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2008年5月26日 (月)

どこで出会うの

朝日新聞で、大谷由里子氏(人材活性プロデューサー)の連載エッセイ「ココロの元気」を読みました。 →「いい恋は日々の活力」
特筆すべきアドバイスは見られないけれど、「出会いは作るもの。結婚相談所だって、何でもあるでしょ」という一文にひっかかりました。

この文には、「何でもあるでしょ」と言いながら、「結婚相談所」しか提案がありません。
他にないんでしょうか。
私は恋愛経験も乏しく、若い人たちの生活をよく知らないのですが、みなさんどういうところでお相手を見つけているのでしょうか。

以前、3人目だかの彼と付き合っている姪に、「いったいどこでそんなに知り合うの」と聞いたら、「いろいろあるよ、そりゃあ。友だちの紹介とか・・」と、何故そんな疑問を持つのかといった口ぶりでした。

この答えにも「友だちの紹介」しかありません。

結婚相談所と、友だちの紹介と、それから他にあるんでしょうか。

大学とか職場で知り合う、というのは、それは新人の時だけで、ある程度カップルが定まってしまうと、そんなに流動的に組み合わせが変わるわけじゃなし、新たな「場」に移らなければ出会いも望めません。

「趣味の場」だって、そんなに沢山の趣味は持てないので、その場でみつからなければ、趣味の場を変えるしかありません。

「結婚相手をみつけるために趣味続けてるんじゃありません」と叱られそうなので、この話はここでやめますが、多くの適齢期の男女が出会いを求めているのになかなか相手がみつからない問題は私にとっても人ごとではありません。なんせ「結婚できない女」でしたものですから。

ところでTVドラマ「Around40」で、天海祐希扮する主人公が結婚相談所に通っていたことが友人たちの間で発覚してどぎまぎする場面がありました。

「結婚相談所」は「恥ずかしい場所」らしいです。

でも、どうしてなんでしょう。

「だれか良い人いませんか」と世話好きのおばさんに頼むのは恥ずかしくないのに、何故、より広い範囲から条件に見合った人を探すことができる「結婚相談所」は恥ずかしいのでしょうか。

「商売」だからでしょうか。

男女の出会いは神聖なものだから、商売にしちゃあいけないんでしょうか。

でも、世話好きおばさんがいなくなっちゃった今の時代、ナンパ以外になにかあるかといえば、結婚相談所しかないんじゃないかと思います。

以前に「お見合い」という記事を書きましたが、大竹まこと氏の意見はその通りだと思います。

お見合いじゃなければ、ナンパしかない。
どちらかが積極的になるしかない。
男性は真面目な人ほど女性に対してはシャイなので、女性が積極的になるのが望ましい。

こういうことでしょうか。

今、結婚相談所というのは昔のイメージとは全然違い、利用している人はすごく多いらしいです。発言小町など読むとそう書いてあります。

「発言小町」というサイトはとても面白くて参考になるのでたまに見ます。「結婚相談所」で検索してみましたら、こんな相談があり、最初のレスをした男性の文章が面白くて笑ってしまいました。この男性なかなかいいぞ。生活力があるかどうかはわからないけれど、人生楽しそう。

ドラマのような出会いはそんなにあるものではない、というのが現実です。
でも、結婚相談所も敬遠してしまう・・・。

昔のように年配者ができることがあるような気がするのですが・・・。

前期高齢者も後期高齢者も、外に飛び出して若い世代と積極的に交流することを心がけたらいいですね。高齢者はこんなブログ見てないと思うけど。

 
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2008年5月23日 (金)

吸い取られる前に

5/22(木)産経新聞 くにのあとさき」】「学力劣化に耐えられず」(湯浅博) を読んで、いったい日本はどうしたらいいのかなあ、と思いました。

「先端技術の講座を持つ主要な大学院では、院生のおよそ半分が中国人留学生に占められているのだという。留学生たちは学業に貪欲(どんよく)だから知識、技術の吸収が早い。彼らが帰国して米国や欧州の留学組に合流すると、世界最強の技術が生み出されることになる。」

こういうのを読むと、外国人留学生を安易に受け入れてもいいのかなあ、と思うし、そんなことを心配するより先に、日本の子供たちを貪欲にさせるにはどうしたらいいかを考えるべきだ、とも思うし。

