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2007年10月30日 (火)

市場と道場

真魚さんが、私の記事を取り上げてくださったので、お返事を書きます。

真魚さんの仰ることは正義感にあふれたものだと思います。

>本当の強さとは、あの国には信頼がある、尊敬ができる、だから、あの国の言うことは正しいと思う、あの国に従います、そうなるのが本当の強さです。
そうした「強さ」を持つ国にならなければなりません。<

私の言う「強い国」とは、まさにこういうことも含まれます。(「含まれます」というのは、真魚さんの弁だけでは「理想論」と言われても仕方のないほど国際関係は複雑であり、生存競争の力学で動かざるを得ないものだと理解しているからです)

真魚さんの文章を読んで3つポイントがあると思いました。というか、私が無知なので知りたい点です。

① 日本が再び軍国主義になって自分たちをいじめるのではないか、中国韓国は、本当にそんなことを心配しているのだろうか。

そうではなく、特に中国は自身がアジアの覇権を握る、その目的のために日本をとにかく恫喝して抑えておく、そういうことではないのでしょうか。でなければ、中国自身が「嫌われたり」「警戒されたり」「恐れられたり」するようなことを平気な顔でやっていることの説明がつきません。核兵器を所有しながら、「日本は怖い、日本は怖い」ってなんですか、それ。

>前の戦争を反省していない不気味な国があったら警戒するのは当然です<

この言い方がどうにも私には理解できません。
現在進行形の自国の行為を反省しない不気味な国は当の中国ではありませんか。
中国も、過去の戦争についての60年以上にわたる日本の国内論争を眺めていれば、色々な観点はあろうけれども「反省」にまみれているのは日本だということを知っているはずです。

アメリカから独立したはいいけれど、今度はあの中国の属国になるのではないでしょうか。中国ってそんな戦略で動いている国ではないのでしょうか。

「日本が恐ろしい国になるのではないか」と心配する中国の気持ちはわがことのように理解してあげられるのに、中国の恐ろしい計画を警戒する日本を理解しない・・・、これはまさに、左翼のかたがたに見られる自虐体質ではないのかなあと思います。

>また、あの連中は何がしでかすんじゃないか、どうも信頼できない、あの国は今度は核ミサイルを抱えてカミガゼ攻撃をしてくるんじゃないか、
そういう懸念があるから、国連でも日本はまだ敵国条例の対象になっているのです。<

懸念ですか・・・、アジアを侵略し収奪しておいて、勝手に敵国条項を作った連中にそんな懸念を持ってほしくない、そう思いませんか。まるで、世界の中で悪いのは日本だけ、みたいな仰りようです。

② 憲法9条を変えなくても、国外で武力行使は可能か。

わが国の防衛の面だけで考えるならば、核兵器でも持たない限り、改憲しようが護憲しようがそれほどのかわりはない、と私は思っていますし、今までもそう書いてきました。
ただし、発展途上国への支援を考える時、お金さえあげれば済むという話でなく、やはり、各分野での技術指導を行う際など、特に紛争地などでは危険が伴うわけで、他国の軍隊なども入って治安維持に努めている国では、日本だって軍隊を送る必要が出てきますよね。いつもいつも他国の軍隊に守られるしかないのではそれこそ自主独立の精神に反します。
改憲しないで紛争地で正当防衛の戦いはできるのでしょうか。

③ 日本の経済的豊かさの維持発展について。

例えばアメリカで民主党政権ができると、国内企業の保護政策がもっと強くなるので、日本の輸出産業にとっては不利だ、などと聞いています。
もちろん、アメリカは日本を言いなりにしておけば自国にとって有利だと考えているから、民主党政権だろうが共和党政権だろうが日本を言いなりにするために悪いようにはしないとは思いますが、日本の側から「アメリカと距離を置きます」という態度を取った場合、日本の商売上の損得はどうなるのでしょう。そしてそれは国内景気にどう影響するのでしょう。
商売はアジア、とりわけ中国にシフトすれば万事OKだというならそれでちっともかまわないと思います。
じゃあなぜ、日本政府はこんな簡単なことができないのでしょうか。
国内景気に大きな影響が出てくるからじゃないんでしょうか。
そして、今の日本人に「それでもいいんだ、景気悪くなっても、アメリカから独立できるんなら少しの貧乏は我慢しよう」というつもりなどないことを知っているからじゃないでしょうか。
おそらく、今の日本人は一年も我慢しないんじゃないかと思います。
誇り高いサムライのような日本人などもうどこにもいません。
政治家や官僚だけが腰抜けだと思ったら大間違い。
豊かさにあふれながら「お金が足りない」と不満を言い続ける日本人。もちろん私だってもっとお金がほしい。ああ、お金があったらなあ・・・。

で、真魚さんが、例に出された空手の達人の毅然たる精神ですが、個人レベルでこれは素晴らしいと私は思います。
ストイックな生き方を選ぶのは個々人の自由ですし、そういう生き方の人を私もとても偉いと思うし尊敬もします。

でも、国は生き残らなければならない。豊かにならなければならない。国は精神性を求める道場ではないから。

だけれども清く美しく強い精神を国として育てることも大事。そういう精神を持たなければ世界から一目置かれることもないから。

国家はこのバランスをうまく取ることが大事で、日本はそのバランスを世界で一番うまく取ってやろうじゃないか、というのが戦後体制からの脱却を願う人々の考えであろうかと思います。
そのために、辛い年月を乗り越えなければならないのなら、そうしたらどうなんでしょう。
でも、「少しも我慢したくない」というのが民意であれば、そうはならないでしょう。

