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2008年6月30日 (月)

俺は弱者だ

産経新聞の曽野綾子さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」の6/27付「弱点を武器にする弱者たち」に、こうあります;

≪ 高齢者が高齢だということを資格のように考えて要求する姿勢もあさましい。≫

≪ ___ある生活保護受給者は、働かずにいつも酒を飲んでいる。市役所の職員の一人は、生活保護を受けている人ほど窓口で威張ると私に打ち明けた。ホームレスだけが、市民が住むことを許されない景色のいい河川敷に無料でテントを張れる。「僕にはできない」「私は金がないんだ」「おれは病気なんだ」という言葉は弱者のものではなく、最高に強いものとなった。それが社会的資格であり、武器になりえることを戦後教育は教えた。≫

私も、「私には向かない」「私にはそんな能力はない」と謙遜のような開き直りのような言い訳を自分自身に向けてつぶやきがちですが、このような喝によって時々目覚めます。

もっとも私は権利意識は極めて弱く、自分自身のことに関しては、なるようになるとしか思っていませんが。

この曽野さんのような意見に激しく反発する人々もいますね。例えばある掲示板でこんなの見ました;

≪ 産経新聞の『小さな親切大きなお世話』に寄せた6月27日の曽野綾子の記事は、作家の記事とは思えないほどタイトルから外れた内容である。
最近の事件や社会現象を取り上げて、そもそも日本には真の弱者はいないんだ、なにを贅沢なこと言っているんだといわんばかりの内容である。
そもそも貧困とは何かの考察もなく、『貧しい国々の人は金がなければ飢え死にするか、薬が買えずに死ぬ』という見識、『生活保護を受けている人ほど威張る』等という引用にはあきれて物が言えない。
大国の政治的経済的エゴが抗争を生み、殺されているのであり、生保の窓口で正当な権利を主張すれば威張っていると言われる現実を知らない。
一方的に強者の視点でしか物事を見れないあきれた作家である。少なくてもあなたは物書きなのだから追い詰められた弱者の立場を忘れてはいけない。≫

こういうのを「弱者に優しい視点」というのでしょうか。
たしかに「優しいことは良いこと」なのですが、その優しさを適切に発揮したいものであります。
「大国の政治的経済的エゴ」と、個人の覚悟の問題を一緒くたに論じてはいけないでしょう。

________________

ところで、この曽野さんのコラムでは、世代間の争いが取り上げられていて;

≪ ______最近では弱者こそ強いのだと思わざるを得ない例が多くなった。孫が祖父母を殺す事件が最近目立つが、それは若くても精神力の弱い孫が、肉体的にには弱くても自立している祖父母を殺すのである。≫

これはkakuさんのご指摘による少子高齢化社会がもたらす害悪を示唆しているような気がします。

        

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2008年6月25日 (水)

こうなったら数で勝負するかぁ

前記事にkakuさんからコメントをいただき、長くなってしまったので、記事にします。

>「少子高齢化社会」と言うとあまりに漠としているのですが、言い換えれば社会の保守化、あるいは、この社会が、
「戦後復興を担った人々のための社会」にあまりにがんじがらめにされている、と言うことです。<

私は前に後期高齢者問題に関して、「高齢者の権利意識を少し引っ込めたらどうだ」というようなキツイ意見を書いたことがありますし、kakuさんのこのご意見には共感する部分もあります。
高齢者の医療や介護はどうでも良いというわけではありませんが、それとは別に「未来は若い人のものだ」と思っています。

高齢者の介護や医療に膨大なお金が使われて、その分、若者の利益が軽視されるようなことになれば、社会に活気がなくなります。

「老人は死ねというのか」と気勢をあげる高齢者のかたがたは、このことをいったいどうお考えなのでしょうか。
それはもちろん、これ以上負担が増えると本当に死んでしまう困窮を極めているかたがたもいらっしゃることでしょうが、そういうかたがたへの制度整備はしっかりしつつ、もっと何か知恵を出すことはできないのでしょうか。

聞くところによると、日本人の個人金融資産は1200兆円もあってその大半は高齢者によって占められているというじゃありませんか。
一部の金持ちだ、というけど、本当にそうなのでしょうか。

なんだか、貯めこんだ高齢者が、自分たちをもっと支えろと、青息吐息の若い世代を叱咤しているように見えてきます。

舛添厚労大臣がよく「天からお金が降ってくるわけじゃないんです」と言っていますが、お金がないのなら、無駄遣いをなくすのは言うまでもなく、あるところから出してもらうとか、消費税を上げるとかなんとか対策を考えなきゃいけないわけです。

