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2008年3月29日 (土)

もやしのヒゲ

この頃、「ひげ根」のついたもやしを見かけなくなりました。

家族5人分二袋使うとして、少し前までこのひげ根の除去作業にずいぶんと時間を費やしたものでした。

でも、椅子に座ってラジオなど聴きながら、また誰かとお喋りなどしながらやれば、時間がかかっても全然苦ではありません。

ひげ根は栄養があるとのことですので取らないほうがいいのでしょうけど、見た目や食感のことを考えるとやはり取りたくなります。

今、もやしにひげがあまりついてないのは、どうやって取っているのでしょう。まさか人の手によるものではないと思いますが、化学薬品か機械なのでしょうか。それとも品種改良でしょうか。

いずれにしても、あまり歓迎できません。

でも、ひげ根取りに長時間かけてられない、という人がほとんどでしょうから、商品もそういう処置を施さざるを得なくなっているのでしょう。

私は、耳を働かせながらの手仕事は好きなので、そういう時間を結構楽しむのですが、まさに世は効率の時代。

女性も外でバリバリ働かなくてはならないし、もやしなんぞに関わっている暇はないのです。
ちんたら手仕事をやっている時代ではないのです。

ところで、同時にエコロジーの時代でもあるので、なるべくCO2を出さないようにしなければいけない、と世界中で大合唱中です。

人が体を動かすのは大変だし時間もかかるので、機械依存度は年々歳々高くなってきています。

で、機械を使うと必然的にCO2の排出も増えるので、それではいけない、エコロジーの理念に反するというわけで、省エネ機械の開発に力が入ります。
経済は発展しなくては国民は豊かになれないので、機械を大いに使い、モノを生産しなくてはなりません。

忙しいことです。

一方で、ゴミを燃やすとこれまたCO2を排出するので、リサイクルに励まなくてはならず、私たちはせっせとゴミを燃やすもの燃やさないものに分ける作業に励みます。そのスペースの確保も、狭い台所ではなかなか大変です。

ずっと前、ドイツのリサイクル事情を書いた本を読んだことがあるのですが、その頃すでにドイツはリサイクル大国で、家庭でも学校でもリサイクル教育が徹底しており、ドイツ国民は毎日毎日ゴミの分別のことばかり考えているのではないか、という印象を受けました。

そして、こんなに毎日ゴミのことばかり考えていては、人間はいったい何のために生きているのかと疑問に思うようにならないだろうか、結局は哲学の問題に行き着くのではないかと思いました。
いっそのこと、人間がいなくなれば地球はきれいに保たれるじゃないかと。
危惧されている少子化も、その論でいくと、実に喜ばしい現象じゃないですか。
人間が減ればそれだけ二酸化炭素排出量が減るわけですから。

そうやって努力して出さないようにした二酸化炭素がいったいどれほどの量なのか。

そのように「地球に優しい生活」を続けて、いったい人間は幸せなんだろうか。

それなら、そんなちまちました節約生活に引きこもるより大いに楽しんだらいいじゃないかと私は思うのです。

誰も自動車をやめて歩くつもりなどないし、エアコンで涼しくなりたいし、シャワーだってたっぷり使いたいんですよね。

便利な生活、楽しい生活を少しでもあきらめることができるのなら、そうすればいいと思いますが、もっと豊かにもっと楽しく、というなら、そんな矛盾した節約生活は誰もしたくないのではありませんか。

そんなにゴミのことばかり毎日考えていて楽しいか?と私は思うわけです。

もちろん、「習慣になってしまえば何も大変なことではない」というのはわかります。

でも、人間は、特に若い人は弾むように元気に生きてほしい。
リサイクル生活ばかりに励んでいては、停滞した景気に勢いがつかないのではありませんか?

