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2008年4月28日 (月)

「日本人の死に時」

私は40歳で末っ子を産みました。
育てながら、「この子のオムツが取れるまではどうか私を生かしてください」と信仰もないのに神様や仏様に祈りました。
体が弱くて死ぬんじゃないかという不安があったというわけではありませんが、人はいつ死ぬかわかりません。丈夫なように見えても、突然病気になるかもしれないし事故にだって遭うかもしれません。手のかかる乳幼児を遺して私が入院したり死んだりしたら、周りの人に大きな負担をかけることになります。

無事オムツが取れると、今度はせめて幼稚園に入るまではどうか生かしてください、と祈りました。入園式に母がいないのは不憫です。想像しただけで涙が出ます。

無事幼稚園も卒園し、小学校にも入学し卒業し、高校生になると「せめてお弁当は最後まで作ってやらないと、私が死んだら誰かが早起きして作らなければならなくなる」とまあ、こんな調子で、子供の成長に合わせて、節目節目に「通過点クリヤ」をなんとなく意識しながらここまでやってきました。

今は子供たち3人とも成人し、もう思い残すことはない、と言いたいところですが、欲というのはキリがないもので、今度は「娘の結婚式までは生きていたい。娘の最初の子供が生まれるまでは生きていたい。おばあちゃんの助けなしに子育てするのはさぞ心細いだろう」などと余計なことを考えてしまいます。

でもまあ、家族にとって「不便」という点においては、私がいなくなってもそれほど困らないだろうというところまできました。

母の介護が続いていますので、いま死ぬわけにはいかないのですが、それが終わったらもう安心です。

末っ子のオムツが取れるまで、と願っていたのが、よくぞここまで生かしてくださいました。

_______________

「日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書  久坂部 羊)」という本を読みました。  

見事なご本です。誰がこの著者の意見に反論ができましょうか。グウの音も出ないはずです。少なくとも私は深く感じ入り納得しました。

要するに「長生きは不幸だ」という考えを著したものなのですが、要約だけでは到底納得できないでしょうから、読むことをお勧めします。

老人が少なくなったり超長寿者を見かけなくなったりしては色々な面でバランスが悪いので、ぜひとも長生きしたいと思う人はそうしたらいい。
しかしおそらく、この本を読めばほとんどの人は意識が変わるのではないかと思います。(あるいは既に承知していることを更に強く確認するでしょう)

そしてその中の半数ぐらいの人はこの考えに基づいた生き方を始めるのではないかのではないか、いや、10分の一ほどの人がそうしたとしても、未来に少し希望が見えてきます。

未来は若い人のものです。
「老人は死ねというのか」と言って若い世代に負担を押しつけるのは如何なものでしょう。
「近頃の若いモンは」と文句を言うくらいなら、まずは自ら気骨を示さなければと後期高齢者予備軍の私は思います。

こういうことにこそ、憲法9条の精神を発揮すればよかろうと私は思うのです。すなわち、戦わない、抗わない、ということですわな。「死ぬ時節には死ぬがよく候」であります。

大事なことは、後に何かを遺すことだと思います。
誰もが何かを遺してこの世からいなくなるわけですが、人生でこれという実績もなかった私は言論をたくさん遺していこうと思います。
たいした言論ではないけれど、せめて家族はこれらを読んで何かを感じてくれるかもしれないし、もしかしたら彼らにとって人生が変わるほどの大きな価値を持つものであるかもしれません。
老いたる者はそうやって次世代に何かを遺しながら静かに消えていくのがいいのです。

・・・・・なんて言いながら、よれよれの100歳まで生き残ってたりしてね。

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久坂部先生の思いをできるだけ沢山の人に知っていただきたいと思います。

 

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コメント

おはようございます。長年ものを読んだりしているので、過去に読んだものを思い起こす、ということがしばしばです。
そして、今回の記事に対しては、亡き山田風太郎さんが、かつて朝日新聞のコラムに書いていらっしゃったことを思い出しました。
-合同葬というのは、どうだろう。もう自分で充分生きたと思う人たちが、充分満足が得られる豪華なホールで、みなベットに横たわり、よい香りが漂い、心地よい音楽が奏でられる中、生を終える。こんなのもあっても良いのではなかろうかー
と。
風太郎さんはそのとき既に高齢で、自分の来し方、行く末を考えることもおありだったのでしょう。
彼の作品は、戦中の若き医学生だった頃に、どんな状況下でも欠かさずに書かれた、いかにも筆まめな日記しか読んだことはありませんが、飄々としたコメント記事が続いたその連載のなかで、この記事は、これまでにも、ぼんやりと、でも幾たびか、思い起こされるのです。
私、50代です。
70代、80代になったとき、どんな気持ちで、日々を送っていくのか。新聞の投書欄には、載ることのない高齢者の思いっていうのも、あるでしょう。きっと、この私ですから、山田風太郎さんのコラムときには、想起するでしょうね。

