みんなで考えよう
沖縄集団自決についての教科書検定のニュースを見ていて、夫が「ひでえなあ」と言う。
「沖縄のことを何と思ってるんだ。軍の命令があったに決まってるじゃないか」と怒りながら言うので、私は「小隊に分かれて行動していた現場では対応の仕方に色々な違いがあったんじゃないの。軍命令としなければ年金がもらえなかったというような事情もあったみたいだし・・」と言ったが夫は聞く耳持たない。
「何言ってんだよ。実際経験した人が証言してんだよ。お前は何も知らないんだよ。沖縄へ一度行ってみてごらん」などと無理難題をふっかけ、言論封殺されてしまった。議論のできない人なんである。
「しまった」と思う。
夫と時事問題など話しているとよくこういう事態に陥る。
時事問題ごときで喧嘩して家庭の平和を乱したくないので、私は黙ってしまう。
それで、「もうこの人とはこういう話は決してするまい」と、そのたび思うのだが、一緒にテレビなど見ていると、つい言いたいことを言ってしまったり、夫の意見に反応したりして、会話が始まってしまい、最後は夫の頭の固さに不快感を覚えながらこちらが譲る、というパターンになってしまう。
何度経験しても、同じことを繰り返してしまう。つくづくバカだねえ。
私は頭の固い人になりたくないので、いろんな意見をなるべく寛容な心をもって受け入れるようにしてはいるが、実のところ、それは「自分の意見は正しくない」と認めているのでなく、「あなたのそういう気持ちもわかるが、私の意見は正しい」と言っているに過ぎない。
私に限らず、議論しようなんて人は誰だって「自分の意見は正しい」と思うからこそしているのであって、なんとか相手にわかってほしい、と思う一心でそれをやっているのである。
もちろん、必ずどちらかの意見に取り込まれなければならないということはないが、最低限、相手の話を落ち着いて聞くということは必要だ。
集団自決の問題については、無党派さんのご意見 「 集団自決への日本軍の関与 」 が公平で納得のいくものだ。私も同様に思ってきた。
沖縄の高校生の「私たちのおじいおばあが嘘を言っているというのですか」という問いかけは辛い。
でも、「沖縄で取材した人たちが得た貴重な証言の数々(軍命令はなかったという)は嘘だというのですか」と迫られてもやはり同じように辛いだろう。
「そうです。彼らは嘘をついているのです」とは誰も言えないではないか。
沖縄の人たちの凄惨な経験について我々経験していない者があれこれ言うのは本当に気が引ける。
でも、沖縄にも色々な意見があるだろう。さまざまな報告を聞いた上で、本土の人間も考え、意見を発信する、そういう経緯の中で次第にいろいろなことが明らかになっていくと思う。
この問題については、日本人の多くは冒頭の私の夫のように短絡的にとらえているだろう。
私も沖縄のことについては知らないことのほうが多い。
だからこそ、ただただ「可哀想」で完結したり、間違っても特定イデオロギー集団に利用されることがあってはならないと思う。沖縄の問題は国民みんなの問題だ。
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コメント
私自身、直感で何が正しそうかどうか?をまず判断して、様々な情報のうちにその直感に適合する情報を無意識のうちの取捨選択しているのではないのか?と思うことがあります。
そして、議論の際にはお互いの正しいと思っている論拠を羅列するわけですが、議論に負けた場合でも元になっている直感に疑問を持った場合(そんなことはほとんどありません)を除いて、議論に負けない新たなる論拠を探し出すだけのことのように思います。
この事は、5年ほど前にあった地元の市町村合併問題での議論の際に感じ、どれほどこちらが議論で相手を論破しようとも相手側は議論の度に新しい論拠を持ち出してくるだけで、議論はほとんど不毛な作業であることを身にしみて感じました。
沖縄の問題にしても、恐らく今後も議論は不毛で、
命令を出したとされる軍人は何かバケモノのように語られがちですが、私達の住む地域が出身者の私達と血のつながりのある常識を同じくする生身の人間であり、そんな人たちがおかしな命令を出せるわけが無く、住民にしても単なる命令だけでそれに従えるわけがないとの「情」や「常識」をもって考えないと、議論にすらならない状況だと感じています。
