« どこで出会うの | トップページ | 平和への道 »

2008年6月 3日 (火)

河は流れる

「マルクスや丸山真男も読まずに政治を論ずる頭の悪い者ども」、といった描写をあるブログでみかけました。
たぶん2ちゃんねるという掲示板でのお行儀の悪い人たちの書き込みのことを仰っているのでしょう。

でも、2ちゃんねるならずとも、政治学経済学を専門的に勉強したわけでもない多くの真面目なブロガーたちが、毎日のように政治を語り論じ合っています。

政治ブロガーがそうなら、なおのこと普通の庶民はマルクスも丸山真男も知らないでしょう。私も知りませんし。

だったら庶民は政治を語ってはいけないということになるし、選挙権の行使もなんだか無意味なものに思えてきます。

それは結局「国民のレベル以上の政治は期待できない」ということになるのでしょうが、私は、一昨日の産経新聞「昭和正論座」(田中美知太郎)を読んで、国民はこういうことさえわかっていればいいのだ、と思いました。

 

件のブロガーは「政治を語るならマルクスや丸山真男は必修科目だ」と書いておられますが、庶民にそんな難しいものを読む暇はありませんので、私などが思いますに、普通の人は、国家と国民の関係といいますか、民主制のおおざっぱな構図を理解し、報道番組などの解説やコメントを参考にし、あとはもう政治家の「好き嫌い」で政治を語ったり投票に行ったりするだけで充分だろうと思います。
テレビ等の軽いコメントや政治家に対する好悪感情で自分の政治的立場を決めるとは何ごとか!と激怒なさるかたもおられるとは思いますが、まあそれが庶民というものだろうと思います。知的で品格があって政治問題に詳しく流行に左右されない毅然とした人間は、そういるものではない。自分自身も含めてまわりでもほとんど見たことありません。

 

さて、田中美知太郎、長い論文ですが、国家と国民の関係がわかりやすく書かれていると思います。

要するに、全体主義国(強い政府)と民主主義国(弱い政府)の対比ですが、自由民主主義をよりマシにしたいのならば、「弱い政府」をただ叩くのでなく、政府のやろうとしていることに一応の理解を持つことが必要だ、と言っています。

とても読みやすい文章ですので、全文載せました。↓


   ≪“弱い政府”のために≫(昭和48年9月3日)

≪全体主義国家においては政府はむやみに強いが、民主国家や自由社会においては、政府がむやみに弱いように思われる。

  これは当たり前の話で、弱い政府では全体主義国家は成り立たないだろうし、政府がやたらに強いと民主制や自由社会ではないことになってしまうだろう。
  
  しかし全体主義国家といえども、ただ一方的に政府が何ごとも強行するというのでは、人心が離反して、かえって危険であるから、ひろく人民の求めることを察知し、これを政府の施策に取り入れる努力をしなければならなくなる。
  かれらは自由主義を敵視し、これを恐れるけれども、自由のないことがかれらの体制の弱点であり、そこをつかれることは、非常な痛手となることを内心において承知しているのである。
  これに反して、民主主義国家や自由社会においては、政府の弱いことが致命的な痛手となることを、わたしたちは果たしてよく知っているだろうか。  
   
  例えば、大地震その他によって社会的な混乱が起こったとしたらいったいどうなるだろうか。
  避難訓練とか、火災防止の用意とか、あるいは食料品その他の備蓄ということが行われているが、その場合の訓練ひとつにしても、弱い政府が、どこまでこれを徹底的に行うことができるか疑問である。
  
  また実際に混乱が生じた場合、暴行略奪などに対しては無論のこと、集団的に多数の人を移動させたり、退避させたり、あるいは手持ち品の量を制限したり、車の通行を変更したりするのに、どうしても強い処置が必要になってくる。けれども、弱い政府にそれができるかどうか。
  