投稿: 街中の案山子 | 2008年4月29日 (火) 08時37分

★街中の案山子さん、

山田風太郎さんのそのコラム、私も読んだ覚えがあります。
長生きの人はこういう心境になることもあるのだろうなあと思いました。

私の今回の記事は間違っている、というか、構成が失敗だと思っています。
と言いますのは、二つの次元の異なることをいっしょくたに書いてしまっているからです。

長寿が本人にとっての幸福とは限らない、ということと、高齢者医療費問題は別のことです。

これについてちゃんと整理した文章を近いうちに書こうと思います。

投稿: robita | 2008年4月29日 (火) 13時14分

お久しぶりです、ととです。

このようなエントリーを読むと、死について考えちゃいます。思わずTBしてしまいました。これは、今この瞬間のわたしの正直な気持ちです。50代になったら変わるかも知れませんが。

投稿: とと | 2008年4月29日 (火) 20時57分

★ととさん、
お久しぶりです。
TBありがとうございます。

>50代になったら変わるかも知れませんが<

そうですね。
年齢や時代によって心境が変わるのが人間ですもんね。

投稿: robita | 2008年4月30日 (水) 09時45分

robitaさま、初めまして。(かな)
ととさんのところから、こさせて頂きました。
よろしくお願いいたします。

後期高齢者の問題は、
「老人は死ねというのか」という報道されてますが、
きっと言っている人もそうは思っていないのだと思っています。
一生懸命がんばって生きてきて、その時の老人を支えてきた自負がある中で、
「自分たちがやってきたのに、今の若い人は自分たちのことしか見ない」
と感じているからの発言なんだと思っております。
自分自身、老人を支えるだけの体力(財政面とかで)があるかと自問すれば、
正直、自信がありません。
だけど、がんばらなくちゃとは思っております。

「未来は若い人のもの」といわれる点はわかります。
だけど、「若い人だけのもの」ではないのです。
「“今”は“過去の未来”」
ということを、私らの世代が認識して、
「“今”は“未来の過去”」
だと伝えていかないといけないのだと思っています。

投稿: さじった | 2008年5月 1日 (木) 23時06分

★さじったさん、

初めまして。
ととさんのところで時々お名前はお見かけしておりました。

>「“今”は“過去の未来”」「“今”は“未来の過去”」<

医療保険制度は相互扶助の精神を基にした世界に誇るシステムということですのでまさにその通りだと思います。
ただ、仰るように老人が「自分たちがやってきたのに、今の若い人は自分たちのことしか見ない」と言ったり、若い人が「老人が一番医療費を使うし、しかも不安にかられて余計な医療費を使い過ぎる」といった不満を言い合うばかりでは、前にも書きましたが「世代間の戦争」になってしまいますよね。
だから、現実、医療費をまかなうお金がないのであれば「老人vs非老人」にも評論家三宅久之さんの言葉として書きましたが、国民から広く集めるしかないと思うのです。 

「若い世代に負担を押しつける自分を鏡で見てみましょう」と私は厳しいことを書きましたが、若い世代も同じく厳しさを見つめなければいけないと思います。

>自分自身、老人を支えるだけの体力(財政面とかで)があるかと自問すれば、
正直、自信がありません。
だけど、がんばらなくちゃとは思っております。<

自分のことを最優先にするのが普通であるのに、このような考えを持っておられるさじったさんは本当にえらいと思います。
こういう人ばかりだったら世代間戦争など起こらないだろうなあ、と思うのですが。

それでも私はこれから負担がますます大きくなる若い世代が可哀想だと思うのです。このままでいくと今まで誰も経験したことがないだろうという辛く厳しい時代が訪れるのではありませんか。

後期高齢者医療制度も私はよくわかりませんが、負担が増える人もいれば減る人もいて、また、地域間格差もあって、まだまだきちんと整備された制度ではないようです。
今後もっとわかりやすく、できるだけ公平に近づけていく努力に期待します。

私は団塊世代ですが、10年20年先のことを考えると、つくづく上手に死にたいものだと思います。
(それは「若い世代に負担をかけたくないから」ということでなく、人間としての生死への思いがあるからですが)