投稿: 山本大成 | 2007年10月 4日 (木) 15時06分
結局、沖縄にしろ広島、長崎にしろ「自分たちだけが」ですよね。
沖縄地上戦も大変悲惨でしたが、北方における地上戦でシベリア抑留された64万人(うち6万死亡)もいました。
本土爆撃にいたっては高校教科書に「米軍は日本本土に無差別爆撃を開始、これにより日本の戦意は完全に失われた」と
書かれていましたよ。
ああ、沖縄地上戦や原爆の犠牲者と違って、本土爆撃30万人の犠牲者は「死んで当然の人達なんだな」と。
亡くなった、私の祖母は踏んでしまった死体に「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も叫びながら逃げたという話をしてくれました。
「人間の心の傷」をずるがしこく利用する輩は地獄に堕ちます。
投稿: のれそれ | 2007年10月 4日 (木) 22時47分
>山本大成さん、
>直感で何が正しそうかどうか?をまず判断して、様々な情報のうちにその直感に適合する情報を無意識のうちの取捨選択しているのではないのか?<
わかります。
自分に都合の良い情報だけを選んでいる、と言えばそれまでなのですが、こういう歴史認識についての議論では、「自分の損得」には関係のないことなので、「極悪人に仕立て上げられた人々」に対する同情や、「真実を知りたい」という欲求が動機になっていますよね。
でも、特定思想集団のかたがたは「あいつらはとにかく悪い」という強固な信念が出発点であり土台になっているので、山本さんが仰るように、議論にすらなりません。
考えれば不思議ですよね。あの人たちは「冤罪があるから死刑反対」と叫ぶ人たちでもあります。
冤罪の可能性があれば、救うことに熱心になってもいいと思うのですけどねえ。
投稿: robita | 2007年10月 5日 (金) 09時11分
>のれそれさん、
そうですね。戦った兵隊さん、爆撃を受けた民間人、みんな悲惨でした。
ただ、「原爆」だけは、単に威力が桁外れに大きいから、ということでなく、遺伝子を傷つける放射能というたちの悪いものを放出するということで、その被害については別物だという理解を私はしているのですけどね。
>本土爆撃にいたっては高校教科書に「米軍は日本本土に無差別爆撃を開始、これにより日本の戦意は完全に失われた」と書かれていましたよ。<
そうか、この表現については誰からも文句は出ないのですね。
>「人間の心の傷」をずるがしこく利用する輩 <
彼らは何の目的でそれを利用しているのでしょうか。私にはよくわかりません。
まさか革命?
でも、ああいう人たちの存在もすごく意味があるとは思います。対立意見がなければ議論を生みませんから。
投稿: robita | 2007年10月 5日 (金) 09時22分
前略 今回のような情報が錯綜している問題に対しては、事実が明白になっている事案を持ってきて、確からしいと思える推論を導くのも一つの手。例えば制空権を奪われて以降も民衆に徹底抗戦と本土決戦の思想を強いて、原爆を二つも落とされた後でしか降伏の道を選ばなかったこと。また戦後、民主政治が確立した後でさえ予防できた薬害を、「未必の故意」により放置した点。さらに裁判では責任問題で徹底抗戦する姿。
つまり国家というのは権力というのは、しぶとくて狡賢い存在と思うです。この前提に立てばたとえ証拠が無くても、沖縄人の主張の方が如何にもありそうと納得できるもの。だから私は軍が非常の組織という前提をもって、あらゆる事態を想定していたと推論を進めれば、非常事態の一つの選択として軍の命令があったと推定を。
草々
投稿: コルホーズの玉ネギ畑 | 2007年10月 5日 (金) 19時19分
まず、教科書は基本的に、個々の執筆者によって自由に書かれるべきものですね。ですから、いろいろな歴史があり得るわけです。それでいいのです。
しかしながら、そうかといって「縄文時代は採集経済の時代」と、いつまでも書いてはいけないわけで、遺跡の発掘成果から、縄文時代もかなり大きな集落が存在し、一部では農耕が営まれていた可能性が高くなっているからで、最新の教科書はそういう学問的成果を反映して改訂されていきます。
