63年経った
産経新聞「正論」で、慶応大学教授・阿川尚之氏の≪終戦は日本の「選択」だった≫を読んだ。 →http://sankei.jp.msn.com/life/education/080811/edc0808110302000-n1.htm
爽やかな意見だなあ、と思う。
この63年間に、このような考え方を表明した人はたぶん、阿川氏だけではないだろうし、別に目新しいものではないかもしれない。
でも、このような考え方がもっともっと日本国内に広まれば、60年以上も前の戦争のことについていつまでもいつまでも思い悩むような青少年の域から脱して、日本人ももう少し大人になれるのかなあ、と思う。
しかし、右でも左でもない私なども、左翼の人々がヘンなことを言うと「ヘンだ」と思うし、反論している人たちを応援したくもなる。ヘンなことを認めるわけにはいかないし、傍で議論を見ているナイーヴな人々がヘンな理解をしてしまうのも日本の脱皮のためにならない。
一方で、左翼の人々とて宗教のように長年信じてきたことをおいそれと転換するわけにはいかないだろう。
だから、いつまでもいつまでも左右平行線の状態が続くのは仕方がないのかもしれない。
実際には、左翼的な思い込みは徐々に払拭されてきて、左翼のかたがたには生きにくい世の中にはなってきたとは思うが、論壇では相変わらず何の進展もない平行線状態が続いている。
そしてそれが原因なのだろうか、なぜなのかわからないが、日本の防衛体制や外交姿勢はあいまいで歯がゆい。
大人への脱皮は日本人にとってなぜこんなに難しいのだろうか。
ところで、阿川氏の文章の9段落目に、「戦争に負けて真っ先にすべきは、敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをすることである。
それをしないで、本当は負けていない、悪いのはアメリカだ、自分たちは犠牲者に過ぎないなどと、60年間ぶつぶつ言い続けるのは、潔くないし、何の役にも立たない。
負けは負けと率直に認め、そのうえで最善の策を取らねばならない」
という文章があって、ブログ検索してみると、この部分について長々と否定的に論じている人もいる。
しかし、私の解釈では、これは「“その当時として真っ先にすべきこと”をせずに、左右の意見に別れてそれぞれ自己弁護に走り、今なおそれが続いているのは見苦しい」、という単純な意味だろうと思う。
この一文は、「少なくともその当時はそうあるべきだった、それが筋というものだろう」、という意味であり、「普通の国ならそうするはずだ」という意味であり、「武力戦争に負けたのなら経済戦争に負けない備えをするべきだ」、という意味でもあるだろう。
第二次世界大戦が終わって以来、世界情勢も国内事情も変化し、日本にとっての「次の戦争」などというものが起こり得ない時代、また起こしてはならない時代になったことを阿川氏が認識していないはずはなく、この一文についてことさら目くじらをたてることもないだろうと思う。
8/11産経新聞コラム「透明な歳月の光」で曽野綾子氏は、ODAに絡む賄賂や、日本の経済を握るタンカーが攻撃される危険などの例を挙げ、「醜悪な現実を正視して備えることを日本人は卑怯にも避ける傾向がある。国民が過度にナイーヴであることは決して望ましい状態ではない、と誰も言う人がいなかったのだろうか。」と結んでいる。
我々日本人が大人になる、というのは、例えばこういう論を理解することであると思う。
いつもありがとうございます →人気ブログランキング
| 固定リンク
コメント
robitaさん、
63年後になってもまだ「敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをする」ことが必要である、と言っているということは、さらに10年たった73年後になっても、20年たった83年後になっても、やらないんじゃないでしょうか。つまり、どういうことかというと、どうやらこの国の人々は、以下のようなことなのではないでしょうか。
(1)「敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをする」ことを、やる、やらない、で言えば、これからも、今後も、やらない、やる意志がない、やる必要性がないと思っている、やる必要性を理解していない。
(2)「敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをする」ことが必要である、と「言うこと」「言い続けること」は必要である。これは戦後60年間「やって」きた。
ようするに、大人にならなくてもいい、のであり、なぜ、「いい」のかというと、大人にならなくても、別になにも困らないように「なっている」「やっている」んです(ちよっとここ、ややこしいですが)。「なっている」ように「なる」、「なり続けている」、ということについては、この国は実に細やかに、慎重に、膨大な予算と全力を傾けて「やる」んです。