「二酸化炭素を少しぐらい減らしたからといって、たかが知れてる」、という説もあるなら、エコ生活はほどほどにして、そういうことにとられる時間やエネルギーをもっと景気の良くなることに使ったほうがいいのではないでしょうか?
若い世代はおおいに羽ばたいてくださいよ。ダイナミックに生きてくださいよ。
(アメリカ人にはちょっと考え直してほしいと、私は今でも思っていますけど。 →「太ったアメリカ人」 )

「経済成長と個人消費を奨励しながら、一方でエコや省エネにも努めることが美徳だ、とまったく矛盾する二つの思想を国を挙げて喧伝している」という武田邦彦教授の言い分はもっともだと思うのです。

「だから省エネの商品やCO2を排出しないクリーンエネルギーの開発が急がれる」というのが回答だと思いますが、技術開発そのものにも大変なエネルギーと時間を消費するのではないでしょうか。
人類は発展し続けるのが宿命だと思います。発展の原動力は欲望です。集団としての人間の欲望は果てしないので、人間がこの地球上で営みを続けるかぎり、小細工を弄して省エネしようがどうしようが、結局同じことの繰り返しになるような気がします。

地球のためにエコロジーに励むべきか否か。どちらが正しいのか。
いや、これはどちらが正しいというような問題でなく、どちらも一理あるのだと思います。

人間の営みが地球環境に影響を与えているのはたしかなことでしょう。

しかし、影響を与えていることを知りつつ、我ら人類の生活を快適にするために、何を選択するのか、我々はどうしたいのか、ちょっと立ち止まって考えてみる必要がありそうです。

その上で、もやしのひげを手で取るのかどうするのか、決めたらいいと思います。

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2008年3月27日 (木)

めでたい

松井秀喜選手の結婚が決まったそうですね。

こんな心配したこともありましたっけ → 「松井秀喜の嫁」  

        

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2008年3月24日 (月)

わからないけど言ってみる

私は経済のことはさっぱりわかりません。
わからないのに意見を言うな、とお叱りを受けるかもしれませんが、わからない者が素朴な感想を言わせてもらえるのが民主主義だろうと思っているので、言ってみようかと思います。

経済の専門家たちが世界経済を予測して「危機的な状況だ」などと発言するのは、どうなのでしょうか。
中には「100年に一度の恐慌の始まりだ」などと恐ろしいことを言う人もいるようです。
例えば、経済学者のグリーンスパンさんが、「戦後最大の金融危機」と仰ってるそうですが、新聞のその見出しを見ただけで、人々は萎縮してしまうのではないでしょうか。

偉い人たちが「世界経済が危ない。どうなるかわからない」などと口々に言えば、よけいに誰も投資しなくなり世界経済は悪くなる一方なんじゃないかなあ、と私などは思うのですが。

世界のお金が燃えてなくなってしまったわけではないし、地球の資源も、そりゃあ徐々には減っていくかもしれませんが、今のところ「モノ」がないので経済が最悪というわけでもない。
つまるところお金が廻っていない、ということではないのですか。
不安を煽れば、お金は廻りませんよね。

何か邪悪な下心があって事実を隠して画策するのでなければ、希望的観測を述べる学者を私は好ましいと思うのです。

「不安」や「危機」を、根拠を示して述べる人は、それはそれで正しいのでしょうが、それは、「正しい理屈を述べている」ということの他に、悪いほうに転んでも責めは負わない、という保険を掛けているようにも思えるのです。
「ほらみろ、言わんこっちゃない。私の言ったとおりだ」と言えることを期待しているのかもしれない、なんて言ったら殴られてしまうでしょうか。

希望的観測を述べて、悪いほうに転べば間違いなく叩かれることがわかっていながら、それをする人は勇気があるなあと思います。
竹中平蔵さんとか為替トレーダーの藤巻健史さんを私はそう評価したいのですが。

いたずらに危機感を煽るより、少しでも希望を見せてくれるほうがありがたい。暗いのは嫌いだ。
だから私は地球環境楽観論を唱える武田邦彦教授にも好感を持つのです。

まるでこの世の不幸を一手に引き受けているかのような憂い顔で悲観論を鬱々長々述べるブロガーの文を読んだことがありますが、「そんなことより、なけなしの金をはたいて旅行にでも行っといで!」と背中をどんと叩きたくなります。