今朝の産経新聞にも曽野綾子さんが「小さな親切、大きなお世話」でこう書いています:

「教育の荒廃は、戦後の日本で最大の失敗だと思うことがある。今すぐ大手術をしても命を取り戻すのに間に合うかどうかとさえ思えるほど、多くの日本人は不勉強になり、利己主義になった。」

国が生き残るためにはやはり教育が最も重要でしょうから、このことだけは「なるようになる」などと言って楽観視していてはいけないと思います。

しかし、今さら日本の子供たちを、学業に貪欲にさせることなどできるのでしょうか。

フィンランドの教育が優れているから真似すればいいとか、東京都杉並区の和田中学のやり方が効率的だとか、色々なことが言われますが、日本の実情に合わないとか校長の独断が民主的でないとか、これまた色々な批判が出てきます。

ああでもないこうでもないと議論している間にも、中国人留学生にすべて吸い取られてしまうような気がして心配になりませんか。

それとも、中国は日本の技術をただ搾取しているのでなく、協力し合い、共に発展していこうという好ましい構想を持っている国なのでしょうか。

そこのところはわかりませんので、とにかく日本では子供たちに勉強させることからやり直さなければなりません。

教育だけは、民主主義などどこかに置いといて、誰かが「こうすればいい!」と即決してくれないかしら。

         
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2008年5月19日 (月)

未来は明るいもんだろが

うちは長年朝日新聞を購読しているのですが、2・3ヶ月前、私が留守の時に産経新聞を3ヶ月だけでいいからとってくれませんか、と勧誘が来たのを主人が契約してしまいました。

で、もったいないから一生懸命二紙読んでいるのですが、産経はなかなか面白い。

上坂冬子さん、曽野綾子さん、呉智英さんのコラムなど、小気味の良い文章が読めて嬉しいです。
____________

一昨日の紙面に「また暗い予言者の時代」と題して、哲学者で京都大学教授だった故田中美知太郎の論説が掲載されていました。

産経新聞の「正論」欄の35周年を記念して、当時掲載された珠玉の論稿を再録する「昭和正論座」という企画の一つで、昭和48年7月4日掲載分です。

35年前の文章でも、今の時代に書かれたとしても全くおかしくないので、時代の繰り返しを痛感しました。

ネットでこの文章が載っていないかと探しましたがみつかりませんでした。

私の下手な要約より丸写しした方が早いかとも思いますので、長文ですが頑張ります。

__________

【 未来学というものには二通りあるらしい。つい先ごろまでは、明るい未来学が流行であった。日本の経済成長はその希望を一手に引き受けた形で「二十一世紀は日本経済はソ連を追い越して、アメリカに迫るだろう」というようなことが、しきりにいわれた。日本の個人所得にしても、国民総生産にあわせて、どんどん伸びていくはずであった。現実に日本は金持ちになり、わたしたちの都会には高層建築が立ちならび、店には品物があふれ、観光地はにぎわい、道には新型の自動車がいっぱい走っている。わたしたちは、自信をもって“バラ色の未来”に向かうことができるかのようであった。

ところが、まったく突然にその明るい未来は暗雲に閉ざされ、わたしたちは現在の生活に息ぐるしさを感じなければならなくなった。自動車が多くなるに従って、その排気ガス、その騒音、そして交通事故の増加などが、わたしたちの生活環境を汚損し、わたしたちの生活を危険で、しかも不愉快なものに変えてしまったというわけである。航空機や船舶によって、大気も海水も汚染され、経済成長のにない手であった製造工場は公害の元凶として敵視され、経済活動を支える各種の商社は、国内の物価をつり上げる悪者の代表のように見なされることになった。このままで、日本はどうなるか。日本国民は各種の害毒によって健康をそこなわれ、一億すべて病人となり、やがて滅びるかもしれない。客観的にも食料をはじめ各種の資源は底をつき、空気中の酸素の量さえも不足し、各種の気象異変でやがて地球上の人類に惨憺たる世紀が訪れるだろうというわけである。