     

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2007年10月26日 (金)

秋風が吹いて

戦後、吉田茂の側近としてGHQとの交渉にあたった白州次郎の妻白州正子(能や骨董など古典美に造詣の深い随筆家)が晩年、家を訪れた取材記者に「現在の国際情勢についてご意見を」と求められ、「そんなこと知るか。私は忙しい」と言って立ち上がり、庭に出て草抜きを始めたというエピソードを何かで読んだことがある。
痛快だ。
夫と共に、東京郊外鶴川の里に庵を結んで老後を過ごした人の達観というものだろう。

友人に、とても文章の上手な人がいる。
大上段に構えず、家族のこと、身の回りで見かけたことなどを、まわりくどくない言い回しで素直に表現する。
ほのぼのとした温かみが感じられる反面、彼女の芯の強さ、頭の良さを感じさせる毅然たる意見に感心することもしばしばである。
彼女はホームページを開いていて、そこに比較的短いエッセイを、日にちを置いてゆっくりと書き続ける。
こんなところ(ネットの片隅でという意味である)に、こんな良い文章を置いておくのはもったいない、何かに応募してみたら、と提案したこともある。
やはり、その腕前は正しく評価され、今年の初め、あるエッセイコンテストで優秀賞を受賞した。

政治のことや世界のことなどどこ吹く風、家族のこと、生活のこと、思い出、季節の移り変わりのことなど、当たり前の身の回りのことを描写する力量こそ素晴らしい。
私のような普通のおばさんには、防衛問題や国際関係のことなど、本当はわかるはずがないのだ。
根拠というよりなんとなく勘のようなものでいろいろ論じているに過ぎない。
政治を語るブロガーの方々は、実に多くの本や資料を読み込んでいて、弁論にも優れている人が多い。
国の軌道修正はそういうかたがたや政治家や官僚にお任せして、そろそろこっちの軌道修正もする時が来た。
次世代をしっかり育てるシステムを作ってほしい。言いたいことはそれだけだ。

柔和なおばあさんになりたいので、意地悪なこと激しいことは今のうちに書いておかなければならない。
若い人たちより少し長く生きている者として、これだけは言っておかなければならない。
いささかつんのめり気味の文章の羅列は、そんなあせりにも似た気持ちからでもあったと思う。

もう言いたいことはだいたい言ったので、ある程度満足だ。
これからはゆっくりと、小説なども読みながら国語力をつけ、もう少しましな文章を書いていきたい。

もちろんまだまだこれから先も言いたいことは噴出してくると思うが、硬い話題もなるべくすっきりと読みやすい文章になるよう工夫しながら書いていこうと思う。

草抜きをしながらそんなことを考えた。

  

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2007年10月25日 (木)

独立宣言

以前、NHK「日本のこれから」(憲法9条について)番組編成のためアンケートを募集していると舎亜歴さんに教えていただき、回答して送ったら、NHKの方から連絡をいただいた。
番組出演はできないが、という前提でしばらくお話をしたが、アンケートの最後の「あなたの憲法9条に対するお考えをお書きください」に対する私の回答に興味を持ってくださったようだった。

「憲法9条を持っているだけで世界が平和になるわけでないことはわかるのですが、一方で、9条をそのまま持ち続けて、今までどおり自衛隊海外派遣に際してごたごたを未来にわたって続けていったとしても日本の国益としてはあまり変わらないのかな、という気はします。
しかし、問題はそういうあいまいな国家に生まれ育つ子供たちの精神の支柱のようなものがどうなるのかということだと思います。
国民一人々が国家という共同体の一員である、ということ、そして日本という国も国際社会という共同体の一員である、ということを自覚し、国際社会でそれなりの態度を取ることがこれからの子供たちに求められるのではないかと思います。」

と、このようなことを書いたのだ。

番組スタッフは、この「子供たち」というキーワードについて詳しく聞きたい、ということだったので、

「態度のはっきりしないふわふわした国に育つ子供たちというのはいったいどういうことになるのか。家庭内で、あるいは国内だけでありきたりの道徳だけ教えていれば人作りはそれで済む、という話ではないと思う」というようなことを説明した。

つまり、国が自主性を持たないと、日本を担うことになる子供たちが大人になってもやっぱり防衛や国際協力に関してああでもないこうでもないと優柔不断の態度をとり続けるだけではないか、それは国際社会の一員として発言力を持たないというに等しい、ということだ。

山本大成さんはこういう記事をお書きになった。→「米軍は何故、日本に駐留しているのか?」  
私はもっともなことだと思う。
改憲しなければならないのか、それとも解釈でなんとかできるのか、細かい論議は私にはわからないが、国防のシステムをはっきりさせておくことは重要だ。

「世界平和」を訴えるのは正しいことである。
ただし、それは、「憲法9条を守りましょう」などと言ってるだけでは実現しないことを知るべきだ。

金だけはあるがポリシーのはっきりしない日本のようなあいまいな国の言うことを誰が聞くものか。
しかも金の力だってちかごろはおぼつかない。

日本が世界平和を全世界に訴えるならば、まず、強くなることを考えるべきではないのか。発言に重みがあってこそ、世界は注目する。もういい加減に「唯一の被爆国」というお題目だけで世界は動かないことを知る時ではないか。

