大いに結構だが、「青春」を無理やり老人の生き方にくっつけるのはどうも賛成できない。
青春はどう考えても若者のものだろう。

若き日に何らかの事情で恋愛にも結婚にも無縁だった人が50になり60になって初めてそのような機会に恵まれる、これは大いに応援したい。
しかし、もういくつか恋もしたでしょ、結婚もしたでしょ、子供も持ったでしょ、そういった人々の「いくつになっても青春」シュプレヒコールは私にはどうも不自然に思えてならない。

年を取っても元気なのは良いことだ。
しかし、恋をしたり、若作りしたり、無理やり体を動かしたりして若者の真似をする、そんなことが「元気」の印だとは思えない。
そういう人が存在するのはかまわない。しかし「そのほうが正しいのだ」みたいな世の中の空気はヘンだ。

お婆さんらしいお婆さん、お爺さんらしいお爺さん、そんな存在が自分の行く末に見えることは、果たして若い人たちにとってマイナスなのだろうか。
到達点としてのギラギラした老人は若者にとって果たして「希望」なのだろうか。

サミュエル・ウルマンの詩は「青春」という題でないほうがいい。

老人は枯れるがよろし。

     

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2007年8月27日 (月)

青春

昨日の朝日新聞日曜版に俳優玉山鉄二のインタビュー記事が載っていた。
大学生6人の北海道での酪農実習経験を描く「牛に願いを」というテレビドラマに出演中だ。

「青春のイメージは?」という質問に:

「青春って、だれかに守ってもらえたり、言い訳ができたりする時期だと思うんですよ。今振り返ると、ハンパでいられたのに、なんでめちゃくちゃしなかったんだろうと思える時期は、高校卒業してすぐまでくらいかな」

この答えによると、玉山くんは青春時代にめちゃくちゃをしなかったお行儀の良い子であったと思われる。

彼にかぎらず、めちゃくちゃをするのは間違っているとみんなわかっているので、お行儀良くして青春時代を過ごす若者のほうが今も昔もずっと多い。

しかし、めちゃくちゃをしたり、勝手なことを言ったりするのが若者というものであり、そういうことを経験し、叩かれて大人になっていくものであるのに、それをする前に自己をセーブせざるを得ない世の中の締め付けが年々強くなっているような気がする。

爆音鳴らしてバイクで暴走したり、夜中に学校の窓ガラス壊して廻ったり、恐喝したり万引きしたり、そういうセコい犯罪を「若者のめちゃくちゃ」と混同するのは勘弁願いたい。しかし人に迷惑をかけるのを恐れすぎて思い切ったことに手をつけない若者が増えたのは、我々年配者の責任でもあると思う。

たしかに、若者の生き方を、微笑みながらただ温かく見守る、というのは難しいことだ。

冒険をしろ、あきらめずに夢を追いかけろ、などと言う一方で、迷惑をかけてはいけない、夢など追いかけずさっさと現実的な道を探せ、などと二つの相反するアドバイスをうまく使い分けるのは難しい。

何年か前、関西学院大学のワンダーフォーゲル部が冬山で遭難したことがあって、無事帰還はしたが、あの時彼らに対する評価が二分したのを覚えている。
天候が悪くなるのを予想できたのにも関わらず山に登り、遭難して迷惑をかけた、ということが批判者の言い分だった。

体が回復した部員がマスコミのインタビューに答えて「天候に挑戦してみたかった」という意味のことを言った。
私は、若者の冒険心は「無謀」の要素を大いに含んでいると思うので、「それでこそ若者だ」と思ったのだが、「天候を無視して遭難し、迷惑をかけておいて何という言い草だ」と思った人も多かったろう。

最近、大学の山岳部は部員が激減して存亡の危機に見舞われているところが多いそうだ。厳しい訓練や細かい規則などを窮屈に感じる学生が増えたため、というその理由を新聞で読んだことがある。

危険なことには近づかないのが一番だ、苦しいことは極力避けたい、冒険などして死んだらどうするのだ、だれが責任取るのだ、・・・そういう風潮の中、「悪天候を試したかった」と厳しい表情で語った学生に、私は近年めったにない新鮮さを感じた。