いまや日本は、この種の暗い未来を予言する人たちの支配する時代に入ったといわなければならない。しかしそれにしても、これらの予言者のいきいきしていることが、なんとも奇妙な印象をあたえる。かれらは明るい未来学の支配した昨日までは、全く浮かぬ顔をして、そこらの隅に身をひそめていたわけなのだろうか。いわゆる公害さわぎとともに、にわかにわが世の春を迎えたというわけであろうか。暗い未来を語るかれらのの顔は、むしろ嬉々としているという感じである。

しかし、わたしたちが暗い未来の予言者に出合うのは、これが初めてではない。わたしたちが核戦争の恐怖にとりつかれていたのも、そう遠い昔のことではない。米ソの対立が先鋭化していて、世界は二大陣営にわかれ、なにかの信号の読みちがいで、突然核戦争が始まるかもしれないというようなことが、深刻な表情で説かれていたのである。そのために、いつ核戦争が始まるかの心配に疲れて、はやばやと自殺してしまった人が出たりした。ずいぶん気の早い話だと、いまなら滑稽に感じられるかもしれないが、当時としてはとても笑えない深刻な事件だったのではないかと思う。つまりそんな暗い情報が日本の全体を包んでいたわけなのだ。

暗い情報がいっぱいで、人びとが神経質になっているときには、冷静な言論はむしろはげしく反発される。けれども、正気を失わない人の勇気ある言動によってのみ、実質的な解決が可能にされる場合が多いのではないか。核戦争の恐怖も、キューバ危機にさいしての故ケネディ米大統領の勇断で、緊張した危ない橋を通りぬけることができ、いわゆる米ソ共存の新しい時代を迎えることになった。そして、わたしたちもいつの間にかあの異常な恐怖感から解放されるようになった。必ずしもその危険がなくなったわけではないが、わたしたちは今日もはやヒステリックにではなく、もっと冷静に問題をとらえ、その危険を取り除く方途についても、実際的に考えることができるようになったのではないか。

むろん、暗い予言にも、明るい予言にも、それぞれの効用はあるといわなければならない。わたしたちを勇気づけ、明日のために働く意欲をもやすためにには、わたしたちは明るい予言を必要とするだろう。しかし、得意になりすぎたり、油断したりすることのないように、時には暗い予言も必要である。わたしたち人間のもっている欠点や不足について、まじめに反省する機会も、それによって与えられるものである。

しかしながら暗い未来の予言は、核戦争の恐怖の場合にもみられたように、それだけでは不幸な結果を生むことが少なくない。今日の都市では、自動車の警笛はむやみに鳴らさないように規制されているが、以前はやたらに警笛を鳴らすものだから、騒音がますますひどくなり、かえって警笛が警笛の役目を果たさないことにもなった。今日しきりに流されている誇張された暗い情報も、右の警笛と同じようなことになっているのではないか。

かつての核戦争の恐怖にしても、それには一つの心理作戦的な要素が含まれていて、外交上の脅迫手段に用いられていたのではないかと疑われる。現在の暗い予言者たちにしても、わたしたちの環境汚染を本当に心配しているというよりは、日本の未来を暗く、暗く、描くことに、ひそかな“願望”を託しているのではないかと思われる節が少なくない。少し前の暗い予言としては、資本主義社会の没落に関する談話が知られている。富はごく少数の人間の手に集中され、他のすべての人間は貧困のどん底にあえぎ、失業者や病気が町並みにみち、生産は低下し、経済恐慌がたびたび襲いかかってくるというように、その終末が暗く描き出されたのである。

しかし、実際の歴史の進行は、かれらの希望に反して、いわゆる大衆消費社会のゆたかさを生み出したのである。
敗戦直後のわが国においても、混乱と窮乏は一つの革命的情勢を作り出すかのように思われたけれども、その後の経済の復興と高度成長は、そういう条件を消失させてしまい、暗い予言者たちは鳴りをひそめなければならなかった。しかし、大衆消費経済が生み出す環境破壊が明らかになってくるに従って、またもや暗い予言者の時代が到来したというわけである。かれらが嬉々として暗い未来を語るのはそのためである。かれらにとっては、公害を非難したり、訴訟を起こしたりすることがすべてであって、それが解決の方向をとることは、むしろ困ることなのである。
いわゆるベトナム和平にいちばんがっかりしたのは、ベトナム反戦の人たちであったのと同じことである。暗い予言者を落胆させる政治こそ求められなければならぬ。】