「我々の負担が増えるのは嫌だ」とただ言ってるだけでは何の解決にもならないわけで、このところを、高齢者自身によく考えていただきたいなあと思います。

________________

>少子高齢化社会とは、当然ながら社会体制だけのことではありません。人々の心理に強い影響を及ぼします。例えば教育。<

>その「非経験者」と「卒業者=その記憶があまりに遠くなった人々」が主流たる社会では、「動物的」な存在は遠きにありては微笑ましいが、
すぐ傍にあるならば忌々しい存在と変わります。当然です。己さえ律せば自己完結出来る生活に慣れてしまえば、out of handな存在はその生活の脅威です。
そんな「脅威」を公共の場にのさばらせる者の責と律を求めたくもなるでしょう。<

周りの目を気にするあまり子育てが萎縮してしまうということはいつの世にもあることで、若い母親はみんな多かれ少なかれ経験していると思います。
「子どもはみんなで育てるもの」に書いた通りです。 

ただ、仰るように、『「非経験者」と「卒業者=その記憶があまりに遠くなった人々」が主流たる社会』という未曾有の事態を迎えている今、その圧力たるや、きっと私の想像を絶するものなのかもしれません。

子どもらしい嬌声や走り回る光景を好ましいと思う人と、それをうるさいと感じる人がいる。
私は前者なのですが、度を越している場合には、眉をひそめる人もいて不思議はないだろうなとは思います。

静かにするべき場所(例えば劇場とか図書館とか)で騒がれると迷惑でしょうが、電車内で騒いだからといって怒らなくてもいいじゃないかと私は思いますけど。 人の感じ方はそれぞれですが、もう少し寛容になってほしいものです。ただ、このことはあまり年齢に関係ないかなと思います。若くてもキッと睨む人もいますし、年寄りでも気にしない人もいます。

「子どもが忌避される時代」(本田和子)という本をご存知でしょうか。

私はこの本を読んでいませんが、題名を見ただけで、どのようなことが書かれてあるのか、だいたい想像できます。いえ、私の想像とは違っていても、今、たしかに「子どもが忌避される時代」「子どもは自分の生活にとって邪魔な時代」、そういうことなのだと思います。

それは、母子を取り巻く環境がそうだ、というばかりでなく、母親自身がそのような負い目を持ちつつ、日々懊悩する時代なのかもしれないと思います。

_________________________

私は、「彼の事情2」のコメント欄 で、≪「彼の気持ちはわかる」ということは、自分もそれをしたかもしれない、ということで、そういう人が少なからずいるというのであれば、これはもう派遣工だとか不景気だとか小泉改革の間違いとかの問題なんかではなくて何か別の深刻な問題が起こっていると考えるのが妥当だと思います。≫ と書きました。
そしてkakuさんが仰るようにそれが何であるかをみんなで考えることは必要だと思います。
思いますが、それが何であるか、実はみんなもうわかっていることではないのかなとは思います。つまり「歪んだ豊かさ」でしょう。
少子高齢化とか、女性の目覚めとか、父権の失墜、父性の欠如とか、機械文明の発達だとか、経済グローバリズムだとか、自由の謳歌だとか、先進国が到達し獲得したものが今度は自分自身の首を絞めているということでしょうね。

だけど、もう昔に戻ることはできないし、第一、昔だって、もっと不幸なことはたくさんあったわけで、今の世の中のほうがずうっとましだ、とも言えます。

ですから私は、例えば秋葉原の事件や宮崎勤の事件など、特殊な例を持ってきて、ほら、だから今の世の中は間違ってる、などと決め付けるのはどうかなと思うわけです。
たいていの親は悩みながら迷いながら子育てし、それでも困難を乗り越えてきているのです。昔も今も。

出産/育児/教育は本来「動物的」である、とkakuさんは喝破なさいました。

同感です。

どんなに社会が荒んでも、生きにくくても、「基本の」動物としての母性を守るかぎり、子どもは大丈夫だと私は思います。

女優の工藤夕貴さんの言葉に感激したので紹介します。→ http://www.zakzak.co.jp/people/archive/20080624.html

「いまは、『お母さん』であるよりもまず『女性』として素敵じゃなかったらダメという風潮。お母さんという生き方を推奨していないんですよ」

私のような年配者が言うと、「あーまたか」と思われますが、彼女のような若く元気な女性が言うと、とても新鮮な感じもしますし、衝撃的でありさえします。

「いいお母さんがいないといい子が育たず、いい国にならない」、こういう言葉まで出てくるとはなんとも頼もしいじゃありませんか。

「母」が全ての土台です・・・・・、なんていうとまた、「ううっ、すごいプレッシャーがぁ・・・」と、負担に感じるかもしれませんが、「いいお母さん」というのは何も完全無欠な子育てをするお母さんということではないですよ。