こういう果敢な挑戦の結果の遭難救助に税金が使われるとしても、それは正しい使い方じゃないか、と私は思う。

冒頭の「青春って、だれかに守ってもらえたり、言い訳ができたりする時期だと思うんですよ」という言葉を、若者に言わせてはいけないのではないだろうか。我々年配者がそう思わなければいけないのではないだろうか。

年配者自身がそれを理解し物分りが良くなる、ということは、「対立」を生まないので若者の甘えを助長する、とも考えられるが、表面的には叱責しても内心では許容する器を持つ、という非常に難しい対応が必要となる。
正しい年寄りになるのは難しい。

          

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2007年8月18日 (土)

別にサヨじゃないよさんへ返信

別にサヨじゃないよさんからのコメントに返信です。

>日本政府の意図って事になりますね<

誰の意図かと質問型にはしましたが、これは誰の意図かはわかっていますよね。
日本の頭を押さえつけておきたい中国や韓国の意図じゃないですか?

>そもそも、そんな事実はなかった。そういう人たちがほとんどですね。そして、生き証人の言葉すら、捏造だと黙殺する。<

例えば南京大虐殺について「残虐行為の証拠写真とされるものの多くは、捏造であることが証明されている」とか「元日本兵の数々の証言の多くが虚偽または誇大であったことが今では判明している」などの意見を、私は複数見聞きしています。
「証明されている」とか「判明している」と言うからには、検証済みであると私は判断します。
そしてこれらに対する反論を私は見たことがありません。
私は自分で調査検証する能力を持っていませんので、そういうことから判断します。
日本軍に関する捏造は起こり得た、と判断するわけです。
従軍慰安婦についても、「最初に『従軍慰安婦』という本を書いた人物は自著を捏造であると認めている」そうですし、従軍慰安婦として強制連行された、と主張している女性たちの証言はころころ変わる、とも聞きました。

私は週刊誌やテレビやブログで、これらのことを知ったのです。
そんなものはあてにならない、と言われるかもしれませんが、事実であるかもしれません。

本当のところはわかりません。
しかし、もし本当に「従軍慰安婦などという形での軍部による強制連行が本当になかったのなら、なぜ事実でないことを認めて謝らなければいけないのか」、このように考えることはそんなにおかしなことでしょうか。
捏造されたことに対してなぜ「補償」をしなければならないのでしょうか。

それでも、私も、もうこんなに厄介なこと、さっさと謝ってお金払って終わりにしちゃえばいいのに、と思わなくもありません。
謝ってお金さえあげれば向こうも静かになって、お互いに仲良くできるゼロからのスタートができるじゃないか、と思わなくもありません。

でも、日本がそれをせずにいるのは、きっと、この国に「名誉」を重んじる人々が少なからず存在するからなのだと思います。

「金で済むことなら」などという安易な方法で物事を片付けたくない日本人がまだまだいるからではないかと思うのです。

「なぜやってもいないことをやったなどと言って謝らなければいけないのだ。わしゃ死んでも謝らんぞ」という崇高な頑固さを持った人々が存在することが私はものすごく嬉しいし、お金で済ませたほうが面倒でなくていいじゃないか、などと思う自分は間違っているのか、とも思います。

我々日本人がすべきことは、無条件にただ謝ることでなく、真実はどうだったのかを検証することに時間をかけることだと思います。

そうでなければ、前世代の人たちはもちろん、未来の世代の人たちに対しても申し訳が立たないじゃありませんか。

そうじゃありませんか。
今の時代の人間の都合で、国のために命をかけてくれた日本人に「悪者」の烙印を押して貶めても、それは今の日本のためだから、と許されるのでしょうか。
今の時代の人間の都合で、未来の日本人に「もしかしたら誤解であった恥」を引き継いでいけ、と押し付けるのでしょうか。

たしかに、いまさら、戦時中のことをあれこれ蒸し返す(東京裁判の不当性も含め)のは日本の国益にならないかもしれません。
だからそれを国際社会に向けて大声で叫ぶことはもうしないほうがいいかもしれません。

でもね、せめて、日本人だけでも本当のことを知っていたい。
我々日本人だけでも、礎となった世代の人々の尊厳を守ろうではないか、という心を持っていたい、私はそう思うんですよ。