私はこういう偉い先生の存在を知りませんでしたが、今活躍している言論人の中にはきっと強い影響を受けたかたがたも多いことでしょう。
私もきっとその余波を受けているのだと思います。

「田中氏は戦時中、軍国主義やファシズムを批判し、戦後は進歩的文化人を批判した。時流に媚びず一貫して自由主義の立場に立った。『考えのブレのなさでは日本の学者の中で稀有な存在』(会田雄次氏)といわれた。ギリシャ哲学の権威でありながら、平明な文章は今も読者の心を打つ。」と編集部注があります。

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2008年5月14日 (水)

「見ろよ青い空白い雲」

近頃の若い人がよく「未来に希望が持てない」などと言います。とても悲観的です。

先日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」でも、スタジオに大勢の若者を招いて、「日本の未来に希望はあるか」なんて質問しましたら、半数ほどが「希望がない」と答えてましたね。

こういう結果を聞くと、「政治の責任」と人は言いがちですが、これは「社会現象」に関連するところが大きいだろうなと私は思います。
「誰かの責任」とか「誰かが悪い」という単純なことではなく、共同体の発展途上でいろいろな要素が複雑に絡み合って表面化してくる一現象だろうと思います。
(一現象というより、行き着くところに行き着いたのかもしれませんが)

人間の意識の変化がその最も大きな要因だろうとは思いますが、人間の意識は変化するものなので、まあ言わば、しようがないことで、対策としては対症療法しかないわけです。

ところで、大学生の次男とたまたま「若者の将来不安」の話になった時、彼がこう言うんです。
「(自分の周りでは)将来のことなんかなんも考えてないやつのほうが元気だよ」

爆笑してしまいました。

将来に夢や希望を持つのは大事だけど、夢や希望を持てない時は「とりあえず元気にしとくかぁーっ」みたいな。

あれこれ熟考して将来不安に陥る真面目クンより、弱小大学に通うノー天気クンたちの中に、けっこう活きの良いのがいるのかもしれません。

うん、たぶん人類は大丈夫だ。

ま、命までは取られんだろ、って気持ちで事に当たってくださいよ、若いんだから。

     
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(タイトルは故植木等の「だまって俺について来い」という元気の出る歌の歌詞です)

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2008年5月13日 (火)

大好きな人でも

結婚には思想の一致が必要でしょうか。

例えば、改憲派の男性が女性と恋に落ち、結婚してから彼女が護憲派だとわかった、なんていう時、もう一緒にやっていけないものでしょうか。

政治問題で意見が対立して夫婦が別れた、なんていう話は聞いたことがないけれど、その喧嘩の内容ではなく、「どうしてこんなことがわからないのか、頭の悪い女だ」とか「こんなに頑固で話の通じない人だとは思わなかった」とか、相手の頑迷さや見識の低さや論理性の欠如、つまり人間性に嫌気がさすようになり、愛も褪せていくのでしょう。

昔の話ですが、私の知り合いの男性と、知人の知り合いの女性を、「会わせてみようか」という話になったことがありました。双方とも結婚相手を探していたので。

で、彼女はクリスチャンだったので、知人が「クリスチャンじゃなきゃダメ?」と聞いてみたところ、即座に「ダメ」という返事が返ってきました。彼女は伴侶と価値観を共有したいと強く思っていたのでしょう。

人によっても違うのでしょうが、夫婦は価値観が違うとやりにくいでしょうから、やっぱり思想の一致は必要なんでしょうかねえ。

でも、お付き合いの期間の中では、思想の話などあまりしないですよね。よほど、何か思想的活動に熱心だったり、あるいは宗教に強い信心を持っていたりする場合は別として。

まあ、普通の感覚を持っている人同士ならば、話し合うことで歩み寄れるでしょう。

「ダメなものはダメ」とか「頑固に**」などと言って譲らない人とわかり合うのは、ほんと、難しいですけど。

そういう時はやっぱり別れちゃうんでしょうかねえ。いくら愛していても。

       

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2008年5月12日 (月)

「仲良き事は美しき」かな?

