銀杏並木が美しい
近くのバス通りのトウカエデ並木の紅葉が始まった。トウカエデの葉は、黄色、ピンクがかったオレンジ色、赤などに色づき、そして残留する少々の緑、これらの色が混在して実に美しい。
学校の横の桜並木の葉も赤く色づいた。
少し遠くにあるスーパーマーケットに行く時に車で通る銀杏並木も、今年は色づくのが遅いなあと思っていたが、昨日通ったらいつの間にか鮮やかな黄色に変わっていた。舗道にも落ち葉が敷き詰められたようになって、あたり一面明るい。
自然の変化で人は季節の移り変わりを感じ、その美しさに感動する。
漫画家の業田良家の作品に「人類が『美しさ』を発見したのはいつなのだろう」というのがあった。原始の人が雲の切れ間から射し込む陽光に目を奪われる図が印象に残る。
先日、永六輔がラジオで、愛知県の日本モンキーセンターにいるという、夕日を見つめて涙ぐむサルの話をしていた。
それを確かめるためにじっと観察し続けた人がいるらしいが、確認できなかったとか。
専門家によると、サルは泣かないし感動しないということなので、もちろん、夕日に感動するサルというのはデマにちがいないが、しかし、何百万年前、あるいは何十万年前、最初に夕日を美しいと思った霊長類がいたはずなのである。
生き残るため、種を絶やさぬようはびこるための熾烈な戦いの合間にも、人類は「感動」し、それを糧に突出した進化を遂げてきたのだろう。
それを人類に最初に与えたのはいったい誰だったのだろう。
「精神と物質の違いなどない。人間の心も、所詮は原形質の進化したもので、その原形質とは、炭素や窒素などの元素から成り立っているのだから物質と何ら変るところはない。ゆえに宇宙に謎などない」と100年も前に言った人(生物学者兼哲学者のヘッケルという人らしい)がいるそうだけれど、わかるようなわからないような。
ビッグバンが神の一撃なしに自立的に起こったらしいのと同様に、人の心の芽生えも誰かに与えられることなく単なる進化として自然に起こったのだろうかなあ、なんて赤や黄色に彩られたトンネルを通り抜けながら思う。
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コメント
自分の子供に、「美しいものを美しいと感じられる感性」を身につけて欲しいと思い、ここの所意識して「本物」に触れられる場所に連れて行くようにしています。
あまり深く考えてこなかったのですが、この記事を読んで「審美眼」と言う物はパターン認識の刷り込みなのか?と、ふと疑問に思いました。
私自身で言うと、二十代になるまでほとんど「美」というものを意識したことが無く、むしろ学校の授業では芸術科目は最低評価で、自分には解らぬものと劣等感さえ感じていました。
それが変わったのは、精神状態が不安定だった時期に見た一枚の山岳写真で、結果としてはその後「山岳の美」を味わいが為に休みの度に山に向かうようになりました。
また人間が作り出す舞台への傾倒が、やがては音楽の美をも感じさせる契機になりましたし、とある切っ掛けで偶然見たピカソの絵が絵画を見る悦びを感じる道しるべとも成ったような気がしています。
「美とは、いったい何なのでしょう?」
PS.
トラックバックを二点送らせていただきます。
投稿: 山本大成 | 2007年11月29日 (木) 15時00分
>山本大成さん、
>「審美眼」と言う物はパターン認識の刷り込みなのか?と、ふと疑問に思いました。<
美しいと感じるものは人によって違うと思いますが、それ以前に、なぜヒトは「美しい」と認識するのだろうか、なぜそれによって心を揺さぶられるのだろうか、という疑問がありますよね。
単純に考えれば、生物は全て種の存続という目的を持っているので、「美しいと感じる心」が生存に有利だったから、それを持ったヒトが生き残り進化していった、ということなのでしょうが、ではなぜそれが生存に役立ったのかは複雑な問題でしょうから、動物行動学者の竹内久美子さんの本でも読めば書いてあるかもしれません(笑)。
>むしろ学校の授業では芸術科目は最低評価で、自分には解らぬものと劣等感さえ感じていました。<
TBの記事、拝読しました。
私は絵を描くのは好きでしたが、芸術作品に対する審美眼が全くありません。自分には到底解らぬものとずっと思ってきたし、未だに山本さんのように「感じるものだ」と覚醒さえできないでいます(; ;)。 感性ゼロ。(風景や建物や音楽には「感じ」ますけど)
まあ、90歳ぐらいになって、「あーっ、これだったのかーっ」と感動に打ち震える日が来ないともかぎりませんし、気長に構えることにします。
投稿: robita | 2007年11月30日 (金) 09時44分