本気で世界平和を訴えたいならば、国連を乗っ取るぐらいの意気込みでやったらどうなんだ。

軍事大国になることは日本にはできないだろうし、ならなくてもいいと思うが、せめて、他国と同じように汗を流すことができるようにするべきだし、アメリカに対してものが言えるようになるくらいにしなければいけない。

山本大成さんは仰る。
「現状のシステムでは、私たち日本人の知らないところで決断が行われた戦争の片棒を知らず知らずのうちに担がされてしまう状況なわけです。」
「なによりも米国が勝手に起こす戦争にもの申せる立場を確保せねばなりません。」

私は普段から、このままアメリカに追従でも、憲法改正して自主性を持ってもどっちでもいい、と言っている。そして、それは個人としては本心なのではあるが、もし、自主独立の姿勢をはっきりと示すリーダーが現れたら、迷わずその人を応援する。それはこれからの日本人のためだからである。

世界の中の日本をしっかりとさせるということは、これから日本を背負って立つ子供たちの背骨をしっかりと育てるということでもあるはずだ。

外交というものは態度をはっきりさせれば済むというものではもちろんないと思う。時にはあいまいさも戦略として立派に成立するものだろう。
しかし、基礎のしっかりしていない家が外からの力で容易に崩れるように、土台があいまいな国家では外圧に耐えられない。

それがわからない人が、いつまでも日本をあいまいな国にしておいて東アジアの片隅で「憲法9条」「憲法9条」とさえずっているつもりなのだろう。

右翼も左翼も、アメリカは日本から出て行けと言い、中立の人たちも、アメリカの言いなりになるな、と言う。これはもう、国民の総意とも言えるので、事を運ぶのは簡単ではないか。

国を構築し直すということは、結果的に強くなり豊かになるということにつながるが、ただし、アメリカと距離を置くということは、すなわち、試練も伴うということでもあると思う。
豊かさを保ちつつ、毅然とする、ということを日本は今まで経験したことがあるのだろうか。

たぶん、辛い時代を乗り越えなければならないのではないか。
追従を続けて目先の楽チンを選ぶか、試練に耐えて未来の栄光を勝ち取るのか、そういうことではないのだろうか。
若い人に頑張ってほしい。よく勉強して力をつけてほしい。
そして、立派な政治家立派な官僚になっておくれ。
普通の国民は、国防のことも国際協力のことも本当は何もわからないのだ。
しっかりとした政府がうまくやってくれて、安定すれば、国民は幸せでいられるのだ。
政府が外交・国防で嘘をつこうが何しようが国民は安心してだまされて、幸せでいられるのだ。

国民が本当のことを知って民意で国が運営されるというのが民主主義というものだと思うが、この国で(いや、どこの国でも)民主主義が機能するはずだなどというのは単なる幻想なのかもしれない。

思えば、防衛がらみの汚職、密約、機密漏えいなど、それらは正義を追及するだけで済む問題ではないのかもしれない。

こちらを読んで嘘つきも辛いのだなあと思った。 いやなにも私は「国益について国民に説明のない今の日本の状態こそが、国民の『知らずにいる幸せ』だ」との喩え話だなんて言ってませんよ。言ってない言ってない。

試練の自立か、奴隷の幸せか。

しかし、選択はその二つだけではない。
試練を乗り越えた先の充足感があるはず、と思う。

何より重要なのは自主独立の精神だ・・・・ね?

           
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2007年10月23日 (火)

男は黙って・・・

男が有名人との過去の不倫関係を暴くという、過去にはなかった事態が相次いでいる、とのコメントをテレビやラジオで複数聞いた。姫井のことやら花田のことやら。
昨日もTBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」で;
「昔の男は関係のあった女性とのことをべらべら喋ったりしませんでしたよねえ。男は絶対女の悪口を言うもんではない、という暗黙の了解というものがありましたよねえ」と司会者が言い、ゲストもそれに同意していた。

「男は」「男は」って、それは不公平ってもんでしょう。じゃあなんですか、女は男の悪口を言ってもいいけど、男は言っちゃいけないんですか。そりゃあないでしょう。それは女の良いとこ取りってもんでしょう。これですか、「男は辛い」ってのは。

・・・・ああ、なるほど。この人たちは、いわゆる「保守的」って人たちなんですね。それならわかります。

秩序維持のため、男はこうあるべき、女はこうあるべき、という話ですね。

しかしねえ、ユニセックス化著しい今の世の中、男に「女みたいなことするな」というのも無理があるような・・・。

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2007年10月22日 (月)

食う

太田光の政治討論バラエティ番組を時々見る。
真っ赤な顔に青筋立てて平和論をまくし立てる太田光の「左翼ぶり」には敬意を表する。あの磐石の弁論で武装した石破防衛大臣をバカ呼ばわりするその胆力はたいしたものだ。この人に防人の長をやってもらいたいくらいだ。

さて、この平和主義者太田光を支え、日本政府を批判し、アメリカに追従するなという意見を表明するアイドルの子ら(といっても成人していると思うが)がいる。アメリカとくっついていると戦争に巻き込まれる、戦争はいけません、というわけだ。