だから、アメリカでの慰安婦決議など無視すればいい、首相の靖国参拝で中・韓の二国が怒っても日本のマスコミが大騒ぎしなければいい、たったそれだけのことをすればいいのだと私は思うのです。

>それを、外交戦術って言い切ってしまうのは、どうなんでしょう?<

慰安婦の問題を国際社会にきちんと説明できる人はいないのか、という意味で書きました。
そして、話は日本の教育に移り、慰安婦の問題だけでなく、さまざまな局面において、日本外交のまずさが指摘される中、まず、思うことをきちんと相手に伝える論理的な話し方ができる教育を子供たちに施すべきではないか、という提案をしています。
その子供たちの中から、英語を駆使して堂々と意見を述べる政治家やビジネスマンが育つのではないか、という意味で書きました。

>いろいろ読ませていただいていますが、基本、右な考え方ですね<

私のようなこういう考え方を「右」と称するのなら、右なんでしょう。
何が右で何が左か、実のところよくわかりませんが。

書いていくうちについ長くなってしまいましたが、疑問を感じられましたら、いつでも何なりとお書きください。
すぐにはお返事できないかもしれませんが、無視することは絶対にありません。

     

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2007年8月16日 (木)

平和大好き

昨日のNHK「日本のこれから  憲法9条」、面白かった。

しかし、改憲派と護憲派は結局いくら議論をしてもわかり合えることはないだろうなあ、というのが感想だ。

いつも思っていることだが、「平和を守ろうという心意気」と、「改憲護憲の論議」は、まったく別のことなのだ。それをごちゃまぜにして議論しているかぎり、わかり合えないだろう。

この問題は要するに、日本人の「選択」の問題であり、「覚悟」の問題なのである。

数日前に、ブログランキングを「主婦」カテゴリに移した。
ざっと見る限り、ここで、憲法を語っているブログはないようだ。

しかし、普通の主婦が憲法問題をどう考えているのか私は知りたい。

過去の記事をいくつか紹介するので、どなたかに読んでいただければ幸いです。その上で感想を書いていただければもっと大きな喜びです。

「我々のやりかたのほうが正しいのだっ」 

「貧乏になる方法」 

「変節しよっかな~」 

「平和教育のゆがみ」 

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2007年8月12日 (日)

うんこ

『いきなりで恐縮、これは「うんこ」の話である』とkakuさんがうんこの神秘を語る。→ http://kaku.cocolog-nifty.com/mybooks/2007/04/post_b864.html

_________

私もひとつ、うんこの話を書いてみよう。

ただいま19歳の末っ子のオムツが取れて以来、久しく他者のうんこには無縁だった私だが、介護中の母を通して、再びうんこに触れるようになった。
一日600ccの流動食でも、結構大量に出るものである。便通すこぶる良好で一日2回から3回出る。時には4回出る。
めでたいことである。
「便秘のほうがずっとやっかいですからね」と訪問看護の看護師さんも喜んでくださる。

私自身も、25年ほど前に3ヶ月ほど寝たきりの状態になったことがあるが、寝たままで用を足すというのは至難の技だ。
寝たままでしてくださいという看護婦さんの言葉を無視して起き上がってポータブル便器にまたがってしていた。
しかし、母は便秘になることもなく、たまに一日出ない日があっても翌日にはちゃんと出してくれる。ありがたい。

母のうんこはとてもわかりやすい。
固形物のないさらさらの流動食のみのせいか、形状、匂い共にいつも同じ状態で現れる。

まずトイレットペーパーで何回かぬぐってから、湿らせた布の端切れを3.4枚使ってきれいにふき取る。
少しゆるくて広範囲に汚れてしまった場合は、シャワーボトル(口に穴のあいたプラスティック容器)を使って洗い流す。
乾いた布でふき、新しいオムツをあてる。

実に簡単でどうということのない作業ではあるが、最初の頃は、人の体の意外な重さに驚いた。
元々痩せ型の母の体の重量をあなどっていたが、半身傾けてこれらの作業をするのに思いのほか力がいることを知った。
こんな細い人でさえこうだから、体重のある人の介護にはさぞかし力が必要だろうと思う。