ここですね。
我々日本人が大人になることを「やる」のではなく、我々日本人が大人にならなくてもいいように、我々日本人は一生懸命に「やっている」んです。外国の「大人の国」から見れば、後者の「やっている」ことをやめて、前者の「やる」ことやればいいのにと思うわけですが、まあ、そうはならないわけですねえ。
大人にならない、対外的なことについては、とにかく、何でもかんでも、曖昧、あやふやにする、どーもどーもで穏便にすます、表沙汰にしない、裏で巧みに処理する、等々、それはそれで、日本民族の偉大な知恵なのかもしれません。そして、この国ではそれが「大人の対処」なのであり、曖昧はイカン、現実を直視せよ、というは子供なのである、ということなのかもしれません。
この国のそういうところが好きか嫌いかというと、人それぞれですが。
投稿: 真魚 | 2008年8月17日 (日) 12時44分
★真魚さん、
>大人にならない、対外的なことについては、とにかく、何でもかんでも、曖昧、あやふやにする、どーもどーもで穏便にすます、
表沙汰にしない、裏で巧みに処理する、等々、それはそれで、日本民族の偉大な知恵なのかもしれません。<
こういうことについては私も同様に思わないでもないです。
そういうことも何度か書いたこともあります。 例えば→ →「幸せのつかみかた」
ただ、今まではそれで良かった、それで済んだ、しかし、今の世界でそれはこれからも続けていけるのだろうか、そういう国家体制を続けていって、果たしてうまくいくのだろうか、つまり、豊かさを維持できるだろうか、と私は思うのですよね。
これは経済のしくみについても言えることだと思います。
>この国のそういうところが好きか嫌いかというと、人それぞれですが<
好きとか嫌いとかで事が済めばそれでいいんですが、国の衰退に関わるとなると、大抵の人は貧乏を望まないので、そんなこと言ってる場合じゃないんじゃないかと。
私なんかもうそれでいいんですよ。あとの人生、細々となるべく迷惑かけずになるべく早く死ねたらいいと思ってますから。
貧しくたって楽しく生きるんだいっ。
でも、個人的な価値観を人に押し付けちゃいけないと思います。
このことについて、思うことはたくさんあり、長くなるので、いずれ記事にしようと思います。
投稿: robita | 2008年8月18日 (月) 10時11分
robitaさん、
>ただ、今まではそれで良かった、それで済んだ、しかし、今の世界でそれはこれからも続けていけるのだろうか、そういう国家体制を続けていって、果たしてうまくいくのだろうか、つまり、豊かさを維持できるだろうか、<
これはご指摘の通り「豊かさを維持」できません。「豊かさを維持」できなくなってきたのだけど、しかし、「豊かさを維持」したい。そこでどうするかというと、じゃあ、これまでの態度を改めよう、自己変革しよう、となるのではなく、自分たちは変わりたくない、変わらない、でも、豊かになりたい、ということです。それってなんなのかといいますと、まず日本国民みんながみんな豊かになることはできないのだから、もうやめよう。豊かになれる者たちだけが豊かになろうということです。
そこで出てきたのが、努力してお金持ちなるのは当然ではないかという弱肉強食の論理です、資本主義なんだからお金儲けして当然でしょ、という意識です。親がお金持ちとか、企業にとって有益な技術を持つ人が、弱い人々を押しのけて富を得る。実力主義は当然のことなのだという意識です。いわゆる新自由主義とは、市場原理や実力主義を大義名分にして、社会的、経済的強者だけが富を得ることを言います。格差社会はこうして生まれました。
しかし、格差社会になったって、そもそも、みんながみんな豊かになる豊かさを維持できなくなったのが、そもそもの原因ですから、これも限度があります。豊かになれる者だけが豊かになっても、やがて、その豊かささえも翳りが出てくるというわけです。こうして日本は衰退していきます。
だから、大人になることが必要なんじゃないの、というわけなのですが、「大人にならない、対外的なことについては、とにかく、何でもかんでも、曖昧、あやふやにする、どーもどーもで穏便にすます、表沙汰にしない、裏で巧みに処理する」ということの方を一生懸命にやるという民族的な気質は変わりません。
つまり、国家としてはこの国は衰退する。これは避けようがないと思います。
いや、国家として衰退するのは困ります、衰退しない方法はないでしょうか、というのが、国家主義者であるrobitaさんのお立場だとは思いますが・・・・。
投稿: 真魚 | 2008年8月19日 (火) 01時33分
★真魚さん、
>国家主義者であるrobitaさんのお立場だとは思いますが<
私は、人は国がないと生きていけない(ある程度の文化生活は営めない)と思っているのですが、そういうのを国家主義と言うんですか?