ところが教科書の執筆者も、そのような主流意見の変遷を知らない人もいるわけで(歴史学者がすべて勤勉とは限らないから)学習指導要領による検定が行われているので、ひどい教科書だと検定委員が半分書いているような代物まであるようです。検定委員の人選に学会が反対したこともないし(そんなひどい人選はされていない)検定内容そのものに国が介入することは(従来は)ありません。これが大事なことで、教科書は「学問」を教えるべきであって、「思想」を教えるべきものではない。思想は、個々の子供が勝手に考えればよいので、国といえども子供に思想を教える権利などないのであります。教師になお、そんな権利はありますまい。
沖縄の集団自決に関しては、旧来の「軍による強制」という記述は、学説として主流でなくなったので、削除対象となりました。ですから、ここまでは特にクレーム対象となっていません。
そこで「軍の関与」という記述ならどうか?という話が出ているわけです。
私が思うに、「強制」と「関与」の「歴史記述としての」重要度の違いはあります。たとえば、元寇には朝鮮国が軍船の準備や兵士派遣などで大いに関与していますが、教科書では元朝しか記述対象にしません。『関与』をいちいち書いていたら、専門書になってしまうので、教科書にぞぐわないという判断は当然あっても良いだろうと思えます。
ですので、あとは執筆者の判断で「軍による関与」と記述したければ、そうしていいだけのことだと思われます。それは、個々の執筆者の自由に任されるべきことだと思われます。
むしろ、学習指導要領外の記述に関しては、国家であれ政治団体であれ、その政治的意図をもって介入することこそ警戒を要することです。それこそ「強制」である、と気づかないほうが、私にはいぶかしく思えます。
もしも「政治的圧力」でもって、検定内容として記述を変更し得るとなれば、今は賛成している人たちがとても認められないような内容が、逆に盛り込まれる可能性も危惧しなければいけません。そのような「風」によって、子供に教える内容をフラフラ変えてよいものではないと思います。
付言しますと、ある方向からの「強制」であれば良い、そうでない「強制」は悪である、という判断基準が、私には理解不能です。そこまで政治を信用してはいけない、と思うのですがね。
投稿: single40 | 2007年10月 5日 (金) 20時18分
>コルホーズの玉ネギ畑さん、
>つまり国家というのは権力というのは、しぶとくて狡賢い存在と思うです。<
狡猾な国家を信用せず、常に批判する勢力はなくてはならない存在と思うです。
投稿: robita | 2007年10月 6日 (土) 10時22分
>single40さん、
そうでしたねえ。忘れるところでした。これは「教科書問題」でした。
国家体制なんか右でも左でもどっちでもいいと思っている私は、いっそ右なら右、左なら左、きちんと決めてくれりゃあ、ことは簡単だろうなあと思います。
中国なんか見てくださいよ。ミャンマーより非民主的だ、なんて言われながら、着実に大国の道を歩み、豊かになってるじゃありませんか。
左に統一すれば(この場合「左」って言うのかどうか知りませんが)、あのように効率的に発展するもんなんですね。
「政治的圧力」とやらで、揉めることもないし。
民主主義のなんとまどろっこしいことか!
・・・いえね、single40さんの最新記事「つける薬がない」を読んで思ったことなんですけどね。
投稿: robita | 2007年10月 6日 (土) 10時25分
robitaさん、
全部が全部、集団自決に軍の命令があったのかというと、そうでもないだろうと思います。そういうこともあったでしょうし。軍がどうこうというわけではなく、自分たちで自決したこともあったでしょう。そら、いろいろあったでしょう、ということですね。
しかし、「そら、いろいろあったでしょう」のいろいろあった側、つまりは沖縄のみなさんの側からすれば、「そら、いろいろあったでしょう」の一言ではすませられないものがあるのだと思います。戦後も米軍基地としての「犠牲」になり続けてきたわけですし、今もそうであるわけです。このへんの感情的なものがあると思います。
日本軍によるスパイ容疑による住民殺害はありました。アメリカ軍に拉致された住民を敵に寝返ったとして処刑し、その家族までも処刑したことが数多くありました。日本軍が沖縄住民にひどいことをやったというのは紛れもなく事実であるわけです。その一方で、例えば、捕虜になれば娘は暴行されると思い、自分の手で娘を殺害した父親もいました。やりきれない悲劇ですね。