たまにヒス起こして感情的になっても、翌日には機嫌直してご飯作ってくれるお母さん、お料理下手でも、子どもと一緒にマクドナルド楽しく食べてくれるお母さん、進路について一緒に悩んでくれるお母さん、お父さんの悪口言わないお母さん、そういうのって、そんなに難しいことじゃないと思うんですけどねえ。

政治よりなにより、実はこのことが最も重要だと私は思ってるんです。

_____________________

>さあ、私達はどうすれば良いのでしょうか。…うむ、出産適齢期の皆さん、あともう人!頑張って主流派目指そうではありませんか!ぐらいしか…<

若いみなさん、「動物的に」数で勝負するのも一計かもしれませんよ。
ずっと前、こんなこと書いたの思い出しました。

「私は子どもの数が多いだけでその社会は健全なんじゃないかなあ、となんとなく思います。」   →「子どもの数」  

     
       

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2008年6月22日 (日)

愛情のかけらもない

私は前々回、親をあまり責めるのはいかがなものか、と書きました。 → http://robita-48.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_5e21.html

でも、産経新聞の花田紀凱氏のコラム「週刊誌ウォッチング」を読んで、加藤容疑者の母親の責任は重大だと思いました。

このコラムは週刊誌の読み比べをやっているのですが、その中で花田氏は「容疑者の弟に取材した週刊現代の記事は大スクープだ」として、記事の一部を紹介しています。

事件当夜に、勤務先の会社を辞めた実弟の告白;

≪ 食事の途中で母が突然アレに激昂し(弟は兄を「アレ」と呼んでいます、廊下に新聞紙を敷き始め、その上にご飯や味噌汁などその日の食事を全部ばらまいて、「そこで食べなさい!」と言い放ったんです。アレは泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べていました。≫

これは一部なので、他にどんなことが書かれているのかはわかりませんが、これだけでも、我が子に対する態度とはとても思えません。
愛情のかけらもない。
日常的にこんな扱いを受けていたとしたら、子供の心が壊れないわけがありません。

この親はいったい人の心を持っているのかとさえ思ってしまいます。
こんな親のもとに生まれた子供こそ不幸です。
この親もきっと自分の親から愛情を受けなかったのだろうと思いますが、まさに、愛の欠如の連鎖です。

親を選べないこうした子供を、地域や学校で温かく包むことが必要だと痛感する次第です。

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2008年6月17日 (火)

犯罪少年の親

これも昔から思っていることですが;

例えば少年犯罪には大きく分けて二つのタイプがあると思います。

一つは、「真面目で大人しかった少年が残虐なことをする」。これは必ず単独犯です。
もう一つは、いわゆる「札付き」で、「あいつならやりかねない」と思われるような「ワル」の犯罪。複数でやることも多いです。

悪質な少年犯罪について語る時、「親の育て方」が批判されますが、これらの親の育て方には大きな違いがあると思います。

前者は、前記事で書いたように、親は一生懸命に子育てをしています。こんなに本人のために尽くしているのに何故と、訳がわからないに違いありません。

後者の場合は、きっと「放任」であると思います。
子供を一人前に育てようという意思などさらさらないことでしょう。
こういう親は、子供の犯罪に対しても親としての反省の気持ちがないことが多いように見受けられます。

両者とも、子供に対する慈しみの心が欠けているのは共通しているとは思いますが、私は、後者の責任を厳しく問いたい気持ちはあっても、前者をあまり責める気持ちにはならないのです。
自分たちの息子がまさかこのようなモンスターに変身するとは予想だにしなかったであろうことを思うと、何か哀れにさえ思えてきます。

      
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2008年6月16日 (月)

彼の事情3---両親---

秋葉原の無差別殺傷事件についてもう一つ言いたいことがあります。

彼がこういうこと事件を起こしたのは両親の育て方のせいだと言う人もいます。
でも、私はそうは思わないのです。

昔からの持論を書かせていただくと;