おばさんの意見はやはり間違っているでしょうか。

     
             
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2008年3月22日 (土)

「悪と不純の楽しさ」

曽野綾子さんのエッセイ集「悪と不純の楽しさ」を読みました。
まえがきにこうあります:
「このエッセイは、既に今から十年以上も前の1994年に初めて発行されているが、今回、改めて出版の実務を担当してくださる方も私も、特に今書き換えねばならないと思われるところがなかったことをなんと言うべきだろうか。」

人間の本質と人間社会の矛盾へのたしかな「気づき」の鋭敏な感覚と描写には、さすがというよりほかありません。

フェミニズムがいかに「女性的な運動」であるかとか、自然破壊をしなければ居住地域を確保できない人間が自然破壊を単純に「悪」と決め付けることの滑稽さ、海外活動経験の少ない自衛隊が愛すべきお坊ちゃま集団であること(商社員や一匹狼のカメラマンや土木事業者などが世界の狡猾さを学習してきたのに比べて)、極貧ゆえ初めておいしいものを食べてショックのあまり死んでしまう人の幸せ、など、自分の内なる「悪と不純」再確認作業はちょっとした快感です。

また、かつての南アフリカの理不尽な政策についての記述は、現在でも独裁体制を続ける世界の国々を思い起こさせてくれました。
それらの国々は「どこの国も内紛を経て国家を形成してきたのだから、他国のことは、余計なおせっかいせずに放っておけばいいのではないか」と言いたくなるような事情を抱えています。いかに民主化運動家が民主化の重要さを力説しようとも、正義か悪かの単純構造でない、込み入った国の事情や感情はおそらく長く住んだものでなければわからないことでしょう。
世界中が利害関係でつながっている今の時代、また人道的見地からも、そういうことも言ってられないのかもしれませんが。

曽野さんの思考は、マスコミ報道を疑ってかかるところから始まります。
疑うがゆえに、現地の人間の話を直接聞いてまわります。
曽野さんだって、全ての事情を把握するわけではないでしょうが、それでも、大衆受けが必要不可欠なマスコミではまず報道されないようないろいろなことを教えてくれます。

しかし、私は曽野さんの小気味の良い論理が大好きとはいえ、世の中は小気味の良いことだけでは成り立ちません。

無垢な優しさや理想はなくてはならないものです。

曽野さんは、人間なら誰でも持っている、と言うけれど、その「悪と不純」だけでなく、「偽善」でもなく、本当に優しい気持ちの人々が存在することも私は知っていますし、そういう人々の善良さは大好きです。

愛と正義は守られなければならない。
でもそれを声高に叫ぶだけの人が「悪と不純」の恵みを受けていることにも気づけば、人生はもっと味わい深い。

幸せなことや、悲しいできごと、良いこと悪いこと、この世のことはすべて意味がある、と気づいた時、人はあまり腹を立てなくなるのかもしれません。
でも、腹を立てなくなると物事は動かなくなるでしょうから、腹を立てることにも意味があるでしょう。
腹を立てて悪口を言ったり、寛容に受け止めたり、殴ったり、殴られたり、全てのことはやっぱり意味があるんでしょうね。

      

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2008年3月21日 (金)

グレートジャーニー

アフリカで発生した人類がどのように世界へ広がって行ったのか、そのルートをたどる旅を続ける医師で探検家の関野吉晴さんがこういうことを言っています。

【人類は、発生地点から世界中にその居住区域を広げていった。以前は、これを人類の好奇心や希望がそうさせた、と思っていたがそうではないのではないか。
 定住地域に人が集まり、人口が増えると、弱い人たちははじき出される。その弱い人々が新しい土地で、たとえそこが厳しい条件であろうが、何とか工夫して居住可能な土地に改良し、住みつく。そして、再び人口が増えて同じことが繰り返される。】