でも、人間って、そううまくは死ねないんですよね。

コメントありがとうございました。
これからもどうかよろしくお願いいたします。

投稿: robita | 2008年5月 2日 (金) 09時24分

自分が偉いんじゃないんだと思うのです。
本当はそれが「普通」でないといけなかったのです。

私の場合は、たまたまですが、小学校の先生に
いろいろと教わっていたことが大きいように思います。
その時の先生は、今では名前すら思い出せませんが、
・戦争放棄が大事なこと(兵器は不要なこと)
・福祉はみんなで支えあうもの
といったことを教わりました。
美しい国日本とか、授業時間増やすとかいろいろ言ってますが、
国のシステムやルールを教育していないことが問題では?
若い人が先輩を支える仕組みであることを知っていれば、
今更、そんなシステムだなんて聞いていないとか言う人は
いなくなるはずなんですがねぇ…。

投稿: さじった | 2008年5月 2日 (金) 14時17分

★さじったさん、

皆がさじったさんのように優しく無欲だったら争いなどいっさい起きないはずなんですよねえ。
世の中は色々な人で成り立っていますから、全員にそうなれと強要するわけにもいかないし、我々はそういう世の中でどうにかこうにかやっていかなければならないんですねえ。

投稿: robita | 2008年5月 3日 (土) 11時09分

robitaさん、

TBを頂きまして有難うございました。諸々の事情でリアクションが遅れてしまいました、ごめんなさい。

>私の今回の記事は間違っている、というか、構成が失敗だと思っています。
と言いますのは、二つの次元の異なることをいっしょくたに書いてしまっているからです。

長寿が本人にとっての幸福とは限らない、ということと、高齢者医療費問題は別のことです。<

ことわが国の場合、本当は密接しているのですが、関連付けて丁寧に話し合えるほど多くの国民が人間として成熟していない、と私は思っています。

言い方を変えれば、「死に時」と「高齢者関連制度」を考えるには、“脳のスイッチ”を入れ替えつつ行う必要が確かにあり、これを出来ない、あるいはしたくない、してはダメ、そういう反射的なインプットがあると思います。

私はまだ死んだことがありませんが、大切な人を数人送ってきた経験から知ったことは、「死はエネルギーが必要である」という事です。

そして、その「死」を誰にも投げ出さず、己の尊厳でもって行いたい場合は、現代日本においては「テクニック」が必要である、と言うことを以前父の死に際して記事で書きました。

現代日本においては、あまりに「死」が遠きものになってしまいました。と言うか、あまりに恐ろしく不条理=死という構図ばかりを、幼き頃弱き頃に目撃した方達が、この社会の「かたち」を作ったのですから、当たり前といえば当たり前なのかもしれません。それを非難する資格は誰にもありません。

ただ、その「かたち」が、国家という機能体にとっては、必ずしも良いことばかりをもたらすわけではないのだ、それを私たち日本人は世界に先駆けて学んでいる、と言うことだと思います。

しかし私は悲観していません。精神的に最も豊かである団塊の世代が、きっと別の答えを示してくれると確信しています。

…そんなことを思いつつ、最近4度目の『史記』を読んでいます。うーん中国は偉大だ、彼らの子孫であることを最大限に誇りに思って膨張するも当然だよなぁとあらためて。彼らと接するにはやはり面子、それが大切であります。何が面子か、それはもっと大切

投稿: kaku | 2008年5月10日 (土) 13時50分

★kakuさん、

お忙しい中、丁寧なコメントありがとうございます。

>ことわが国の場合、本当は密接しているのですが、関連付けて丁寧に話し合えるほど多くの国民が人間として成熟していない、と私は思っています<

今朝のフジTV「報道2001」で、「終末期医療についての自分の希望を選ぶ書式」 が冷徹でぬくもりがないとの批判がありました。それに対して西部邁氏の言葉:
「さっき、自分の命は自分のものだからと仰った方がいたけれども(スタジオに集まった後期高齢者の方々)、まさにその自分の命の終わらせ方ぐらい自分で決めてやる、という根性のある老人がいなくなった」と、穏やかながら厳しい指摘でした。

たしかに、高齢者福祉は手厚いのが理想ですが、今はもう「平時」ではないと私には思えます。
医療保険制度や年金制度ができた頃には想像もしなかったほどの凄まじい少子高齢化社会がやってくるという時に、平時の論理は通用しないだろうと私は思うのです。

>最近4度目の『史記』を読んでいます<

すごいなあ。「史記」、読んだことない・・・。

>うーん中国は偉大だ、彼らの子孫であることを最大限に誇りに思って膨張するも当然だよなぁ<

そうですね。
つまり、共産党政権なんでしょうね、問題は。

投稿: robita | 2008年5月11日 (日) 15時05分

確かにこの本は5.6回読みました。グウの音も出ません。
ただ、読んでるうちに、どこか物足りない気がしました。
つまり「長寿は危険」と言われるなら、人間は75歳くらいで死ぬには、どうすればいいのでしようか。それが一番肝心なんですよ。その答えが書かれていない。私はことし満80歳を迎えました。生来、病弱でしたので大満足です。友人は一人もいません。今は「どうして死んでゆくか」を真剣に考えています。清原一秀著「自死という生き方」も参考になりましたよ。(といって自殺を奨励しているわけではありませんが・・)人間には、それぞれの生き方、死に方があるはずです。尊厳死協会に入会して15年。高齢になったら検査はしない。20年ほど胃腸のカメラは撮っていません。
トピ主さんは、この点をどう考えておられるのでしょうか。