この両親が厳しかっただとか息子に愛情を持っていなかっただとか言われているようですが、そんな親は珍しくありません。

良い学校に入れたいから、幸せな人生を歩ませたいからと、多くの親が子供の尻を叩いて勉強をさせます。

厳しくしたからといって、自分の子供がこんなだいそれた罪を犯すなんて誰が予想できるでしょうか。はたから見てると子供が可哀想になるくらい厳しい親なんていくらでもいます。

子供に愛情を持てない親だってたくさんいます。

子を愛さない親はいない、なんて嘘だということは誰でもわかっています。

確かに、親に子供を慈しむ気持ちがあれば何があっても子供は大丈夫、と私は信じていますし、この犯人だって、愛情で包まれていればこんな人間にはならなかったと思います。

でも、子供を愛さないのがいけない、と言われても、「愛」はマニュアルではありません。愛を感じなければそれは仕方がないと言うしかありません。

この両親だって、自分たちの親から充分な愛を受けなかったのかもしれません。

マスコミに晒され、謝罪をする父親、あまりのことに立っていられずへたり込んでしまった母親の様子に、胸が苦しくなるほどでした。

どうか両親をこれ以上責めないでほしいと思うのです。

        

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2008年6月14日 (土)

彼の事情2

物事が自分の思い通りにならないと人はイライラする。
不景気な世の中では人は暗くなり、不満を腹にためる。

イラつき、ムカついて、
悪口を言ったり、些細なことで喧嘩をしたり、
少しでも得をしようとずるいことをしたりする。

そんなことは誰でも知っているし、
あらためて言うまでもない。

しかし、秋葉原で起きたような大量殺人を、
「派遣労働者の不満の象徴的現象」ととらえるのは間違っている。

これは明らかな異常行動であり、政治の不手際とは別の問題である。
 
派遣労働者に聞いてみると良い、
「自分たちの苦しみを代弁してくれたと思いますか」と。
「よくやってくれたと思いますか」と。

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2008年6月12日 (木)

彼の事情

秋葉原で殺傷された人たちが可哀想でならない。
痛かっただろう。苦しかっただろう。
遺族のかたがたの苦しみは、これからもずっと続く。
重傷を負われたかたがたの容態はどうだろうか。

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以前、太田光の政治討論番組で少年犯罪厳罰化を取り上げた時のこと。

何人かの卑劣な少年たちが
一人の少年をよってたかって殴り殺した事件について、
被害者の母親が番組内で厳罰化を訴えた。

厳罰化反対派の民主党議員が
「(犯人の)少年たちの側にも事情があって・・」と言った時、
「事情って何ですか」と、その母親が議員の顔をまっすぐに見据えた。

議員は、たじろぎ、しどろもどろになり、きちんとした説明ができなかった。

「犯人の少年たちは生育環境が悪く」とか
「政治がうまく機能していないから教育現場が混乱して」
とか言いたかったのだろうが、

息子をなぶり殺しにされた親にとっては、
犯人の事情など知ったことではない。

犯罪者の事情は酌量の余地のあるものとないものがある。

だいたい、
「不安定な社会」や「悪い生育環境」なんか、いつだってあった。

もっと言えば、
誰もが満足するユートピアなどできたためしはないのだから、
不満を抱える多くの人間はいつでも存在する。

犯罪のきっかけなんてどこにでもころがっているし、
犯罪者にとっては何だってきっかけになり得る。

できるだけ人々が幸せに近づくよう、
世の中のみんなで考えなくてはいけない。
弱い人は助けてあげなくてはいけない。
社会にはそういう責任がある。

だけど、そのことと、犯罪者個人の行動は別の問題だ。

それでも、社会が彼をこんなにした、それが最も大きな原因だと
あくまでも言い張るのなら、
法律もいらないし、犯罪の検証ももうやめたらいいのである。

共産党の志位和夫委員長が、
「こういう犯罪の責任を社会に転嫁してはならないと思います。
派遣社員の件は、それとは別に考えるべきことです」
とラジオで言っていた。

真っ当な意見であると思った。

     

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2008年6月 9日 (月)

