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2007年9月25日 (火)

最終弁論2

前記事にいただいた真魚さんのコメントに返信です。

>民衆から支持されようが、されまいが、公のため、私はコレコレをやります。そうでなくてはならないのではないでしょうか。<

当然そうですね。
問題は今の世の中、それでは人材払底の悪循環を引き起こしていることについてどうするんですか、ということじゃないですか。
政治家は使い捨てというのであれば、そんな役は誰も引き受けないでしょう。
「感謝されるために政治家になるのではない」、そんなことは当然です。
でも、正しく評価されない、味方が一人もない、何をやっても必要以上のバッシングを受ける、そんな中で一国を預かる責務を貫けというなら、それは相当の「滅私奉公」的体質を持った人でなければならないでしょうね。

>民衆から評価されないから政治はやりません。そんな政治家は落選させましょう。<

「そして誰もいなくなった」という状態に・・・。
真魚さんのお話を聞いていると、まるで、そういう優れた資質(国を想い、国民のためなら命も賭ける)を持った政治家が自然にどこからか湧いて出てくるみたいな印象を受けます。
国を想うことが悪いことであるかのような教育を受けてきた国民の中からそんな奇特な人材は生まれにくいし、これからますます少なくなっていくでしょうね。

これは教育の問題になってまた長くなってしまいますのでひとまず置いておいて。

>弁護はいりません<

首相の政策を吟味するとか、心中を察するとか、そういうことを大衆はしなくてもいいんだ、というのはわかりますよ。
しかし、評論家はそれをしなければ意味がないでしょう。そして、大衆はしばしば評論家になります。
批判に対して反論すればそれは結果的に「弁護」という形になってしまうだけのことだと思うのですが・・・。

安倍さんは政権を投げ出したことを無責任だと厳しく批判されていますよね。
しかし、無責任にならざるを得なかったことを一番辛く感じているのは安倍さん本人でしょう。
投げ出すなんて無責任でぶざまなことはしたくなかったに違いありません。
これを言うと、「一番辛いのは国民だ」という反論が来ると思いますが、私は本当にそうなのか?と思います。
総理なんて誰がなっても同じ、なんて言う人多いじゃないですか。
急迫の問題である「テロ特措法」が延長できないと日本国にどう影響があるのか熱心に考える国民なんてそんなに多いんでしょうか。
年金や消費税も大事な問題で、差し迫ってはいますがこれらはあわてず煮詰めていかなければいけない問題です。今の時期、憔悴した安倍総理に何が何でもやってもらわなくてはならないんでしょうか。
大方の国民は安倍さんが突然辞めても「辛く」なんかないんじゃないですか。
誰かを責めてすっきりしたい、それだけのことだと思いますよ。

小渕総理や大平総理が在任中に亡くなりましたが、最高責任者としての心労と激務がたたった、と言われています。
縁起でもないので言いにくいことですが、安倍さんが辞任表明する前に倒れていたら、誰も非難しなかったと思います。
最後の力をふりしぼって辞任会見などしたがために、かえって国民の怒りを買った。そうじゃないですか?
つまり、死ぬまでやらないと国民は承知しないわけです。
私はむしろ、体力の限界を感じながら会見に臨み、記者の質問に静かに答える安倍晋三という人の精神力に驚いています。

               

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2007年9月23日 (日)

最終弁論

「くらたま」こと、漫画家の倉田真由美氏が「週刊朝日」誌上で安倍晋三をこきおろしている。
「まるで器がないのに血筋とタイミングだけで首相になってしまったうっかり者。逆風を、跳ね返しバネにする機転もなく、馬耳東風と動じない胆力もない。脆弱で頼りない首相は、大臣の不祥事やスキャンダルで叩かれまくり、弱っていく一方だった。」
「良家のボンボンって、身の丈に合わないポストに納まってしまうことが多々ある。しかも当人は、『ボンボン力』=『僕の実力』と勘違いしていて、器じゃないことに気がつかない。荒波に揉まれたことがないから、大海に出るまで分からないのだ」
「小さい子供も、出来ないことを出来るように錯覚していることがある。ボタンをつけたり包丁で野菜を切ったり、実際にやらせてやると初めて出来ないことに気づく。それでもしつこくやり続けたら、包丁で指を切ったりして泣き叫ぶのだ。『もうやめるー!』と」