オムツ交換の時だけでなく、寝間着の着替えや、体位の転換、すぐ体が下方にずれるので上に引き上げる、など、結構力を要する。

しかし、良い経験をさせてもらっている。
第一、介護保険制度の手厚いこと。
週一回の訪問看護でのベテラン看護師さんの丁寧なアドバイス、二週に一回の医師の往診、入浴サービス、そして、週一回のリハビリも先日始まった。歩けるようにはならないけれど、体が固まってしまうとオムツ交換もできなくなるとのこと。
そして電動ベッドや痰の吸引機のレンタル。
これらのサービスが一割負担で受けられる。
私がずっと家にいる人間なので、ヘルパーさんは頼んでいない。
外に仕事を持っている妹と基本的に二人態勢で、比較的余裕をもってこなしている。
母には申し訳ない言い方だが、「寝ていてくれる」ので、おぼつかないながらも歩くことのできた以前よりのんびりできるのだ。

介護保険がなかった時代にはこんなのんびりしたことは言っていられなかっただろう。
つくづく有難い。

おお、そうであった、話をうんこに戻す。

昔、「暗い光年」(B.W.オールディス)というSF小説を読んだ。

恒星間航行が可能となった遠い未来、太陽系外宇宙に進出した人類はある種族と出会う。
高度な文明を持つにもかかわらず、彼らはなによりも排泄物との接近の度合いを文明の尺度と考え、泥と糞尿にまみれることに最高の喜びを感じていた。
地球人が、排泄物や汚泥などの汚物を最も汚いものとしてそれをできるだけ遠くに追いやることが文明の証であるとしているのに対して、である。

この小説は当たり前とされている「人類の価値観」についてちょっと立ち止まって考えてみるというSFの常道をいっていたのだろうが、物語の運びが退屈であったからか、それとも他に興味をひかれることができたからか、今となっては思い出せないが、終わりまで読んでいないと思う。

今回、kakuさんの記事を読んでこの小説を思い出し、久しぶりに本棚から引っ張り出してパラパラめくってみた。
昔の印刷の細かい文字にはさすがにひるむが、物語の最後のほうにこんな女性の言葉があり、育児や介護の視点から、うーんと唸らされた。

「あなたがた男って、みな同じね!____略____それから、糞尿に対するこの恐れのことよ__わたしたちが捕らえたあの哀れで不運な生物たちにとっては、自分たちのの老廃物は肥沃さのしるしであり、糞をするときには、自分たちが廃棄した鉱物性の塩を土に戻す儀式をやっていることがわからないの?いったい、どうしてそんなに嫌悪するのかしら?さまざまな神様を考え出して、それに人間の生けにえを捧げた地球の宗教と、どちらがぞっとさせるかしら?人間の文明の厄介な点は、それが汚いものや毒や排泄物に対する恐怖に基礎をおいているということよ。あなたがたは排泄物は悪いと思っているけれども、悪いのは排泄物に対する恐怖なんだわ!」

「糞尿への恐怖がない」、地球ではこれを母性と呼ぶのかもしれない。

      

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2007年8月 9日 (木)

平和教育のゆがみ

童話「かわいそうなぞう」は、本土空襲に備えて猛獣たちが薬殺される中、投薬の困難な象が餓死させられる話である。
餌をもらおうと飼育係に一生懸命芸を見せるくだりは、この物語にふれるたび泣いてしまう。

先日、ドラマ「ゾウのはな子」として、テレビで放映された。
ゾウの演技を非常にうまく編集してあり、使い古された反戦のせりふもなく、好ましいドラマに出来上がっていたと思う。

ドラマの最後に、「動物園は平和な国にしかない」というキャプションが流れた。
まったくその通り。

そしてまた、このような感動的な物語は悲惨な状況でしか生まれない。

私たちは「戦争が風化している」と言う。
あの悲惨さを忘れないため、二度と過ちを犯さないため、語り継いでいかなければならない、と言い、終戦記念日の夏がやってくると、毎年毎年、戦争に関するドキュメンタリーやドラマは必ず作られ、我々はそれらを見ることになる。