「もやしもん」

「もやしもん」(石川雅之)という漫画が面白いです。

農業大学新入生が、わけのわからないうちに謎の老教授の実質的ゼミ生として囲い込まれ、実習つきの学問を修得していくというお話です。
地球上のあらゆる場所に存在する菌たちが繁栄を目的として、他の菌族と戦い、醸し、勢力を拡大する、そんな分野を漫画にしてしまう作者の独特の感性とユーモアのセンス、そしてなにげない「教訓」が好ましい。
なにかというと「かもすぞ」とつぶやくようにざわめく菌たちに、昔から化学合成物質より菌のほうを許容する傾向がある私は親近感を覚えます。

single40さんは、セイタカアワダチソウとススキの戦いを話題になさいました。我がニッポン古来種のしぶとさが頼もしいですね。

みんな生き残るためにけなげに戦っているんですね。

翻って、人類は物理的な身の痛みに加えて、心の痛みという高度な感覚を持ってしまったがために、戦ってはいけない種族になってしまいました。

この生き残りのための戦いというのは、異種間でも同種間でも行われますが、高度に進化した生き物ほど、同種間で争うようになるのでしょうか。

いわゆる雑菌といわれるものと例えば乳酸菌などは異種だし、セイタカアワダチソウとススキも異種なので戦って当然という気はしますが、猿とか犬ぐらいになると同種間で縄張り争いを起こします。

言うまでもなく、人類も同種で争います。

夫婦でさえ同じ家の中で縄張り争いをするようです。

でも、セイタカアワダチソウ同士では争わないんでしょうね。

というか、異種間の戦いと同種間の戦いは意味が違うのかもしれません。

こういう分野でも私は知識がないのでどなたかに教えていただきたいです。

それはさておき、

「もやしもん」とか「蔵人」などの醸し系漫画を読んでいると、正しく醸した日本酒はどうやら相当おいしいらしいことが伝わってきます。
日本酒の味など皆目わからない私でも、じっくり飲み比べてみたくなります。

「日本人なら日本酒を飲め」と言うべきでしょうか。

ついでに言っちゃおうか、「日本人なら米を食え!」

          

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2008年6月 6日 (金)

平和への道

昔も今も、政府の責務は国民を「食べさせていく」ことです。
先の大戦当時の政府もそれを第一義としていたことでしょう。

やむにやまれぬ戦いであったなら、60年70年後の私たちが、その時代に生きてもいなかったくせに、その先祖の選択を非難する権利が果たしてあるのだろうかと私はいつも疑っています。

政府の方針は戦いに打って出ることであり、そしてそれを後押ししたのは世論と呼応したジャーナリズムでした。民意が反映されているとも言えます。世界情勢の情報が普通の国民にはなかったということかもしれませんが、そういうことも含めて政府の方針を疑うことをしなかった国民の選択だったとも言えます。

私には教養も知識もありません。国家の危機に際して、どの知識人がどんな説を主張していたのかもほとんど知りません。

「一貫して戦争に反対していた」という知識人は、政府にどうしろ、という提案はしていたのでしょうか。
していたのならそれは日本国としてどのような行く末を想定するものだったのでしょうか。

「戦争は反対」ということなら誰にでも言えます。私だって言えます。しかし、

あの当時、世界で生き抜こうとして戦った先祖たちがいた。その死ぬか生きるかの気迫を、安全地帯から貶めるようなことは私には言えません。

沢山の人が死んだ、戦争は悲惨だ、戦争は良くない、そんな言葉の羅列で国家の歴史と祖先を責め続けることに意味があるのでしょうか。

私たちがするべきことは、歴史となった過去の戦争を、未来永劫「誤りだった」と言い続け、その歴史の上に豊かな生活を享受していながら「祖先の愚行」と批判することでなく、未来に向けて、戦争を食い止める努力を続けていくことではないですか。

戦争の原因が、資源争奪や貧困、飢餓、つまり経済的理由にあって、その解決方法として世界的統制経済が必要だというなら、そうすればいいじゃありませんか。

でも当然のことながらほとんどの人はそれを望まないでしょうから、民主主義に従えばそれは実現しそうにありません。

何度か紹介していますが、「大人の言うことを聞きなさい!」(佐藤貴彦)の中の実にわかりやすい文章を再び貼り付けます。

≪ 貧しい国の子どもたちは「最善の利益」を受けるどころか、慢性的な飢餓に苦しみ、「生きる権利」すらあやしいのである。ところが一方、先進国では穀物が余りに余って、それを牛や豚にやって、その肉をムシャムシャ食っている。しかもそのうえ、日本に供給された食料のうちの20%以上は残飯として捨てている。さらにそのうえ、ブクブク太りすぎてダイエットまでやっているのである!
いやいや、私はこういうことにいちいち憤慨しているのではない。ヨーロッパや日本などの先進国が贅沢しているということ、そのこと自体を非難するつもりなんてさらさらない。なぜなら、これは理念やイデオロギーの問題ではなくて、経済の問題であるからである。世界経済の上では、食糧というものは、自動車やパソコンと同じく、ひとつの商品であるにすぎない。それがいかに生命の維持のために必要不可欠なものであろうとも、購買力のないところには供給されないし、逆にカネのあるところにはいくらでも過剰に供給される。したがって、いかに穀物が豊富であろうとも、それは貧しい国の子どもたちの口には入らず、先進国の牛や豚のエサになる、ということが起こりうるのである。