・・・・とまあ、このようにいかにもありふれた「ボンボン論」を展開している。

しかし、この際、総理大臣の負った荷物がどのくらい重いものか、冷静に検証する必要はないだろうか。

安倍総理の背負った難問の数とその総重量、また、政界の動き、マスコミの猛攻、国民の冷淡で厳しい態度、それらは、果たして、歴代の総理大臣に比べてどの程度の負担だったのか。

私ぐらいの年になると色々な総理大臣を見ているので、こんなに逆風の強かった不運な人も珍しいのではないか、と思うのだがどうだろうか。

それを短絡に「お坊ちゃんだから」と一刀両断してしまっては、人間の知性や感性が泣くだろう。

おそらく、おおかたの一般大衆もくらたまのような見方をしているものと思うが、溜飲を下げるためだけにそういう表面的な見方で満足する人が大勢を占めるのであれば、民主主義などないほうが良い。

私は、常人には到底担えないであろう仕事を引き受けてやってくれている人には情けをもって常に冷静で公平な見方をしていきたいと思っている。
それで私は「観客席からお気楽に評論する人々」を厳しく評論したいのである。
そうでなければ世の中は不公平だと思うからだ。

             
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2007年9月22日 (土)

立派な大人

子供たちが悪くなったのは、政治家が劣化したからだと言いたがる人々がいる。
小泉が郵政民営化反対組をいじめたり、安倍が責任放棄したり、そういうのを見て子供たちは「ああ、俺たちもこういうことしてもいいんだ」と思うようになるのは当然、などと言う。

しかし、断言しても良いが、子供たちが政治家のふるまいを見て自分たちの行動を決めるなどということはまずない。

だいたい、いじめや万引きに忙しい連中が、新聞読むか、時事問題に関心持つか。

政界の醜さなど昔からわかっていたことではないか。だまし討ち、裏取引、責任逃れ、汚職、そんなものはいつだってあった。国会騒乱の醜態は今よりひどかった。
立派な政治家もいたけれど、悪い政治家だっていて、悪いことをしては新聞に出ていた。

だけれども、われわれ子供はそれを見て自分たちの規範意識を低下させたことなんてなかった。
誰だって自分が子供だった頃を思い出せばすぐわかることだ。
「悪いヤツだなあ」ぐらいのことは思ったかもしれないが、「自分も同じように悪いことをしてやろう」なんて思わなかったではないか。

政治家を悪者にしたいあまり、そういう言いがかりをつけるのはフェアじゃない。
それは何でもかんでも政治家のせいにしたがるずるい大人の悪いクセというものだ。

そんなに大人の振る舞いが子供を悪くすると言うなら、政治家のせいにばかりしないで、大人たちよ、豊かさを放棄して、二宮金次郎のように、「ヨイトマケの母」のように禁欲的に生きたらいいじゃないの。

道徳教育なんかに力を入れたって無駄だよ、と鼻で笑うような大人たちが幅を利かせているうちは、勘違いの森に迷い込んだ子供たちがますますそこから出られなくなるのではないか、私はそう思うよ。

      

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2007年9月19日 (水)

リーダーの選び方

次の総理は自民党内では福田さんで決まりという流れだけれど、街頭演説での麻生さんの人気は相当のものらしい。
昨日のラジオ番組「荒川強啓デイキャッチ」では、その報道を受けて、コメンテーターの女性弁護士が麻生さんの批判をした後「こんな人なのに、どうしてそういう人に人気が集まるんでしょう。国民はどうしてもっと考えないんでしょう」と大変立腹の様子だった。

彼女は左翼なので自民党が嫌いだ。でも自民党の中だったら「穏健派」の福田さんのほうがまだ良いと思っているらしい。
彼女は同時に為政者の独断を嫌い「民意を最重要視すべきだ」という考えの人でもある。

民意が「麻生さん」ならば、その民意は重視すべきでは?