投稿: 辰夫 | 2011年6月18日 (土) 11時19分

★辰夫さん、

初めまして。コメントありがとうございます。

>人間は75歳くらいで死ぬには、どうすればいいのでしようか。それが一番肝心なんですよ。その答えが書かれていない<

そうですね。死に方は書かれていませんでしたね。
自死以外、誰も希望の時期に死ぬことはできませんし、お医者さんにも希望をかなえることはできません。

もうこの本は手元にないので確かめることはできませんが、たしか、最後のほうに、「自分がこれをやるためにこれぐらいまで生きたいという年齢を大体決めて、そこまで生きたらあとの人生はおまけだと考えて、生に執着しない」というようなことが書かれてあったと思います。

私はこんな風に考えています。
「ある程度の年齢になったら死を怖がらないこと」
「元気なうちに終末期についての自分の希望を周りに言っておくか書いて残しておくこと」
「老人福祉について、あまり要求しないこと」
そして、瀕死の老人が沢山のチューブにつながれてスパゲッティ状態になる前に家族の決断が必要、ということじゃないでしょうか。

要するに、人間らしい活動ができなくなってなお無理やり生かすことは本人にとっても周りにとっても不幸なことですよね。

例えば、高齢になってガンになったら、これ幸いとばかりに死への準備を着々と進めるとか。
高齢者の死に方として、ガンが一番いいそうです。
痛み緩和治療が相当進んでいるということですし、だいたい死期がわかるから準備がしやすい。
終わりの日まで好きなことをして過ごせそうです。

あの本は、高齢者本人だけでなく、周囲の人間にも考えてほしいことがたくさん書いてあったと思います。

辰夫さんのように、パソコンで人と交信することができるのであれば、それをご自分の楽しみにしてこれから過ごされればいいと思うのです。

どうしたら死ねるのかなんて考えることはないと思います。

健康診断をしていなくても20年生きておられる。結構なことじゃないですか。
ただ、友人が一人もいなくては楽しくないんじゃありませんか。老人クラブなどはどんな地域にもあると思います。

高齢者でパソコンをやっている人が少ないせいか、私のブログにコメントしてくださるのは若い人ばかりです。
どうか、これからも私の記事に感想などありましたら、何でもお書きください。

高齢のかたが読んでおられることを意識してこれからはなるべく言葉に気をつけようと思います。(^^)

投稿: robita | 2011年6月20日 (月) 11時47分

現在この本を読んでおります。残り30ページぐらい。友人に教えられて読んでみたのですが、45歳の今、読んで本当によかったと思います。これからの生き方の一つの指針にします。

足るを知ると考えて、ある程度の年齢を過ぎたら残りはできるだけ(医療的に)手間をかけずに逝きたいと思います。自分の親や姑についても本人の意向をよく理解してあげたいと思いました。

でも生々しいので親や姑に読めとはよう言わんですがね…。夫と、実姉、実妹に読めと言っておこうと思っております。今のウチに読む。これが肝要だなと思っています。

投稿: シーラカンス | 2012年4月16日 (月) 20時30分

★シーラカンスさん

コメントありがとうございます。
「日本人の死に時」も素晴らしい本ですが、今「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(中村仁一)が大ベストセラーになってますよね。
これ、ほんとに面白いですよ。まだでしたら是非お読みになってください。

久坂部先生はまだ50代でお若いので、老人の事情を書くにあたって表現が少々婉曲になっていますが、この中村先生はご自身がもう高齢なので「何も怖くない」と仰る通り、言いたい放題です。笑いながら楽しく読みました。

でも「大事なのは、長生きするとか早く死ぬべきとかいうことでなく、死ぬまでの生き方」という主旨は両先生とも同じです。


>でも生々しいので親や姑に読めとはよう言わんですがね<

仰る通りです。それに、自分の周りの老人はやはり「えこひいき」してしまい、特に尊敬に値する人であればなおさら「いつまでもお元気で生きていてほしい」と思うものです。

>今のウチに読む。これが肝要だなと思っています<

そうですね。広めましょう

投稿: robita | 2012年4月17日 (火) 11時07分

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