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2008年7月31日 (木)

エネルギー革命はなぜ起こらないの

石油がこんなに高くなるずっと前から、石油依存の経済構造を変えなくてはいけないとか、大気を汚さないクリーンエネルギーに転換しなくてはいけないとか、さんざん言われてきたのに、なぜ、いつまでたってもエネルギー改革は行われないのか私にはわかりません。

太陽光とか風とか水素とかメタンハイドレートとか、エネルギー源は身の周りにたくさんあるようなのになぜなんでしょう。

先日ラジオでちょっと耳にしたのは;

「実用化するには技術的にまだまだ難しいものがある。しかしこの問題は研究を重ねればクリアできるものだ。問題は、変化を受け入れない日本人の国民性かもしれない。(これはたぶん、太陽光発電装置を取り入れたりすることになかなか踏み切れない、というようなことだと思います)」

もう一人の人が言うには;

「管轄の役所である経済産業省の問題ではないか。この役所自体、企業を保護する役割がある。既存のエネルギー産業を保護する一方で、新しいエネルギーを奨励するという矛盾を抱えてしまう。これは役所の問題だと思う」

ということです。

私も考えますに、革命には痛みが伴うのでしょうから、石油から他のエネルギーに移行する過程で、産業界にひずみが生じ、それが我々庶民の生活に影響してくるとなると、なかなか思い切ったこともできないのかなあと思います。

「革命」は我々国民の覚悟があって初めて実現する、と言えるのかもしれません。

もう一つ、アメリカが、日本のような技術先進国の代替エネルギー開発を妨害する、なんていう話も聞きます。石油業界が打撃を受けるからということで。
それ、本当なんでしょうか。
本当だとしたら、具体的にどのような妨害の仕方をするんでしょうか。
「新しいエネルギーの開発なんかしたら、ただじゃおかねえからな」とかなんとか恫喝するんでしょうか。

具体的にどんな言葉で脅すのか、日本のどんな弱みを衝いてくるのか知りたいものです。

日本はその弱みを克服できるのでしょうか。

まさか、「アメリカの言いなりにならない」とか「言うべきことをちゃんと言う」とか「毅然たる態度を取る」とか、そんな単純で抽象的な言葉を羅列していれば済むという話ではないとは思いますが。

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2008年7月24日 (木)

巨象に立ち向かう

東京12チャンネル「ガイアの夜明け」で、「巨象に立ち向かえ」を見ました。
「町の電器屋さんの逆襲」が日本各地で始まったそうです。

ちょっと前「街の電気屋さん」という記事を書きました。  
商品の価格は量販店のようにはいかないけれど、アフターサービスや地域の人々との交流を通して大型店にはできない商売の仕方で頑張る街の電器屋さんの話です。

しかし、番組ではそこにとどまらず、小さい商店が価格の面でも量販店に負けないために団結をする様子が描かれていました。

電器店連合が、メーカーと直接価格交渉し、本部が商品を大量に仕入れることで低価格が実現し、各電器店は価格競争に悩まされることなく販売と修理に専念できるというのです。

ここからは、量販店に真似のできない「地域に密着しているからこそのフットワークの軽さときめ細かいサービス」がモノを言います。
倒産の危機に瀕していた電器屋さんが自信をつけ、サービスに一層の力が入ってきました。

連合の総元締めの社長さんが言います;
「お年寄りの家で蛍光灯が切れた時に、取り換えに行くのは量販店じゃなくて町の電器屋さんなんです」

番組では、高松市丸亀町の商店街復活のレポートもありました。

大型店に押され、閑散としていた商店街が思い切った改革で息を吹き返し、各地から視察が絶えない、と。

追い詰められて切羽詰った時、人間というのは、「知恵」を働かせるし、思わぬ底力が出るものなのだなあ、と思いました。

仲間を作る柔軟な心と団結は、巨象に立ち向かう力を育み得ることを、この番組は教えてくれました。

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2008年7月22日 (火)