要するに彼女の「民意」とは、「自分と同じ考えの人たちの意思」なのだ。

「民意」について人が語る時、特に左翼が力強く語る時、彼らは自己矛盾に陥る。

実は私も麻生さんより福田さんのほうが好きだ。
無駄な高笑いの多い麻生さんより、とぼけた味の福田さんのほうが好感が持てる。
政治に関係なく、単なる個人的な好みだ。

まさに女子供の単純思考で日本の針路が決まってしまう、といえば、小泉さんの人気を思い出す。

先日テレ朝で「総理の器」と題してジャーナリストの大下英治氏が語っていた。
総理大臣に求められる資質は:
・リーダーシップがある。
・孤独に耐えられる。
・民衆の心を掴む。

この三つだそうだ。
「小泉さんは全部を満たした大変な器でした。主婦たちはその死に物狂いの顔を見て圧倒され、震えがきたのです」と。

つまり真面目さや理想などなくてもいい、とまでは言わないが、中身がどうであれ、強引でも民衆の心をがっちりと掴む人であればリーダーになれる、ということか。

民衆がリーダーを選ぶ、というのはそういうことだ。

この世はたぶん好き嫌いで物事が決まる。 →「好きな人嫌いな人」 

話は変わるが;
総理は早く出てきて国会質問に応じろ、と言う人たちがいる。重要案件について審議がなされないのは無責任きわまる、迷惑をこうむるのは国民だ、国会空転で一日3億円の税金が消えるのだぞ、と叫ぶ。
この人たちは総理を「使い物にならない」と糾弾する人たちである。それを言いながら精神的にも体力的にも息絶え絶えの人に「きちんとやれ」と言っているのである。
「使い物にならない人」を国会に引っ張り出したら余計におかしなことになるのではないか。国民はもっともっと迷惑をこうむるのではないか。そうは考えが及ばないのか。
わかった上で「出て来い」と言っているとしたら、それは最早、国を憂えているのでなく、弱りきった人を無理やり引きずり出してもっと困るところを見てやろう、という魂胆としか私には思えない。

先日、主人が「リーダーは余程神経の太い人間でないと務まらない」と言うので、「今までの首相で、国を想い、しかも神経の太い人っていたの?」と聞いた。
主人は「いたよ、佐藤がいたじゃないか、中曽根がいたじゃないか、田中がいたじゃないか」と言う。
こういう大物政治家には常に金の疑惑がつきまとう。
それで国民は清潔でない彼らに常に疑惑の目を向けていた。金に汚くない政治家を切望していた私も彼らを厳しい目で見ていた。

しかしつくづく思うのだ。
能力なくても清廉潔白でありさえすれば良いのか。
それとも能力腕力があって、清廉潔白で、理想を国民とともに抱く、そんな神さまみたいな人間を国民は待ち望んでいるのか。

政治家がチマチマと小粒になったのは、誰のせいかよく考えたい。
例えばsingle40さんの「政治とカネ」を読んだ上でよく考えたい。

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2007年9月15日 (土)

フッフッフ

「ボクちゃんはアベちゃんが嫌いなのっ」
TBSラジオに毎週金曜日に出演する首都大学教授の宮台真司先生は安倍さんの話題になるたびそう仰る。いや、本当にそう仰るわけではないのだが、なにげなさを装った言い方ながら、怨念のような安倍さんに対する憎悪がこちらにビンビン伝わってくる。個人的な恨みでもあるんじゃないかと勘ぐりたくなるほどだ。