そういう意見に対して、「国益のために日米同盟は必要です」と、一つ覚えのように「国益」を連発するのが親米派だ。このアイドルたちにもっと明快な説明のしようがあるだろうに。こんな風に:

「国益とは、食っていくことだ。石油や食料その他の資源を手に入れることだ。資源や、何より、国際社会の信頼を得ることができなければ、我々は食っていくことができない。君たちのその金色の髪や可愛いドレスは、食うことができて、それに加えて余裕があるから実現することだ。なんなら、アメリカに歯向かってみるか。自衛隊の出動を余儀なくされる紛争地域への支援をやめてみるか。君たちは化粧もせず髪をひっつめて泥にまみれて農作業をやる覚悟があるか」

実は私にも、アメリカ追随というのは本当に我々の生存に役立っているのかどうかよくわからない。でも日本政府が誇りも何もかなぐり捨てて必死になってアメリカの言うことを聞いているのは、きっとそういうことなんだろうと思っている。

国民が反対しても国のためにリーダーとしてやらなくてはならない、のであれば、どうしてそれをやらなければならないのかわかってもらうために説明する必要があるとは思うのだが、悲しいかな「どんなにみっともなくてもアメリカにくっついているしか生きる道はないのです」と本当の理由はみっともなくて言えないのである。日本にだってそんな小指の先ほどのプライドはあるのだ。

アメリカとの関係だけでなく、日本の外交問題では、国民への説明があいまいになったり、矛盾が起きたり、政府が嘘をついたりしなくてはならない場面が非常に多い。

国家機密というものがあって、何もかも国民に包み隠さず報告するというのは無理だとしても、日本のような隠蔽体質、つまり、嘘をつかなければならない体制の根源は何かということを考えると、憲法9条にたどりつくのではないかと思えてくる。

貧しくとも誇りを持って生きるのか、アメリカや日本政府を責めながらもラクチンに生きるのか、日本人は何を望んでいるのだろう。私はどっちでもいいと思っているけれど。

        

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この記事はsingle40さんの「食料安保」にトラックバックさせていただいています。  

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2007年10月19日 (金)

「働きマン」

日本テレビの新ドラマ「働きマン」の第二回目を見た。
演技派だと思っていた菅野美穂が、意外とコミカルな演技が下手でちょっとがっかりしたが、脚本や演出のせいかもしれない。それはともかく内容は興味深いものだった。

仕事こそ生きがいとばかりにギラギラバリバリフル回転で働く出版社社員松方弘子(菅野)の台詞、これは現代の働く女性の心情そのものだろう。

「男と同じように働きたいけど、女でありたい」
「結婚したいけど結婚したくない」

両方達成したいのよ、というキャリアウーマンの願望が痛いほど伝わる。
そしてその願いの中には「社会そして男の理解は必要不可欠である」という条件が当然加わるのである。
しかし、現実、社会も男も冷たい。
松方が携わる雑誌の編集会議で彼女の企画「世界に斬り込む日本の侍たち」は通ったものの、野球選手志村への取材も思うようにいかず疲れ果てる。

一方、他誌の編集者で野球記事の連載を持つ女らしいゆみちゃんは、空回り気味の松方を嘲笑うかのように、姫力を駆使して、猛者揃いの記者たちを尻目に取材困難な志村へのアプローチを果たす。

「女の武器を仕事に利用する姑息な女」と軽蔑する松方。
しかしドラマの後半、彼女はゆみちゃんがただ者でないことを知るのである。

「女の武器」とは、媚びることではなく、柔軟に対処することによって男をこっちのペースに巻き込むことだとゆみちゃんは松方にアドバイスする。「ぶつかっちゃだめです。かわすんです」
それは決して「男と対等に」「男と同じやり方で」物事に取り組むことではなかった。

その上、「薄っぺらな記事しか書けない能力のない女」と松方が決め付けていたゆみちゃんの記事はよく読んでみると、野球選手たちへの女性ならではの優しい眼差しにあふれた素晴らしいものだった。彼女は行動力だけでなく執筆者としても有能な女性だったのだ。

ゆみちゃんはきっと「バカな男は変わらない。賢い女こそそれに合わせて変わるべき」ということにとっくに気づいていたんじゃないだろうか。

そしてゆみちゃんは、「仕事よりももっと守りたいものがみつかった」と言って、結婚して家庭に入るため、職場を去っていくのである。

余談だが、ゆみちゃんの助力で志村の取材にこぎつけた松方の台詞:
「海外に出て行く選手が多い中、メジャーからのオファーを断って敢えて日本にとどまり、日本の野球を大きくして世界を巻き込む、という志村さんの姿勢がこの企画にピッタリなんです」

愛国心もさりげなく織り込んでるところに拍手。

さて、「女の特性をもって男を取り込み、相手の力を利用して主導権を握る」という柔道技についてだが、
そんなベタ言われなくてもわかってるけど、それができたら苦労はないのよ、というのが女性たちの本音であろうと思う。
たしかに、妻が夫を操るのとはわけがちがう。
女性のキャラクターだっていろいろある。みんな同じようにはできないのである。