それらを見ては泣き、もう二度とこんな悲惨なことは起こしてはならない、と固く心に誓う。

しかしドキュメンタリーの類はともかく、ドラマなどは反戦を訴えるというより、見て感動するために作られている。戦争はその「素材」に使われている。
だってそうでしょう。わざわざ言われなくたって誰にでも反戦の思いはある。
思い通りにならないからといって暴力に訴えるのは間違っている、なんて子供にでもわかることだ。

「平和主義者」たちは言う。平和憲法をないがしろにする昨今の日本の空気に、まるで軍靴の響きが聞こえてくるようだ、と。
戦争をしたい人たちが改憲をして戦争のできる国にしようとしている、と言う。

私はこの思考回路はかなりおかしいのではないかと思う。

誰だって戦争はいやではないか。
戦争を知らないからといって戦争の悲惨さを想像できないわけではない。

しかし憲法9条を守るということは、「我々は絶対に戦場へは行かない。世界でどんなことが起ころうが救助に行くつもりもない。戦争する人は勝手に戦争してればいい」と言ってるのと同じことではないのか。

平和主義者たちは言うだろう。「われわれは平和憲法を世界に広める努力をすべきだ」と。

しかし、私のような者でもちょっと考えればわかるのだが、仮に日本国民全員で平和デモ行進をしたとしても、パレスチナ紛争はなくならないだろうし、アメリカやロシアや中国など大国の方針は変わらないだろうし、テロリストの暴挙もなくならない、と思う。

我々にできるせめてものことは、紛争地の復興支援をすることぐらいではないのか。その際、派遣された自衛隊員が武器を持つことを許されなければ暴漢に立ち向かうことさえできないのだ。

「勇ましさ」が、あたかも悪いことのように言われる昨今だが、「勇ましい」ということは果たして悪いことなのか。必要のないことなのだろうか。
命を賭けるような状況に直面しなければ人は危険に立ち向かうことをしない。その勇気がそもそも育たない。

改憲派の宮台真司首都大学教授は、「戦後の平和教育は行き過ぎてしまったのではないか」と言う。
最近起きた、列車内で女性がレイプされるのを誰も助けようとしない、この異常なできごと。
自分が逃げれば残された人質の誰かが殺される、それがわかっているのに自分だけバスの窓から脱出した、そんな事件もあった。
危険なことには関わりたくない、逃げさえすればいい、自分だけ安全であればいい。そういう日本人を戦後平和教育は大量生産してしまったのではないか。

しかし、これらのことは、もし私が男でその場にいたとしてもちゃんと立ち向かったかどうかわからない。
何もできず、一生臆病者のそしりを受け続けたかもしれない。
世の中には臆病な人も勇敢な人もいるのでそういうこともあるだろう。
でも、日本の男のほとんどが見て見ぬふりをすることしかできないのであれば、それは悲しむべきことであると思う。

憲法9条は今や「自分だけ安全であればいい」という心のあらわれになってしまっているのではないだろうか。

平和は有難い。
反面、長く続く平和に人心は弛緩する。

歴史が始まって以来、人類はこの矛盾をずっと抱え続け、排斥と共存とのバランスを取りながら、時には戦い、他者を押しのけて自己の生き残りを優先し、他者の犠牲の上に自己を進化発展させてきた、その子孫が今この地球上にいる我々、というわけだ。
他者を押しのけた結果生まれてきてすみません、とは私は思わないが、「平和主義者」のかたがたはもしかしたらそういう謙虚な気持ちを持っておられるのかもしれない。

戦争は起こしてはならない。これだけは日本はしっかりと守っていかなければならない。しかし、体を張って何かを守る、この気概さえも失うことは人間として恥ずかしい。

こう考えてくると、平和な状態(戦争のない状態)のもとでの、争い、殺傷、事故死、貧困、差別、環境破壊・・・・、ありとあらゆる不幸は人心が弛緩しないための欠くべからざる条件ということになってしまう。

そういう不幸をなるべく避けて、その上で子供たちに勇気や正義や危険回避の術を体で覚えてもらうためには、健全な方法でそういう状況を構築しなければならない。

私はそれが「農役」だったり「航海訓練」だったり「スポーツ」だったりすると思うのだが、TVゲームや塾通いに忙しい子供たちとその子供たちを育てる親にそれらを強制する権限を誰も持っていない。