なにしろ、沖縄の守備隊は全滅したといってもいい状況になり、そこに鬼畜米英が上陸してくるということで、兵士も住民も混乱していたわけです。その恐怖と混乱のさなかでの「いろいろあった」ことを、全部が全部、日本軍が悪いの一言で歴史の彼方に押し込めて、それでオワリにしようとしていないだろうか。もっと、真実を追求すべきだと思います。それは日本政府にとっても、沖縄のみなさんにとっても、時には好ましくないことも出てくるかと思います。(大ざっぱに言えば、そうした時代だったということになりますが)
日本軍が住民にどれだけひどいことをやったのか、ということを知ることは、いわゆる自虐ではありません。日本軍が何をやったのかということを知るということは、何をやらなかったのかということを知るということです。ところが、今の世の中(ってゆーか左翼マスコミ?)は、やったこと、やらなかったことの、その区別をつけることなく、全部一緒くたにして、とにかくひたすら軍が悪い、で思考を停止しています。遠い昔の曖昧なことに、区別なんてつくんですかという問いに対しては、区別がつき難いものを区別がつくように考え続ける、調査していくという態度そのものが必要なのだと答えます。
これはつまり、軍が悪いと思い込みたいという想いのようなものがあるんだろうなと思います。それはそれで、あの戦争での沖縄のみなさんの住民感情として理解できます。しかし、ようは、「悪い」とか「悪くない」とかではないんです。あの時代、あの日、沖縄のどこで何が起きたのか、を客観的に知ることなのです。住民感情としては、そう思えるようになるには、もう少し時間が必要なのでしょう。
投稿: 真魚 | 2007年10月 7日 (日) 12時57分
沖縄県民には米兵のちんぽをしゃぶってでも生き残る権利があったはずだ。
奴隷の平和か尊厳ある自決かを選ぶのはあくまで沖縄県民自身だ。
他人である日本軍が強制することではない。
投稿: はとぽっぽ | 2007年10月 7日 (日) 19時44分
>真魚さん、
>日本軍が住民にどれだけひどいことをやったのか、ということを知ることは、いわゆる自虐ではありません<
仰る通りですね。酷いことは民間人に対しても占領地でも軍隊内部でもあったと思います。
>ところが、今の世の中(ってゆーか左翼マスコミ?)は、やったこと、やらなかったことの、その区別をつけることなく、
全部一緒くたにして、とにかくひたすら軍が悪い、で思考を停止しています。<
そうなんですよねえ。
沖縄の人たちは可哀想なんだ →すべて日本軍が悪いんだ、→だから護憲なんだ、こんな風になってしまっては思考停止と言われてもしかたがないでしょうね。
教科書の記述に関してはもう少し丁寧に書いたほうがいいと思います。
投稿: robita | 2007年10月 8日 (月) 10時59分
>はとぽっぽさん、
沖縄戦のあと、日本が降伏しなければ米軍は本土上陸し、沖縄で起こったようなこと、つまり民間人も共に戦ったり、軍人が民間人に手榴弾を手渡したりしたんでしょうね。原子爆弾落とされてしまったので本土決戦ならず降伏し、その結果、日本はアメリカの顔色を窺いながらも、こうやって生き延びてきたんですね。情けないと自分たち自身で思いながらも生きてきたんですね。我々日本人にも奴隷の平和を選ぶ権利ありますから。
はとぽっぽさん、今度書いてくださる時は、もう少し品の良い表現をしてくださると有難いです。紳士淑女未成年の皆さんが読んでいらっしゃいますから。m(_ _)m
投稿: robita | 2007年10月 8日 (月) 11時04分
はとぽっぽさんは分断工作専門の、プロ市民ネット工作員ですよ。ここ二日間ブログサーフィンしていましたが、何度もはとぽっぽさんを見かけました。
「アジアの真実」にも「負け犬の遠吠え」というヤツがいましてそいつもひどい。平日でも24時間体制で書き込んでいるのでプロってことがバレバレ。文章も「いっそ、反日琉球は中国に売り飛ばせ」など右翼っぽいけどほのかな左翼臭が~~。
辺野古座り込みでも1万円の日当がでるらしく、ネット工作員にも相当な日当が出るのでは?