しかし、かわし技について先刻ご承知の諸姉には釈迦に説法なれど、「男が変わらないんだから、女のほうで変わるべき」、このことをヒントに発想の転換をして新しい動きに出る女性がいるとしたらそれは大きな意味があると思う。
まあ、実際の社会を知らない者の想像の域を出ないわけだから安易の謗りを受けても仕方がない。
でも、そうだとしたら、安野モヨコのあの描写には冷笑が浴びせられるのだろうか。

 

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2007年10月18日 (木)

「ペルシャの市場にて」

私が通っていた女子校では、運動会の時、高校三年生が「ペルシャの市場」を踊るのが恒例になっていた。
ケテルビーの「ペルシャの市場にて」に誰が振り付けたのか、それは学校で教える舞踊としてはちょっぴり官能的で大人びたものだった。
毎年、最上級生が踊って運動会を締めくくるのを鑑賞しながら、私たちも高三になったらあれをやるのだ、と中学の頃から憧れていたものだ。
それを踊る時ばかりは、普段の体操服、つまりそう揶揄されて忌み嫌われていた「ちょうちんブルマー」を、長めの紺のプリーツスカートにはき替えたので、雰囲気はより大人っぽくなった。

「○○高校の男子たちが悩殺されちゃったんですって」などと、系列男子校との合同体育祭かなんかで披露された時の男子の様子を、おませな級友が口にするのを側聞し、その「悩殺」という妖しい言葉に、あれは女性の武器なるものを意識した最初の機会ではなかったかと今にして思う。

思えば、官能だとか悩殺だとか、性情報の溢れるこのご時勢からすればそんな他愛ない言葉に敏感に反応した女子高生たちも純情だが、白いシャツに紺のスカートをはいただけの女子がちょっと体をくねらして踊ったからといってポーッとなってしまう男子高校生のなんと効率の良い悩殺のされ方よ。

一方で、白昼堂々、ヘソやら胸の谷間やら太ももやらを露出してうろつく昨今の娘らの姿に、「食傷」という言葉が頭に浮かぶ。

「ま~た年寄りの繰り言かい」と言うなかれ。

何故わざわざ堕落した欧米の悪習の真似をするのか。ここんとこ、イスラム原理主義者と意見を同じくするものである。

隠すこと、そして仕草によって想像力をかきたてること、そういうことこそが男子の健全で力強いリビドーを育てるんじゃなかろうか。どう思う。

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2007年10月17日 (水)

鞍馬天狗

週刊新潮に載せられた書評 《大佛次郎「角兵衛獅子」(鞍馬天狗傑作選①)》

   「永遠の生命持つ少年小説」(文芸評論家、縄田一男)

【 永遠の生命を持つ作品というものがある。大佛次郎の代表作の一つである本書などその好例といえよう。
  巻末に付された大佛次郎研究の第一人者・福島行一の解説によれば、“少年のための鞍馬天狗”と銘打たれた『角兵衛獅子』が「少年倶楽部」に連載されたのは、昭和二~三年にかけてのこと。_____中略____
  本書や吉川英治『神州天馬侠』等、往時、時代小説の名匠たちは、心をこめて児童向けの作品を書いていた。これらの作品は近年では評価・研究も進んでいるが、かつて、純文学に対して大衆文学が蔑視の対象にされたように、いわゆる、お行儀の良い児童文学に対して大衆児童文学、もしくは少年小説として切り捨てられて来た。だが、今日、両者を較べると、前者が大人の価値観を子供に押しつけた作品が多いのに対し、後者は、手に汗握る子供の娯楽作品として成立している一方で、苦難を乗り越えるための勇気と、正しい行いをして来た者は必ず報われる、すなわち、正義は勝つ、というメッセージを子供たちに送り続けて来た。
  このあたり、鞍馬天狗が時には、勤皇佐幕といったイデオロギーを越えた“剣の自由人”として悪を懲らすところに如実に示されていよう。
  確かに、悪は滅びて正義は勝つ-----という理想は、子供たちが大人になった時、幻想でしかなかったと悟ることかもしれない。が、まだ心がまっさらな子供の時に、たとえ、現実はどうであろうと、どちらが正しいことなのか、どちらを追い求めるべきか、ということを頭に植えつけられるか否かで、その後の人格形成に大きな影響があるのではないか、と私は考える。
  子供たちよ、小学校から道徳をなくして英語を教えるなどとほざく、阿呆どもの政策など、生きていく上で何ごとのプラスになろうか。真に人生を生き抜くための勇気が欲しかったら、『角兵衛獅子』を読みたまえ-----。永遠の生命を持つ、この少年小説の名作を------。】


共感する。

以前こんな記事を書いた。→「志」を育てる  

今の子供たちだって、本を読む子は読んでいるだろうし、漫画や映画で正義や友情を学ぶことはあると思う。感動もすると思う。

でも、それらにはずいぶんと「大人のひねり」が加わっているような気もするのである。

子供にはまず、本当にプリミティブなものを与えるべきではないのだろうか。

東大合格のノウハウを描いた漫画「ドラゴン桜」にこういう描写がある。 ( 参照 → http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2005/05/post_e1c3.html


<芥山(国語教師)>:  矢島君の言うように常識はアテになりませんが、常識に否定的なだけでは思考が発展しません。

<矢島勇介(男子生徒)>:  え・・・

<芥山>:  むしろ、若い人ほど常識を肯定的に捉えてそこから学ぶべきです。

<水野直美(女子生徒)>:  どうして?