安倍さんの悪口を言ったあと、「わしゃしゃしゃしゃしゃ」とお笑いになるのだが、まるで(笑)の記号を貼り付けているかのような印象を受ける。
(笑)を貼り付けて、どうでぃ、笑ってやったァ、と悦に入っていらっしゃる。失礼ながら子供っぽさを露呈しているのに気がついておられない。
どうしても安倍さんに「世間知らずのお坊ちゃん」というレッテルを貼り付けたいという願望がおありのようだ。
そして、苦労知らずのお坊ちゃんには何もできないんですよ、国民の皆さん理解しましょうね、とラジオで呼びかけるのである。

例えば、拉致問題である。
5人の被害者が帰国した時、外務省と当時官房長官の福田康夫さんは「約束だから一度返したほうがいい。後の交渉も継続できる」と言ったのに、安倍さんは「誘拐されてようやく帰ってきた人たちを犯人の元に返すなんてとんでもない」と主張し、それを国民も支持したために、交渉の窓口がなくなり、今に至っている。威勢の良いだけの安倍さんに与したためにこんなことになってしまった。
と、宮台先生はこのように仰る。

しかし、「北朝鮮との交渉」とはなんぞや。
それは、2.3人の帰国と引き換えに莫大な金を差し出す、ということに他ならないのではないか。
それでいいのだろうか。
しかも、一度に全員返すわけがないのである。
何人かずつ返しては金を要求する。
こういうことではないのか。
これって、ゆすられ言われるままに金品を差し出す、ということではないのか。
百歩譲ってそういう方法でしか帰ってこない、のであっても、あの時、国民の大勢は、5人を返してはならない、というほうに賛成していたし、被害者家族も当然そうだったろう。

それが間違っていたというなら、宮台先生が言うべきは「国民はなんてバカなんだ。5人や10人の拉致被害者に情をかけて国家全体を見失うのか。安倍はバカだが、それに乗っかる国民はもっとバカだ」という本音だろう。

拉致問題の不可解さについては何度か書いてきた。→例えば 「じっと我慢、しかないのかな」

こういうのが、「普通の人の感覚」だと思うのだが、その普通の感覚が、国家として間違っているのだとしたら民主主義は国家を誤らせるものでしかない。

北朝鮮と国交を結んでいたらどうなっていたのだろうか。

金王朝の延命に手を貸すだけで、日本は何も得ることはできなかったのではないだろうか。

今だって、北朝鮮はアメリカとの交渉で、核を無能力化するからと政権延命をお願いしているようだが、そんなのおかしくないか。
あの貧しい国が莫大な費用をかけてやっとの思いで持った核をいったい手放すものかどうか、ちょっと考えただけでもわかる。

北朝鮮のゆすりを受け入れていれば交渉を続けることができた、と言うなら、その交渉で、なにがどうしてどうなったのかを具体的に教えてほしい。
私は外交やったことないのでわからない。

納得できたら、素直に「ああそうか。それならあの時5人返したほうが良かったんだ、私たちはなんてバカだったのだろう。こんなこともわからないで」と反省できるのだ。

宮台先生が「安倍を信じた国民が最もバカだ」とはっきり言わないんだったら、いっそのこと政府が「外交の何たるかをわかってない国民は黙っててください。我々プロがうまくやりますから」と言ってくれたほうがどれだけすっきりすることか。

福田総理が「あななたちはね、何もわからないんだからね、おとなしくしてなさいよ、フッフッフ」とやったらオモロイやろね。

             

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2007年9月13日 (木)

惻隠の情

社会党の村山さんが自民党にかつがれて首相だった期間、記者団の追及にたじろぐ場面をよく見た。
日本を良い国にしようという志を抱いて政治家になり、一生懸命活動していた人だと思う。
ずっと自民党政治に反対してきた党として、その「敵」と組んだことで生じた数々の矛盾を衝かれ、非常に苦しかったことだろう。
性格の良さそうなおじいちゃんがいじめられているようで、とても気の毒だった。
当時はインターネットが発達していなかったので、今のように、ネット上でおもちゃにされるということもなかったし、「左翼から来た」総理だったせいだろうか、「政権を常に攻撃する人々」からの批判も当然なかったと思う。
それでも、社会党のポリシーを転向させなければならない事態に直面し、そのたびにマスコミの猛攻に遭っていて、私はそれをみるのが辛かった。