おバカ賛歌

 ♪ チャ~ラ~ ヘッチャラ~ アタマからっぽのほうが~ 夢つめこめる~ ♪

これは、子供たちが小さい時、よく見ていた「ドラゴンボール」のテレビアニメの主題歌の一節です。

この漫画自体は大変おもしろく、私も好きだったのですが、この主題歌のこのフレーズに引っかかるものがありました。
頭悪いほうが、でっかい夢が見られるんだ、勉強なんかしなくたってへっちゃらなんだ、・・そんな表現に、「それは違うんじゃないの」と感じていました。
単なるアニメソングだから特にこの歌詞自体にどうこうと文句をつける気はないのですが、あの頃(実はもっと昔からだったかもしれないし、もしかしたらいつの世もだったかもしれない)、頭の良い人々や勉強熱心な人々や人生の成功者たちを指して、彼らがなにか心が狭いとか、狡猾であるかのような言い方をする風潮がありました。

普通に考えれば、努力をしない者より努力する者のほうが偉いし、勉強しない者より勉強する者のほうが偉いのにもかかわらず、勉強すれば「ガリ勉」とか「勉強ばかりして世間知らずだ」と蔑まれ、成功して金持ちになれば何かと陰口をたたかれる一方で、世を拗ねて勉強もせず周りに迷惑をかけ、落ちぶれれば同情してもらえ、救済してもらえるみたいなことに、この世はなっていないでしょうか。

私にも覚えがあります。
今と同じで、東大に通っているような秀才が事件を起こすことは昔から結構あって、そういう時、勉強の大嫌いな私は、「勉強ばかりしてるから頭がおかしくなったんだ。あんまり勉強するとこういうことになる」なんてことを言って父親に叱られたものです。
「お前アホか。そういう特殊な例をもってきて勉強を否定してどないすんねん。努力することのどこが悪い」と。

以前、評論家の山田五郎がラジオで、テレビドラマ「ごくせん」を例に挙げ、不良に比べて真面目な秀才の扱われ方の不当性を論じていました。

≪どう考えても、真面目に勉強してる高校生より、不良のほうが悪いでしょう。
 それなのに、あのドラマでは、不良は純粋であるがゆえに世間に誤解されていて、勉強ばかりする秀才はみんな性悪、みたいな描き方をしてますよね。
 スポーツなんかで頑張ってる人は賞賛されるのに、なぜ、『勉強を頑張ってる人』というのは、世間では悪く言われるんですか。
 官僚が悪いのは、自分たちをさんざんあざ笑ってきた世間のやつらに対する復讐なんじゃないかって思っちゃいますよ ≫

「鈴木先生」(武富健治)という素晴らしい漫画があるのですが、中学教師のこんな台詞があります。

≪世間でも現場でも___
 今は 落ちこぼれや問題児が いかに傷ついているか____
 そこに意識を割くことに傾いている・・・
 まだ足りない まだ足りないと____
 それはそれで事実だが・・・
 
 だけど 
 いまの学校教育は
 我々が普段思っている以上に____
 手のかからない子供の
 心の磨耗の上に
 支えられているんだ・・・≫

これはタレントの伊集院光氏が、ヤンキー先生こと義家弘介氏に対して発した疑問に重なります。

問題児は問題児で「そうなった事情」というものがあるのでしょうし、そういう事情を酌んで丁寧な指導というものが求められるのもわかりますが、一方で「二の次、三の次にされる『普通の子』『真面目な子』『頑張ってる子』」にかかってくる負担や疲弊が忘れられがちなのでしょう。

もっと小さい頃から「勉強」「努力」の大切さを教え込む、そういう単純な「刷り込み」こそ必要なんじゃないかなあ、と思います。
「バカのほうがカッコ良いんだ」じゃなく。

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2008年7月19日 (土)

置いてけぼりにされないために

産経新聞のコラム「断」で、呉智英さんの評論を大変面白く読ませていただきました。 →「メディアを真に受ける悲劇」 (現在、削除されています。内容は以下に)

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★【コラム・断】メディアを真に受ける悲劇

・秋葉原連続殺傷事件から一月余。八日付朝日新聞に社会学者、宮台真司が事件を
 振り返ってアッパレなコメントを寄せていた。宮台は言う。 《メディアは単純な思考や
 情報を発信する。勝ち組と負け組の二分法もそうだ。「そんな誤ったメッセージを真に
 受けてしまうのは、なぜか」「一人でメディアに接触するときは情報に『直撃』されやす
い」。  身近に、お前はそんな話を真に受けているのかと言ってくれる人がいれば誤解は減る》