したがって、この問題を根本的に解決するためには、少なくとも食糧の供給に関しては、経済構造を根本的に改めるしかない。すなわち、食糧にかぎっては商品流通とすることを止め、完全な配給制として国連の監視下に置き、世界中に平等に分配する。こうでもしないかぎり、第三世界の子どもの飢餓は絶対になくならない。
しかしながら、国連でそうした提案がなされることはない。なぜか。その理由は明白である。「第三世界の飢えた子どもたちのために、自分たちの食生活の贅沢をあきらめるつもりはない」というのが、先進国の人々のホンネだからである。__中略__ 自分は毎日肉をムシャムシャ食いながら、第三世界の悲惨な状態を嘆いているつもりになっているのだ。 ≫

極端な表現だとは思いますが、人間の本質をついていると思います。

社会主義思想の持ち主ですら世界的統制経済の提案を口にしないところに、人間の腰抜けぶりが表れているではありませんか。

こんな人間、いったいどうしたらいいんでしょうか。

私は、科学技術の発達は人類の平等な幸せへの道を拓くと思っていますので、技術開発にお金を惜しまないことと、子供たちの科学教育に力を注ぐことが、人類の幸せへの現実的な手段であると思います。

しかし、戦争の原因が、民族の誇りだとか宗教である場合はもうお手上げです。(私は実のところ、これらの問題もやはりおおもとの原因をたどれば経済的なことに行き着くのではないかと想像しておりますが)

その場合はやはり宇宙人来襲に期待するしかありません。

因みに言わせてもらえば、護憲改憲の問題は「平和実現への手段」ではなく、日本が国際社会でどういう立場をとったら最も国益にかなうか、そういう問題だと思いますので、これをいくら議論しても平和に近づくわけではない、そう考えております。

     
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この記事は一知半解男さんのこちらの記事にTBさせていただいております。 →  http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-74.html

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2008年6月 3日 (火)

河は流れる

マルクスや丸山真男も読まずに政治を論ずる頭の悪い者ども、といった描写をあるブログでみかけました。
たぶん2ちゃんねるという掲示板でのお行儀の悪い人たちの書き込みのことを仰っているのでしょう。
2ちゃんねるは読みにくくほとんど内容が理解できないので、当ブログへの足跡をたどる以外見ることはありませんが、目に余るものがあるのだと思います。

でも、2ちゃんねるならずとも、政治学経済学を専門的に勉強したわけでもない多くの真面目なブロガーたちが、毎日のように政治を語り論じ合っています。

政治ブロガーがそうなら、なおのこと普通の庶民はマルクスも丸山真男も知らないでしょう。私も知りませんし。

だったら彼らは政治を語ってはいけないということになるし、選挙権の行使もなんだか無意味なものに思えてきます。

それは結局「国民のレベル以上の政治は期待できない」ということになるのでしょうが、私は、一昨日の産経新聞「昭和正論座」(田中美知太郎)を読んで、国民はこういうことさえわかっていればいいのだ、と思いました。

件のブロガーは「政治を語るならマルクスや丸山真男は必修科目だ」と書いておられますが、庶民にそんな暇はありませんので、私などが思いますに、普通の人は、国家と国民の関係といいますか、民主制のおおざっぱな構図を理解し、報道番組などの解説やコメントを参考にし、あとはもう政治家の「好き嫌い」で政治を語ったり投票に行ったりするだけで充分だろうと思います。
テレビ等の軽いコメントや政治家に対する好悪感情で自分の政治的立場を決めるとは何ごとか!と激怒なさるかたもおられるとは思いますが、まあそれが庶民というものだろうと思います。知的で品格があって政治問題に詳しく流行に左右されない毅然とした人間は、そういるものではない。自分自身も含めてまわりでもほとんど見たことありません。