つまり、弱い人たちが迫害された上での生存本能が人類を発展させた、というわけです。

関野さんの公式サイトにはこのように書かれています。
【 負の側面を抱え込みながらも、世界中に拡散し、繁栄していった人類の礎を築いたのは、進取の気象に富んだ者たちではなく、はじき出されて、あらん限りの知恵 を振り絞った者たちではないだろうか。】

仲間はずれや喧嘩、自然の猛威など、苛酷な事態が、結果的に人類の幸せにつながったとは、なんとまあ皮肉なことでしょう。

しかし、だからといって、喧嘩をどんどんやれば人類はもっと発展するということでなく、どんな不幸な出来事、苛酷な状況も、誰かを恨みながら死んでいくのでなく、なんとか知恵を搾り出すことで乗り越える、それはもっと大きい果実の収穫につながるだろう、ということを関野さんのグレートジャーニーは教えてくれているのだろうと思います。
絶望はならぬということだと思います。
それは当たり前のことのようですが、私たちの先祖がそうやって礎を築いてくれたことを忘れないようにしなければ、負けたままで終わってしまいますね。

我々はまだまだグレートジャーニーを続けなければいけないんでしょう。

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2008年3月20日 (木)

追悼 アーサー・C・クラーク様

「幼年期の終わり」を再読したばかりでした。→「幼年期の終わり」  
面白いものを沢山見せてくれてありがとうございました。

   

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2008年3月18日 (火)

兵隊さんありがとう

朝日新聞神奈川地方版に日本在住英会話講師バーリット・セービンさんの「かながわ見聞録」と題したエッセイが随時載ります。
米海軍将校として横須賀基地に赴任した経験を生かして横浜開港時に関する文章を主に書いています。

先週のはイージス艦事故を受けての、自衛隊に関する記事でした。

  →「自衛隊への強い非難に驚き」    ←(すでに削除されていますので末尾の文章をご参照ください)

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「兵隊さん頼みます」「兵隊さんよありがとう」「兵隊さんのおかげです」

ユートピアに必要のないこれらの言葉、いつか日本でも再び使われるようになるでしょうか。

「イージス艦だけが悪いのではない」と題された週刊新潮の記事があります。
物事は多面的に見なければいけないのに、別の見方はいっさい口にできない世の空気、しかし、それも秩序維持に必要なことかもしれません。
こういうことはおおっぴらに論ずべきことではなく、水面下でひっそりと情報交換され、いつかはわかってくれる、あるいはやっぱりイージス艦だけが悪かったということになる、その時を待つのも一つの手と考えるのが良いでしょう。

    

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アクセス解析を見ていたら、「兵隊さんありがとう」のキーワードでこの記事にアクセスして来られた方がいた。 

記事を読み返し、引用したバーリット・セービン氏の「自衛隊への強い非難に驚き」をクリックしてみたが、記事はもう見当たらなかった。

でもバーリット・セービン氏の連載は「かながわ見聞録」としてasahi.comにちゃんと保存してあるようだ。
その中にこの記事はない。削除されている。
元ネタがないのでは、私の記事もあまり意味がないので、セービン氏の記事の要旨を書いておこうと思う。

「イージス艦と漁船の衝突事故で、自衛隊への非難が高まっている。
 ベトナム戦争当時、私たち兵士も、反戦を叫ぶ人たちの冷たい視線を浴びたものだ。
 しょげている私たちを上官が、いつかわかってくれるさ、と励まし、キプリングの詩を教えてくれた