 全く同感だ。

 東京の渋谷や原宿で「援助交際」が話題になり始めた時、それを面白おかしく煽るかの
 ように取り上げるメディアに毎回登場する社会学者がいた。その社会学者はきっと援交
 ギャルの一人と結婚でもするのだろうと思っていたのだが、彼が結婚したのは名門
 女子大卒の若く美しいお嬢様。しかも今時珍しい“箱入り娘”だった-とは、三浦展
 (あつし)の書くところだ。その社会学者は、名門の私立中高一貫校から東大に進学し、
 都内にある名門公立大学で助教授(後に教授)になっている。いやはや、メディアの
 誤ったメッセージに直撃された人たちはえらい災難だった。

 その社会学者の名前は、宮ナントカと言ったが、失念した。

 今回、宮台は「いい学校からいい会社へという古びた認識」と言っているが、昔から
 良識派のマスコミが垂れ流すこの古びたメッセージがどれほど欺瞞的か。
 朝日新聞は全社員の学歴と偏差値と年収を公開してみたらどうだろう。むろん、
 フジテレビにも講談社にも、そして産経新聞にもやってもらいたい。(評論家・呉智英)

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もう3年以上前に、人をやすやすとと変節させてしまう恋の威力について書いたことがありますが(「恋におちて」)、 宮台先生はいったい変節したのか、単に大衆を置き去りにしたのか、それともこんな成り行きはただの偶然と開き直るのか、まあ、学者としてはいちいち責任は取らなくてもいいとは思いますが、ちょっと説明は聞いてみたいな、とは思います。

我々は誤ったメッセージに翻弄されぬよう、眉に唾をつけ、一歩引いて、醒めた目を持ち、余裕をもって事にあたらねばなりませんねえ。
もっともそれができないのが大衆というものであるらしいのですが。

センセイがた、「大衆」で遊ばないようにお願いしますよ。

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2008年7月18日 (金)

笑うと腹筋にも良いそうです

先日、紀伊国屋寄席に行ってきました。
落語をよく聴きにいくわけではありませんが、只の券が手に入ったので。

客席は中高年でほぼ満席。
噺家さんのほうも、しばらく見ないうちに年を取って、若手だった人が重鎮然としてトリを務めていたり。

落語家は年を取っても「キレ」がなくなるということはなく、「円熟」に味わいが出て価値が高まるもんなんですね・・・、なんて私にわかるわけないんですが、充分楽しませてもらいました。

いま、テレビではお笑いが大はやりです。
はやりというより、私の見るところ、日本人ほどお笑いに熱心な国民もいないんじゃないかと思うほど、今の日本のお笑いは多種多様で、進化し続けています。

先日の寄席で、三遊亭圓窓さんが「落語だって時代に合わせて変わるのは当然のことで、江戸時代の落語をそのまんま今やったって何のことだかわかんないと思いますよ」と言っていましたが、テレビで見るお笑いは目に見えてその変化を感じます。

何に笑うかというのは人によってずいぶんとちがいますね。

外国と日本のお笑いは違って当然と思いますが、同じ日本人でも、笑いのセンスは共通していません。

テレビのお笑い番組なんか一切見ない、という人にはなんのことだかわからないかもしれませんが;

私は「ジョイマン」が大好きなのですが、息子は「ハイキングウォーキング」のほうが絶対笑える、と言います。

「バカリズム」の芸を初めて見た時爆笑しましたが、価値を認めん、と切って捨てる人もいるでしょう。

「鳥居みゆき」には何の面白みも感じませんが、売れているところをみると、あれを楽しんでいる人も多いに違いありません。

お笑い番組「爆笑レッドカーペット」で、大いに笑わせてくれた芸人が「中笑い」になったり、ちっとも笑えなかったのに「満点大笑い」がついたりすると釈然としませんが、笑いのツボは人によって違うものだと実感します。