ミャンマーという国は軍事独裁国だけれども、発展途上であれば独裁体制は効率上ある程度仕方のないことなのかなと私は思っていたし、実際、徐々に経済発展もしつつある、と聞いていました。

でも今回のサイクロン被害で、軍事政権が国民を犠牲にしてまでも権力を維持しようとする体質が明らかになりました。

当初から英米などの援助を拒否していたのは、それを受け入れることで自分たちの政権に圧力がかかり、民主化要求が強まるのを恐れてのことらしいです。

この独裁政権には、中国が深く関わっているということです。

つまり、ミャンマーという国は中国の軍事拠点として大変重要で、この国を支配下に置くという目論見をもって軍事政権と深く結びついている中国は、ミャンマーが民主化されると大変困るというわけです。

ミャンマーのみならず、スーダンなど人権弾圧国家に経済援助し、コントロールしようとする中国に世界中が警戒心を持って見つめています。

国益のためにはなりふりかまわない、そんな中国と「わかり合う」とか「仲良くする」とかいう外交は、当然のことながら、表面上のお愛想に過ぎないのでしょう。
実際の駆け引きはきっと凄まじいものに違いありません。

我々国民にできることは、せいぜいマスコミによって報じられる表面上の出来事にイライラしたり怒りを爆発させたりしながら、水面下で戦いを繰り広げているであろう関係者の苦労を想像することぐらいでしょうか。

      
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2008年5月 9日 (金)

仲良き事は美しき哉

おとといのNHK「クローズアップ現代」で、映画「靖国」問題が取り上げられました。
ゲストにノンフィクション作家吉岡忍氏を迎え、番組の論調は「自由な映画製作」に同情的で、日本人が騒ぐのはおかしい、といったものでした。

前にも書きましたが、この問題は、マイケル・ムーアが自国の大統領をからかう映画を作って面白がるのとはわけが違います。  

「表現の自由」「言論の自由」という視点でこの問題を論じるのはおかしい、と私は思うのです。

吉岡氏は、「(言論に圧力がかかる日本の社会は)気味が悪い」「不気味だ」という言葉を盛んに発していました。

不気味って、あなた、共産党独裁で言論の自由がない中国のほうがずっと不気味でしょうが。

そして、その不気味な国が長年にわたって、日本国内の問題である靖国に対して、文句をつけてくるんですよね。
そしてその靖国問題が、外交上日本に不利に働いてしまっているんですよね。

色々な考え方があるのは素晴らしいなどと言って喜んでる場合でしょうかねえ。

私、すごくヘンだと思うのですが;

中国の胡錦濤主席と福田首相の会談で、パンダのこと以外何も具体的に決まらなかったとか、福田さんは中国に対してはっきりと物を言うべきだとか、軟弱外交を世間は責め立てるけれど、いったい日本人は、首相にどうあってほしいんでしょう。

軟弱がイヤなら、強く出るしかないじゃないですか。

強く出てもいいんですか。

いいんだったら、強く出てもらいましょうよ。

中国人が中国人の考えで作った映画に、「表現の自由だ」などとのんきなこと言って助成金を差し上げてる場合ですか。

この映画は決して「反靖国」ではない、とも言われているようです。私も見てないので何とも言えませんが、もし反日勢力が喜ぶような内容であれば、それはやはり警戒したほうがいいでしょうよ、当然。

心の広い日本人が「自由な言論の中の一つにすぎない。認めるべきだ」と言うからには、靖国問題における日本の不利も覚悟しなきゃならないでしょう。中国に強く出られてどうにも対処できない日本の弱さを認めなきゃならないでしょう。

どんな共同体も自分たちの利益のためには一致団結するのに、なぜ国が一致団結するのはそれほど嫌われるのか。
軍事力の行使につながるから、というのがその答えだと思うのですが、今の日本、そんなに簡単に軍事力は行使できません。
ものすごい抑止力が働くと思うので、一致団結して簡単に戦争になったり、ましてや日本が他国に侵攻するなど、そんなこと本当にみんな心配しているのですか。

国益のために一致団結するのは当たり前のことではないでしょうか。

65年前の戦争を「あってはならないこと」として否定し、国民が一丸となったことを「愚かしい」と断罪する日本人ですが、自国の戦いの歴史を「あってはならないこと」として押入れ深くしまいこんでしまう国というのは世界にあるのでしょうか。