橋本さんに替わった時はホッとしたものだ。
総理退任当日の夜、「ニュースステーション」に出演した村山さんは晴々とした表情で司会の久米宏のインタビューに答えていた。
「良かった良かった」と私は思った。

安倍さんが総理辞任を表明した。

テレビやラジオでは、「何故このタイミングで」「責任放棄だ」「ボクちゃんが逃げた」と言いたい放題のコメントが色々な人から発せられる。
自民党議員が困惑して「これから一丸となって闘おうとしている時に」と不満をぶつけるのはわかる。
しかし、「安倍やめろやめろ」と叫んでいた野党勢が、いっせいに「やめるなんてずるい」などと批判するのはおかしくはないか。
「やめるタイミングが間違っている」という言い分は、つまり、「適切なタイミングでやめろ」ということなのか。
「適切なタイミング」というのはいつのことか。
どのタイミングでやめれば、「うん、これならば良いやめ時だ」と納得したのだろうか。
いつやめても、何をしても、文句を言ったにちがいない。

死ぬまでやるべきだった。甘いんだよ。
それはそうだろうと思う。どんなに辛くても、息絶え絶えになっても続けるべきだった、そうかもしれない。

でも、そう言って批判する人々の誰が、死んでも職責を果たす、という壮絶な覚悟を持って生きているだろうか。

一国の総理は庶民とは違う、リーダーというものは孤独なものだ辛いものだ、人はそう言うだろう。

たしかにそうだ。一億二千万の国民の生活がかかっている総理大臣の職責は重大である。

しかし、同時に、リーダーをみつめる我々の側にもまた、情けというものがなくていいのだろうか。

官僚支配のこの国の構造に手を突っ込もうとした矢先、数々の閣僚の金銭問題でつまづいた。
年金問題も浮上した。
復党問題にも悩まされた。
更新目前のテロ特措法にも危機が迫った。

体力的にも精神的にもダメージを受けながらも、なんとか頑張ってきた。
政治的求心力がなくなっていくのをひしひしと感じながらもなお、自分を奮い立たせ、外国訪問もしただろうし、所信表明演説もやっとの思いで済ませただろう。しかし、臨界点を超えたのだろう。

おそらく苦悩の様子をつぶさに知っている家族は、「誰かに替わってもらうことはできないか」と懇願したかもしれない。家族なら「死んでもやり遂げなさい」とは言わなかったにちがいない。

総理の職責の重さはみんなわかっている。でも考えてみれば誰か他の人に替わっても日本がつぶれるわけではない。隊長が敵前逃亡して部隊が全滅するのとはわけがちがう。

安倍さんはこの国を良い国にしようという決意で総理になった。青年のような大志に燃えていたと思う。

しかし、若過ぎた、経験不足だった、総理大臣の器ではなかった、ということかもしれない。(歴代の総理大臣で、「その器」と言われる人がどれぐらいいるのか知らないが)
そういうことで政治力が発揮できなかったとしても、敗北し、満身創痍で去って行く人の背に石を投げるようなことをしていいのだろうか。

批判は色々あるだろう。批判も総括もなされるべきだと思う。

しかしここはひとまず、国民みんなで、総理、お疲れ様でした、というねぎらいの気持ちを持つべきだろうと思う。

日本国民のほとんどは、そういう優しい心を持っていると私は信じる。

   
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2007年9月10日 (月)