うちは食事の時でもテレビをつけて、バラエティ番組など見て楽しんでいます。

「欧米では、食事中にテレビを見るなどもってのほか。家族で会話を楽しみながらきちんと食事しなくては、立派な大人になれない」などと意気込んで一応はテレビをつけない努力をしたこともありましたが、すぐに敗北しました。
まあ、お笑い芸人のやりとりから何か学び取るのもいいか、なんて。

日本のバラエティ番組は概して面白いと思うのです。
「くだらない。出演者が内輪でふざけあって楽しんでるのを見て何が面白いのだ」というムキもありましょうが、そのふざけ合いの喧騒の中にも、引き締めを感じさせてくれる場面があって、感心してしまうことも多いです。

たしかに、何の芸も持たない人がバラエティ番組要員としてテレビに出て騒いでいるだけでは番組として成り立ちませんが、それらの凡庸な「芸能人」の言動を実に巧みに拾い上げて「笑い」に仕上げてしまう才能を持った人々がいます。

ウゾームゾーのタレント達の何ということのない言動への、今田耕司、中山秀征、上田晋也などの天才的ともいえる対応には舌を巻きます。その突っ込みが、芸のない芸能人の存在を際立たせているのがよくわかります。(中山秀征については、日曜お昼の「ウチくる!?」の仕切り振りに注目)

笑うのも笑わせるのも、ともに大きな快感を得ることができ、その悦びは人間にとって是非とも必要なものです。

不景気な時世だけでなく、どんな時も、お笑いのタネを蒔いて笑わせてくれ、まさに世の憂さをはらしてくれる芸人さんたち、研鑽を積み重ねていってくださいな。対価は支払いましょう。

       
        
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single40さんの「靖国問題(2)」 に爆笑し、快感に浸るかたがたも多いことと思います。あー面白かった。

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2008年7月 7日 (月)

ひとりひとりの意識改革

昨夜、途中からですが、NHK教育テレビ「医療再生・地域力を結集せよ」というのを見ました。
マスコミで何度か紹介されているようなので、ご存知の方も多いと思いますが、兵庫県丹波市で「県立柏原病院の小児科を守る会」が地域医療を守っています。
この「守る会」が発足した経緯が、一人ひとりの意識がいかに大切かということを教えてくれます。

喘息発作で柏原病院に入院した子供のお母さんが、その病院でたった一人の小児科医師(和久祥三医長)が睡眠もとらず夜中じゅう外来患者を診ているのを知ったこと、また、その医師があまりの激務に病院を去ることを決めたと地元新聞に掲載されたことがきっかけになってお母さん仲間が奮起したのが発端だそうです。

詳しい経緯については、検索すればいくらでも出てきますが、昨日の番組を要約しますと;

病院の医師を忙しくさせている大きな原因の一つに「コンビニ受診」というのがあります。
たいした病気でもないのに、コンビニを利用するような感覚で病院に行く人が多いです。
初めての子供の場合など、高熱が出て苦しそうだったりすると、不安になって夜遅くでも何とか医師の診断を仰ぎたいと思うのは当然ですが、多くの場合、高熱でも生死に関わる重大な病気は稀であって、あわてて病院に行かなくても朝になれば落ち着いていることのほうが多いものです。

そうは言っても、もしかしたらもっと重篤になるんじゃないか、という不安はぬぐいきれないでしょうから、お母さんたちが考えたことは、医師の指導のもと、「チェックシート」を作成したことでした。
これにより、子供の症状に応じて、対処の仕方を判断し、やみくもに病院に駆けつけなくてもすむようにしました。

「守る会」を結成し、本格的に活動が始まり、開業医と病院との連携も充実してくると、コンビニ受診は目に見えて減っていったそうです。
和久医師も病院にとどまることになり、「地域医療を守るのはひとりひとりの心がけ」というスローガンで医師を守ろうとする地域の人々の心意気は医師たちを呼び寄せ、現在小児科医は5人にまで増えたそうです。

「守る会」によって守られた医師が地域の人々の命を守る。良い循環が働いていますね。
医師不足は、単に医師の数を増やせばいい、という問題ではないことがよくわかります。