平和な中で「困難に立ち向かう勇気」を育てる教育の必要性を強く感じるのだが、みなさんはどうお考えだろうか。

           

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2007年8月 7日 (火)

普通の母親

時々思う。子育ての忙しい時期に、こういうブログという面白いものを始めたとしたら、いったい子育てをちゃんとやっていただろうか、と。

いやいや、ブログなど何日もほっておいて子育てを優先していたに違いない。
あの頃だって、インターネットこそ知らなかったけれど、私にはやりたいことがいくらでもあった。
そういうことをすべて後回し、または断念して家事や子育てに邁進していた・・・、というのは「適当」をモットーとする私にはちょっとカッコ良すぎな言い方ではあるが、それでも、いくらなんでも育児放棄などあろうはずがなく、家事育児が生活の中心であったのは間違いがない。
まわりの若い母親たちもみんな自分のことより家事育児を優先していた。

それは、家庭を何より大事に思っているとか、母性本能だとか、そういうことだけが原動力になっていたのでなく、「やらねばならない義務だから」とか、「私がやらなければやる人がいない」とか、「家事育児をまともにやらなければ世間に何と言われるか」とか、特に理由づけなどしなくてもそういう動機が意識下にあったからだ。
つまり、「母親とはそういうもんだ」という単純な思い込みである。

しかし近年、女性が人としての権利や自由に無頓着で「女とは、母親とは、こうするものだ」と思い込むそういう状況から、「知恵の木の実」を食べることによって目覚め、情報を得て「賢く」なるとともに、社会にねじれや摩擦や矛盾が噴出してきた。

女は知恵の木の実を食べて、「母親である前に一人の女である」ことを知ってしまった。

kakuさんのところで「柳楽優弥主演・是枝裕和監督『誰も知らない』」を読んで、「普通の母親」という表現になるほどと思った。

もし、「義務」だとか「世間体」だとかのストッパーがたまたま作動しない状況にある女性が、どうしてもいっしょにいたい男ができて、一番上の子供が十分大きくなっていた場合、お金だけ置いて出て行く、というのは案外簡単にやってしまうことなのかもしれないと思った。

女性はいっさい社会に出ず、家事育児に専念すべきだとは私はもちろん思わない。
この人がこういう職業についていてくれればこそ、われわれ女性が救われると思うことはよくある。
産婦人科にかかる時など、よくぞ女医になってくれました、と感謝することなどそのほんの一例である。
女性の才能を埋もれさせるのは社会の損失だ。
普通の企業でも、事務処理などは女性のほうがよほど要領が良いなどと言う話も耳にする。近頃は度胸の面でも女性が男性を凌駕するなどとも言われる。

特に才能のない女は自分探しなどしてないでさっさと結婚して子供を産みなさい、という提言も少子化に歯止めをかけるものとしてほとんど説得力がない。

しかし、その提言は果たしてすべての女性にとって残酷と言い切れるのかどうか。
子供を産む役目と社会で活躍する役目、分業にしたらいい、という上坂冬子氏が冗談めかして言った言葉も真面目に検討したくなるのである。

>私自身を含め、現代人の殆どが重軽度の差こそあれ、この病に罹っている・・・そんなことをつくづくと想いおこさせ、自省させる作品であった。<

このkakuさんの言葉は実に意味深い。
振り返ってみれば専業主婦であったにも関わらず、私自身も多少なりともこの病は持っていたに違いない、どころか今も持ち続けている。

女性問題はこのまま永遠に我々を悩まし続けるのだろうか。

それとも、いつの日か、女性が社会で活躍しながらも子供を産み育てやすい社会が本当に実現するのだろうか。

そしてそのことと同時に、ある日突然、目からウロコが落ちるように、子供を産み育てることの重大な意味が腑に落ちる日が来るのだろうか。
女性が子供を産み育てる作業を「犠牲」と思わなくなる日がいつか来るのだろうか。

そういうこともあるかもしれないなあ、と私は思う。

だって知恵の木の実を先に食べるのはいつも女性なのだから。

       
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2007年8月 4日 (土)

泣く

悲しく辛く、泣きたくなることは誰にでもあると思う。
こらえきれずに人知れず泣いてしまう。
そんな時、哀愁に満ちた音楽など聴くと余計に悲しくなって、よりいっそう泣いてしまう。
そうやって泣きながらそこはかとない解放感のようなものを感じることがある。
「ストレス物質」が涙と共に体外に排出されるので泣くとすっきりする、という。

