« 「日本的」というソフトウェア | トップページ | 人間は歯止めがきかないほどの悪でもない »

2008年1月31日 (木)

私たちの代わりに

一知半解男さんがコメント欄で、日本人の根深いケガレ信仰について説明してくださいました。→ http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_ae6d.html#comment-22491321

日本人は世界に類を見ないキレイ好きです。
整理整頓の面で、というより、汚いものを洗い流す、排除する、という点において、外国人とは異質の不浄観念を持っているようです。

しかし、自分たちの周りを清潔に保つ一方で、日本中のあちこちでゴミの不法投棄は後を絶ちません。

要するに、この「キレイ好き」は、自分たちのところから汚いものがなくなってくれさえすればいい、という考え方から来ていると思います。

以前、「うんこ」 という記事で、人類は汚物を日常の場からどれだけ遠ざけるかを文明の尺度としてきた、と書かれた小説を取り上げましたが、まあ、日本人に限らず、人間は汚いものはできるだけ排除したい本能を持っているものです。

汚いもの、危険なものから遠ざかり、安全で快適な空間で過ごしたい、というのは誰でも望むことです。

しかし、そういう自分たちの代わりに、誰かが汚い仕事、危険な仕事をやってくれていることを知った時、後ろめたい気持ちになるのは当然でしょう。

お金だけ払って安全地帯にひきこもる我が国の姿を考えると、その国で育まれる子供たちの行く末に思いが至ります。私たちはいったいどうしたらいいんでしょう。

         よろしくお願いいたします →人気ブログランキング

|

« 「日本的」というソフトウェア | トップページ | 人間は歯止めがきかないほどの悪でもない »

コメント

ウンウン、ですね。

投稿: トトロ | 2008年1月31日 (木) 22時44分

★トトロさん、

ありがとうございます m(_ _)m

投稿: robita | 2008年2月 1日 (金) 11時22分

初めまして

今の日本人は、「公共は財産である」という意識が低いと思います。まあ、せいぜい「町内会」の範疇が意識し得る公共の限界でしょう。
隣国の脅威に対し、土地、文化等を防衛し続けた民族と、外の脅威が経済的なものだけと意識してしまった民族では、公共の概念が明らかに違っているとも思います。
もはや日本人のキレイ好きは単に「習性」であって、社会的な「習慣」とはなっていない。公共とは他人の眼や批判で辛うじて維持され、共有財産を意味していない。そんな気がします。
先日、夫婦で関東某市に帰省した折り、歩道をキックボードで遊ぶ子供を注意したところ、「教えられてないもん」と反論されました。小学生の英語教育やお受験の騒ぎじゃない。家庭も含め、教育自体が崩壊している。もはや、他人の迷惑さえ教えない。
身近な公共奉仕を教育のプログラムに組み込むことも必要だろうし、国家存亡の危機に命を散らせた人がいることも伝えなければならない。あるべき地域人、日本人の形成が危機にある。そんな感覚を抱いております。

投稿: しまねこ | 2008年2月 3日 (日) 09時25分

★しまねこさん、

はじめまして。
素敵なコメントありがとうございます。
「我々はこの日本という船に皆で乗っている、それが沈んだら、個人の幸福も何もないだろう」ということを国民が理解しなければ国の運営はうまくいかないだろうと思うんですよ。
それを自覚させる教育の仕方にはいろいろあると思いますが。
しまねこさんのブログ少し読ませていただきました。
いつかコメント書かせていただくかもしれません。

投稿: robita | 2008年2月 3日 (日) 14時42分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私たちの代わりに:

« 「日本的」というソフトウェア | トップページ | 人間は歯止めがきかないほどの悪でもない »