  第二次世界大戦でフランスは簡単に負けてしまったが、これについてアンドレ・モロアの「フランス破れたり」のなかに、次のようなことがいわれていたのを思い出す。
  当時のフランスは、いわゆる人民戦線の勝利で「自由をわれらに」のスローガンがものをいう時代であったから、政府の統制力は非常に弱かった。
  ところが、隣国のドイツはヒューラー(指導者)ヒトラーの強い政府が、絶対の権威をもって国民を指導していて、戦争準備も完成し、いわゆる電撃作戦によってフランス自慢の要塞マジノ線を突破し、フランス国内に侵入してきた。
  
  これに対するためフランス側も、また強い政府をもたねばならなかったが、急ごしらえの強い政府では、なかなかうまく事がはこばなかった。
  報道の管制ひとつにしても、報道の自由になれていた新聞は、なかなか政府のいうことを聞かず、秘密がドイツ側にもれたり、間違った報道が人心を惑わすだけであった。
  
  パリが危なくなると、市民たちは家財をつんだ車で、われ先に避難を始めたから、公道の交通は全く途絶してしまい、軍隊や物資の輸送も移動も不可能になってしまった。
  たまりかねた政府は、軍命令をもって公道をふさぐ人も車も、機関銃で掃射すると布告して、どうやら道をあけることができた。
  
  大混乱の際には、このような強い処置も必要になってくるだろうし、そうしなければ混乱はますますひどくなり、いわゆる住民のエゴがぶつかりあって、とんでもないことになるかも知れない。
  むろんこれは非常の時のことであって、平和の時にも強い政府が必要だということにはならない。
  弱い政府の下にあっても、それが弱いながらに有効にはたらく道をつくっておくことは、非常の時の備えにもなるし、自由社会が自由社会のままで存続するためにも、是非とも必要なのである。
  
  個人の自由と権利が幅ひろく認められていることは、自由社会と民主制国家の長所であるが、その長所がまた弱点ともなるわけで、さきのフランスの例にもみられるように、それが非常の時に暴露されたりするわけである。
  そこをうまく補強しておかないと、その一角から自由社会は崩壊し、わたしたちは逆の強い政府の下に奴隷の生活を余儀なくされるようなことになるだろう。
  これを防ぐにはどうすればいいのか。
  問題のむずかしさは、弱い政府を結果するような自由の条件を保持しながら、有効な指導とこれに対する信頼や服従が可能になるような方法を考えることの困難さにあるといえるかも知れない。
  私にも特別の妙案があるわけではないが、若干考えられることがないではない。
  
  一つは、弱い政府をますます弱くするような愚をできるだけ避けること____それには一方的な自由や民主化の要求に対して、むしろ警戒的でなければならない。
  強い政府に対しては、自由の要求は多くの場合「正義と善」を代表すると言えるかもしれない。
  しかし、弱い政府に対する自由の要求が同じような正当性をもつかどうかは疑問である。
  強い政府に対する厳しい批判は、ほとんど不可能であるが、それだけに正論となるものを多分にもつということができるだろう。
  
  しかし弱い政府に対する居丈高の強文句は、むしろ弱虫の弱いものいじめを思わせ、強い政府になればたちまち阿諛追従するような裏面がすすけて見えるものばかりである。
  その中にどれだけの正当性が含まれているのだろうか。
  むろん部分的には正論となるものも含まれているだろうが、全体的なバランスから考えると“角を矯めて牛を殺す”類の不当さのまさる場合が少なくないのではないか。
  
  自由社会あるいは民主制国家における正しい世論のあり方としては、多数党をバックにして政府が行おうとすることに理解をもつことが第一であろう。
  そして部分的なあやまりと考えられるものに対しては、正面から堂々の批判を加えるべきであろう。
  その批判は、また他の政府批判や政府攻撃のあやまりに対しても同じ厳しさをもって展開されなければならない。
  
  わが国では反権力、反体制、反政府というようなものが、一義的に正しい態度であるとするようなムードがあり、デモ騒ぎで学生が死んだりすると大騒ぎをするけれども、警官が殺されても当たり前のことのように考えられたりする。
  これは欧米諸国とは正反対だといわれている。
  弱い政府をもつ自由社会、民主制国家においては、これらの諸外国の世論のあり方を正しいとしなければならないだろう。
  