家庭をプロデュースする

先日、漫画家のさいとうたかお氏がラジオで言っていた。
「女の人は偉いんですよ。偉いんだから(男女平等なんて言ってないで)男をこき使ってりゃいいんですよ」

よくわかる。
私はたびたび同様のことを書いている。「八朔の皮」 もその一つである。

これについてもう一度書こうかなあ、と思っていると偶然週刊誌で「女子アナ 玉の輿ランキング」と題した記事の中にこういう記述をみつけた。

【それなりに高学歴の女子アナが、子供の頃から勉強そっちのけで野球漬けだった男との間に、共通の話題を持てるのか______と、つい心配してしまうが、実は、____中略____意外なほど離婚率が低いのだ。
ある男性アナに聞くと、それは当然だという。
「私が、私が、という女子アナたちは、番組でプロデューサーの仕事を眺めるうちに、自分もやってみたくなるようです。プロ野球選手と結婚すると、まさに家庭でプロデューサーの醍醐味を味わえる。特に姉さん女房だと、野球バカの夫は手のひらで面白いように転がります。一度味わったらやめられないみたいです」】

長くこのブログを読んでいるかたがたなら、男女についての私の考えをある程度理解してくださっていると思う。
女性は家庭で、プロデューサーになることができ、天下を取れるのである。
うまくやればそれができる。それはきっと、外で男に混じって戦うよりずっと簡単なことかもしれない。もし難しいことであったとしても、難しければ難しいほどやりがいがある、というものではないか。
家事が嫌い、子育てが嫌い、という女性は無理やりそんなことしなくてもいい、自分のできる範囲で家庭外で活躍すればいい。
そして、女性が家庭回帰する場合、政治がやるべきことは、夫の給料だけで生活できる賃金保障をすることだろう。企業は、子育てを終えた女性の職場復帰に尽力すべきだろう。

女性は、「自由」や「民主主義」を手に入れてかえって「不自由」になってしまった。
本来女性は男性を包括するものであるのに、無理やり「同列」にしてしまったがために、つまり自らの地位を「低く」してしまったがために、数々の不都合が起こっているんじゃなかろうか。
いや、こんなことは、何もしろうとの私が言わなくても、人類学やら動物行動学の学者先生なら先刻ご承知のことかもしれない。
_______________

さて、私のこのような考えは、「現実に合わない」「時代錯誤だ」と一刀両断されてしまうだろう。当然だ。世は「民主主義」至上主義の時代であり、「個人」より「社会の秩序」が優先されるなどもってのほかだ。話にならない。

しかし私は思うのである。
例えば「平和主義者」のみなさんは、「国益がなんだというのだ。貧しくとも争わずみんな仲良く平和に暮らすのが一番じゃないか」と言って憲法9条堅持を叫び、「石油なんかいらない。みんなで力を合わせて自給自足の生活をすればそれで幸せになれるじゃないか」と言わんばかりの論を堂々と展開して憚らないのだ。
この私だって、「女性が自己実現などさておいて哺乳動物の雌としての役割を素朴に遵守しさえすれば、秩序は保たれ、みんな幸せになれるじゃないか」という論を展開して何が悪いのか。

しかしまあ、こんなことを書いて男に女の手のうちを明かしてしまった時点で、この策は無効だな。

         

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2007年9月 7日 (金)

「時には昔の話を」

私は「団塊世代」と言われる世代なのだが、「団塊世代」というのは、これと重ねて語られる「全共闘世代」とは必ずしも一致しない。どころか、あの学生運動の波に乗ったのはその世代のほんの一部であった。

おとなしく真面目な学生、集団就職で田舎から出てきて貧しさに耐えながら労働に励んでいた勤労青年、そういった若者がほとんどだった、というのが実態だ。学生たちに立ち向かった機動隊員の中にも同世代の若者が大勢いたことだろう。
大学進学率自体、十数パーセントしかなかった時代である。

たしかに、学生全体の間に「革命の気分」のようなものはあったかもしれない。「権力」「体制」に反発を試みてみたいという若者特有の心理は働いていたのかもしれない。
しかし、実際に「戦争」をやった者、「集会」に参加した者さえ、学生全体の一割もいたのかどうか。