>そこで出てきたのが、努力してお金持ちなるのは当然ではないかという弱肉強食の論理です、資本主義なんだからお金儲けして当然でしょ、という意識です。親がお金持ちとか、企業にとって有益な技術を持つ人が、弱い人々を押しのけて富を得る。実力主義は当然のことなのだという意識です。いわゆる新自由主義とは、市場原理や実力主義を大義名分にして、社会的、経済的強者だけが富を得ることを言います。格差社会はこうして生まれました。<
なんと冷たいのでしょうか。
弱者なんかどうでもよくて、強者だけが得をすればいいという考えですか。
それならば、今度の福田政権は、昔の社会主義的自民党政治に戻るみたいだから、ほとんどの人が支持してもいいはずなのに、なぜみんな批判ばかりするのでしょうか。
見ず知らずの弱者のことなんかどうでもいいから、とにかく俺の生活レベルをもっと上げてくれ、と言う人が多いからですか?
投稿: robita | 2008年8月19日 (火) 10時04分
8月15日に関しては、立場やイデオロギーによって様々行動を起こすシンボリックな日ではなく、純粋に戦没者を悼む日であって欲しいと思う今日この頃です。
TBを送らせていただきます。
投稿: 山本大成 | 2008年8月19日 (火) 15時43分
★大成さん、
そうですね。
この日にイデオロギーで対立するのはもうやめたらいいと思います。
大成さんは、≪いわゆる靖国問題に於いて本来議論されるべきは、イデオロギーとかではなく、そうした「情」の観点ではないのか?≫と仰っていますね。
産経新聞8/13日「正論」 ≪「8月15日神話」の問ひかけ≫ で、長谷川三千子埼玉大学教授が、「法理的な観点から見るならば、昭和20年8月15日は何の日でもない」と書いています。
この文章、旧仮名遣いで変わってるなと思ったんですが、全文読んで、この情感ちょっと良いなと思いました。→ こちら
大成さんは福田首相の選手団への態度についてもお書きになりました。
そちらのブログでは、批判的なご意見が多く、ちょっと書きにくいので、ここで感想を書かせていただきます。
福田首相はたしかに「冷たい」という印象を持たれがちですよね。人の中身は付き合ってみないとわかりませんが、パフォーマンスの苦手な人なのだと思います。
「そうは言っても、起立して選手団ににこやかに手を振るぐらいのことはできただろう」と仰るのはもっともですが、おそらくスポーツイヴェントに興味がない人なのだろうと思います。
「そうは言っても、日本を代表してこれから世界の強豪を相手に決死の思いで戦いを挑む選手団に、日本国のトップとして『興味がない』では済まされないだろう」と仰るのももっともです。
たぶん首相は国内の政治で頭がいっぱいだったんですよ。それで選手団の行進をただボーっと眺めちゃったんじゃないですか。
だって、冷たい態度を取ればまた批判を浴びるくらいのこと普通は判断できるでしょう。
少しでも考える人ならば、いくら「本当に中身が冷淡な人」でも、それくらいのパフォーマンスはすると思うんですよね。
たしかに、国民が期待するような「熱いもの」を持っておられないのかもしれません。
ただただ、目の前にある問題をとにかく一つ一つコツコツ片付けなければ、という実直なサラリーマンのような人なのかもしれません。
だから、総理大臣には向いてないかもしれませんね。
ただ、人間として「冷たい」かどうかは、やはり付き合ってみないとわからないと思います。
投稿: robita | 2008年8月20日 (水) 11時24分
マッタクその通りですね、阿川さん、いい話してくださいます。
投稿: トトロ | 2008年9月13日 (土) 20時47分
★トトロさん、
日本は敢えて苦労をしても大人になるべきだ、とか、
大人にならないまま(つまり、世界で通用する普通の国に脱皮しないまま)でもいいじゃないか、とか色々な考えがあると思うのですが、やはり、世界の中で「衰退の一途をたどる国」になってはならない、というのは基本だと思うのです。
投稿: robita | 2008年9月14日 (日) 09時52分