<芥山>:  なぜなら将来非常識な人間になるためです。

<水野>:  非常識?

<芥山>:  誤解しないように。無秩序で反道徳的な人間になれということではありません。

<水野>:  それはそうだと思うけど。

<芥山>:  いいですか? 独創的発想、斬新なアイデア、これらは世間の常識を裏切って生まれてくる。逆説的ですが、非常識を作り出すための前提として、まず常識を知り尽くさなければならないのです。

<水野>:  非常識のために常識を知る・・・

<芥山>:  常識を打ち破るために、常識を持たなくてはなりません。
         ですから若い時には常識的見地に立って物を考える訓練を積んでください。国語はそのための格好の教材です。 


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大人の世界と子供の世界の間に境界線がなく、いっしょくたになっている今の時代、こういったことを期待するのは無理があるかもしれないが、せめて学校だけでもこの常識を取り戻したらどうだろうか。

 

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2007年10月16日 (火)

「国を支えて国を頼らず」

昨日の「TVタックル」のテーマは年金、医療、介護などの高齢化問題。
やっぱり早く死なないといけないなあと思った。
我々団塊の世代がいっせいに病気や要介護に突入した時のことは想像するだに恐ろしい。
これはもう早くいなくなるしかない。

でなければ、できるだけ病気をしないで世の中の役に立つような生き方をする覚悟をしなければいけない。
もしかしたら、近年の年配者の異常なまでの若さ維持願望や恋愛願望は、病気にならないため、人生の終わり間際までしゃんとしているための防衛本能によるものかもしれない。
それに、若さ維持、恋愛成就の努力の賜物として市場も動き景気浮揚にも役立つ、と渡部淳一先生も提唱しておられる。
縁側で日向ぼっこしながらボケていくよりずっと世の中のためになる。

国を支えて国を頼らず。
子供にばかり愛国心を押し付けず、中高年も大いにこの精神で生きて、国に貢献しなければいけない。

どうですかね。
異性に色目を使う年寄りと、枯れて孫の面倒をみる年寄りと。

ま、これは個々人の美学の問題ですから。

どちらさまもピンピンコロリを目指して頑張りましょう。

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2007年10月13日 (土)

ちゃんと報道しないと

ミャンマーのスー・チー女史は欧米の手先で、国内ではあまり人気がない、と評論家が書いていたのをずいぶん前に読んだことがある。
日本では、彼女は、軍事政権の圧制に苦しめられる民衆の希望の星という風にしか報道されない。髪に花をつけて自宅前に集まった民衆と対話する姿は民主化の象徴のようであった。

しかし週刊新潮の先週号に載った元ミャンマー大使の山口洋一氏の特別手記を読むと、マスコミ報道には気をつけなければいけないと痛感する。

・ミャンマーの軍事政権は、ポル・ポト政権下のカンボジアやマルコス政権時のフィリピンとはまるで違う。
・スー・チー女史はアメリカから資金的物品的援助を受け、さらに政治的な指示を仰いでいることを国民は既に知っている。
・彼女は具体的な国家ビジョンを持っていない。ただ政府に対して反対のための反対を唱えているに過ぎないことがわかってきた。
・国民の失望は反スー・チーの動きをも生み出し、彼女の今の境遇は軟禁状態にされているというより、むしろ暴徒からの保護の意味がある。

その他、治安部隊に対する僧侶の暴挙や、金で集められた反政府デモ隊、スー・チーの自宅前での集会に集まった人数の大幅水増し、軍事政権としては汚職や腐敗は少なく、苦しい国家財政の中でほぼ毎年5%以上の経済成長を維持してきたこと、等々、そういったミャンマー国内の真実は海外にはほとんど報道されないようだ。

山口氏は書く:
「現在のミャンマー国民の大半は軍事政権を容認し、命をかけてまで反政府運動を行おうとするものなど、ほとんどいないのです。
政府は目下、7段階のロードマップに従って、民主化への道を歩んでいると発表しています。憲法の基本原則を審議する国民会議は、8月にすべての作業を終えたところです。
ミャンマーの一般国民は、現状をベストとは思っていないものの、民主化への中間段階としては仕方がないものと捉え、容認しているのです。
____中略_____
では、国際社会は、ミャンマーに対して、どう向き合うべきでしょうか。
本来、"国作り"の根幹は、国民自らが、その国の歴史や文化、国民性に照らし合わせて、一歩一歩積み上げていく作業です。それを知らない他国が介入すれば、見当違いのお節介になり、かえって当事国の努力を妨げかねません。
ですから、国際社会は、ミャンマーに余計な口出しをせず、援助や貿易、投資、技術移転などで、側面的な支援を行うべきなのです。
____中略_____
こうした実情を正しく見極め、まずは、スー・チー女史が善玉で政府が悪玉、という時代劇のような構図でミャンマーを報じることを止めるのが、国際社会として心得るべき第一のステップではないでしょうか。」

世界各地で起こっている数々の紛争に先進国が色々な形で関わっていくことに、時事問題に関心を持ち始めた以前の私は、日本が国際貢献だの集団的自衛権だので悩んでいる様子を見て、「どの国も血みどろの戦いを経て、それこそ何百年もかけてやっと統一国家を作ってきたのだ。どの国も経験することはきちんと経験してもらって、他国は関わらないほうがいいのではないか」と思っていたものだ。