この地域の人たちが、医師不足の原因を患者自身が作ってしまっていることに気づいたのが最も重視されるべきポイントだと思います。

「お金さえ払えばいいんでしょ」「それが医者の務めでしょ」「それが行政の仕事でしょ」、こういった姿勢では何も変わらないことに気づかなくてはなりません。

「下から上へ」にコメントを下さった一知半解男さんの「日本人に足りないのは『公の心』と『判断力』」は素晴らしい記事だと思います。

「マクロの視点を持つことが大事」と仰っていますが、マクロの視点を持つことは「自分たち一人ひとりの行動」を自分でコントロールすることにつながります。

丹波市で「守る会」のような活動が可能になったのは、人々を結集できる地域社会の良さがまだ残っていたからじゃないかと私は思うのですが、都市部ではこのような運動はなかなか大変でしょう。

だからこそ、普段から地域のコミュニケーションをはかり、いざという時に地域力を結集できるようにしておくことが肝要だと思います。

           

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2008年7月 4日 (金)

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国内にうずまく様々な問題に関して、「政治が悪い」「国の責任だ」「国がなんとかしろ」と批判してさえいれば何か変わると思うのはもうやめる時なのかもしれません。

考えてみれば「国」を造っているのは国民一人々なのですから、その一人々がなんとかしなければなんともならないわけです。

つまり、人の「意識改革」が一番大事だということなんです。これに異を唱える人はいないと思います。民主主義なんだからそうなんです。

で、世の中は、自発的に意識を改革する人ばかりではありません。

じゃあ誰が大多数の「意識を改革しない人」を導くのでしょうか。

国の指導者が「国民のみなさん、意識を改革してください」なんて言おうものなら大変です。「自分たちの責任を棚に上げて国民に責任を押し付けるのか!」と大騒ぎされるだけです。

橋下大阪府知事が「僕が最終的にめざしているのは地方分権です」と言ったのに対し、伊藤忠商事会長で「地方分権改革推進委員会」委員長の丹羽宇一郎氏が、「地方でそんなこといくら言ってても始まらない。国の構造をまず変えていかないとだめなんですよ。橋下さんの改革の志は立派だし支持するが、そこのところが彼のわかってないところなんですよ」と批判していました。

私は両方の言うことはそれぞれに正しいと思います。
丹羽さんは経営者としての辣腕ぶりや清廉な人柄が高く評価されている立派な人で私にとっても憧れの人物の一人です。
でも、丹羽さんがたぶんわかっていらっしゃらないのは、橋下さんの「人の意識改革をやる。それを大阪という地方から始める」という意気込みなのだと思います。

ちょっと大袈裟な例ですが、ずっと前、中国の経済改革がある貧しい農村の死をも覚悟した決断から始まった、というNHKのドキュメンタリーを見たことがあります。

≪ 1978(昭和53)年暮、安徽省鳳陽県小崗村、人民公社の農民18人が集まった。
「このまま農業をやっていても生活できない。生産請負制(生産隊の農地を各世帯に分け、生産も分配も世帯に責任を負わせる方式で、農民の労働意欲を高め、増産しようというもの)を始めよう」「見つかれば、社会主義に反することだと、罰せられる。秘密を守ろう」「もし誰かが逮捕されたら、差し入れに行く。死ぬようなことになったら、子供は18才までは村の皆が責任もって育てる」との血判状を作って、農民は生産請負制を始めた。
 同じ頃、安徽省鳳陽県前倪(ぜんげい)村、馬湖人民公社前倪生産隊で同じ動きがあった。どちらも秘密を守っていたがいつまでも守れるものではなかった。
前倪村に共産党中央からの調査団が来た。人民公社書記は1週間の事情聴取を受けた。
この調査の責任者、安徽省第一書記万里は党中央に報告し、生産請負制を押し進めるよう進言した。
後に万里は農業担当副首相に就任。
これをきっかけに人民公社は解体し始め、83年末には全国の94.5%にのぼる農村で土地公有制に基づく生産請負制が実施されている。 ≫

http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/global.htmlより抜粋させていただきました)

≪ 18人の農民が、命を失う危険を冒して土地の請負契約書に押印した時、理論的な根拠は何もなかった。
農民たちがただあまりにも長期間に飢餓を強いられ、もはや前途がないと覚悟したため、投獄されることも死ぬことも恐れず、改革に踏み切ったのである。≫

http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/010910kaikaku.htmより抜粋させていただきました)