  なんでも政府に賛成するとか、これに盲従するとかいうのではなく、自分たちの政府のすること、いうことに一応の理解をもっているほうが、条件反射的に反対するよりも、民主制や自由社会を存続発展させるうえで、りこうなやり方だといわなければならない。≫

  

 

私たちの国はまぎれもなく民主主義国家なので、独裁的な権力者が国民に有無を言わさず政治を行っているわけではありません。

今の政治がおかしいと言って政府を非難し、この醜い政治を変えようとしない国民はなんと愚かなのだと憂えること、それはそれで一つの意見でありイライラ感の表れではあるのでしょうが、その憂国者が、私たち一般庶民に自分たちと同じ考え、同じ賢さを要求するのは無理難題と言うものです。

茨城大学准教授・磯田道史氏の新聞連載コラム「昔も今も」にこんな文章があります。

 

    ≪蓮月尼・米国歓迎した冷静な心≫(2007.12/15)

≪ 幕末、アメリカの黒船がやってきたとき、日本人は大騒ぎした。「強大なアメリカに襲われる。なんとかしてやっつけろ」。みんな、そう思った。一体、日本人は一方的に流されやすい。国中がすこぶる感情的になり、猫もしゃくしも「攘夷」を叫んだ。

 しかし、これを冷静に見つめ、アメリカの来航が「将来の日本にとって必ずしも悪いことではない」と予見したスーパーおばさんがいた。それが蓮月尼であった。
 京都に住む60過ぎのこの尼さんは別に外国事情に詳しいわけではなかった。ただ、土をこねて焼き物を作り、それが大評判を呼んでいた。その偽物が出回るほどの人ではあった。面白いことに、自分の偽作を作っている人を見つけても怒らない。「私の焼き物で食べられる人が増えるなら」と、かえって偽物を作る人を援助していた(『蓮月尼全集』】
 こういう無欲な人だったから、日本中がアメリカに目を怒らせていても「アメリカは来ただけで、まだ何も悪いことをしていない」という冷静な目がもてたらしい。
 蓮月尼は、次のような和歌を詠んでいる。「ふりくとも 春のあめりか 閑(のど)かにて 世のうるおいに ならんとすらん」
 今の言葉にすれば「アメリカがやって来た。でも春雨のようにのどか。かえって世の潤いになるのでは」という意味になる。≫

 

世の中というものは大きな流れでみると実は一握りの権力者やそれに強硬に対抗する勢力のせめぎ合いで動いているというより、政治家でない普通の人々の素朴な思いの集積物ではないのかとよく思います。社会の総意が指導者を創り出しているのでしょうから、不満を持ったり批判をする時にはちょっとそのことを考えてみる必要がありそうです。
そして、生活者としての国民の動向が世の中の流れを左右することを知っているのは、社会主義思想の知識や論理構築作業で頭が満タンになった一部の憂国者たちでなく、社会の動き全体を俯瞰することのできる真の知識人と呼ばれるべき人々ではないだろうかと思います。

 

      いつもありがとうございます →人気ブログランキング  

|

« どこで出会うの | トップページ | 平和への道 »

コメント

“一握りの権力者”
が、政治家であったり、企業家であったり、
“個”
であるうちは、まだ「ありかな?」と私は思う。
“個の集団”
は、それぞれの個が独立しているものであれば、
仕方ないことなのだ、とも思う。

だけど、今の日本。
“報道”
と言う名の下で、世論を作っている気がしてならない。
“郵政民営化”、“後期高齢者関係”、“年金問題”…
賛成も反対も、その流れを一部の報道で決められている気がします。
“たくさんの情報が流れ、選択できる状況であるにもかかわらず”
なのに。
“報道規制”にはメディアは猛反発するのに、
“情報操作”にはメディアは反発しないのは、
なぜでしょう?
警察の方が殺されようが、警察の方が誰かを殺そうが、
ひとつの命がなくなったことに変わりないのにね。