さて、田中美知太郎、長い論文ですが、国家と国民の関係がわかりやすく書かれていると思いますので、できるだけ多くのかたがたに読んでいただきたく、頑張って入力いたします。

     ≪“弱い政府”のために≫(昭和48年9月3日)

【 全体主義国家においては政府はむやみに強いが、民主国家や自由社会においては、政府がむやみに弱いように思われる。
  これは当たり前の話で、弱い政府では全体主義国家は成り立たないだろうし、政府がやたらに強いと民主制や自由社会ではないことになってしまうだろう。
  
  しかし全体主義国家といえども、ただ一方的に政府が何ごとも強行するというのでは、人心が離反して、かえって危険であるから、ひろく人民の求めることを察知し、これを政府の施策に取り入れる努力をしなければならなくなる。
  かれらは自由主義を敵視し、これを恐れるけれども、自由のないことがかれらの体制の弱点であり、そこをつかれることは、非常な痛手となることを内心において承知しているのである。
  これに反して、民主主義国家や自由社会においては、政府の弱いことが致命的な痛手となることを、わたしたちは果たしてよく知っているだろうか。  
   
  例えば、大地震その他によって社会的な混乱が起こったとしたらいったいどうなるだろうか。
  避難訓練とか、火災防止の用意とか、あるいは食料品その他の備蓄ということが行われているが、その場合の訓練ひとつにしても、弱い政府が、どこまでこれを徹底的に行うことができるか疑問である。
  
  また実際に混乱が生じた場合、暴行略奪などに対しては無論のこと、集団的に多数の人を移動させたり、退避させたり、あるいは手持ち品の量を制限したり、車の通行を変更したりするのに、どうしても強い処置が必要になってくる。けれども、弱い政府にそれができるかどうか。
  
  第二次世界大戦でフランスは簡単に負けてしまったが、これについてアンドレ・モロアの「フランス破れたり」のなかに、次のようなことがいわれていたのを思い出す。
  当時のフランスは、いわゆる人民戦線の勝利で「自由をわれらに」のスローガンがものをいう時代であったから、政府の統制力は非常に弱かった。
  ところが、隣国のドイツはヒューラー(指導者)ヒトラーの強い政府が、絶対の権威をもって国民を指導していて、戦争準備も完成し、いわゆる電撃作戦によってフランス自慢の要塞マジノ線を突破し、フランス国内に侵入してきた。
  
  これに対するためフランス側も、また強い政府をもたねばならなかったが、急ごしらえの強い政府では、なかなかうまく事がはこばなかった。
  報道の管制ひとつにしても、報道の自由になれていた新聞は、なかなか政府のいうことを聞かず、秘密がドイツ側にもれたり、間違った報道が人心を惑わすだけであった。
  
  パリが危なくなると、市民たちは家財をつんだ車で、われ先に避難を始めたから、公道の交通は全く途絶してしまい、軍隊や物資の輸送も移動も不可能になってしまった。
  たまりかねた政府は、軍命令をもって公道をふさぐ人も車も、機関銃で掃射すると布告して、どうやら道をあけることができた。
  
  大混乱の際には、このような強い処置も必要になってくるだろうし、そうしなければ混乱はますますひどくなり、いわゆる住民のエゴがぶつかりあって、とんでもないことになるかも知れない。
  むろんこれは非常の時のことであって、平和の時にも強い政府が必要だということにはならない。
  弱い政府の下にあっても、それが弱いながらに有効にはたらく道をつくっておくことは、非常の時の備えにもなるし、自由社会が自由社会のままで存続するためにも、是非とも必要なのである。
  
  個人の自由と権利が幅ひろく認められていることは、自由社会と民主制国家の長所であるが、その長所がまた弱点ともなるわけで、さきのフランスの例にもみられるように、それが非常の時に暴露されたりするわけである。
  そこをうまく補強しておかないと、その一角から自由社会は崩壊し、わたしたちは逆の強い政府の下に奴隷の生活を余儀なくされるようなことになるだろう。
  これを防ぐにはどうすればいいのか。
  問題のむずかしさは、弱い政府を結果するような自由の条件を保持しながら、有効な指導とこれに対する信頼や服従が可能になるような方法を考えることの困難さにあるといえるかも知れない。
  私にも特別の妙案があるわけではないが、若干考えられることがないではない。
  