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思想や理論でメシは食えない、という農民の切実な思いが改革の端緒を拓いた、ということでしょうか。

今の日本でこれほどの覚悟を必要とするのでしょうか。
小学生の3割、中学生の6割、高校生に至っては9割以上が携帯電話を所持している。
食べきれずに日々捨てられる大量の食べ物。

どれだけ貧乏になれば、あの中国の貧しい農民ほどの壮絶な覚悟ができるのでしょうか。

ところで、私は地域のシニアクラブに所属しています。昔で言う老人会ですわね。
住民同士の親睦の意味もありますが、地域貢献できることはないかと模索中です。
発足したばかりですし、私も長く家を空けられないのでまだこれといって何もできませんが、3.4人で地域を一巡りするパトロールだけは定期的にやっています。
後期高齢者のかたがたとお喋りをしながら一時間ほども歩くと地域の歴史や現在の問題点などの情報が得られますし、良い運動にもなります。
パトロールをやったからといって防犯の役に立っているとは思いませんが、地域の人を知ることは地域力をつけるための第一歩だと思います。

地域で政治活動をするという意味ではもちろんありませんが、住民同士、もっと知り合い、情報を交換し、そこから地域の成すべきことが見えてくるのではないかと期待しています。

国はこういう施策を行うべき、とか、こういう方針を打ち出すべき、とか、それは色々あるでしょうし、やるべきことを国は国でやってほしいと思います。
同時に我々国民も自分の足元を見直し、国民の側からできることはないかと考えたらどうでしょうか。

地域を自分たちの手で変えていく、という意識は国を変えていくことの原点になります。

国から「ああせいこうせい」と言われるのがイヤなら、自分たちで考え、動くしかないです。
人の意識を変えるのは、自分たち自身であって、国ではないと、このブログでも沢山のご意見をいただきました。
不満を秋葉原のようなことで爆発させたり、それをまた「気持ちはわかる」などという恐ろしい言葉に託して政府批判をしたりする前に、貧しい中国農民の決死の覚悟の表し方を学んだらいいと思うのです。

地域活動への参加というのは、単身者、特に若い世代にはなかなか難しいことですが、子供や老親やご近所を通して、教育、介護、環境などを現実問題として目の当たりにしている人たちがこれらについての考えを地域社会で交換し合うことが大事と思います。

それを担うのは主婦や高齢者だと思いますし、そう考えればこれらの人々の仕事はたくさんあるんじゃないでしょうか。

地域社会の再構築によって個人々の意識が変わり始めるかもしれない、そういう方向でものを考えてもいいじゃないかと思います。

中国安徽省の農民の決意の話と関連させるには小さすぎる話ではありますが。

        
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2008年7月 3日 (木)

街の電気屋さん

色々な製品が目の当たりに見られ、値段も安いことから、以前はよく量販店で家電を買っていました。

でも、近頃は近くの商店街の電気屋さんで買います。

安売りはないけど、親切なのです。
こういうものがほしい、と相談すると、カタログをあれこれ出してきて一緒に考えてくれ、どこのメーカーでも取り寄せてくれます。
ちょっとした修理を気軽に頼むこともできます。
近所の高齢の奥様も「蛍光灯の付け替えがうまくできないので○○電気さんに頼んじゃうの」なんて仰います。

去年のことですが、スズメバチとアシナガバチの巣に困っていたところ、「友だちで蜂の巣とるの上手な人がいるから頼んであげましょう」と言って農家のおじさんを連れてきてくれました。

家の中に入っててくださいというので見ることはできず、どうやって取ったのかわかりませんがあっという間に二つのハチの巣を撤去してくれました。

保健所に連絡すると、補助金は出ますが、一個につき何千円か払わなければなりません。大助かりです。

商店街が寂しい、と言いながら、安いのでつい大型安売り店に行ってしまう、というのは、こういうご時勢だから仕方がないかな、とは思いますが、個人商店とのお付き合いのメリットも大きいですよ、と言いたくて。

         

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