今の世界の実情ではそうもいかないということはわかるが、勝手な思い込みでお節介をするのはやめたほうがいいのだなあ。
少なくともミャンマーのように「良い国づくりをしよう」と頑張っている国には、どういう支援が望ましいのか真面目に考えてあげることが必要だ。

                    

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2007年10月10日 (水)

生き残りたい

ちょっと前、朝日新聞文化面に「品格ってなんでしょう?」というタイトルの特集があった。
朝青龍の問題で、しきりに「横綱の品格」ということが言われたことを受けての記事だ。

その中で、「あなたが考える『品格のある人』とは、どのような人ですか」という問いかけに各界著名人の一言メッセージがずらっと載せられていた。

「本能より理性から成る人」とか「足るを知ること」とか「抑制の利いた人」とか「お金に卑しくない人」とか、いろいろなイメージで素直に定義していた中、こういう答えをする人々が何人かいた。「『品格』なんて言葉を口にしない人」。
それはやはり予想された答えであり、それを言うのは予想通りの人々なのであった。

美しい言葉を連発するのは確かに品がない。
しかし、「品格」という言葉に目覚めるのは悪いことではないのである。

「美しい国」もさんざんバカにされた。そんな美辞麗句を言っても中身がないのではどうしようもないではないか、といってバカにされた。
しかし、「美しい国」を作ることは良いことなのである。

「これを目指したい」といって美しい言葉を使うと、言ったとたんに、実現する前から、嘲笑が始まる。いったいなんなんだ。

教育基本法に「愛国心の涵養」を盛り込むことについて随分長い間もめた。

「愛国心」という言葉に過剰反応して反対する人々がいたからである。

私は当ブログでも、「愛国心」について随分書いてきた。書いたことは今でもそのままそう思っている。

たぶん、「美しい言葉」に過剰反応する人々というのは、ほんとうに真面目で純粋なのだと思う。
「愛国心」だとか「品格」だとか、そういった言葉を軽々しく扱ってほしくない、そういう思いがあるのだろう。
人間とはそんなものではない、もっと崇高で奥行きがあって複雑なのだ、と情感でとらえる部分が大きいのだろう。
その純粋さには敬意を表する。
しかし、所詮人間である。こんなもの、モチベーションを上げるための道具にすぎないと割り切りゃあいいものを。
私なんかにとってはこんなものは情感というより手段である。
おまんまをちゃんと食べられるようにするための道具である。
この国のメンバーとしてのプライドとアイデンティティーを涵養し( 松尾光太郎さんの記事より拝借 )、愛国心を胸に抱いた子供たちがこの国を担ってくれるならしめたものではないか。
「愛国心」を情緒的にとらえる人々の真面目な姿勢を前にして、自分のドライな考えを表明することに多少の後ろめたさは感じるものの、思い切って言っておきたい。

生物はことごとく、「生き延びる」ため、「はびこる」ために生を受けた、という、このことはまぎれもない真実なのである。
私は生き残りたい。そのために日本が生き残ってほしい。
いつまでも「愛国心は国が教えるものではない」なんて純情なこと言ってると、生存競争に負けるよ。

             

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2007年10月 9日 (火)

小沢さんの普通の国

民主党の小沢党首の意図がようやくわかってきた。
ずっと前から言っていた「普通の国」とはこういうことだ、とついに明言したのだと思う。

小沢さんは自衛隊を海外に出すにあたって「国連決議」「国連決議」と盛んにこだわってきたわけだが、それに対して「国連というのはそもそも戦勝国会議であり大国のエゴがぶつかり合うところで民主的でもなんでもない。小沢さんは国連を『世界政府』とでも勘違いしているのではないか」というのが、石破防衛大臣に代表される自民党議員たちの意見だった。

小沢さんが「政権を取ったら参加を実現したい」というISAF(国連治安支援部隊)はアフガニスタンで活動している。小沢さんは、自衛隊をそこに送り込み、各国の軍隊と共に治安維持活動をさせようというのだ。
これは、インド洋での補給活動よりはるかに危険な活動であり、血を流すことも覚悟しなければならない。

絶対に日本人の血を流してはならない、という考え方できた日本であるから、この小沢さんの考えには多くの人が仰天するだろう。

しかし、自衛隊の海外活動といえば、各国の艦船に石油を補給するといういわば安全地帯での活動のみに限定し、しかもその活動に関して、なんとか憲法に違反しないよう、日本人が一滴でも血を流すことがないよう、ああでもないこうでもないと言い訳や策を弄することに時間やエネルギーを費やす自民党の手法に比べたら、小沢さんの国際貢献の考え方はわかりやすく筋が通っているように感じる。

自衛隊がアフガンの地上に派遣され、治安維持や邦人の安全確保など、正当防衛のための武器使用は当然必要となってくる。それが憲法違反というなら、改憲しかないだろう、というのが小沢さんの考えなのだと思う。(少なくとも「改憲」への流れを作っておこうと)

しかし、自民党は思うだろう、「それならそうと早く言ってくれればいいのに」「自衛隊の派遣に反対、反対ばかり言ってたじゃないか」「与野党でじっくり話し合えばもっと早く良い案も出てきただろうに」「今頃こういうこと言うなんて意地が悪い」