記事中に紹介されていたのはたしかキプリングだったと思うのだが、検索しても同じのが出てこない。
あるブログで見つけたのが同じ要旨だったのでコピーさせていただく。

酒場に行ってビールを一杯注文すると
バーテンに言われた
「兵隊なんかに飲ます酒はない」
それを聞いて女たちはケラケラ笑った
店を出て自分に言った・・・・

おい、兵隊、これだ、あれだ、「出て行きやがれ、この人殺しめ」
でも、ひとたび戦争が始まれば「兵隊さん、ありがとう」だ
ああ、兵隊さん、これでも、あれでも、お好きなものを
でも、オレはバカじゃない、兵隊さんはお見通しさ

ラディヤード・キプリング「トミー」
    (町山智浩 「底抜け合衆国」より)

それにしてもなぜ他の記事は保存してあるのにこれは削除されたのだろうか。朝日にとってそんなに都合の悪い記事なのだろうか。 

                  (2009/4/3 記)

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2008年3月14日 (金)

息子の夏休み

去年の夏休み、19歳の末息子はほとんど家にいませんでした。
バイトと運転免許取得の合宿とサークルの合宿と、そして自転車旅行。

彼は友人と二人で10日ほどかけて、自転車で飛騨高山まで行きました。

この彼がです。→「子ども時代」 
             「子ども時代2」 
             「大学生になるということ」 
             「大学生になるということ2」 

なぜそこに突然行く気になったのか詳しくは知りませんが、ゲームのサイトで白川郷を見て、本物を見てみたいと思ったというようなことを言っていました。

友人のほうは一昨年も一人で北海道まで自転車で往復したという猛者ですが、自転車旅行の経験などない息子は誘われて急遽決めたことらしく、中学生の時に使っていた古い自転車に空気入れただけで装備不完全のまま、早朝あっという間にいなくなっていました。

ボーイスカウトの時に使っていた寝袋持っていけば良かったのにとか、自転車の整備をする日にちの余裕を持っておけば良かったのに、という母の心配も後の祭り。

毎夜の「どこそこで泊まる」という短いメールが長男の携帯に入ることで、無事の確認をしていました。
一日目は箱根、二日目は静岡、そして、四日目には名古屋に到達。そこから岐阜を経て山道に入ったようです。
自転車の速度はよくわからないけれど、随分と速いペースで進んでいるのだなあと思いました。

肺の持病や連日の猛暑がとても心配でしたが、10日後無事に帰宅しました。サークルの合宿に間に合わせるために復路はバスを利用したそうですが、帰って来た時、膝から下が真っ赤になって象の足のように膨れ上がっていたので、医者に行くよう勧めましたが「大丈夫」と聞き入れないまま、翌日には少し腫れがひき、日ごとに回復してきたので安堵しました。

安ホテルと健康ランドを一回ずつ利用し、あとは道の駅のベンチなどで野宿したそうです。

あれやこれや細かく喋ることのない子なので、何を見、何を思ったかなんてまったくわかりませんが、ひとつだけ、「朝もやの中の白川郷に感動した」らしいことが伝わってきました。
往路、箱根の山に入る前に自転車が故障し、自転車屋さんで応急処置をしただけで行軍を続けなければならなかったことで、体力の消耗も激しかったでしょう。
乗り心地の悪い自転車で、きっとあまり快適な旅ではなかったでしょうが、とにもかくにも男の子らしく体を動かす体験をして、最後には見たかった景色を美しいと思って眺めた、それだけでも悪くない夏休みだったんじゃないかと思います。
小学校低学年まで腕白だった息子が、あまり外遊びをしなくなった低迷期を経て、大学生になって再び冒険に目覚めた、私としてはそう解釈しています。

うちの子たちはとにかく晩生で歩みがのろい。
それはおそらく競争には勝ちにくいということかもしれません。
でも親としては焦らずにただ見ていてやりたいと思います。
焦るのも悩むのも競争に負けて口惜しいと思うのも、全て本人の仕事ですから。

  
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2008年3月13日 (木)

寄らば大樹

昨日の産経新聞に【「裁判なら日本が勝つ」中国高官、不利認める】という見出しの記事が一面に掲載されました。
日中の主張が対立する東シナ海ガス田の問題について、日本が国際裁判所での決着を提案したのに対し、中国政府高官が「裁判をすれば我々は負けるだろう」と認めたということです。