“政治家”であれ、“報道”であれ、
各“個”の代表であったり、“個の集団”の思いであったり、
するはずなのに、と私は思う。


“個”をしっかり身につけていきたいな
と、一庶民の私は思うのです。

投稿: さじった | 2008年6月 3日 (火) 19時09分

さじったサンの意見に賛同です。
そして昨今は、環境保護、エコ、の連呼です。
こんな風に、かつては大政翼賛や、八紘一宇と連日報道され、一億総動員という風潮になっていったのでは、と想像したりします。
医療の分野でも、法曹の分野でも、マスコミから伝わってくるところは、その分野の人に言わせると隔靴掻痒。なのにマスコミで繰り返されると、国民は一団となって馴らされてしまう、
ー“個”をしっかり身につけてー生きていくことを心しないと、とそう思っています。

投稿: 街中の案山子 | 2008年6月 4日 (水) 05時50分

★さじったさん、

>だけど、今の日本。
“報道”
と言う名の下で、世論を作っている気がしてならない。<

マスコミの権力の強大さゆえですね。
その権力は誰が支えているかというと、それを選び、購読し、視聴する国民だと私は思っているのですが、国民が拒否しても資金はどこかから入ってくるのでしょうか。

>たくさんの情報が流れ、選択できる状況であるにもかかわらず<

たくさんの情報を取り入れ、じっくり選択するのも毎日の生活の中でなかなか難しいことですね。

>“個”をしっかり身につけていきたいな
と、一庶民の私は思うのです。<

そうですね。
“個”をしっかり身につけるためにはまず色々な情報を受け入れる柔軟さが必要だろうと思います。忙しいことですが。
因みに、記事に書いた蓮月尼は、庵にこもっていたため情報に翻弄されず、だからこそ“個”を保っていられたと思われます。
お布施や焼き物だけで暮らしていけた時代ならではの生き方でしょうが。
いや、もしかしたら、焼き物の商売を通していろいろな情報に触れていたのかもしれませんね。

いずれにせよ、“個”を身につけるのは、本人次第ということになりますか。

投稿: robita | 2008年6月 4日 (水) 09時13分

★街中の案山子さん、

“個”をしっかり身につける、ということについて、私は「主張」より「自覚」の部分を大事にしたいなと思うのです。
つまり、河の流れの一部でありながらの「自覚」です。全体を考えずに信奉する教義を主張しているだけでは「孤高を気取る」羽目に陥りかねません。
河の流れに身をゆだねるのもまた意味のあることだと思います。

そしてまた、国家が弱体化するほどに個人が個性や自由を主張すれば、結局誰も幸せになれないことに気づくべきだ、というのが田中美知太郎の論文の趣旨だと思います。
国民は国家と自分たちとの関係をわかってさえいればいいのではないかと私は思っているので、それを非常にわかりやすく解説しているこの論文を載せさせていただきました。

それでもなお、「個」をしっかり持っていらっしゃる毅然たるさじったさんや案山子さんには、長いものに巻かれがちな私は頭が下がる思いです。

投稿: robita | 2008年6月 4日 (水) 09時16分

「長いものに巻かれるときは巻かれる」
と言う判断を自分で下していれば、
“個”を持っていることになると思っています。

いつもいつも、自分の意見ばっかだと、
喧嘩になってしまいますしね

投稿: さじった | 2008年6月 4日 (水) 19時28分

田中美知太郎さんは、学生時代に耳にしたように思うだけで、どのような生き方をなさった方かは知りません。
48年頃に書かれた文章だけでは、なんとも・・・。
丸山真男さんも、50年頃に知った名前で、「戦中と戦後の間」という本を買った覚えがあります。
彼は戦争中も戦争に異を唱えていたとか、これはかれの伝記風の本を立ち読みしたなかにありました。戦争中でも、アカテミックな層(彼は東大の学生か研究職)では、リベラルな言論が飛び交っていたと書かれていたことが、印象的でした。
学者の息子に育ち、泥沼の戦争でもアカデミックの世界にいた人。戦地に派兵されて人肉をも食べなくては飢えをしのげないような体験をしている大岡昇平さんたちの人生観。
なんとも、物事には即断はできません。
だけれど、適切に知ること。自分で考え判断すること。そういう意味で、個を失わないようにありたいものですが、自分が弱くなると、「世間では・・・」なんて、言い訳に逃れてしまう所もあります。
決して「個」を自覚するということは、自己主張することではありません。
田中さんは、どんな生き方を貫いてこられたのでしょうか。
あの年頃の方は、大変な時代を生きてこられたのですから。