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2007年10月 4日 (木)

みんなで考えよう

沖縄集団自決についての教科書検定のニュースを見ていて、夫が「ひでえなあ」と言う。
「沖縄のことを何と思ってるんだ。軍の命令があったに決まってるじゃないか」と怒りながら言うので、私は「小隊に分かれて行動していた現場では対応の仕方に色々な違いがあったんじゃないの。軍命令としなければ年金がもらえなかったというような事情もあったみたいだし・・」と言ったが夫は聞く耳持たない。
「何言ってんだよ。実際経験した人が証言してんだよ。お前は何も知らないんだよ。沖縄へ一度行ってみてごらん」などと無理難題をふっかけ、言論封殺されてしまった。議論のできない人なんである。
「しまった」と思う。
夫と時事問題など話しているとよくこういう事態に陥る。
時事問題ごときで喧嘩して家庭の平和を乱したくないので、私は黙ってしまう。
それで、「もうこの人とはこういう話は決してするまい」と、そのたび思うのだが、一緒にテレビなど見ていると、つい言いたいことを言ってしまったり、夫の意見に反応したりして、会話が始まってしまい、最後は夫の頭の固さに不快感を覚えながらこちらが譲る、というパターンになってしまう。
何度経験しても、同じことを繰り返してしまう。つくづくバカだねえ。

私は頭の固い人になりたくないので、いろんな意見をなるべく寛容な心をもって受け入れるようにしてはいるが、実のところ、それは「自分の意見は正しくない」と認めているのでなく、「あなたのそういう気持ちもわかるが、私の意見は正しい」と言っているに過ぎない。
私に限らず、議論しようなんて人は誰だって「自分の意見は正しい」と思うからこそしているのであって、なんとか相手にわかってほしい、と思う一心でそれをやっているのである。

もちろん、必ずどちらかの意見に取り込まれなければならないということはないが、最低限、相手の話を落ち着いて聞くということは必要だ。

集団自決の問題については、無党派さんのご意見 「 集団自決への日本軍の関与 」 が公平で納得のいくものだ。私も同様に思ってきた。

沖縄の高校生の「私たちのおじいおばあが嘘を言っているというのですか」という問いかけは辛い。
でも、「沖縄で取材した人たちが得た貴重な証言の数々(軍命令はなかったという)は嘘だというのですか」と迫られてもやはり同じように辛いだろう。
「そうです。彼らは嘘をついているのです」とは誰も言えないではないか。

沖縄の人たちの凄惨な経験について我々経験していない者があれこれ言うのは本当に気が引ける。
でも、沖縄にも色々な意見があるだろう。さまざまな報告を聞いた上で、本土の人間も考え、意見を発信する、そういう経緯の中で次第にいろいろなことが明らかになっていくと思う。
この問題については、日本人の多くは冒頭の私の夫のように短絡的にとらえているだろう。
私も沖縄のことについては知らないことのほうが多い。
だからこそ、ただただ「可哀想」で完結したり、間違っても特定イデオロギー集団に利用されることがあってはならないと思う。沖縄の問題は国民みんなの問題だ。

       
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2007年10月 3日 (水)

きものを着るおんな

伝統的な民族衣装というのは、普段に着ることはほとんどなく、何かの行事や特定の職業、つまり特別な機会にしか利用されない。どこの国でもそうだと思う。
でも、なくなってしまうことはなくて、日本では女性の着物姿を嫌いな人はいないだろうし、紋付袴の男性も男前が上がる。
今、呉服業界はどんな具合になっているのだろうか。
着物の良さが見直されている、などということが言われても、そんなにしょっちゅう着るものではないし高価であれば新調するのもままならない。

成人式の時期になると、あのバカ騒ぎのために「成人式などもういらない」という意見が出たりするが、若い娘が振袖を着る貴重な機会が失われると、呉服屋さんもなかなか生き辛くなるだろう。
そして、はたちの娘たちの華やかな振袖姿が見られなくなるのはとても寂しい。
合理化には常に味気なさがつきまとう。

娘時代にお稽古事してた頃は着物をよく着たものだけど、生活に追われる今ではそういうことはすっかりなくなった。
たぶんこれからも着ることはあまりないだろうし、あるとしたら親戚関係や子供たちが結婚する時ぐらいだろう。
普段でも気軽に着たいなあ、なんて思いながらこのざまだ。

昔よく着ていた、といっても、いつも母の手助けがないと着られなかった。
帯を結ぶ段になると、やっているうちに着物のほうが着崩れるわ髪は乱れるわで、自分で締めるのはとうの昔にあきらめて母に結んでもらっていた。

だから娘の成人式の振袖も美容院の着付けを頼んだ。
でも、母が着せてくれたことを思い出すと、これを今まさに母であるところの私が娘にしてやれなくていいのか、とあせる。
そして、着付け教室に通わなければっ、と思い始めたものの、未だに果たせていない。 

着付けのプロなどいくらでもいるし、外注すれば済むことだけれど、娘との絆、母から娘へ伝えたいこと、・・・・なーんて感傷はさておいて、 「いらっしゃいませ~亜矢子亭~」 のあやこさんはご自分で気軽に着物を着て一人でもお出かけになるようだ。

ちょっといいおんな。 

          

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