以下記事の一部を引用します:

【18年から19年にかけての協議で、日本側は「中国の言う大陸棚境界線は30年前の理論だ。(日本に対し強硬的な)中国国内世論が納得する形で協議を妥結させるためにも、国際裁判所の韓国を受けたらどうか」などと、国際司法裁判所や国際海洋法裁判所の審判を仰ぐことを繰り返し提案してきた。国際裁判の手続きには、紛争当事国間の合意が必要だからだ。
 これに対し中国政府高官の一人は協議の場で、「国際法はヨーロッパでできたものだから、裁判に訴えたら(同じ自由主義社会の)日本が勝つだろう」と中国側の不利を認めた。また、その上で「相手がベトナムならばいいが、(裁判で)日本に負けるわけにはいかない」と強調したという。
 中国はベトナムとの間にも、天然ガス資源が有望視される南シナ海のスプラトリー(中国名・南沙)諸島、パラセル(同・西沙)諸島などの領有権問題を抱えており、実際には全く譲歩する構えは見せていない。高官の発言は、歴史問題が存在し、東アジア地域の主導権を争う大国同士である日本に対しては、ベトナムに対する以上に固い姿勢で臨む考えを示したものとみられる。】

つまり、世界標準に合わせると損をするので、絶対に譲歩するものか、国際裁判も断固拒否する、というのです。
これを読んで怒り心頭の人も多いとは思いますが、私は個人的には、あっぱれと唸りたくなるほどのわかりやすさだなあ、と思いました。
世界の先進国は本音を隠して、なんだかんだ理屈をつけて自国の国益を図ろうとしますが、中国のこれほどのあけすけな欲望はむしろ清々しい。

日曜日のフジTV「報道2001」に出演した西部邁先生も仰っていましたが(餃子事件に関しての中国の強引さについて)、「むしろ、中国のこの強引さこそが国家として当たり前の戦略であり、日本は少し見習わなくてはいけない」

ただ、私は、日本も中国に対抗して強引な外交をするべきだとは思いません。第一、したくてもできませんから。

ではどうすればいいか。

今朝の産経新聞には、こういう記事が載っていました。→【「太平洋分割管理」提案 】 

中国という国がどういう国かということは、わかる人にはとっくにわかっていたでしょうが、「話し合えばわかり合える」と思っていた人たちも、こういう中国の本音を見せつけられては、さすがに考えを変えざるを得ないでしょう。

要するに「絶対に譲歩しない強い国」とどのように付き合うか(しかも、こちらの不利益にならない形で)、それを選択しなければいけないということですね。

それを考えると、日本のようにお人好しで優しい国のとるべき道は、その大国の属国的立場をとることしかないんじゃないでしょうか。他に道はあるんですか。

今までは、アメリカという大樹の陰で豊かさを維持してきたけれど、アメリカと中国が太平洋を分割管理(もちろん中国側の勝手な提案にしても)、なんていう事態になった時、日本はどちらの側につくべきか、そういうことを考えていくしかないんじゃないかと思うのです。

それともですよ、「国のプライド」はどうなるんだ、と奮起するならば、・・・さあ、どういたしましょう。

            
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2008年3月11日 (火)

「幼年期の終わり」

10代の終わり頃だったからもう40年以上も前になるでしょうか、アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」を読みました。

泥沼化したベトナム戦争に世界中が疲弊していた時代に、その物語の衝撃は、世界の人々と同じように戦争の終結を願っていた私の心に火をつけました。
それはこの作品の「物質文明を乗り越える人類の行く末」というメインテーマはさておき、「地球人同士で争っている場合か」という、SF小説というジャンルそのものが常に突きつけてきたお定まりのテーマを非常に高尚な形で初めて提示してくれたと私には感じられたからでしょう。