投稿: 街中の案山子 | 2008年6月 5日 (木) 06時59分

★さじったさん、

>いつもいつも、自分の意見ばっかだと、
喧嘩になってしまいますしね<

そうですね。
「個」と「個」のぶつかり合いという問題が、「国家と国民との関係の問題」とはまた別にありますね。

投稿: robita | 2008年6月 5日 (木) 11時08分

★街中の案山子さん、

>決して「個」を自覚するということは、自己主張することではありません<

仰る通りですね。
田中美知太郎のこの論文の趣旨は、民主主義国では「一方的な自由や民主化の要求に対して、むしろ警戒的でなければならない」という警告であり、私が『「主張」より「自覚」の部分を大事にしたい』と書いたのはそういう意味です。

>田中さんは、どんな生き方を貫いてこられたのでしょうか。<

私も全然知りませんが、生き方に関わりなく、この論文で説明されている国家と国民の関係は誰にでもわかる正論だと思うのです。

投稿: robita | 2008年6月 5日 (木) 11時20分

robitaさん、

マルクスや丸山真男とか黒船とか、よくわからんのですが(笑)

日本国に税金を納めるいち日本国国民としてのワタシの言いたいことは、ようするに、生活のコストがもっと安くなって欲しい、これだけなんです。必要ならば、100回でも、200回でも繰り返します。生活のコストがもっと安くなって欲しい、ということだけ、です。

前にも書きましたが、お父さんは朝仕事に行って、お母さんは家で家事をしています。共働きじゃあありません。で、お父さんは大体午後6時くらいには自宅に帰っていて、家族といっしょに夕食を食べる。お父さんの、そこそこの平均的な給料で、子供が二人ぐらいいて、それなりの生活ができて、子供は二人とも大学まで行ける。病気になっても健康保険があるから医療費は安い。老後は年金の支払いがしっかりある。

こういう世の中に、なんでならないのでしょうか。こんな単純で、当たり前なことなんですよ。これだけなんです、これだけ。

もちろん、お金持ちになりたい人はいます。そういう人はどんどん働いていいんです。格差もお金持ちも必要です。そうでない大多数のお父さんたちの給料は安いですよ。安くていいんです。高給でなくていいんです。だって、生活コストが安いのだから。そこそこに働けば、そこそこの暮らしができる社会なんですから。つまり、今の労組が言うような労働者の賃金向上ではなく、生活コストの安い社会を求めることが必要なんです。賃下げですね。賃下げでいいんです。高給を求めるよりも、賃下げで生活コストの安い社会になった方が、人々の自由さが増えるのです。

こういう世の中に、なんでならないのでしょうか

投稿: 真魚 | 2008年6月14日 (土) 11時26分

★真魚さん、

>こういう世の中に、なんでならないのでしょうか。こんな単純で、当たり前なことなんですよ。<

そうですよねえ。
私もそういう生活が確保できれば充分満足です。

でもそうならないのは政治がうまく働いていないからですよね。

で、私は「ここをこうしたらいい」というような具体的なことは何もわからないのですが、民主党によると、「私たちが政権を担えばうまくやります。国民の生活を守ります。官僚をコントロールできます」と言っているので、私たち国民にできることは、民主党に政権を取ってもらうべく投票をすることだと思います。
「民主党に政権担当能力はない」などと言っている場合ではないと思います。
総理の手に委ねられている解散総選挙の気運を高めるにはどうしたらいいか、それを考えたらいいんじゃないですか。
福田さんの悪口をみんなで言えばいいんでしょうか。

(ついでに言うと、真魚さんの仰る「当たり前の庶民の生活」ですが、これは安定的恒久的に続かないと思います。人間は隣を見て欲を出してきますから。あ、でも続かなくていいんですよね。とりあえずの話ですよね)

投稿: robita | 2008年6月16日 (月) 13時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 河は流れる:

« どこで出会うの | トップページ | 平和への道 »