私は大学には行っていないので、いったい何がどうなっているのかよくわからなかったが、大学生の友人の報告によると「授業がないことが多い。私たちノンポリ学生はなすすべもない」というようなことだった。

真面目な普通の娘であった私は「人に迷惑をかけてはいけない」という誰にでもわかるルールを知っていたので、「すべきことをしないで」迷惑をかけたことはあっても、「すべきでないだいそれたことをしでかして」世間に迷惑をかけたことは一度もない。ほとんどの女の子はそうだったと思う。

第三者的な視点で、私には彼らの行動が「革命ごっこ」にしか見えなかった。
話し合いでほとんどのことは解決できる、と信じていたので、理屈にもならない言葉を吐きながら暴力を振るう彼らを子供じみていると思った。
そういう私は、「あの人たちだって真剣に世の中を変えようと思っているのよ」と言う友人とちょっとした議論をしたことがある。
彼女は「彼らの真剣さ」を買っていたが、私は「暴力では何も解決しない。彼らはただ暴れたいだけなのではないか」という考えだった。

数年経つうち、学生運動が雲散霧消する中、「真の活動家」による悲惨な事件なども発覚し、全共闘世代が世の中の秩序を破壊した、という印象を残したまま、その後も団塊世代はその大人数ゆえ常に社会を動かす世代として注目され続けた。

還暦近くなった私は、この頃よく思うのだが、彼らは冒険をしたかったのだろうなあ。

男の子の「通過儀礼」としての思春期の肉体のぶつかり合いは必要不可欠、とよく言われる。
通過儀礼にしては世の中を巻き込み過ぎたのだろうか、未だに学生運動の功罪についての論評がよくなされる。

しかし、とにもかくにもこの世代は「物語」を編んだのだ。
「世の中に迷惑かけさえしなければいい」「暴力で社会を変えることはできない」などと傍観者を決め込んで何もしなかった私は、加藤登紀子の「時には昔の話を」に戦いの日々を懐かしむことのできる彼らの行動を、「あの日のすべてが むなしいことだと それは 誰にも 言えない」と歌詞そのままに受け入れるほどに年を取った。

      

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2007年9月 6日 (木)

結婚のことなどほっといてちょうだい

私は「結婚しない人々」「結婚できない人々」に興味がある。結婚してほしい、子供を持ってほしい、と思うからである。
余計なお世話と思われてもいいのだ。婆さんだから平気なのだ。

独身男性のブログ上での知り合いはたくさんいる。
でも、女性がいない。私のブログに来てくれない。
それならば、とブログランキングのOLのカテゴリーなど見てみるが、「これは」と思うようなものがない。
「いい記事書くなあ」と思うと、既婚者だったりする。

独身OLはブログなんかやらないのか?と思うが、いや、そんなことはないはずだ、と、今度はgoogleで「結婚願望」「理想」「子供」「仕事」「3・40代女性」などの言葉で検索してみた。ほとんどが結婚相談所みたいなサイトで、つまらんものばかり。10ページ目ぐらいから、ちらほら個人のブログが現れだした。
たくさん見つけたというわけではないが、少し紹介させていただく。

「結婚をあきらめた派遣OLの日記」のチロコさんは「変な男が多い」と本音をぶつける。

「はねもねの独り言」のはねもねさんは男性だが、「先に良いところを見る人と悪いところを見てしまう人の違いではないか」と書いておられる。

siomarukoさんのブログ「なんだかなあ」も検索で出てきた。
ざっと見ただけで、ご自分の結婚については具体的なことは仰っていないようなのだが、負け犬、少子化の記事多し。

「発言小町」というサイトにも行き着いた。 
トピを立てた人への回答がズラーッと並ぶ。なるほどなるほど。色々な考え色々な事情があるのだねえ。

もっともっと色々なサイトがあるのだろうが、もう根気が続かない。お昼にする。

        

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