私は戦争を肯定してるんじゃないですよ、しつこいようですが。

歴史というものが戦争で成り立っているというのに、人類の歴史そのものを否定したり、いつまでも平身低頭して謝り続けたりしていったいどうしようっていうんでしょう。

戦争をしたのは日本人だけじゃない。昔から世界中の国がみーんなやったんです。

自分の国を「不気味」だとか「反省してない」だとか、それを他国から責められる前に、なぜ当の日本人が自分自身を責め続けるのでしょうか。まさに自虐です。

国益のために団結して何が悪いのか、と私は思いますよ。

おそらく左翼のみなさんだって、「色んな考えがあってこそ素晴らしい」などと本心では思ってないんじゃないでしょうか。
「みんなが私たちと同じ思想を持てばきっと素晴らしい国になるのに」と思っているんじゃないですか。

中国の政治家は立派だ、堂々としている、と褒めちぎる人がいますが、そんなこと当たり前じゃないのと私は思います。

あれだけ愛国心に満ちた国民を育て上げたんですもの、批判される恐れがないんですもの、強力な軍隊を保持しているんですもの、そりゃあ政治家だって堂々としていられますよ。

指導者の自信は世論によって支えられます。
「たとえ支持率1%になっても自分の信念に基づいて政治をやる」と田中角栄は言ったそうですが、今の日本ではそんなこと不可能です。世論の支えがなければ政権はもちません。

日本人も中国のような堂々たる政治家がほしかったら、中国を見習ったらどうなんです?

国益にかなった世論形成がちっとも成されない、そんな中で、首相に「毅然としろ」とか「中国にはっきりものを言え」とか無理難題言いなさんな。

国益にかなった国民の意思統一が恐ろしい、というなら、政治家が毅然とものを言えなくても、日本が損をしてばかりでも、文句言わず我慢するのが筋なんじゃないかと思うのですが。

私は右翼のみなさんのように、中国を敵視したりしません。圧力かけて映画上映中止に追い込んだり、中国への罵詈雑言を並べ立てたり、そういう愚かしい行為は是非やめていただきたい。

ただ、バカを見ないためにはどうしたらいいのか少し考えたらどうでしょうか、損をするのはイヤでしょう?と言ってるだけなのです。

中国に文句言うより、まず日本国民が少し自分たちを反省するのが先なんじゃないですか? そう、反省するならこのことをこそですよ。

その上で、対等な関係で外交交渉するべきですよね。

もし、中国が本当に「自分さえ良ければ」の国でないなら、共に発展する関係になれるはずでしょう?

本当にそういう国でないなら。

(参考:櫻井よしこさんの「福田首相に申す」 )

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それともですよ、
日本はペコペコ、へいへいしてさえいれば、中国とうまく商売ができて、結果的に日本に富をもたらすので(つまり国益になるので)、そのほうがいいのでしょうか。
たとえ、毒餃子事件が日本に原因があるということになっても、東シナ海ガス田の権益を奪われても、著作権侵害の問題を無視されても、日本は主張せずに大人しくしていたほうが身のためなんでしょうか。
どう思います?

しかしまあ、庶民がこんなこと心配しなくたって、日本の政治家や官僚は、国益を損ねないよう水面下で画策してうまくやってくれてるのかもしれませんね。国民(マスコミ)になんと罵倒されようと「言わせておけ。ガス抜きだ」みたいな感じで。

この世のことは何が本当なんだか、よくわかりませんねえ。

        

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2008年5月 2日 (金)

母の幸せ

ほんとうは、こういうことについては、母を見送った後に書くべきなのでしょうし、楽しいゴールデンウィークの最中にふさわしい話題でもないとは思いますが、私もいつ死ぬかわからないので、書ける時に書いておこうと思います。
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老人の孤独死というのが話題になる時、それは「可哀想」という「負」の出来事としてとらえられます。
「人知れず死ぬ」ということに私たちはたまらなく寂しく残酷な印象を持ってしまいます。

でも、死ぬ時はみんな一人です。
たとえ、家族の見守る中、亡くなったとしても、みんなに見送ってもらったという事実が、死後温かい記憶として本人の脳裏に残るはずもなく、このこと一つとっても、「死」というのはやはり遺された者にとっての問題なのだなあと、思わざるを得ません。