その名作が「光文社古典新訳文庫」として、新たに出版されたので、40年の時を越えて再び読んでみました。

こんな筋だったかなあ、と首をかしげるほど細部はすっかり忘れていて、初めて読むような面白さや興奮を感じたのは儲けものでした。

この新訳は1953年の初版ではなく、アポロ月面着陸や冷戦終結という歴史的大事件を経て1989年に書き直されたものの翻訳です。書き直しとは言え、物語にはいっさい手は加えられていません。 ただ東西冷戦や月面着陸以前を前提としたプロローグの部分だけがすっかり書き変えられています。
一章の最後「人類はもはや孤独ではない」という言葉だけを残して。

ちょっと前、政府の要人たちがUFO談義に花を咲かせたことがありました。
「バカバカしい」と一笑に付す人もいたけれど、地球上の諸問題を自分たち自身で解決できなくて閉塞状態に陥っている時、全く別の世界からの訪問者による何らかの介入が、驚異的な方向転換を人類にもたらすかもしれない、と想像ぐらいしてみるのもたまにはいいんじゃないでしょうかねえ。

     
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2008年3月 4日 (火)

海の男

自衛隊イージス艦の事故で勝浦の漁師さんたちがテレビによく映るようになり、昔知っていた千葉の漁師を思い出しました。

亡父は海釣りが趣味で、84歳で亡くなる二年前くらいまでよく内房へ出かけていました。
木更津のちょっと先の船宿に泊まり、小さな漁港から小さな漁船で早朝出港し、東京湾を少し出たところで釣ったメバルやアイナメや鯛などを釣果として持ち帰りました。
一人で釣るのが好きで、いつも船頭をつとめる漁師さんと二人きりで海に出ていました。

父は大抵の場合現地まで電車で通っていましたが、独身だった頃の私は妹と交代で運転手を務めて京葉道路を往復したこともよくありました。

浜に出て船を待っていると、彼方から小さい釣り船が帰って来るのが見えます。まだ潮が満ちないうちの早いあがりの時など、漁師さんが船着場につけられない船を波打ち際に泊めて父を浜までおんぶして運んでくれることもありました。
小柄な老漁師が、痩せ型ながら大柄の老客人をおんぶしているさまは、おかしくもあり、なかなかドラマチックな光景でもありました。

赤銅色の顔に歯の抜けた口で笑いながら大きな声で私たちにも話しかけてくれるのですが、日本で最もわかりにくい方言と言われるあの辺りの漁師言葉はほとんど聞き取ることができず、つきあいの長い父が通訳をしてくれたものです。
時代はめぐり、もうあのような方言を使う古老をみつけるのは難しくなったことでしょう。

今回、謝罪に訪れた艦長、防衛大臣、首相に対する被害者家族や漁協組合長の言葉が明解で胸を打ちます。
「誠心誠意謝ってくれた。我々の言いたいことは、今後二度とこのような事故を起こすことのないようしっかりやってもらいたいということだ」
海の男の心意気といった風の大仰なものではないかもしれませんが、漁師さんたちのそういう言葉は、激しい責めよりもずっと重く関係者の胸に響いたことと思います。

ところで、石破防衛大臣が事故後にイージス艦の航海長と接触、事情聴取していたことについてジャーナリスト青山繁晴氏が次のように弁護をしています。
「『海上保安庁の捜査が始まる前に航海長に話を聞いたが、本格的な捜査に入ってからは一切接触していない』と簡単に言えばいいものを、多弁がゆえに、説明がわかりにくくなってしまうんですね」

防衛省の最高責任者として、何が起こったのかを現場の人間に直接聞きたい、という態度は、強い責任感のあらわれだと思うので、そんなに騒ぎ立てることでもなかろうと私も思います。
石破さんの説明がおかしいとかころころ変わるとか言って責めることに時間を費やすより、何故二隻の船が衝突したのかについての原因究明や防衛省改革をさっさとやるほうがずっと日本のためになると思います。

            

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