泣いても気持ちよくなんかならない辛い体験もあるが、たいていのことは思い切り泣くと吹っ切れる、かもしれない。

泣ける音楽で人知れず泣く。例えば:

 ・ブラームス 弦楽6重奏曲第1番第2楽章
 ・ラフマニノフ 交響曲第2番第3楽章
 ・エルガー チェロ協奏曲
 ・グリーク 「二つの悲しき旋律」より「過ぎた春」
 ・映画「シンドラーのリスト」メインテーマ

ひとしきり泣いたら、希望が湧いてくるような音楽で元気を出す:

 ・シベリウス 組曲「カレリア」より「行進曲」
 ・ヘンデル オラトリオ「ソロモン」より「シバの女王の入場」
 ・ヘンデル 「王宮の花火の音楽」
 ・ビゼー 組曲「美しきパースの娘」より「セレナード」
 ・ヴェルディ オペラ「ナブッコ」第3幕の合唱「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」

とりあえず今夜は「ぞうのはな子」で泣ける。
予告編で見ると反町さんがちょっと過剰みたいなので心配だけれど。

     

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2007年8月 2日 (木)

民意

安倍首相に対する風当たりが強い。
「民意がわかってない」「党内の空気も読めない」「人事能力がない」「責任をとらない」「リーダーの資質にそもそも欠ける」等々、散々だ。

野党からも与党からも国民からも洪水のように批判の言葉が溢れ出している。

朝日新聞の世論調査によると、自民が大敗した大きな理由は:

・年金の問題(44%)
・大臣の不祥事(38%)
・格差の問題(12%)

だそうだ。

安倍さんとしては、「私が辞任して他の誰かがやってもたちどころに年金や格差の問題が解決するわけではない」「ようやく本丸に攻略を仕掛けるところまできたのだから、これを続行する努力をするのが私の責任だ」というつもりなのだろうし、そう考えてもいいと思う。

しかし、政界というのはそういうところではないらしい。
多少の不祥事があっても一生懸命政治を行おうという意志さえあれば周りが協力してくれる、というものでもないらしい。

まさに、失点をみつけては足をすくう、総理の座から引き摺り下ろす、そのために虎視眈々と機を窺い、野党どころか与党内でさえもそういう権力闘争が常に勃発しうる場所、それが政界なのだろう。

私は首相は「かばいきれない」とは思わない。確かにあの惨敗の原因は、さまざまな問題に対する安倍さんのまずい対応であり、政治家としての経験不足やリーダーとしての資質も関係あると思うが、政策の失敗ではない。
しかし、「民意」は「もう安倍さんじゃ嫌だ」に傾いているし、安倍さんはその空気が読めない、とみんな口々に言う。

参院政審会長の舛添さんなどは、テレビに出ずっぱりで首相批判をしているようだが、「こうなった以上総理を支えるしかない」と言いながら、あのように厳しい言葉で党の総裁をこきおろすというのはどういうことだろうか。もし本当に自民党や総理を守る気があるのなら、心でどんなに苦々しく思っていても公の場所であのように自分たちのリーダーをボロクソに言うということは控えると思うのだが。

自民党が壊滅してもかまわないという腹なのであれば不思議はない。
しかし、冷静に考えて、自民党が壊れるのはかまわないとしても、民主党が政権をとってもそんなに政治がうまくいくとも思えない。

ついこの間まで、国民もマスコミも、民主党のぶざまさを嘲笑っていたではないか。

国民はもうこんな首相じゃ嫌だと思っている、その民意を汲む、というのは民主主義では正しいことかもしれないが、今のように「空気」で民意があっちへ行ったりこっちへ行ったり、それにつれて政治家が右往左往することは果たして良いことなのかどうなのか。・・・仕方のないことだけれど。

どうしても政界再編は必要だと私は思うので、自民党も民主党も早く分裂すりゃあいいと思っているが、今がその時なのだろうか。景気のほうは大丈夫だろうか。

まあしかし、どんなことになろうと、それは「民意」の結果なのだから。

              

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