たしかに、周りが早く異変に気づいて助かり、健康体に戻るということももちろんあるでしょうが、高齢の場合、それをきっかけに不本意な状態に陥ることも多く、あっという間に亡くなることも本人にとっての幸せであることが往々にしてあります。
こういった事例については誰しも聞き及んでいることでしょうし、前の記事で取り上げた本にも色々書いてあります。  

90歳になる私の母は、脳梗塞を3回、脳出血を一回起こし、そのたびに入退院を繰り返し、今寝たきりの状態(要介護5)で自宅介護を娘3人でやっています。
母には申し訳ない言い方ですが、「寝ていてくれる」ので、介護はとても楽です。介護ベッドも入浴も低負担でサービスが受けられますし、医師の往診もあるし、頼りがいのある看護士さんが「困った時はいつでも連絡してくださいね」とサポートしてくれます。
なにより、3人体制は心強いです。
入院していた時より脈拍も血圧も安定しており、顔色もとても良いです。
私たちも安心です。
姉妹でお喋りなどしながら「楽しい介護」をしていると言えなくもありません。

でも、母はどうなのでしょうか。
目がほとんど見えません。耳は聞こえますが、話しかけてもほとんど反応がありません。

何を考えているのでしょう。
何も考えていないのでしょうか。
もし、理性的に何かを考えられるとしたら、「こんな状態は死ぬより辛い」と思っているかもしれません。
母は元気な時から、折にふれて「絶対にああいう状態(寝たきり)にだけはしないでね」「ただむやみに生きながらえさせるということだけはしないでね」と、何度も言っていたのにもかかわらず、その願いを聞いてあげることができなかったのです。

母は時々涙を流します。
目が痛いだけなのかもしれませんので、目薬は差しますが、もしかしたらそうじゃないのかもしれません。悲しいのかもしれません。辛いのかもしれません。

つまり、本人の望みに関係なく、周りの善意が当の本人を不幸にしている、しかも、その不幸を取り除くことは絶対にできない、という皮肉な構図が出来上がっているとも言えます。

そういったことはこの世界中で数限りなく起こっていることでしょう。

それでも私たちは要介護者を、できるだけ快適に過ごせるよう考え努力します。

私たちのオムツを取り替えてくれた母を、今度は私たちが恩返しをしているだけのことなので、迷惑でもなんでもありません。

でも、もし私が母のような立場になったとしても、私は子供たちに同じことをしてほしくはありません。それは迷惑をかけて申し訳ないからではなく、そういう状態を自分が望まない、ただそれだけです。

たとえ、最新鋭の介護ロボットによっていたれりつくせりの世話をしてもらえるとしても、そしてエネルギー革命が起こってそういう作業にコストがかからなくなったとしても、そして介護保険医療保険のお金がたっぷりあったとしても、です。

私たちはきっと、「長い間よく面倒をみた。母もきっと喜んでくれているだろう。介護は満点だった」と満足しながら、母を送ることになるのでしょう。

でも実はその満足は決して母の満足ではないかもしれないのです。

こんなに長い間我慢をさせてほんとうにごめんなさい、と言うべきなのかもしれません。

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さあ、みなさん、ゴールデンウィーク残りの4連休、できる範囲で思い切り遊んできてくださいね!

     
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2008年5月 1日 (木)

品格ある国家

おそらく北朝鮮の国民は幼い頃から、「賢い子」になるよう「強い子」になるよう「素直な子」になるよう育成されるのでしょうね。

  変な国 聖火が無事に 進んでる

昨日、ラジオで耳にした聴取者から寄せられた川柳ですが、言うまでもなく、北朝鮮に入った聖火が、妨害も受けず、何の騒ぎも巻き起こさず、整然と進むさまを表現したものです。

長野では、日本政府にも聖火ランナーにも現場の警察官にも、それぞれの思惑があったでしょうが、沿道では人権弾圧に抗議したり、同調して批判の声をあげる人がいたり、車に箱乗りして赤い旗を振りまわす人がいたり、その騒動をみっともないと憂い顔で嘆く人もいたりして、日本はなんて健全で幸せな国なのだろうか、と感動しました。

北朝鮮という国では、国民全員冷静で賢明で、みっともない真似をすることなく、粛々と事が運ばれたようです。

「品格のある国家」とはこういう国をいうのでしょうかね。

           

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