  一つは、弱い政府をますます弱くするような愚をできるだけ避けること____それには一方的な自由や民主化の要求に対して、むしろ警戒的でなければならない。
  強い政府に対しては、自由の要求は多くの場合「正義と善」を代表すると言えるかもしれない。
  しかし、弱い政府に対する自由の要求が同じような正当性をもつかどうかは疑問である。
  強い政府に対する厳しい批判は、ほとんど不可能であるが、それだけに正論となるものを多分にもつということができるだろう。
  
  しかし弱い政府に対する居丈高の強文句は、むしろ弱虫の弱いものいじめを思わせ、強い政府になればたちまち阿諛追従するような裏面がすすけて見えるものばかりである。
  その中にどれだけの正当性が含まれているのだろうか。
  むろん部分的には正論となるものも含まれているだろうが、全体的なバランスから考えると“角を矯めて牛を殺す”類の不当さのまさる場合が少なくないのではないか。
  
  自由社会あるいは民主制国家における正しい世論のあり方としては、多数党をバックにして政府が行おうとすることに理解をもつことが第一であろう。
  そして部分的なあやまりと考えられるものに対しては、正面から堂々の批判を加えるべきであろう。
  その批判は、また他の政府批判や政府攻撃のあやまりに対しても同じ厳しさをもって展開されなければならない。
  
  わが国では反権力、反体制、反政府というようなものが、一義的に正しい態度であるとするようなムードがあり、デモ騒ぎで学生が死んだりすると大騒ぎをするけれども、警官が殺されても当たり前のことのように考えられたりする。
  これは欧米諸国とは正反対だといわれている。
  弱い政府をもつ自由社会、民主制国家においては、これらの諸外国の世論のあり方を正しいとしなければならないだろう。
  
  なんでも政府に賛成するとか、これに盲従するとかいうのではなく、自分たちの政府のすること、いうことに一応の理解をもっているほうが、条件反射的に反対するよりも、民主制や自由社会を存続発展させるうえで、りこうなやり方だといわなければならない。】

  

私たちの国はまぎれもなく民主主義国家なので、独裁的な権力者が国民に有無を言わさず政治を行っているわけではありません。

今の政治がおかしいと言って政府を非難し、この醜い政治を変えようとしない国民はなんと愚かなのだと憂えること、それはそれで一つの意見でありイライラ感の表れではあるのでしょうが、その憂国者が、私たち一般庶民に自分たちと同じ考え、同じ賢さを要求するのは無理難題と言うものです。

茨城大学准教授・磯田道史氏の新聞連載コラム「昔も今も」にこんな文章があります。

    ≪蓮月尼・米国歓迎した冷静な心≫(2007.12/15)

【 幕末、アメリカの黒船がやってきたとき、日本人は大騒ぎした。「強大なアメリカに襲われる。なんとかしてやっつけろ」。みんな、そう思った。一体、日本人は一方的に流されやすい。国中がすこぶる感情的になり、猫もしゃくしも「攘夷」を叫んだ。
 しかし、これを冷静に見つめ、アメリカの来航が「将来の日本にとって必ずしも悪いことではない」と予見したスーパーおばさんがいた。それが蓮月尼であった。
 京都に住む60過ぎのこの尼さんは別に外国事情に詳しいわけではなかった。ただ、土をこねて焼き物を作り、それが大評判を呼んでいた。その偽物が出回るほどの人ではあった。面白いことに、自分の偽作を作っている人を見つけても怒らない。「私の焼き物で食べられる人が増えるなら」と、かえって偽物を作る人を援助していた(『蓮月尼全集』】
 こういう無欲な人だったから、日本中がアメリカに目を怒らせていても「アメリカは来ただけで、まだ何も悪いことをしていない」という冷静な目がもてたらしい。
 蓮月尼は、次のような和歌を詠んでいる。「ふりくとも 春のあめりか 閑(のど)かにて 世のうるおいに ならんとすらん」
 今の言葉にすれば「アメリカがやって来た。でも春雨のようにのどか。かえって世の潤いになるのでは」という意味になる。】

世の中というものは大きな流れでみると実は一握りの権力者が舵をとっているというより、政治家でない普通の人々の素朴な思いの集積物ではないのかとよく思います。社会の総意が指導者を創り出しているのでしょうから、不満を持ったり批判をする時にはちょっとそのことを考えてみる必要がありそうです。
そして、生活者としての国民の動向が世の中の流れを左右することを知っているのは、社会主義思想の知識や論理構築作業で頭が満タンになった一部の憂国者たちでなく、社会の動き全体を俯瞰することのできる真の知識人と呼ばれるべき人々ではないだろうかと思います。

      
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