« 普通の母親 | トップページ | うんこ »

2007年8月 9日 (木)

平和教育のゆがみ

童話「かわいそうなぞう」は、本土空襲に備えて猛獣たちが薬殺される中、投薬の困難な象が餓死させられる話である。
餌をもらおうと飼育係に一生懸命芸を見せるくだりは、この物語にふれるたび泣いてしまう。

先日、ドラマ「ゾウのはな子」として、テレビで放映された。
ゾウの演技を非常にうまく編集してあり、使い古された反戦のせりふもなく、好ましいドラマに出来上がっていたと思う。

ドラマの最後に、「動物園は平和な国にしかない」というキャプションが流れた。
まったくその通り。

そしてまた、このような感動的な物語は悲惨な状況でしか生まれない。

私たちは「戦争が風化している」と言う。
あの悲惨さを忘れないため、二度と過ちを犯さないため、語り継いでいかなければならない、と言い、終戦記念日の夏がやってくると、毎年毎年、戦争に関するドキュメンタリーやドラマは必ず作られ、我々はそれらを見ることになる。

それらを見ては泣き、もう二度とこんな悲惨なことは起こしてはならない、と固く心に誓う。

しかしドキュメンタリーの類はともかく、ドラマなどは反戦を訴えるというより、見て感動するために作られている。戦争はその「素材」に使われている。
だってそうでしょう。わざわざ言われなくたって誰にでも反戦の思いはある。
思い通りにならないからといって暴力に訴えるのは間違っている、なんて子供にでもわかることだ。

「平和主義者」たちは言う。平和憲法をないがしろにする昨今の日本の空気に、まるで軍靴の響きが聞こえてくるようだ、と。
戦争をしたい人たちが改憲をして戦争のできる国にしようとしている、と言う。

私はこの思考回路はかなりおかしいのではないかと思う。

誰だって戦争はいやではないか。
戦争を知らないからといって戦争の悲惨さを想像できないわけではない。

しかし憲法9条を守るということは、「我々は絶対に戦場へは行かない。世界でどんなことが起ころうが救助に行くつもりもない。戦争する人は勝手に戦争してればいい」と言ってるのと同じことではないのか。

平和主義者たちは言うだろう。「われわれは平和憲法を世界に広める努力をすべきだ」と。

しかし、私のような者でもちょっと考えればわかるのだが、仮に日本国民全員で平和デモ行進をしたとしても、パレスチナ紛争はなくならないだろうし、アメリカやロシアや中国など大国の方針は変わらないだろうし、テロリストの暴挙もなくならない、と思う。

我々にできるせめてものことは、紛争地の復興支援をすることぐらいではないのか。その際、派遣された自衛隊員が武器を持つことを許されなければ暴漢に立ち向かうことさえできないのだ。

「勇ましさ」が、あたかも悪いことのように言われる昨今だが、「勇ましい」ということは果たして悪いことなのか。必要のないことなのだろうか。
命を賭けるような状況に直面しなければ人は危険に立ち向かうことをしない。その勇気がそもそも育たない。


改憲派の宮台真司首都大学教授は、「戦後の平和教育は行き過ぎてしまったのではないか」と言う。
最近起きた、列車内で女性がレイプされるのを誰も助けようとしない、この異常なできごと。
自分が逃げれば残された人質の誰かが殺される、それがわかっているのに自分だけバスの窓から脱出した、そんな事件もあった。
危険なことには関わりたくない、逃げさえすればいい、自分だけ安全であればいい。そういう日本人を戦後平和教育は大量生産してしまったのではないか。

しかし、これらのことは、もし私が男でその場にいたとしてもちゃんと立ち向かったかどうかわからない。
何もできず、一生臆病者のそしりを受け続けたかもしれない。
世の中には臆病な人も勇敢な人もいるのでそういうこともあるだろう。
でも、日本の男のほとんどが見て見ぬふりをすることしかできないのであれば、それは悲しむべきことであると思う。

憲法9条は今や「自分だけ安全であればいい」という心のあらわれになってしまっているのではないだろうか。


平和は有難い。
反面、長く続く平和に人心は弛緩する。

歴史が始まって以来、人類はこの矛盾をずっと抱え続け、排斥と共存とのバランスを取りながら、時には戦い、他者を押しのけて自己の生き残りを優先し、他者の犠牲の上に自己を進化発展させてきた、その子孫が今この地球上にいる我々、というわけだ。
他者を押しのけた結果生まれてきてすみません、とは私は思わないが、「平和主義者」のかたがたはもしかしたらそういう謙虚な気持ちを持っておられるのかもしれない。

戦争は起こしてはならない。これだけは日本はしっかりと守っていかなければならない。しかし、体を張って何かを守る、この気概さえも失うことは人間として恥ずかしい。

 

こう考えてくると、平和な状態(戦争のない状態)のもとでの、争い、殺傷、事故死、貧困、差別、環境破壊・・・・、ありとあらゆる不幸は人心が弛緩しないための欠くべからざる条件ということになってしまう。

そういう不幸をなるべく避けて、その上で子供たちに勇気や正義や危険回避の術を体で覚えてもらうためには、健全な方法でそういう状況を構築しなければならない。

私はそれが「農役」だったり「航海訓練」だったり「スポーツ」だったりすると思うのだが、TVゲームや塾通いに忙しい子供たちとその子供たちを育てる親にそれらを強制する権限を誰も持っていない。

平和な中で「困難に立ち向かう勇気」を育てる教育の必要性を強く感じるのだが、みなさんはどうお考えだろうか。

 

    よろしくお願いします 人気ブログランキング  

 

|

« 普通の母親 | トップページ | うんこ »

コメント

なるほど、その通りですね。

投稿: トトロ | 2007年8月14日 (火) 14時18分

>トトロさん、

共感してくださってありがとうございます。

投稿: robita | 2007年8月15日 (水) 09時50分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 平和教育のゆがみ:

» <交通事故> [富岡 の日記]
怖いですね…。いつどこで起こるかわからない。 でも不注意すぎでしょう [続きを読む]

受信: 2007年8月 9日 (木) 15時07分

« 普通の母親 | トップページ | うんこ »