まあ、最近彼らのような人が増えてきましたね。
ブログサーフィンで見つけた。うちなんちゅの保守系ブロガーさんたちです。
「狼魔人日記 沖縄在住教師の手紙」http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/dbd0381272fb2bfea3ca27e7cab57f62
沖縄の憂鬱さんのブログ
http://osamu5138.iza.ne.jp/blog/entry/327501/
yoshikiさんのブログ
http://yashiki.iza.ne.jp/blog/folder/50950/
おもしろそうなエントリーをみつくろってみました。よろしかったらご覧になってみてください。
投稿: のれそれ | 2007年10月 8日 (月) 14時27分
>のれそれさん、
えー、そうなんですかー。
国家の謀略も怖いけど、ネット工作員の暗躍も怖くて、いったいどっちのほうがより怖いのかなあ、なんて悩んでしまいます。
インターネットの発達は神さま仏さまの思し召しと思いたい私ですが、善良なネット住人の皆様がたが騙されないよう祈るばかりです。
沖縄在住の人たちのブログ紹介、ありがとうございます。
明日ゆっくり読んでみます。
沖縄のことは沖縄の人に聞け、ですね。
投稿: robita | 2007年10月 8日 (月) 17時44分
初めまして。
私も夫に関しては、同じ様な経験あります。
でもいつだったか、何のことだったか忘れましたが、もっとスポーツとかで、
今、目の前やっているテレビの内容を、
「あーこれ、良いことばっかり言ってるけどネットではこんな事が暴露されてるよ」
と実際に無理矢理ネットの写真を見せたりしてジワジワと責めました。
WBCのイチローへのバッシングが韓国ではどれだけ下品でえげつなかったか
とか…。
今はかなり私寄りになってきています。
投稿: shirasetai | 2007年10月 9日 (火) 09時48分
>sirasetaiさん、
はじめまして。
sirasetaiさんのご主人はインターネットの情報をあまり信用なさらないんですね。
うちもそうです。
テレビなんかよりずっと真実を伝えているところもあるのにね。
ネット情報の選別は勘が必要なのかなと思います。
ブログなんかだと人柄が垣間見えるので、その勘が働かせやすいですね。
だから私は政治ブログでも色々な話題で書かれているもののほうが好きです。
投稿: robita | 2007年10月 9日 (火) 13時21分
>テレビなんかよりずっと真実を伝えているところもあるのにね。
普通に生活していてテレビとかのマスコミよりもネットのほうが「ずっと真実を伝えているところもある」なんてこと絶対ありえないのですが。
テレビとか新聞は、テレビ局あるいは新聞社という企業の看板を背負って、組織人として報道しているのですし、テレビなら画面に顔を出して、新聞なら署名記事として名前を出しているのですから、ある意味信頼感はもてます。
その一方でネットは、ブログにしろ2ちゃんとかの書き込みにせよ、匿名やハンドルネームのことが多いのですから、いくらでも好き放題に書けます。
それゆえ「デマ」や「ガセ」がはびこりやすいといってよいでしょう。
むしろ「マスゴミは信用できない」とか言ってる人たちが、
2ちゃんとかの怪しげなカキコとか、youtubeやニコニコなんかの怪しげな動画、アンカーとかたかじん委員会なんかの関西の番組を手放しで持ち上げてるところに私は違和感を感じてしまうのですが。
ネットの信頼性に疑問を呈しているところはこれだけあります。
ぜひ↓をごらんになって見てください。
http://blog.goo.ne.jp/ngc2497/e/8541c27959276fd77e7e0e346aee74ad
http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20100408/p1
http://plaza.rakuten.co.jp/fantag/diary/200902110000/
そしてぜひ↓の本をお求めになって一読されることをおすすめします。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E3%81%AF%E3%83%90%E3%82%AB%E3%81%A8%E6%9A%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B7%B3%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4334035027
投稿: noname | 2010年5月 3日 (月) 20時02分
★nonameさん、
はじめまして。
一般人である私たちは自分で調査や取材ができませんから、ほとんどの情報をマスコミに頼っています。マスコミによって世の中のできごとを知るわけです。
私自身はネット住人ではないので、マスコミ報道から判断することがほとんどです。
>普通に生活していてテレビとかのマスコミよりもネットのほうが「ずっと真実を伝えているところもある」なんてこと絶対ありえないのですが。<
「絶対ありえない」ことでもないと思いますよ。
だって、現場の当事者が「マスコミは煽っているけれどそれがすべてではない。聞いてほしい」とネット上で報告する場合であれば、マスコミより信用できることもあるでしょう。
私は「マスコミよりネットのほうが信用できる」と言っているのではないです。
どちらのメディアにも煽られないようにしないとね。
投稿: robita | 2010年5月 4日 (火) 09時29分